神宮じんぐうの博物館はくぶつかんトップ 神宮じんぐう徴しるし古館ふるたて・農業のうぎょう館かん 歴史れきし詳細しょうさい 神宮じんぐう徴しるし古館ふるたて・神宮じんぐう農業のうぎょう館かんについて フロアマップ 展示てんじ・所蔵しょぞう品ひん(コレクション) 歴史れきし詳細しょうさい 明治めいじ時代じだいの代表だいひょう的てきな建築けんちく様式ようしきを今いまに残のこす神宮じんぐう徴しるし古館ふるたて・神宮じんぐう農業のうぎょう館かん。日本にっぽん最初さいしょの私立しりつ博物館はくぶつかんとして創設そうせつされた両りょう館かんの歴史れきしを紹介しょうかいします。 新しん政府せいふの神道しんとう国教こっきょう化か政策せいさくにより、明治めいじ4年ねん神宮じんぐうでは神職しんしょくの世襲せしゅう制せい廃止はいしなど大改革だいかいかくが行おこなわれた。当時とうじ、神宮じんぐうの宮みや域いきには民家みんかが建たち並ならび火災かさいがおこるおそれもあった。そのような中なか、域内いきないの清浄せいじょうと美観びかんを守まもり、かつ倉田くらた山さんに動物どうぶつ園えん・植物しょくぶつ園えん・図書館としょかんを併設へいせつする総合そうごう博物館はくぶつかんの開設かいせつを目的もくてきとして明治めいじ19年ねんに神苑しんえん会かいが発足ほっそくした。 神苑しんえん会かいは明治めいじ22年ねん、有栖川宮熾仁親王ありすがわのみやたるひとしんのうを総裁そうさいにいただき、明治天皇めいじてんのうの御手許金おてもときんの御ご下賜かしを始はじめ全国ぜんこく有志ゆうしの協賛きょうさんにより、国家こっか的てきな規模きぼで事業じぎょうを進すすめた。 初代しょだい総裁そうさい 有栖川宮熾仁親王ありすがわのみやたるひとしんのう殿下でんか 二に代だい総裁そうさい 有栖川ありすがわ宮みや威たけし仁じん親王しんのう殿下でんか 神苑しんえん会かいは総合そうごう博物館はくぶつかんの建設けんせつを目指めざしていたが、規模きぼが大おおきすぎたため目標もくひょうをしぼる必要ひつようが生しょうじていた。そこへ明治めいじ23年ねん恐慌きょうこうがおこり、また日にち清しん戦争せんそうをひかえ寄付きふ金きんが思おもうように集あつまらず、やむなく規模きぼを縮小しゅくしょうして明治めいじ24年ねん、徴しるし古館ふるたての一部いちぶとしてまず外宮げくう前まえに農業のうぎょう館かんを建設けんせつした。設立せつりつ責任せきにん者しゃに選えらばれたのは日本にっぽんの博物館はくぶつかんの生うみの親おやと言いわれる貴族きぞく院いん議員ぎいんで物産ぶっさん学者がくしゃの田中たなか芳男よしおである。田中たなかは「自然しぜんの物産ぶっさんがいかに役やくに立たつか」をテーマに農業のうぎょうを主しゅとして林業りんぎょう・水産すいさん業ぎょうなどの資料しりょうを展観てんかんした。 左ひだり)農業のうぎょう館かん 右みぎ)物産ぶっさん学者がくしゃ 田中たなか芳男よしお 農業のうぎょう館かん附属ふぞく工芸こうげい館かん開館かいかん(外宮げくう前まえ) かつて津つ公園こうえん内ないにあった三重みえ県けん物産ぶっさん陳列ちんれつ場じょうの建物たてものと陳列ちんれつ品ひんが三重みえ県けんより神苑しんえん会かいへ寄付きふされ外宮げくう前まえに移築いちく・改修かいしゅうし、明治めいじ27年ねん、農業のうぎょう館かん付属ふぞく工芸こうげい館かんが完成かんせいした。 外宮げくう前まえの歴史れきし博物館はくぶつかん(工芸こうげい館かん)と当時とうじの展示てんじ構想こうそう 農業のうぎょう館かん附属ふぞく工芸こうげい館かんの資料しりょうを二見ふたみの賓まろうど日び館かんに移うつし仮かり徴しるし古館ふるだてとする (徴しるし古館ふるたての起源きげん) 明治めいじ27年ねん、農業のうぎょう館かん付属ふぞく工芸こうげい館かんの陳列ちんれつ品ひんを二見ふたみの賓まろうど日び館かんに移うつし、これを仮かり徴しるし古館ふるだてと名付なづけて一般いっぱんの観覧かんらんに供きょうした。 博物館はくぶつかんの設立せつりつ場所ばしょは当初とうしょから倉田くらた山さんが理想りそうとされていたもののその事業じぎょう規模きぼは余あまりに大おおきくたびたび建設けんせつが延期えんきされたが、明治めいじ37年ねんから4カ年かねんの事業じぎょうで建設けんせつすることが決定けっていした。明治めいじ38年ねん、先まず外宮げくう前まえに建たっていた農業のうぎょう館かんを倉田くらた山さんに移転いてん増築ぞうちく。その際さい同時どうじに移築いちくした農業のうぎょう館かん附属ふぞく工芸こうげい館かんを「仮かり徴しるし古館ふるたて」として開館かいかんした。 徴しるし古館ふるたての建設けんせつについては、日にち露ろ戦争せんそうの影響えいきょうにより工事こうじの着手ちゃくしゅが延期えんきされていたが、明治めいじ39年ねんに地形ちけい工事こうじに着手ちゃくしゅ。明治めいじ40年ねんには総裁そうさい有栖川ありすがわ宮みや威たけし仁じん親王しんのうの台たい臨を仰あおいで基礎きそ式しきを挙行きょこうし、幾多いくたの困難こんなんを乗のり越こえて明治めいじ42年ねん9月がつ29日にち、徴しるし古館ふるたて開館かいかん式しきが各界かくかい名士めいしの参列さんれつを得えて盛大せいだいに行おこなわれた。一いち地方ちほう都市としにすぎない宇治山田うじやまだの地ちに近代きんだい建築けんちくの荘そう麗うららな博物館はくぶつかんが設立せつりつされたことは、当時とうじにあっては一大いちだい驚異きょういであったと想像そうぞうされる。徴しるし古館ふるたて・農業のうぎょう館かんは、宮廷きゅうてい建築けんちくの第一人者だいいちにんしゃで赤坂あかさか離宮りきゅう(現在げんざいの迎賓館げいひんかん)を手てがけた片かた山東さんとう熊ぐまかたやまとうくまが設計せっけい。徴しるし古館ふるだてはルネッサンス式しきの凹型の平屋ひらや建けんで、外壁がいへきは備前びぜん陶器とうき製せいの花崗みかげ煉瓦れんが石積いしつみかこうれんがいしづみ(テラコッタ)、中央ちゅうおうの屋根やねはドーム状じょうで、盾たて型がたの前庭ぜんていは宮みや内省ないせい内苑ないえん局きょくの技師ぎし市川いちかわ之の雄ゆういちかわゆきおが設計せっけい。農業のうぎょう館かんは平等院びょうどういん鳳凰堂ほうおうどうをイメージした和洋折衷わようせっちゅう様式ようしきの木造もくぞう瓦葺かわらぶきかわらぶきで、回廊かいろう型がたの平屋ひらや建けんとして建設けんせつされた。 宮廷きゅうてい建築けんちくの第一人者だいいちにんしゃ 片かた山東さんとう熊ぐま 完成かんせい予定よてい図ず(実際じっさいには簡略かんりゃくされた) 建築けんちく中ちゅうの徴しるし古館ふるだて 明治めいじ44年ねん3月がつ31日にち、神苑しんえん会かいは徴しるし古館ふるたて・農業のうぎょう館かんの建物たてものと収蔵しゅうぞう品ひん一式いっしきを神宮じんぐうに奉納ほうのうして解散かいさん。事業じぎょうを引ひき継ついだ神宮じんぐうは同年どうねん7月がつ、「徴しるし古館ふるたて農業のうぎょう館かん」と正式せいしきに名付なづけた。徴しるし古館ふるだては主おもに神宮じんぐうに関係かんけいする古いにしえ器き・図画ずが・文物ぶんぶつの沿革えんかくを、農業のうぎょう館かんは殖産しょくさん興業こうぎょうの資料しりょうをそれぞれ陳列ちんれつ・保存ほぞんし、観覧かんらんに供きょうすることが明確めいかくにされた。 左上ひだりうえ) 徴しるし古館ふるたて全景ぜんけい 右上みぎうえ) 徴しるし古館ふるたてと御幸みゆき道路どうろ 下した)徴しるし古館ふるたて貴賓きひん室しつ