スターダンサーズ・バレエ団「Dance Speaks 2024」森優貴は夢がモチーフの新作「Traum-夢の中の夢-」を語る

2020ねん創立そうりつ55周年しゅうねんむかえたスターダンサーズ・バレエだんが、“ダンスはなにかたるのか。”をテーマに、日本にっぽん上演じょうえん機会きかいすくない世界せかいすぐれた作品さくひん紹介しょうかいしてきた「Dance Speaks」。2024ねんはトリプル・ビルで構成こうせいされる。1ほんは20世紀せいきのダンスかい影響えいきょうあたえた振付ふりつけのジョージ・バランシン振付ふりつけ「ワルプルギスのよる」、2ほん世界せかいまたにかけて活躍かつやくするスペイン出身しゅっしん振付ふりつけカィェターノ・ソトの2013ねん初演しょえんさく「Malasangre」、そして3ほんは2012ねんから2019ねんまでドイツのレーゲンスブルク歌劇かげきじょうダンスカンパニー芸術げいじゅつ監督かんとくとして活動かつどう現在げんざい日本にっぽん拠点きょてんうつし、多様たようなカンパニーで演出えんしゅつ振付ふりつけおこなっているもり優貴ゆうき新作しんさくだ。

ステージナタリーでは、スターダンサーズ・バレエだんはつタッグとなるもりにインタビュー。新作しんさく「Traum-ゆめなかゆめ-」についての構想こうそうをはじめ、もり創作そうさくたいするおもいをいた。

取材しゅざいぶん / 熊井くまいれい撮影さつえい / 藤田ふじた亜弓あゆみ

作品さくひんとおして、あたらしい言語げんごし、つたえていく

──「Dance Speaks 2024 ダンスはなにかたるのか」で、もりさんは今回こんかい新作しんさく「Traum-ゆめなかゆめ-」を発表はっぴょうされます。スターダンサーズ・バレエだんからオファーがあった時点じてんで、なにかすぐ、イメージされていたことはありましたか?

いや、まったくなかったです。というのも、スターダンサーズ・バレエだんみなさんとご一緒いっしょさせていただくのは今回こんかいはじめてなんです。スターダンサーズ・バレエだんそう監督かんとく小山こやま久美くみさんを筆頭ひっとうとしたバレエだん活動かつどうについてはもちろんぞんげていましたが、“とも作品さくひんす”というてんでは今回こんかいはじめてなので、バレエだんのダンサーたちを実際じっさいにするまでは、なにもイメージは確定かくていしていませんでした。ただ、新作しんさく依頼いらいしていただいた段階だんかいで、「ワルプルギスのよる」と「Malasangre」が上演じょうえんされることはつたえられていたので、新作しんさくとしての上演じょうえん時間じかん方向ほうこうせいなど、既存きそんの2作品さくひんとのバランスをとりながら、上演じょうえんプログラムないでの差別さべつ多様たよう視点してんから明確めいかくはかりたいというおもいでした。

森優貴

もり優貴ゆうき

というのも、ぼく通常つうじょう、まずは選曲せんきょくからかんがえ、同時どうじ舞台ぶたい美術びじゅつイメージ、衣裳いしょうのイメージ、総合そうごうてき演出えんしゅつめんてていきます。ダンサーがどのような振付ふりつけおどり、表現ひょうげんするのかという中身なかみよりも、それ以外いがい舞台ぶたい要素ようそ決定けっていし、大枠おおわくかためてしまう。ぼく自身じしん活動かつどうしてきたヨーロッパでの劇場げきじょうでは、1つの劇場げきじょうでオペラ、ダンス、芝居しばいで1ねん合計ごうけい35ほどのことなる企画きかく(そのうちダンスはほぼすべて新作しんさく)の制作せいさくおこなうため、劇場げきじょう雇用こようスタッフの企画きかくすうやスケジュールなどをまえ、舞台ぶたい美術びじゅつ衣裳いしょうデザイン、小道具こどうぐなどの演出えんしゅつ必要ひつよう要素ようそはスタジオでぼくがダンサーととも実際じっさい創作そうさく開始かいしする時点じてん通常つうじょう公演こうえん初日しょにちの6週間しゅうかんまえ)より半年はんとし~10カ月かげつくらいまえまでに劇場げきじょうないでアイデアが共有きょうゆうされ、会議かいぎかさねながら制作せいさくすすめられていきます。ヨーロッパの劇場げきじょう創作そうさくしゃにとっては工場こうじょうそのもので、かぎられた時間じかんなか政治せいじ行政ぎょうせいかかわり、そのまちの“かお”としての責務せきむにないながら発表はっぴょうつづけていかなければいけません。そういったぼく自身じしん経験けいけんが、新作しんさくむにあたって、まず総合そうごうてき演出えんしゅつとそれらに必要ひつよう要素ようそ確定かくていすることがたりまえ過程かていになっています。

しかしながら、日本にっぽん国内こくないではそういった過程かていむことはほぼ不可能ふかのうちかい。そのためスタッフ、ダンサーたちと実際じっさい現場げんば創作そうさくはじめるまえに、ぼく自身じしんなかでできるかぎ総合そうごうてき演出えんしゅつめんをより明確めいかくかためておく必要ひつようがあります。

今回こんかいはそれらを決定けっていっていくタイミングと、はじめてご一緒いっしょするダンサーのみなさんとおいするタイミングがちか時期じきせまってきていたので、まったくなにかたまっていなかったところから、一気いっき新作しんさくのイメージが確定かくていしていきました。

──新作しんさくはエドガー・アラン・ポーの「A Dream Within a Dream(ゆめまたゆめ)」(参照さんしょうDance Speaks 2024ワルプルギスのよる/Malasangre/Traum-ゆめなかゆめ- | STAR DANCERS BALLET)がベースになっているそうですね。このについても、構想こうそう初期しょき段階だんかいからイメージされていたのでしょうか?

いえ、そうではないです。ただ“ゆめ”というものはなにかしらテーマになってくるといいかなとはおもっていて、ダンサーたちとまえにすでにいろいろと思考しこう枝分えだわかれしていったのですが、最終さいしゅうてきにこのポーの辿たどきました。

──作品さくひんへの思考しこうふかまるにつれ、いろいろなピースがはまっていったかんじなのですね。

そうですね。今回こんかい既存きそんの2作品さくひんがアメリカンバレエをきずきあげたジョージ・バランシンの「ワルプルギスのよる」というクラシックスタイルと、カィェターノ・ソト振付ふりつけでラテンソウルの女王じょおうばれたキューバじん歌手かしゅラ・ルーペへのオマージュ「Malasangre」と、どちらも個性こせいてき抽象ちゅうしょうてき作品さくひんなので、そこにならべるうえで新作しんさくとして抽象ちゅうしょうてき要素ようそのこしつつ、ストーリーせい重視じゅうし作品さくひんにすることで、お客様きゃくさまにとっても3作品さくひん各々おのおの個性こせい明確めいかくになり、トリプルビルのかたとして面白おもしろいものになるのではないかと、総合そうごうてき観点かんてんからもかんがえました。じつ初期しょき段階だんかいでは、自分じぶんてきにはめずらしいすこけいめでポップな、音楽おんがくてきにインパクトがあり、ただただおどくような、「ゆめなか祝祭しゅくさい」のようなイメージもあったんです。でも、お客様きゃくさま物語ものがたりにしっかりとはいむことができ、ける、なおかつすぐにはすことができない世界せかいかん構築こうちくすることで、ダンサーにたいしても“身体しんたい表現ひょうげん以上いじょうによりおおくの事柄ことがらもとめることができる。物語ものがたりせいが、独特どくとく世界せかいかんが、まず存在そんざいすることで、ダンサーはあたえられる振付ふりつけたいして“感情かんじょうてき動機どうき”を明確めいかくにイメージし、理解りかいしたうえでうごくことができる。ぼく自身じしんもダンサーと、より一層いっそう想像そうぞうりょくふくらませながらえがきたい世界せかいかんみちびいていくことができる。そうかんがなおし、結果けっかてき辿たどいたのがエドガー・アラン・ポーのであり、着想ちゃくそうのポイントとしたわけです。

「ワルプルギスの夜」より。©︎Hasegawa Photo Pro.

「ワルプルギスのよる」より。©︎Hasegawa Photo Pro.

「Malasangre」より。©︎Hasegawa Photo Pro.

「Malasangre」より。©︎Hasegawa Photo Pro.

──さきにお稽古けいこ見学けんがくをさせていただき、ストーリーラインがえてくるような作品さくひんだなとかんじました。からもりさんのなかでストーリーがひろがっていったんでしょうか?

作品さくひんする、ビジュアルするという作業さぎょうではなくて、あくまでからけた印象いんしょう自分じぶん見出みいだしたテーマをもとに作品さくひんつくっていきました。なので、かられるストーリーかというとそうではなく、はあくまでインスピレーションをるための出発しゅっぱつてん、というイメージですね。また、過去かこ現在げんざい未来みらい喪失そうしつ決別けつべつ分断ぶんだん虚構きょこう……といったテーマは、ぼく作品さくひんつねにあるものですが、それらは、人生じんせいなかのいろいろな出会であい、経験けいけんわかれといった時間じかんたびとしてえがくこともある。“こちらがわ、あちらがわ”とぼくはいつもうんですけど、こちらがわとあちらがわ狭間はざまにあるのが現在げんざいであり現代げんだいであって、その狭間はざまを、ゆめという虚構きょこうなかえがけたらいなとおもっています。

──見学けんがくさせていただいたシーンでは、記憶きおくおもいの断片だんぺん次々つぎつぎえがかれ、時間じかんもどっていくような印象いんしょうけました。またしろはなやアタッシュケースといったかぎられた小道具こどうぐがとても脳裏のうりきます。

断片だんぺん、というキーワードは大切たいせつにしています。個人こじんてきぼくはあまり使用しようするもの理由りゆうづけはしません。ただ、ひとが“たび”をするさい必要ひつようものであったり、出会であものであったり、りにするものであったり、選曲せんきょくした音楽おんがく都度つどぼく自身じしんあたえるイメージとして、断片だんぺん提示ていじのこしていく。そこかられるメッセージや意味合いみあいの可能かのうせい特定とくていはしません。もちろん作品さくひんによりますが、アタッシュケース、テーブル、ドア、はなといったものは、ぼく作風さくふうとしてよく登場とうじょうしますね。自分じぶんなか無意識むいしきながらもなにかしらのつながりをかんじているのだとおもいます。

「Traum-夢の中の夢-」の稽古の様子。

「Traum-ゆめなかゆめ-」の稽古けいこ様子ようす

──なかでも、テーブルのうえかれたしろはなめぐ表現ひょうげん面白おもしろかったです。稽古けいこなかもりさんは、ダンサーに爪先つまさきかた目線めせんについてたびたび注意ちゅういうながし、そこを意識いしきさせることで、そのさきにあるしろはな存在そんざいをマークするというか、観客かんきゃく意識いしきをそこへ自然しぜんけさせようとしているのだなとかんじました。また目線めせん以外いがいにも、たとえばある動作どうさからつぎ動作どうさうつるときに、スッとうごいてしまうのではなく“ため”をつくることで、うごきに緩急かんきゅうをつけているところがとても有機ゆうきてきだなと。

観客かんきゃく意識いしき誘導ゆうどうするとはすこちがうかもしれません。どちらかというと、舞台ぶたいじょう存在そんざいするものひと時間じかん空間くうかん、すべては“そこの世界せかい”では矛盾むじゅんなく、自然しぜんに、そして必要ひつようせいがあって存在そんざいしなければいけないので、ダンサーが小道具こどうぐとして、衣裳いしょうとして、照明しょうめいとして、舞台ぶたい美術びじゅつとしてそれぞれの要素ようそ認識にんしきする以上いじょうに、自分じぶんたちにまないといけないというおもいです。言葉ことばがないのが舞踊ぶよう表現ひょうげんではありますが、それでもクラシックバレエの場合ばあい歌舞伎かぶきのようにかたがあって、そのかたうえでマイムやジェスチャーを使つかい、バレエ技法ぎほうがあり、形式けいしき重視じゅうししながら物語ものがたり進行しんこうさせていきます。ただ、いわゆるコンテンポラリーダンス……というジャンルけがぼくきではないですが……(笑)、すべての振付ふりつけ共通きょうつうするかたがなく、振付ふりつけそれぞれの作家さっかせい想像そうぞうりょく状態じょうたいから作品さくひんつくげていく場合ばあいは、作品さくひんやテーマ、音楽おんがくによって、物語ものがたり進行しんこうさせるための言語げんご毎回まいかいわるわけです。えがかなければいけない物語ものがたりせい、もしくは物語ものがたりがない抽象ちゅうしょうてき作品さくひんであれば状況じょうきょう環境かんきょう、もしくはこたえを必要ひつようとしないアイデアによって必要ひつようとなる身体しんたい言語げんご作品さくひんごとに変化へんかします。もちろんそこにはもり優貴ゆうき振付ふりつけスタイルやくせがベースとしてありますが、それでも毎回まいかいぼく作品さくひんごとにあたらしい言語げんご発見はっけんしようとし、自分じぶん自身じしんがその見出みいだした言語げんご完全かんぜん身体しんたい使つかってすべりしたのいい発音はつおんができるようにみ、それをダンサーにつたえ、習得しゅうとくしてもらいます。最終さいしゅうてきには、その“はじめてにする身体しんたい言語げんご”をお客様きゃくさまには共通きょうつう言語げんごのようにつたえていきます。だからこそ、目線めせんや、ダンサーがえている世界せかい指先ゆびさきさきにあるもの、永遠えいえん限度げんどなく必要ひつようとなる細部さいぶうごきにたいする“動機どうき”として、そしてつぎうごきにつなげるリンクとして、演出えんしゅつしていくうえでこまかく提示ていじしますし、指摘してきをします。

「Traum-夢の中の夢-」の稽古の様子。

「Traum-ゆめなかゆめ-」の稽古けいこ様子ようす

「Traum-夢の中の夢-」の稽古の様子。

「Traum-ゆめなかゆめ-」の稽古けいこ様子ようす

ゆめ旅人たびびと”がさきは…

──稽古けいこでは、うごきの演出えんしゅつというより、どのように感情かんじょううごかしていくかという、感情かんじょう演出えんしゅつについてたびたびもりさんが発言はつげんされているのも印象いんしょうてきでした。

そうですね、やっぱりうごきって無機質むきしつなところからはまれないもので、うごきの動機どうきかれている状況じょうきょう環境かんきょう、そのなかすす時間じかん、そしてうご感情かんじょう変化へんかする感情かんじょうのスピードと温度おんど、そして音楽おんがく緩急かんきゅう音色ねいろ温度おんどなど、表現ひょうげんするにいたるさまざまな要素ようそからまれます。そのためにも、ぼく自身じしん提示ていじするりや表現ひょうげん根底こんていにあるものはなになのか? ぼく自身じしんなにて、なにかんじ、動機どうきとしたうえで身体しんたいからまれたうごきなのか? そこをおおまかでもいいので、つかんでもらわなければ、理解りかいしてもらわなければいけない。いくらうつくしいうごきであっても、細部さいぶまでこだわったとしても、根底こんていにあるものが反映はんえいされていなければ、ぼく作品さくひんでは意味いみちません。どういううごきが、なぜきているのかという感情かんじょうをダンサーに理解りかいしてもらう。感情かんじょう起伏きふく緩急かんきゅう、それらは音楽おんがくがそうかたっているからこそうごいた感情かんじょうであり、つくされる状況じょうきょう環境かんきょうであるということ。そういった表現ひょうげんは「言葉ことばのないダンス」と音楽おんがくでしかできないものだとおもいます。るお客様きゃくさまがわ感覚かんかくするどさや繊細せんさいさがわれる側面そくめんもあって、そういったところが「ダンスはむずかしい」とわれてしまう部分ぶぶんかもしれません。

ぼくは、ダンスを身体しんたい表現ひょうげんよりも、振付ふりつけやダンサー自身じしん表現ひょうげん手段しゅだんの1つとしてかんがえているので、使つかっている方法ほうほうがいわゆるダンスとわれる舞踊ぶようであるだけで、総合そうごうてきなものにしたい。うごきの意味いみがわからなくてもそのうらにあるなにかしらの感情かんじょうつたわるほうが大事だいじです。舞台ぶたいじょうでの全体ぜんたいてきなムード、空気くうきかん、お客様きゃくさま感覚かんかくてきかんじるものが重要じゅうようかんがえています。

森優貴

もり優貴ゆうき

──総合そうごうてきというてんでは、音楽おんがくうごきの共鳴きょうめい興味深きょうみぶかかったです。音楽おんがくなしでうごきの確認かくにんをしているときは感情かんじょうのうねりでおどっているようにえた部分ぶぶんが、音楽おんがくはいった途端とたん旋律せんりつ可視かししているようにえました。

音楽おんがく可視かしということは、個人こじんてき絶対ぜったい重要じゅうようです。可視かしすることをつね目標もくひょうにするというわけではないのですが、やはり音楽おんがくありきで作品さくひんがっていくのがぼく自身じしん創作そうさく方法ほうほうなので、結果けっかてき音楽おんがく可視かしになっている……ということでしょうか。そこには、ぼく自身じしん主観しゅかんてき音楽おんがくとらかたもあり、かならずしもこえてくるおとばかりでなく、かげかくれているリズムやあいだなども可視かしします。またその手段しゅだんも、うごきでの表現ひょうげんだけでなく、舞台ぶたい美術びじゅつ転換てんかんや、照明しょうめい演出えんしゅつのスピードをとおしてあらわ場合ばあいもあります。すべての舞台ぶたい要素ようそもちいて音楽おんがく可視かしすることで、そこにすきのない世界せかい構築こうちくされます。

──「Traum-ゆめなかゆめ-」ではフィリップ・グラスの楽曲がっきょく使つかうことはかされていますが、最終さいしゅうてきにほかの作曲さっきょくきょくはいってきますか?

はい。ショスタコーヴィチや、ヴォイチェフ・キラールなどもはいってきます。

──ちなみにもりさんは普段ふだん、どのように音楽おんがくれていますか?

自分じぶんなかで“んでいる”音楽おんがくがあります。また振付ふりつけによっていろいろなかんがえがあるとはおもいますが、ぼく自身じしんまえ使用しようしたことがあるきょくでもあまりにせず使つかいます。というのも、作品さくひんちがってくればまったくちがうものがえてくるし、以前いぜんよりもさらに音楽おんがくへの理解りかいしているので。ただ、さが音楽おんがくのスタイルはわりおなじではあって、大切たいせつなのはそのきょくいたときにえがきたい風景ふうけいまぶたおくえるかえないか、というてんです。楽曲がっきょくをききこんでききこんでえてくる場合ばあいもありますが、なんいて、なん主観しゅかんてき選別せんべつをするということしません。てくださるお客様きゃくさまは1しかかない、1しかにしないからです。それよりも本能ほんのうてきに、感覚かんかくてきぼく自身じしんうごかされるかどうか。もちろん、選曲せんきょくしてから表現ひょうげんしたいことを見出みいだすまではなんなんかえき、じ、暗闇くらやみもぐり、しぼすように構成こうせい演出えんしゅつっていきますが。大抵たいてい最初さいしょすうびょういてピンとくるかどうかはわかるので、そういったてんではあまりまよわず選曲せんきょくしています。

おどりについてもおなじです。もちろん、なんなんもリハーサルをかえしつげてしつこくきびしく追求ついきゅうはしますが、それ以上いじょうのものを舞台ぶたいじょう存在そんざいさせ、お客様きゃくさま総合そうごうてき舞台ぶたいじょうでの世界せかい住人じゅうにんになっていただけるようさそみ、かんじていただくには「いつまでもわりなく追求ついきゅうつづけられる」自己じこちゅうてきなエゴはどこかでてなければいけない。そうでなく、感覚かんかくてきにどうか。

「Traum-夢の中の夢-」の稽古の様子。

「Traum-ゆめなかゆめ-」の稽古けいこ様子ようす

「Traum-夢の中の夢-」の稽古の様子。

「Traum-ゆめなかゆめ-」の稽古けいこ様子ようす

──見学けんがくさせていただいたシーンは作品さくひん冒頭ぼうとうあたりだったかとおもいますが、1くみ男女だんじょじくとなり、あいだにコミカルなシーンもはさみながら、2人ふたり姿すがた対照たいしょうてきえがかれました。“ゆめ”というテーマにかって、こののちどのように展開てんかいしていくのでしょうか?

どういうふうに展開てんかいしていくんでしょうね……。今回こんかい作品さくひんでは、エドガー・アラン・ポーを“ゆめ旅人たびびと”としてとらえる、ということが着想ちゃくそうとなっています。といっても作中さくちゅう登場とうじょうするおとこがイコール、エドガー・アラン・ポーというわけではないんですけれども、でもポーのざまという部分ぶぶん意識いしきしています。ポーは幼少ようしょうから不幸ふこう不条理ふじょうり経験けいけんをたくさんしています。その状況じょうきょうなか文学ぶんがく自分じぶん確立かくりつしようとしますが、40さいのときにわかくしてげるわけです。かれくなるとし発表はっぴょうしたのがこので、これは想像そうぞうでしかありませんが、ポーは自分じぶんちかづいていることを予感よかんしていたのかなと。そのように、登場とうじょう人物じんぶつおとこ現実げんじつからゆめイコール虚構きょこうくちはいっていき、ゆめなか不条理ふじょうり経験けいけん体験たいけん遭遇そうぐうする。しかしいてみれば、それはわたしたちがきている現代げんだい日常にちじょうなかにする状況じょうきょう環境かんきょうさえも「せられているもの」かもれず、わたしたちも虚構きょこうなかにあるとときかんじます。

げん段階だんかいで、作品さくひん結末けつまつをどこにっていきたいか、自分じぶんなかではまってはいるのですが、それがただしいかどうかはこれからめていきます。とりあえず6がつ前半ぜんはん稽古けいこである程度ていど作品さくひん輪郭りんかくえてきたので、8がつからの後半こうはん稽古けいこではラストにけてたたんでいかないと、とおもっているところです。