【ふりがなを つける】(powered by
ひらがなめがね)
(1)こっちを巻きこまないでほしい
先日、入管の収容施設の前で30人ほどで抗議行動をおこなっていたときのこと。
近隣の学校の学生さんたちが苦情を言ってきた。勉強しているところに私たちの抗議の声がうるさくて集中できないのだという。私たちは、拡声器を使って入管の7階と8階の収容場に声が届くように声をあげていた。収容されている人たちからの「ありがとう」「助けてください」とさけぶ声も、聞こえていた。学生さんたちが言うには、自分たちは近く国家試験をひかえているのだけれども、私たちの抗議の声がけっこう声がひびいてしまっており、勉強のさまたげになっているのだということだった。
公共の場でおこなわれる抗議というのは、他人の生活に介入することになることもしばしばで、その介入のしかたはある意味で暴力的でもありうる。自室や教室などで勉強している人にとって抗議の声はジャマな騒音でしかないだろうし、デモ行進はこれもまた迷惑な交通渋滞をひきおこすことがある。
抗議をジャマだ迷惑だと言う側からは、「時と場所をえらんでやればいいじゃないか」と言われることがある。でも、時と場所を選んでいられないことだってある。路上で倒れてうごけなくなっている人は、通行人に助けをもとめるのに時と場所をえらんでる余裕はない。自分以外のだれかが助けを必要としているという場合でもおなじだ。危機にひんしているだれかを自分ひとりでは助けられないときは、ほかのだれかに呼びかけて手をかしてもらうしかない。それも時と場所をえらんではいられない。
私たちが抗議をしているのも、それぐらいせっぱつぱった事情があってのことだ。人の生き死ににかかわることで、声をあげている。
抗議の声や行動がうっとおしく感じる人は、それぞれの生活があり事情があってそう感じているのだということは、わかっている。国家試験はその人にとっての一大事だろうし、重要な商談があって渋滞にはまってる場合じゃないということだってあるだろう。でも、抗議する者にとって、そんなのかまってられないということだってある。
そこにはある種の敵対性があるのだということは否定できない。敵対性は、抗議する者とその抗議しようとする相手とのあいだにあるだけではない。抗議者とこれをジャマに思う通行人や近隣住民とのあいだにも、それはたしかにある。
抗議の声をやかましく感じ、デモを迷惑だと言う人は、試験勉強したり商談にむかおうとしたりしている自分をそこに「巻きこまないでほしい」と思うだろう。そう思うのは、その抗議の内容が自分と無関係だと考えるからだ。そういう人は抗議者に「ヨソでやってくれよ」と言うだろう。でも、この社会の差別や政治の作為・不作為によってだれかが命や生活を破壊されようとしているとき、それと無関係な第三者なんてものは存在しない。だから、抗議者は公共の場所、通行する人たちや職場や学校がそこにある人たちの視界や耳にいやおうなしに入ってくる場所に立ち声をあげる。
(2)だまらせたい、耳をふさぎたい
さて、国家試験の勉強をしているところに、前の道路で拡声器をつかった抗議行動をされたら、うるさいと感じるのは当然でもある。しかし、抗議の声がうるさく感じられるのは、かならずしもその声の物理的な大きさだけに由来するわけではない。
自分自身がまさに抗議によって問われているという自覚が多少なりともある人は、それが自分とはまったく無関係だと思って聞いている人以上に抗議の声をうるさく感じることがあるだろう。たとえば、女性があげる性差別への抗議の声を男性はしばしばうるさく粗暴なものとしてあつかう。実際、女性による抗議の声は、男性によってヒステリックなもの、論理性に欠けた感情的なものとして表象されてきた。
自分自身のあり方が問われているということ、自身があたりまえであると感じてきたことが男性という属性に付与された不当な特権であるということ。そのことが抗議によって自身につきつけられている。そう自覚しつつも、その認識を否認しようとする身ぶりが、抗議の声をヒステリックなものと決めつける男性のふるまいにほかならない。
他者の声にヒステリーという意味づけをするところには、ひとつには、うるさいから相手をだまらせたいというおもわくがある。と同時に、そこには相手の抗議・批判をまともにとりあう必要のないものとして矮小化しようという意思がはたらいている。相手の言葉を矮小化したいのは、それによって自分が問われているということ、その批判が必ずしもマトはずれなものではないということを、多少なりとも理解しているからだ。無視できないということがわかっているからこそ、それを矮小化しようとするのである。相手の言葉をとるにたらないものと矮小化するのは、相手をだまらせるためというよりも、自分(たち)の耳をふさいで相手の声を聞こえなくしようとする身ぶりである。
声がヒステリックに聞こえるのは、聞いている側がそう意味づけているからであって、抗議者の声にそう聞こえる原因があると考えるべきではない。また、抗議の声をヒステリックなものとしてあつかおうとするのは、それを向けられた者がこれを拒絶しようとしているということであって、それは同時に声が届いているということのあかしでもある。抗議の声が自分にとって無視できないものだと受け取っているからこそ、これをヒステリックな声であるとして拒絶しようとするのだ。
だから、抗議をおこなう側にとって、相手がうるさく感じないように、自分の声がヒステリックなものと受け取られないようにするのは、意味がないし、本末転倒ですらある。
(3)小さな声を、聴く力
岸田首相は、昨年9月の自民党総裁選で「聞く力」が自身のアピール・ポイントだと語っていたようだ。また、連立与党の公明党は、2019年から「小さな声を、聴く力」というキャッチコピーをつけたポスターを街頭などに貼りだしている。
しかし、権力をもつ者がアピールする「聞く力」などというものを真に受けるべきではない。どの声を聞き、また、どの声を聞かずに無視するのか。それを思うがままに選択できるということが、権力をもつということだからだ。「小さな声を、聴く」などと言っている政治家も、こっちがほんとうに小さな声でうったえたら聞こえないふりをしてくるかもしれない。しかたなく大きな声を出したら「うるさい」と言われて聞いてくれないということもある。聞きたい声だけを聞き、聞きたくない声は聞こえなかったことにする。その選択ができるということが権力なのだ。
これは首相や与党政治家といった、多数の人間に政治権力を行使できる立場にある者たちだけに関係する話ではない。上司と部下、教師と学生といった非対称な権力関係が生じる場面すべてにあてはまる話である。2人の人間がいて、そこに権力差があるとき、権力の小さい者は相手の声を無視するということがむずかしい。しかし、権力の大きい者にとっては、相手の声を聞いたり聞こえなかったふりをしたりという選択が容易にできる。
権力の大きい者は、相手が小声でささやくのに対し、聞こえていないふりができる。相手が大声をだせば、さすがに聞こえていないふりをするのはいくらか難しくはなるだろう。しかし、その場合でも権力の大きい者は、相手の声は聞くにあたいしないのだということを言いたてることができる。あなたのい方はヒステリックだから、粗暴だから、私を傷つけるから、だから聞く必要はないのだ、私が耳をかたむけないのはあなたに原因があるのだ、と。聞いてほしければ、感情的にならずに冷静に話してくれ、と。トーン・ポリシングというやつだ。
抗議の声をあげようとする者は、こうしたトーン・ポリシングに耳をかす必要はない。自分の声を相手が聞こうとしないのは、それがヒステリックだからではない。粗暴だからではない。冷静さを欠いているからではない。礼儀にかなっていないからでもない。そこに権力差があるからだ。相手が自分の声を無視できる権力をもっているからだ。
(4)いきり立ったヒステリックな人々
脚本家の太田愛氏のブログ記事が話題になっている。
相棒20元日SPについて(視聴を終えた方々へ) | 脚本家/小説家・太田愛のブログ
この記事では、元日に放送されたテレビ朝日のドラマ『相棒』に、太田氏の脚本にはなかったシーンが不本意なかたちで入っていたということが、以下のように述べられている。
右京さんと亘さんが、鉄道会社の子会社であるデイリーハピネス本社で、プラカードを掲げた人々に取り囲まれるというシーンは脚本では存在しませんでした。
あの場面は、デイリーハピネス本社の男性平社員二名が、駅売店の店員さんたちが裁判に訴えた経緯を、思いを込めて語るシーンでした。現実にもよくあることですが、デイリーハピネスは親会社の鉄道会社の天下り先で、幹部職員は役員として五十代で入社し、三、四年で再び退職金を得て辞めていく。その一方で、ワンオペで水分を取るのもひかえて働き、それでもいつも笑顔で「いってらっしゃい」と言ってくれる駅売店のおばさんたちは、非正規社員というだけで、正社員と同じ仕事をしても基本給は低いまま、退職金もゼロ。しかも店員の大半が非正規社員という状況の中、子会社の平社員達も、裁判に踏み切った店舗のおばさんたちに肩入れし、大いに応援しているという場面でした。
同一労働をする被雇用者の間に不合理なほどの待遇の格差があってはならないという法律が出来ても、会社に勤めながら声を上げるのは大変に勇気がいることです。また、一日中働いてくたくたな上に裁判となると、さらに大きな時間と労力を割かれます。ですが、自分たちと次の世代の非正規雇用者のために、なんとか、か細いながらも声をあげようとしている人々がおり、それを支えようとしている人々がいます。そのような現実を数々のルポルタージュを読み、当事者の方々のお話を伺いながら執筆しましたので、訴訟を起こした当事者である非正規の店舗のおばさんたちが、あのようにいきり立ったヒステリックな人々として描かれるとは思ってもいませんでした。同時に、今、苦しい立場で闘っておられる方々を傷つけたのではないかと思うと、とても申し訳なく思います。どのような場においても、社会の中で声を上げていく人々に冷笑や揶揄の目が向けられないようにと願います。
私はこの放送を見ていないのだけれど、声をあげる者、権力にあらがう者を粗暴な存在としておとしめる表現は、この国ではありふれている。「いきり立ったヒステリックな人々として描かれる」のは、たとえばフェミニズムをおとしめるのに定番のイメージとなっている。太田氏のブログは、不公正や差別に立ち向かい声をあげるという行為に対し悪意をもってことさら否定的に描写しようとするドラマ制作者のありようを記録し、これを問題化したという点で、貴重なものだと思う。
(5)ヒステリックでなにがわるい?
さて、太田氏は「今、苦しい立場で闘っておられる方々を傷つけたのではないかと思うと、とても申し訳なく思います」と書き、また「社会の中で声を上げていく人々に冷笑や揶揄の目が向けられないようにと願います」と書いている。こうした発言は、不公正や差別にあらがい声をあげていこうとする人びとに寄り添っていこうとするものなのだとは思う。
でも、そうやって寄り添おうとしたり、あるいはともに声をあげようとしたりするときに、「いきり立ったヒステリックな人々」とみられ「冷笑や揶揄の目」を向けられながら、それでも声をあげてきた先人たちへのリスペクトはもち続けていたい。これは私自身のこととしてそう思っている。
声をあげるときに、相手からそれがヒステリックな声と受け取られないように、いきり立った人たちと自分が同類だとみられないように、あるいは世間からスマートにみられるようにと自己規制したくなったら、それはまちがった方向に進みつつある兆候である。それは、世間の多数者や権力のある者に自分がみばえよくうつるようにありたいという誘惑であって、声のもつ力をそぐものである。