考古学者兼彫刻家のオスカー・ニルソン氏によって復元された14歳の「アンパトの氷の乙女」。生贄(いけにえ)となった少女の胸像は、現代の伝統織物職人によってつくられたローブをまとっている。山頂での最後の日に着ていたものとよく似た衣装だ。(PHOTOGRAPH BY DAGMARA SOCHA)
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500年以上前、14歳の少女がアンデスの山頂に連れて行かれ、神々に生贄(いけにえ)としてささげられた。
さまざまな供物と一緒に埋葬された少女の遺体は、時間の経過とともに自然にミイラ化し、髪や爪、人生最後の日に着ていたカラフルなローブが保存された。しかし、ある時点で、少女の顔は風雨にさらされるようになり、長年の間、日照りと降雪を経るうちに、その顔立ちは徐々に失われていった。(参考記事:「インカ帝国の拡大はミイラのしわざ!?」)
そして今、念入りな考古学的分析と、法医学に基づく復顔技術により、長く失われていた少女の顔が復元され、胸像が作られた。「アンパトの氷の乙女」として知られるインカの少女の印象的な像は、ペルーの博物館の新たな主役であり、500年前のアンデスで行われていた人身御供の風習を理解しようとする努力の一環でもある。
インカの山で生贄としてささげられた子どもたち
ナショナル ジオグラフィックのエクスプローラー(探求者)であるヨハン・ラインハルト氏は、1995年の調査中、標高6288メートルのアンパト山の頂上で少女のミイラに遭遇したとき、何か驚異的なものを発見したと確信した。
「最初は大きな織物の束に見えました」とラインハルト氏は振り返る。すると、布のひだの間から干からびた顔が見えた。インカの謎の儀式「カパコチャ」の若い犠牲者だった。
「最初は大きな織物の束に見えました」。ナショナル ジオグラフィックのエクスプローラーであるヨハン・ラインハルト氏は、1995年にペルーのアンパト山で発見したミイラについてこう振り返る。写真は発見の瞬間で、ラインハルト氏の登山パートナーであるミゲル・サラテがミイラを持っている。(PHOTOGRAPH BY J. REINHARD)
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カパコチャでは、自然災害が起きたときやインカ帝国の辺境で国力を強化する際、あるいは、単に神々を喜ばせるために、子どもや動物を神々にささげていた。この儀式はインカ帝国を維持するうえで重要な役割を果たした。
美貌と完璧な肉体をもっていることを理由に選ばれたと思われる子どもたちのために、祝宴やパレードが行われた。生贄として選ばれることは、子どもの家族やコミュニティーにとって大きな名誉だったと研究者は考えている。
しかし、カパコチャに関する情報のほとんどは間接的なものだと、ポーランド、ワルシャワ大学アンデス研究センターの考古学者で、カパコチャを研究しているダグマラ・ソチャ氏は指摘する。氏は、氷の乙女の顔の復元を依頼した人物でもある。「この儀式を実際に見たヨーロッパの入植者はいません」とソチャ氏は説明する。
このように歴史の記録には空白があるものの、アンパトをはじめとする山々でインカの子どもが十何人も発見されていることは、どのような儀式が行われていたかの重要な証拠となる。
神ごとに慣習の違いがあるのか、生贄のささげ方はさまざまだった。生き埋めにされたり、絞殺されたりした子どももいれば、心臓を取り出された子どももいた。氷の乙女は後頭部への鈍器による一撃で命を絶たれた。
生贄になった子ども(左)とリャマの子(右)。西暦1450年頃、ペルーの北部沿岸地域で140人以上の子どもと200頭以上のリャマが生贄として捧げられた。(PHOTOGRAPH BY GABRIEL PRIETO)
次ページ:発見直後のミイラの写真も、最後の数週間は薬物を摂取
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