少し前に、付き合っていた人がいた。
社会人になって、一人暮らしをして、はじめて付き合った人。
私よりも少し年上で、なんでもできる完璧な人だった。
これは、そんな恋人をはじめて家に招待した日の夜の話。
◎ ◎
恋人は仕事が終わったら家に来ると言っていた。
「おかえりなさい」って言っちゃおうかな、言って良いよね。めちゃくちゃ最高だ。
私はウキウキルンルン気分で部屋の片づけをしていた。
狭い・古い・汚いの三拍子がそろった安いアパートだったが、恋人が帰ってくると考えるといつもよりワントーン部屋が明るく見えるから不思議だ。
恋人がくるまでにやっておきたいことは部屋の片づけとあともうひとつ。
あたたかいごはんをこしらえること。
メニューはもう決めていた。鶏のからあげだ。
いま思えば、自炊らしい自炊をした経験がほぼゼロだったにも関わらずよくもまあ無謀なチャレンジをしたもんだ。
でも、いっしょに外食をしたとき、からあげ定食をおいしそうにほおばる恋人の顔が脳裏にくっきりと残っていたのでメニューはそれ一択だなと思っていた。
◎ ◎
某レシピサイトで材料や手順を確認し、下準備はばっちりだった。
付け合わせのキャベツも切り刻んだし、お味噌汁の具も鍋に入れるだけの状態になって理路整然と待機している。
あとは、恋人が会社を出た時間くらいに油を熱し始めればちょうどいい。我ながら完璧すぎる。
ソワソワして何も手につかないので、そのままぼんやりとレシピサイトを眺めていた。
「からあげ」と一言で検索しても、何を揚げるか、どう揚げるか、何をかけるか、などが異なるさまざまなからあげレシピが掲載され、検索結果は何十頁にわたっている。世の中には多くのアイディアマンがいるものだ。
そんなときだった。数あるレシピの中で、私は見つけてしまった。
「鶏肉は生焼けだとマジで死ぬ思いをします!!!!!要注意!!!!!!!!」
びっくりマーク山盛りのこの注意書き。
ソワソワがゾワゾワに変わってしまった。
鶏のからあげで恋人を殺してしまったらどうしよう。
なんでこんなメニューにしちゃったんだろう。
料理上手じゃあるまいし、自信のかけらもない。
◎ ◎
からあげ、止めようかな。
私は山盛りのびっくりマークと山盛りの鶏肉(下ごしらえ済み)を交互に見つめ、茫然とした。
でも、ここまで準備して、やっぱり辞めるのもしんどい。
じゃあ何を作る?と考えてもしんどい。
山盛りのびっくりマークを恨む。
いや、恨んじゃいけない。
きっとこのびっくりマークの産みの親は死ぬ思いをしたんだろう。
生きていてくれて、注意喚起をしてくれて、ありがとう。
びっくりマークの産みの親に感謝をしながら、私は決断した。
「予行練習をしよう」
レシピ通りに、鶏のからあげをひとつだけ揚げてみることにした。
それで生焼けじゃなければ、その通りに他のものも揚げれば大丈夫。名案すぎる。
レシピ通りの時間で揚げてみた。
おいしい。良い感じに揚がっている。
なんだ、大丈夫じゃん。
私はほっと胸をなで下ろした。
待てよ。
1個だけだからかな。
1個だけだと火が均等に通るから大丈夫なだけなのでは?
また怖くなって、今度は2個揚げてみた。
大丈夫だった。
いや待てよ。肉が小さいからでは?
私が今まで揚げていたのは、予行練習のための小さな肉だけ。
大きいと火の通りが悪くなるのではないか?
今度は大きい肉を選んで2個揚げてみた。
大丈夫だった。おいしい。
からあげのプロになったかもしれない。
ようやく自信を持てたところで、わたしは満腹になった。
そして残った鶏肉は最初の半分の量になった。
◎ ◎
恋人が帰ってきて、「おかえりなさい」と言うことができた。
恋人は台所にただようからあげの匂いを嗅いで、子犬のように喜んだ。
テーブルの上には、一人前のからあげと二人前のキャベツと味噌汁。
不思議な表情を浮かべる恋人に、自分は小食だという旨を伝えて、からあげをすべて恋人に食べさせた。
恋人は顔全体で喜び、ペロリとからあげを食べてくれた。
「すっげぇうまかった!」
うん、知ってる。
私もさっき食べたから。立ったまま。台所で。
「よかった。火通ってたよね?」
とりあえず鶏のからあげで恋人を殺してしまう事態にはならなくて安心した。
やっぱり、慣れないことはするもんじゃないけれど、ちゃんと火の通ったからあげでおなかを満たすことができてよかった。
いつか、一緒のタイミングで、きちんと椅子に座ってからあげを食べたい。