日本にっぽん大だい百科全書ひゃっかぜんしょ(ニッポニカ) 「鶴田つるた藩はん」の意味いみ・わかりやすい解説かいせつ 鶴田つるた藩はんたづたはん 幕末ばくまつに美作みさく(みまさか)国久くにひさ米べい北条ほうじょう(くめほくじょう)郡こおり鶴田つるた(たづた)(岡山おかやま県けん岡山おかやま市し北きた区く)に置おかれた家門かもん(かもん)小しょう藩はん。1866年ねん(慶応けいおう2)第だい二に次じ長州ちょうしゅう征伐せいばつのとき、石見いわみ(いわみ)国こく浜田はまだ藩はん(6万まん1000石せき)は長州ちょうしゅう藩はんの攻撃こうげきを受うけ、藩主はんしゅ松平まつだいら武たけ聡さとし(たけあきら)(水戸みと藩主はんしゅ徳川とくがわ斉昭なりあき(なりあき)の十じゅう男なん、鳥取とっとり藩主はんしゅ池田いけだ慶徳けいとく(よしのり)の実弟じってい)は居城いじろを放棄ほうきして海うみへ敗走はいそう、松江まつえ、鳥取とっとりを経へて、翌よく1867年ねん浜田はまだ藩はん飛地とびち(とびち)領りょう(8000石せき余あまり)であった美作みさく国こく鶴田つるたに入はいって陣屋じんやを設もうけ、800余よ名めいの旧きゅう浜田はまだ藩士はんしとその家族かぞくの大だい多数たすうもここに集結しゅうけつし、新あらたに美作みさく国こく5郡ぐんのうち2万まん石せきを与あたえられて立たて藩はんした。これを鶴田つるた藩はんという。1868年ねんの鳥羽とば(とば)・伏見ふしみ(ふしみ)の戦たたかいでは幕府ばくふ軍ぐんに属ぞくして参戦さんせんしたが、家老がろう尾関おぜき隼人はやと当とう遵(まさゆき)が責任せきにんを負おい、京都きょうと護まもる王寺おうじにおいて新しん政府せいふに対たいする割腹かっぷく謝罪しゃざいをしたため藩はんは存続そんぞくし、翌よく1869年ねん(明治めいじ2)には蔵米くらまい2万まん4000石せき余あまりをあわせて、旧きゅう浜田はまだ藩はん知行ともゆき高だか(ちぎょうだか)6万まん1000石せき余あまりに復ふくした。1868年ねんから翌年よくねんにかけては庄屋しょうや(しょうや)の不正ふせい追及ついきゅうに始はじまる大だい規模きぼな百姓ひゃくしょう一揆いっき(ひゃくしょういっき)が起おこり、藩はん兵へいが出動しゅつどうして武力ぶりょく鎮圧ちんあつしている。1871年ねん7月がつ廃はい藩はん、藩はん領りょうは鶴田つるた県けんとなり、のち岡山おかやま県けんに編入へんにゅうされた。[松尾まつお 寿ことぶき][参照さんしょう項目こうもく] | 浜田はまだ藩はん 出典しゅってん 小学館しょうがくかん 日本にっぽん大だい百科全書ひゃっかぜんしょ(ニッポニカ)日本にっぽん大だい百科全書ひゃっかぜんしょ(ニッポニカ)について 情報じょうほう | 凡例はんれい
世界せかい大だい百科ひゃっか事典じてん(旧版きゅうばん)内うちの鶴田つるた藩はんの言及げんきゅう 【美作みさく国こく】より …1817年ねん(文化ぶんか14)津山つやま藩主はんしゅ松平まつへい氏しは将軍しょうぐん家斉いえなりの子こ銀之助ぎんのすけを養子ようしに迎むかえ,5万まん石せきを加増かぞうされて10万まん石せきに復ふくした。67年ねん(慶応けいおう3)には,第だい2次じ長州ちょうしゅう征伐せいばつのとき長州ちょうしゅう軍ぐんに城しろを焼やかれ所領しょりょうを奪うばわれた石見いわみ国こく浜田はまだ藩主はんしゅ松平まつだいら武たけ聡さとしが,久米くめ北条ほうじょう郡ぐん内ないで2万まん石せきを与あたえられ鶴田つるた(たづた)藩主はんしゅとなった。このように美作みさく国こくは,1698年ねん以後いご津山つやま藩はん,勝山かつやま藩はん,鶴田つるた藩はんのほかは,天領てんりょうや多数たすうの大名だいみょう・旗本はたもとの飛地とびち領りょうに細分さいぶんされて明治維新めいじいしんを迎むかえ,北条ほうじょう県けんの設置せっちによって再ふたたびひとつにまとめられた。… ※「鶴田つるた藩はん」について言及げんきゅうしている用語ようご解説かいせつの一部いちぶを掲載けいさいしています。 出典しゅってん|株式会社かぶしきがいしゃ平凡社へいぼんしゃ「世界せかい大だい百科ひゃっか事典じてん(旧版きゅうばん)」