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御家騒動(オイエソウドウ)とは? 意味や使い方 - コトバンク

御家おいえ騒動そうどうみ)オイエソウドウ

デジタル大辞泉だいじせん御家おいえ騒動そうどう」の意味いみみ・例文れいぶん類語るいご

おいえ‐そうどう〔おいへサウドウ〕【御家おいえ騒動そうどう

江戸えど時代じだい大名だいみょうなどの家中いえじゅうで、家督かとく相続そうぞく権力けんりょくあらそいなどからこった紛争ふんそう加賀かが伊達だてだて黒田くろだ鍋島なべしまなべしまはんなどのものが有名ゆうめい
会社かいしゃ団体だんたいなどの内輪うちわもめ。内紛ないふん

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精選せいせんばん 日本にっぽん国語こくごだい辞典じてん御家おいえ騒動そうどう」の意味いみみ・例文れいぶん類語るいご

おいえ‐そうどうおいへサウドウ御家おいえ騒動そうどう

  1. 名詞めいし
  2. 一家いっかない組織そしきないのもめごと。跡目あとめ遺産いさん相続そうぞくなどのあらそい。
    1. [初出しょしゅつ実例じつれい]「平安へいあん時代じだい藤原ふじわらは〈りゃく天皇てんのう存在そんざいによって御家おいえ騒動そうどう処理しょりをやり」(出典しゅってん堕落だらくろん(1946)〈坂口さかぐち安吾あんご〉)
  3. 江戸えど時代じだい大名だいみょうで、家督かとく相続そうぞくあらそいや権臣けんしんらの権力けんりょくあらそい、家臣かしんだん内部ないぶ対立たいりつなどにはしはっした騒動そうどうのこと。伊達だて騒動そうどう加賀かが騒動そうどうなど。家中かちゅう騒動そうどう国家こっか騒動そうどう
    1. [初出しょしゅつ実例じつれい]「諸侯しょこうかた御家おいえ騒動そうどうしょうへまして、なににか事件じけんりましたことは」(出典しゅってん落語らくご目黒めぐろのサンマ(1891)〈禽語ろうさん〉)

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日本にっぽんだい百科全書ひゃっかぜんしょ(ニッポニカ)御家おいえ騒動そうどう」の意味いみ・わかりやすい解説かいせつ

御家おいえ騒動そうどう
おいえそうどう

江戸えど時代じだい大名だいみょう相続そうぞくあらそいや家臣かしん権力けんりょく派閥はばつこうそう発端ほったんとするはんない騒動そうどうをいう。将軍家しょうぐんけ武士ぶし以外いがい百姓ひゃくしょう町人ちょうにんいえにもこっているが、一般いっぱん御家おいえ騒動そうどうといえば大名だいみょう騒動そうどうをいう。有名ゆうめい御家おいえ騒動そうどうとして、鍋島なべしま(なべしま)騒動そうどう佐賀さがはん)、黒田くろだ騒動そうどう福岡ふくおかはん)、最上もがみ(もがみ)騒動そうどう山形やまがたはん)、生駒いこま(いこま)騒動そうどう高松たかまつはん)、会津あいづ騒動そうどう会津あいづはん)、伊達だて(だて)騒動そうどう仙台せんだいはん)、越後えちご(えちご)騒動そうどう高田たかだはん)、加賀かが騒動そうどう金沢かなざわはん)、佐竹さたけ騒動そうどう秋田あきたはん)、白黒しろくろ(しろくろ)騒動そうどう小倉おぐら(こくら)はん)、仙石せんごく(せんごく)騒動そうどう出石いずし(いずし)はん)、お由良ゆら(ゆら)騒動そうどう薩摩さつま(さつま)はん)、有馬ありま(ありま)騒動そうどう久留米くるめ(くるめ)はん)などがあるが、御家おいえ騒動そうどうにまで発展はってんしないでわったはんない騒動そうどう数多かずおおい。将軍家しょうぐんけ場合ばあい初期しょきには、2だい将軍しょうぐん徳川とくがわ秀忠ひでただ(ひでただ)の後嗣こうし(こうし)をめぐって長男ちょうなんこう(いえみつ)と次男じなん忠長ただなが(ただなが)の確執かくしつがあり、幕末ばくまつには、13だい将軍しょうぐん家定いえさだ(いえさだ)の後嗣こうしをめぐって、紀州きしゅう藩主はんしゅ徳川とくがわ慶福よしとみ(よしとみ)(のち家茂いえもち(いえもち))を擁立ようりつする門閥もんばつ譜代ふだい(ふだい)そうと、いちきょう(ひとつばし)当主とうしゅ慶喜よしのぶ(よしのぶ)を擁立ようりつする徳川とくがわ一門いちもん熾烈しれつ(しれつ)なこうそうがあった。

 大名だいみょう御家おいえ騒動そうどうでは、まくはん体制たいせい確立かくりつする初期しょき解体かいたいする後期こうきでは、その原因げんいん性格せいかくにかなりおおきなちがいがあるが、外様とざま(とざま)大名だいみょう御家おいえ騒動そうどう譜代ふだい大名だいみょうのそれとのあいだにも段階だんかいてきちがいがあった。

藤野ふじの 

初期しょき御家おいえ騒動そうどう

初期しょき御家おいえ騒動そうどうは、戦国せんごく臨戦りんせん体制たいせいから平和へいわまくはん体制たいせい移行いこうする過程かてい内在ないざいした矛盾むじゅん激発げきはつしたものであり、そこでは、大名だいみょう生死せいしをともにし、はん体制たいせい基礎きそをきずきあげた武功ぶこう門閥もんばつ家臣かしんと、わか世襲せしゅう藩主はんしゅ意志いし実行じっこうし、あたらしい時代じだい即応そくおうしようとする吏僚新参しんざん家臣かしん対立たいりつこうそうというかたちをとる場合ばあいおおい。はん初代しょだい)にぐ2だい、3代目だいめ御家おいえ騒動そうどう勃発ぼっぱつ(ぼっぱつ)した理由りゆうは、そこにある。黒田くろだ騒動そうどうはその典型てんけいしめしているが、御家おいえ騒動そうどうにまで発展はってんしなくとも、このたね新旧しんきゅう家臣かしんだん対立たいりつこうそうは、はん体制たいせい確立かくりつにみられる共通きょうつう現象げんしょうである。このてん、「ねこ騒動そうどう」でられる鍋島なべしま騒動そうどうは、藩主はんしゅ龍造寺りゅうぞうじ(りゅうぞうじ)から重臣じゅうしん鍋島なべしま移行いこうしたことに起因きいんする、龍造寺りゅうぞうじ直系ちょっけい高房たかぼう(たかふさ)―はくあん(はくあん)父子ふし怨念おんねん(おんねん)からはっしたもので、例外れいがいをなしている。こうした家臣かしんだん対立たいりつこうそうは、最上もがみ騒動そうどう伊達だて騒動そうどうれいしめすように、幼少ようしょう藩主はんしゅ就任しゅうにん契機けいき熾烈しれつ御家おいえ騒動そうどう発展はってんする。この場合ばあいは、大名だいみょう相続そうぞくあらそいというかたちをとる場合ばあいおおく、それは、まくはん体制たいせい長子ちょうし単独たんどく相続そうぞくせい確立かくりつ過程かてい内在ないざいした矛盾むじゅんあらわれであった。このてん将軍家しょうぐんけ例外れいがいではない。秀忠ひでただ長男ちょうなんこう次男じなん忠長ただなが確執かくしつがそれをしめしており、その結果けっかは、家光いえみつ忠長ただながたいする改易かいえきによって、徳川とくがわ本家ほんけ将軍家しょうぐんけ徳川とくがわ一門いちもんたいする絶対ぜったいけん確立かくりつされた。幼少ようしょう藩主はんしゅのもとで御家おいえ騒動そうどう勃発ぼっぱつしたということは、本家ほんけ大名だいみょう一門いちもん重臣じゅうしんたいする絶対ぜったいけん確立かくりつされていなかったことをしめしており、御家おいえ騒動そうどう契機けいき長子ちょうし単独たんどく相続そうぞくせい確立かくりつ定着ていちゃくし、藩主はんしゅ権力けんりょく強化きょうかされた。初期しょき御家おいえ騒動そうどう外様とざま大名だいみょうおおかったのにたいし、徳川とくがわ一門いちもん譜代ふだい大名だいみょう御家おいえ騒動そうどうは、外様とざま大名だいみょうよりいち段階だんかいおくれて天和てんわ(てんな)~元禄げんろく(げんろく)(1681~1704)に勃発ぼっぱつしたものがおおい。それは、これら徳川とくがわけい大名だいみょう外様とざま大名だいみょうよりおくれて成立せいりつし、ようやくこのいたって、大名だいみょう相続そうぞくあらそいとからみ、家臣かしん権力けんりょく派閥はばつ抗争こうそう表面ひょうめんしたことをしめしている。

藤野ふじの 

後期こうき御家おいえ騒動そうどう

後期こうき御家おいえ騒動そうどうは、まくはん体制たいせい解体かいたい過程かてい内在ないざいした矛盾むじゅん激発げきはつしたものであり、それは、はん財政ざいせい窮乏きゅうぼう原因げんいんとする藩政はんせい機能きのう停滞ていたい現象げんしょうのなかで、現状げんじょう維持いじだいいちとする門閥もんばつ守旧しゅきゅうと、現状げんじょう打開だかい藩政はんせい改革かいかくしようとするなか下士かしそう対立たいりつこうそうというかたちをとる場合ばあいおおい。そのため後期こうき御家おいえ騒動そうどうは、藩主はんしゅ地位ちいをめぐる一門いちもん重臣じゅうしんあらそいにとどまることなく、藩政はんせい動揺どうよう打開だかいするための財政ざいせい経済けいざい政策せいさくをめぐる新旧しんきゅう家臣かしんだん対立たいりつこうそうというかたちをとり、藩政はんせい改革かいかくにまで発展はってんする。加賀かが騒動そうどう大槻おおつきちょうもと(おおつきとももと)(伝蔵でんぞう)は、藩主はんしゅ前田まえだ吉徳よしのり(よしのり)の信任しんにん足軽あしがるから立身出世りっしんしゅっせし、はん財政ざいせい再建さいけんにあたったが、門閥もんばつ守旧しゅきゅう反対はんたいけ、ついには藩主はんしゅ一族いちぞく毒殺どくさつ失敗しっぱいから越中えっちゅう(えっちゅう)五箇山ごかさん(ごかやま)に流刑りゅうけいされて自殺じさつした。藩主はんしゅ上杉うえすぎ治憲はるのり(はるのり)(鷹山ようざん(ようざん))の主導しゅどうによって藩政はんせい改革かいかく成功せいこうした米沢よねざわ(よねざわ)はんにおいても、ちゅう下士かしそう中心ちゅうしんとする改革かいかくたいして門閥もんばつ守旧しゅきゅう反対はんたいがあり、治憲はるのりは、これらの反対はんたいたいして切腹せっぷくないし隠居いんきょ閉門へいもんめいじている。このことは、御家おいえ騒動そうどうにまで発展はってんしなくとも、後期こうき藩政はんせい改革かいかくには新旧しんきゅう家臣かしんだんはんない騒動そうどう共通きょうつう存在そんざいしたことをしめしている。それが、はん内外ないがい情勢じょうせいがいっそう複雑ふくざつになる幕末ばくまつには、改革かいかく保守ほしゅ対立たいりつこうそうがさらに激化げきかする。鹿児島かごしまはん薩摩さつまはん)のお由良ゆら騒動そうどうがそれを代表だいひょうし、藩主はんしゅ島津しまつひとしきょう(なりおき)の後嗣こうしをめぐって、嫡子ちゃくし斉彬なりあきら(なりあきら)とひとしきょう側室そくしつ由良ゆら久光ひさみつ(ひさみつ)とのあいだ熾烈しれつ御家おいえ騒動そうどう勃発ぼっぱつした。改革かいかく代表だいひょうする斉彬なりあきら藩主はんしゅ就任しゅうにんは、幕末ばくまつ維新いしんにおけるどうはん方向ほうこう決定けっていづけたが、はぎ(はぎ)はん長州ちょうしゅうはん)をはじめ、幕末ばくまつはんない闘争とうそうは、こうした改革かいかく保守ほしゅ対立たいりつこうそう極点きょくてんしめしている。そのなかから公武こうぶ合体がったいあるいは尊攘そんじょう(そんじょう)討幕とうばく成立せいりつし、明治維新めいじいしんむかえたのである。

藤野ふじの 

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御家おいえ騒動そうどう (おいえそうどう)

江戸えど時代じだいきた大名だいみょう内訌ないこうをいう。それは,まくはんせい国家こっか成立せいりつ解体かいたい過程かていおうじて,ことなった展開てんかい性格せいかくしめしている。まくはんせい国家こっかは,だいたい17世紀せいき後半こうはん成立せいりつするが,農村のうそん都市としから,幕府ばくふしょはん政治せいじ機構きこう家臣かしんだん構成こうせいいたるまで,おおきな変動へんどうともなっている。支配しはいそう内部ないぶでも,はん体制たいせい確立かくりつをめぐって新旧しんきゅうりょう勢力せいりょく対立たいりつ激化げきかし,講談こうだん歌舞伎かぶきなどのこう題目だいもくとされた(いえぶつ)。江戸前えどまえ御家おいえ騒動そうどうは,後期こうきのそれと同様どうよう近世きんせい研究けんきゅう進歩しんぽにつれて多数たすう事例じれい発掘はっくつされてきたが,とくに有名ゆうめいなものに,伊達だて騒動そうどう越後えちご騒動そうどう黒田くろだ騒動そうどう鍋島なべしま騒動そうどうなどがある。後期こうき御家おいえ騒動そうどうちがてんは,まず幕府ばくふ権力けんりょく大名だいみょう統制とうせい意図いとして騒動そうどうつよ介入かいにゅうし,それがはんないこうそうをいっそう激化げきかさせたことである。また騒動そうどう原因げんいんひとつは,藩主はんしゅ世襲せしゅうてき地位ちい権力けんりょくがまだ確立かくりつされず,一門いちもんをめぐる権力けんりょくあらそいをおさえることができなかったことである。《伽羅きゃら先代せんだいはぎ(めいぼくせんだいはぎ)》でられた伊達だて騒動そうどうもそのれいであり,黒田くろだ騒動そうどうなどと同様どうよう,あやうくりつぶしをまぬがれた。また,御家おいえ騒動そうどうおおくが,はん体制たいせい確立かくりつ過程かてい不可避ふかひ矛盾むじゅんであるはん財政ざいせい窮乏きゅうぼうむすびついてきており,それをいかに克服こくふくするかが重要じゅうよう課題かだいであった。だから芝居しばい講談こうだんで奸邪の人物じんぶつとされているものも,じつ新進しんしん財政ざいせいであり,はん体制たいせい近世きんせいてき傾向けいこう推進すいしんする先頭せんとうった忠臣ちゅうしんである場合ばあいすくなくない。儒教じゅきょう勧善懲悪かんぜんちょうあく立場たちばから,御家おいえりのだい悪人あくにんとされた伊達だて騒動そうどう原田はらだ甲斐かい越後えちご騒動そうどう小栗おぐり美作みさくなどがそのれいである。後期こうき御家おいえ騒動そうどうは,慢性まんせいした藩政はんせい改革かいかく一環いっかんとしておこなわれるのが一般いっぱんである。藩主はんしゅ地位ちい中心ちゅうしん一門いちもん譜代ふだいあらそうという段階だんかいではなく,藩政はんせい動揺どうよう打開だかいするための財政ざいせい経済けいざい政策せいさくをめぐって,上層じょうそう下層かそうがはげしく抗争こうそうするというかたちがふつうであった。家格かかく由緒ゆいしょもないがりしゃはん財政ざいせい支配しはいすることにたいする保守ほしゅ反抗はんこうがその底流ていりゅうにあった。
執筆しっぴつしゃ

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御家おいえ騒動そうどう
おいえそうどう

家督かとく家政かせいをめぐる家族かぞく内部ないぶ紛争ふんそうとく江戸えど時代じだい大名だいみょうちゅうおこったそれをさす。江戸えど時代じだい御家おいえ騒動そうどうは,家族かぞく制度せいど長子ちょうし相続そうぞくせい蓄妾ちくしょう制度せいど主従しゅうじゅう関係かんけいまくはん体制たいせい展開てんかい過程かていそくしておもてわれたもので,正徳しょうとくとおるあいだ (1710年代ねんだい) をさかいとして,前期ぜんき後期こうきけられる。前期ぜんきのものは,鍋島なべしま騒動そうどう黒田くろだ騒動そうどう生駒いこま騒動そうどう池田いけだ騒動そうどう会津あいづ騒動そうどう伊達だて騒動そうどう越後えちご騒動そうどうなど,しゅとして外様とざま大名だいみょうにみられるが,藩主はんしゅ権力けんりょく確立かくりつ過程かていで,藩主はんしゅ一門いちもん実力じつりょくしゃ上級じょうきゅう家臣かしん家督かとく問題もんだい介入かいにゅうしようとするこころみにたいする,譜代ふだい家臣かしんそうの,藩主はんしゅのために藩政はんせい強化きょうかしようとするうごきが,はん前途ぜんとあやうくし,幕府ばくふつよ裁定さいてい改易かいえきけるれいおおかった。これら一連いちれん事件じけんのもつ悲劇ひげきせいに,傾城けいせいかい (けいせいかい) の風俗ふうぞく (→遊女ゆうじょ ) をからませた浄瑠璃じょうるり狂言きょうげん創作そうさくされ上演じょうえんされたことは注目ちゅうもくあたいする。後期こうきのものは,加賀かが騒動そうどう前期ぜんきてき色彩しきさいをなおたもつけれども,有馬ありま騒動そうどう松山まつやま騒動そうどう佐竹さたけ騒動そうどう金森かなもり騒動そうどう母里もり (松江まつえ) 騒動そうどうまる (諏訪すわ) 騒動そうどう,お由良ゆら (薩摩さつま) 騒動そうどう (→高崎たかさきくず ) ,仙石せんごく騒動そうどう戸田とだ (松本まつもと) 騒動そうどうなど,しゅとして動揺どうようする藩政はんせい,とりわけはん財政ざいせいをいかに改革かいかくすべきかをめぐる新進しんしん官僚かんりょう保守ほしゅてき上層じょうそう藩士はんしとの利害りがい対立たいりつ契機けいきとし,譜代ふだい外様とざまわず発生はっせいし,しかもほとんど幕府ばくふ裁許さいきょたずにはんないだけで,もしくはむねはん介入かいにゅうによって解決かいけつされた。藩政はんせいたいするなか下層かそう家臣かしん改革かいかくとしての発言はつげんりょくがそのあいだ次第しだいつよまってくることは,とく注目ちゅうもくされるが,芝居しばい脚色きゃくしょくされる度合どあいはすくなくなる。

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御家おいえ騒動そうどう【おいえそうどう】

江戸えど時代じだい大名だいみょう家内かない紛争ふんそう事件じけん大名だいみょう家督かとく相続そうぞくあらそいや,はんない政治せいじ経済けいざいじょう利害りがい関係かんけいをめぐる有力ゆうりょく家臣かしん主導しゅどうけんあらそいに起因きいんすることがおおい。17世紀せいき後半こうはん以降いこう全国ぜんこくてき多発たはつしている。黒田くろだ騒動そうどう伊達だて騒動そうどう越後えちご騒動そうどう加賀かが騒動そうどう鍋島なべしま騒動そうどう仙石せんごく騒動そうどうなどが有名ゆうめい
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御家おいえ騒動そうどう
おいえそうどう

江戸えど時代じだい大名だいみょう(将軍家しょうぐんけふくむ)や旗本はたもとしょうじた内紛ないふん家督かとく相続そうぞくあらそいや,政治せいじ経済けいざいじょう利害りがいをめぐっての権力けんりょく抗争こうそうはしはっし,すうじゅうねんにわたって長期ちょうきするものもある。初期しょき騒動そうどう大名だいみょうから独立どくりつした所領しょりょうをもつ高禄こうろく家臣かしん大名だいみょう権力けんりょくのなかに包摂ほうせつする過程かていで,後期こうき財政ざいせい立直たてなおしのため藩政はんせい改革かいかく断行だんこうされる過程かていしょうじることがおおい。初期しょき騒動そうどうには幕府ばくふ権力けんりょくつよ介入かいにゅうがあるのを特徴とくちょうとし,池田いけだ騒動そうどう生駒いこま騒動そうどう越後えちご騒動そうどう改易かいえき黒田くろだ騒動そうどう柳川やながわいちけん伊達だて騒動そうどうなどはあやうく改易かいえきまぬかれた。後期こうきれいとしては,加賀かが騒動そうどう津軽つがる騒動そうどう・およし(ゆら)騒動そうどう有名ゆうめい家臣かしん当主とうしゅ隠居いんきょさせる騒動そうどうもある。御家おいえ騒動そうどう歌舞伎かぶき文学ぶんがく作品さくひんこう題材だいざいとなり,勧善懲悪かんぜんちょうあく忠臣ちゅうしん逆臣ぎゃくしんなどの儒教じゅきょうてき評価ひょうかくわえられた。だい2大戦たいせん前後ぜんこうには史実しじつ考証こうしょうてき研究けんきゅうすすめられ,近年きんねん政治せいじいち分野ぶんやとしてかく騒動そうどう歴史れきしてき位置いちづける研究けんきゅう成果せいかがみられる。

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御家おいえ騒動そうどう
おいえそうどう

江戸えど時代じだい大名だいみょう家督かとく相続そうぞくあらそいや,家臣かしんらの権力けんりょくあらそいなどで家中いえじゅう全体ぜんたい分立ぶんりつ抗争こうそうした事件じけん
紛争ふんそう原因げんいんは,まくはん体制たいせい確立かくりつ藩士はんしたちの関心かんしんはんない政治せいじ問題もんだいけられたため,個人こじんてき利害りがいにからむ藩主はんしゅ継嗣けいし問題もんだい藩主はんしゅ無視むししての政治せいじざい政権せいけん争奪そうだつなどをその要因よういんとしている。元和がんわ生駒いこま騒動そうどう寛永かんえい黒田くろだ騒動そうどう寛文ひろふみ伊達だて騒動そうどうのべたから天和てんわ越後えちご騒動そうどうひろしのべとおる加賀かが騒動そうどうなどが有名ゆうめいで,なかでも越後えちご松平まつだいら讃岐さぬき生駒いこま播磨はりま池田いけだ諸家しょか幕府ばくふからりつぶされ,「御家おいえぶつ」として演劇えんげきなどにもとりげられている。

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世界せかいだい百科ひゃっか事典じてん旧版きゅうばんうち御家おいえ騒動そうどう言及げんきゅう

江戸えど時代じだい】より

大名だいみょう家老がろう関係かんけい独立どくりつして所領しょりょうをもつものどうしのいわば軍事ぐんじてき指揮しき関係かんけいであり,両者りょうしゃむすびつけているのはせん経験けいけん共有きょうゆうする独立どくりつした軍団ぐんだんちょうあいだ信頼しんらい関係かんけいであった。このような関係かんけいが,初代しょだい死後しごいだ2代目だいめわか主君しゅくんほこたか老巧ろうこう家老がろうとのあいだ成立せいりつしえないのはむしろ当然とうぜんであり(黒田くろだ長政ながまさ後藤ごとう基次もとつぐ関係かんけいはその好例こうれいである),江戸えど時代じだい初期しょきには両者りょうしゃ関係かんけい原因げんいんとなった御家おいえ騒動そうどう頻発ひんぱつし,これによってりつぶされた大名だいみょうすくなくない。 幕府ばくふ秩序ちつじょ安定あんていのため,こうした紛争ふんそうでは大名だいみょうがわ政策せいさく一貫いっかんしてり(元和がんわの〈一国一城いっこくいちじょうれい〉は,藩中はんちゅうはんつく家老がろう勢力せいりょくをそぐ意味いみもあった),また家老がろう軍団ぐんだんささえていたしょう市場いちばけんが,大名だいみょう城下町じょうかまち中心ちゅうしんとした市場いちばけん(さん中心ちゅうしんとして成立せいりつした全国ぜんこく市場いちばむすびついていた)に吸収きゅうしゅうさい編成へんせいされたことによって,軍団ぐんだんちょうとしての家老がろう独立どくりつせいうしなわれた。…

伊達だて騒動そうどう】より

歌舞伎かぶき狂言きょうげん伽羅きゃら先代せんだいはぎ(めいぼくせんだいはぎ)》や山本やまもと周五郎しゅうごろう小説しょうせつもみ(もみ)ノのこった》とう有名ゆうめい仙台せんだいはん御家おいえ騒動そうどう寛文ひろふみ事件じけんともいう。…

※「御家おいえ騒動そうどう」について言及げんきゅうしている用語ようご解説かいせつ一部いちぶ掲載けいさいしています。

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