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『憲法改正とは何か』――著者の独り言/阿川尚之 - SYNODOS

2016.07.27

憲法けんぽう改正かいせいとはなにか』――著者ちょしゃひとごと

阿川あがわ尚之なおゆき 米国べいこく憲法けんぽう専攻せんこう

国際こくさい #改憲かいけん#憲法けんぽう改正かいせいとはなに

アメリカ憲法けんぽう日本国にっぽんこく憲法けんぽう改正かいせい問題もんだい

2013ねんがつまつのある慶應けいおう三田みたキャンパスで偶然ぐうぜんった本書ほんしょ編集へんしゅう担当たんとうしゃからやや唐突とうとつに、「憲法けんぽう改正かいせいについてのほんきませんか」とこえをかけられた。せっかくのもうだったけれども最初さいしょことわろうとおもったことは、本書ほんしょのあとがきにしるした。わたし日本国にっぽんこく憲法けんぽう系統けいとうだって勉強べんきょうしたことがないし、当時とうじ活発かっぱつ議論ぎろんされていた改正かいせい問題もんだいくびをつっこみたくない。そうべるわたしに、そのさんざんお世話せわになる同氏どうしは、「いやいやアメリカ憲法けんぽう改正かいせいについてのほんです」と説明せつめいし、「まあできれば、多少たしょう日本国にっぽんこく憲法けんぽう改正かいせいについてもれてもらえればとはおもいますけれど」とくわえた。

あれから3ねんち、ようやくこのほんて、なぜこの仕事しごと結局けっきょくけたのだろうとあらためておもう。ひとつには、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく憲法けんぽう制定せいていされて以来いらい今日きょうまでに27かい改正かいせいされたその歴史れきし自分じぶん自身じしんりたいという、純粋じゅんすい知的ちてき好奇心こうきしんがあった。憲法けんぽう改正かいせい歴史れきしけば、わたしがここ20ねんほどすこしずつ勉強べんきょうしてきたアメリカ憲法けんぽうを、またべつ観点かんてんからられるかもしれない。

実際じっさい調しらべはじめたらおもしろい。個々ここ改正かいせいにそれぞれ背景はいけいがあり、理由りゆうがあり、物語ものがたりがある。また実現じつげんしなかった改正かいせいあんひとひとつが、アメリカじん多様たようなものの見方みかたかんがかたじょう興味深きょうみぶかい。その具体ぐたいてき内容ないようをこのほん時代じだいじゅんきたいとおもったけれども、あたえられたページすうではとてもおさまらず、内容ないようこまかすぎるので、やめた。したがって、本書ほんしょアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく改正かいせい通史つうしにはなっていない。機会きかいがあればまたべつのかたちで、まとめてみたいとおもう。

もうひとつ、日本国にっぽんこく憲法けんぽう制定せいてい過程かてい歴史れきしについて、いろいろ素朴そぼく疑問ぎもんいていた。とくにここすうねんくに活発かっぱつおこなわれてきた改憲かいけんかんする議論ぎろんへの、すくなからぬ違和感いわかんがあった。日本にっぽん憲法けんぽうについてほとんどなにらないままアメリカのロースクールで合衆国がっしゅうこく憲法けんぽうまなんだわたしは、日本にっぽん憲法けんぽうについてかんがえるとき、どうしてもアメリカ憲法けんぽう観点かんてんからがちである。だからこのくに憲法けんぽうについて無責任むせきにん発言はつげんはしないようにしているのだけれども、わがくに憲法けんぽうやその改正かいせいについて論争ろんそうきるたびに、どうしてもアメリカと比較ひかくしてしまう。

だい79じょう規定きていにしたがってそう選挙せんきょごとに国民こくみん審査しんさおこなわれているのに、なぜ一人ひとり最高裁さいこうさい判事はんじ罷免ひめんされていないのか。だい81じょう規定きていがあるのに、最高裁さいこうさい司法しほう審査しんさとく政治せいじてき影響えいきょうのある司法しほう審査しんさおこなうことに、どうしてこれほど慎重しんちょうなのか。おおやけ支配しはいぞくしない教育きょういく事業じぎょうへの公金こうきん支出ししゅつ禁止きんししているだい89じょう規定きていがあるにもかかわらず、なにゆえ私学しがく助成じょせい問題もんだいにされないないのか。

なによりも改正かいせい手続てつづきにかんするだい96じょう規定きていがあるのに、なぜ日本国にっぽんこく憲法けんぽういち改正かいせいされていないのか。よいわるいではなく、ただ不思議ふしぎおもってきた。あるアメリカの友人ゆうじんだい79じょうについて説明せつめいし、まったく機能きのうしていないと説明せつめいしたら、「じゃあ改正かいせいすればいいじゃあないか、なぜ改正かいせいしないんだ」とわれ、返答へんとうきゅうしたことがある。

じつは20ねんほどまえ訪問ほうもん研究けんきゅういんとして最初さいしょせきいたヴァージニア・ロースクールで、すうねんにわたり日本国にっぽんこく憲法けんぽう制定せいていへのアメリカの影響えいきょうについておしえた。日本にっぽん憲法けんぽうそのものについて専門せんもんてき知識ちしきはないが、このテーマならアメリカ憲法けんぽうとからめてなんとかやれるかもしれないとおもい、けた。慶應けいおう学部がくぶせい時代じだい日本国にっぽんこく憲法けんぽう制定せいてい当時とうじ国際こくさい情勢じょうせい関係かんけいについて、一本いっぽん論文ろんぶんいたこともあった。

ロースクールでおしえる準備じゅんびをする過程かていおどろいたのは、日本国にっぽんこく憲法けんぽう制定せいていへのアメリカ憲法けんぽうとその歴史れきし影響えいきょう想像そうぞう以上いじょうおおきいことである。日本国にっぽんこく憲法けんぽう制定せいてい解釈かいしゃく運用うんようにおいてアメリカ憲法けんぽうとはずいぶんことなるみちあゆんできたけれども、その出発しゅっぱつてんにおいておおくをいでいる。もしそうであれば、そもそもアメリカの憲法けんぽうにおいて憲法けんぽう改正かいせいについてどのようにかんがえ、仕組しくみをつくり、実行じっこうしてきたのか。依頼いらいおうじてほんいたら、日本にっぽん憲法けんぽう改正かいせいについてかんが理解りかいするじょうでも参考さんこうになるかもしれない。日本国にっぽんこく憲法けんぽう改正かいせいについてはさわりたくないといながら、ぼんやりとそうおもっていた。

憲法けんぽう改正かいせい国民こくみん基本きほんてき権利けんり

もっとも本書ほんしょきはじめたとき、憲法けんぽう改正かいせいとはなにかについて特定とくてい結論けつろんみちびそうなどとはおもっていなかった。わったいまも、特定とくてい結論けつろんたっしたわけではない。ただ3年間ねんかんいそがしいなかでくるしみながらき、きながらかんがえて調しらべて、憲法けんぽう改正かいせいについて自分じぶん自身じしんあらたな発見はっけんをし、理解りかいた。

たとえば憲法けんぽう制定せいてい憲法けんぽう改正かいせいには、おおくの共通きょうつうてんがある。どんな憲法けんぽうなにもないところからまれるわけではない。すべての憲法けんぽう制定せいていがそれまでのくにのかたち(文書ぶんしょにされていてもいなくても)をえるという意味いみ改憲かいけんであり、ぎゃくにすべての改憲かいけんがそれまでの憲法けんぽう内容ないよう変更へんこうする、あるいは内容ないよう追加ついかするという意味いみで、憲法けんぽう部分ぶぶんてき制定せいていである。

実際じっさいアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく憲法けんぽう制定せいてい形式けいしきじょうそれまでの連合れんごう規約きやく改正かいせいであったし、日本国にっぽんこく憲法けんぽう大日本帝国だいにっぽんていこく憲法けんぽう改正かいせいのかたちをとった。ただし変化へんか内容ないよう根本こんぽんてきであったので、しん憲法けんぽう制定せいていんだ。憲法けんぽう制定せいてい憲法けんぽう改正かいせい密接みっせつ不可分ふかぶんなものであり、はっきり分離ぶんりできるものではない。

また国民こくみん憲法けんぽう制定せいていする権利けんりとともに、憲法けんぽう改正かいせいする権利けんりをもつ。上述じょうじゅつのとおりすべての憲法けんぽうは、もともとどう憲法けんぽう制定せいてい以前いぜん存在そんざいしたなんらかの憲法けんぽうくにのかたち)をえたものである。過去かこのこうした憲法けんぽう変更へんこう人々ひとびと権利けんり行使こうし結果けっかとして正当せいとうされるのであれば、将来しょうらいさらに変更へんこうする権利けんりもあるはずだ。

そもそもロックがとなえた抵抗ていこうけん思想しそうからおおきな影響えいきょうけたアメリカ独立どくりつ宣言せんげんは、「いかなる政府せいふでもその目的もくてきはんするときには、人々ひとびとはその政府せいふ変更へんこうあるいは廃止はいしし、あたらしい政府せいふ樹立じゅりつする権利けんりゆうしている」とうたった。きゅう北米ほくべいえい植民しょくみん人々ひとびとはこの権利けんり行使こうしして独立どくりつ達成たっせいし、その延長えんちょうとして憲法けんぽう制定せいていして合衆国がっしゅうこく創設そうせつした。「いかなる政府せいふでも」とある以上いじょう、この抵抗ていこうけんしん政府せいふにもおよぶ。

ただし現在げんざい政府せいふになにか問題もんだいがあるたびに、一々いちいち革命かくめいうったえて「政府せいふ変更へんこうし」、政府せいふたおして「あたらしい政府せいふ樹立じゅりつする」わけにはいかない。それでは国家こっか統一とういつ安定あんていがはかれない。そうであれば、憲法けんぽう改正かいせいによってすこしずつくにのかたちをよくしていくのがのぞましい。それは抵抗ていこうけん延長えんちょうにある人々ひとびと権利けんりであり、また暴力ぼうりょくうったえずにくにのかたちをえていく智恵ちえである。イギリスの思想家しそうかバークがフランス革命かくめい徹底的てっていてき批判ひはんしながらも、「変更へんこうのための手段しゅだんをもたない国家こっかは、自己じこ保存ほぞんする手段しゅだんをもたない」とべたのは、このことだろう。

アメリカ国民こくみんはこの権利けんりを27かい行使こうししてすこしずつくにのかたちをえてきたけれども、日本にっぽん国民こくみんはまだ1行使こうししていない。

ただし憲法けんぽう改正かいせい国民こくみん権利けんりであるとしても、むやみに行使こうしすべきものではない。憲法けんぽうとその改正かいせいのあいだにはあきらかに緊張きんちょう関係かんけいがある。憲法けんぽう国家こっか基本きほんてき枠組わくぐみとしての性格せいかくゆうするものであるから、改正かいせい手軽てがるになされては憲法けんぽう全体ぜんたい構造こうぞう微妙びみょうなバランスがくずれ、正統せいとうせいうしなわれてしまう。連邦れんぽう枠組わくぐみ強固きょうこであればこそ、憲法けんぽう最高さいこう法規ほうきであり基本きほんほうなのである。

したがって、アメリカでも日本にっぽんでも憲法けんぽう改正かいせい法律ほうりつ改正かいせいくらべて、そう簡単かんたんにできない仕組しくみになっている。基本きほんほうである憲法けんぽう安易あんい改正かいせいされてはならない。しかしそれでもなお憲法けんぽう改正かいせい国民こくみん基本きほんてき権利けんりであり、現実げんじつてきなオプションである。この矛盾むじゅんするふたつの命題めいだいのあいだの絶妙ぜつみょうなバランスをたもつことが、憲法けんぽうにもとづく統治とうちにとってなにより重要じゅうようである。

憲法けんぽうまもることは、それ自体じたい究極きゅうきょく目標もくひょうではない

さらに憲法けんぽう規定きていする正式せいしき改正かいせい手続てつづきにしたがわなくても、憲法けんぽう実際じっさい変化へんかしてきた。アメリカの憲法けんぽうはそのことをしめしている。そもそも憲法けんぽう文書ぶんしょのかたちを言葉ことば不完全ふかんぜんなものであるかぎり、憲法けんぽう適用てきようするには解釈かいしゃく必要ひつようとする。正式せいしき手続てつづきによる改正かいせいむずかしいように設計せっけいされた憲法けんぽうのもとで、アメリカの立法府りっぽうふ行政府ぎょうせいふ司法しほう独自どくじ解釈かいしゃくにもとづいてそれぞれ仕事しごとをしてきた。解釈かいしゃくをめぐってはげしい論争ろんそうがあり、訴訟そしょうがあり、連邦れんぽう最高裁さいこうさい判断はんだんしめした。

こうした過程かていて、特定とくてい解釈かいしゃくが、あるいは解釈かいしゃくかさねが、憲法けんぽう内容ないようそのものを変化へんかさせ、やがて実質じっしつてき改憲かいけんにまでいたるのは当然とうぜん帰結きけつであった。その是非ぜひについては、憲法けんぽうがくじょうさまざまな意見いけんがある。しかし事実じじつとして、正式せいしき手続てつづきにしたがわなくても憲法けんぽう解釈かいしゃくによっておおきくわってきた。

ただし解釈かいしゃくによる憲法けんぽう変化へんかたん技術ぎじゅつてきなものにまらず、改憲かいけん匹敵ひってきする内容ないよう変化へんかをともなう場合ばあい、それが定着ていちゃくするかどうかは一概いちがいえない。あるしゅ変化へんか正式せいしき改正かいせいでなければできない。一方いっぽうあるしゅ変化へんかは、正式せいしき手続てつづきによる改正かいせいなしでも実現じつげんする。たとえば連邦れんぽう行政府ぎょうせいふ権限けんげん拡大かくだいは、1930年代ねんだい後半こうはん通商つうしょう条項じょうこう解釈かいしゃくをめぐるはげしい憲法けんぽう論争ろんそうってからは、ほとんど問題もんだいにされなくなった。正式せいしき改正かいせいなしに、憲法けんぽう史上しじょうもっともおおきな内容ないよう変化へんかきた。憲法けんぽうわるときはわるのだとしか、いようがない。

さらに、アメリカでは国難こくなんべるような危機ききにおいて、とく国家こっか安全あんぜん保障ほしょうかかわる情勢じょうせい、たとえば南北戦争なんぼくせんそうさいなどには、憲法けんぽうまもられたとはいがたい事例じれいさえあった。もちろんいかなる危機きき戦争せんそうにおいても、大統領だいとうりょう憲法けんぽうのしばりから自由じゆうではない。その権限けんげん無制限むせいげんではない。しかしそうした事態じたい直面ちょくめんしたとき、大統領だいとうりょう憲法けんぽう遵守じゅんしゅするという憲法けんぽうじょう義務ぎむと、くに平和へいわ維持いじ国民こくみん安全あんぜんまもるという義務ぎむ、そのふたつのあいだで板挟いたばさみになる。

憲法けんぽうまもるのは、それ自体じたい究極きゅうきょく目標もくひょうではない。憲法けんぽうまもることによって国家こっか独立どくりつ国民こくみん安全あんぜん繁栄はんえい自由じゆう確保かくほするのが目標もくひょうである。であれば字句じくどおりに実定法じっていほうとしての憲法けんぽうまもっていては、本当ほんとう目標もくひょう達成たっせいできない。そう大統領だいとうりょう判断はんだんしたとき、大統領だいとうりょうがあえて実質じっしつてき憲法けんぽう無視むしすることがありうる。それはけっしてゆるされるべきでないのか、一時いちじてきには仕方しかたないとして許容きょようすべきか。とてもむずかしい。

そして憲法けんぽう改正かいせいする、あるいは解釈かいしゃくによって実質じっしつてき改憲かいけんおこなうのは、おおくの場合ばあいたん憲法けんぽう文言もんごん問題もんだいではない。それは究極きゅうきょくてきにどのようなくにのかたちが国民こくみんにとって必要ひつようであり、のぞましいか、あるべきかという、おおきな課題かだいへのみである。そして憲法けんぽう解釈かいしゃくとその現実げんじつ問題もんだいへの適用てきよう専門せんもんである裁判官さいばんかん学者がくしゃ議会ぎかい行政府ぎょうせいふのロイヤーがしゅとしておこなうにせよ、くにのかたちの選択せんたく基本きほんてき政治せいじ問題もんだいであり、それを最終さいしゅうてき判断はんだんするのは一般いっぱん国民こくみんである。

したがって、どんな改正かいせい国民こくみん支持しじがなければ効果こうか発揮はっきしない。司法しほう憲法けんぽう解釈かいしゃくによる憲法けんぽう内容ないようおおきな変更へんこうも、国民こくみんみとめなければ実質じっしつじょう憲法けんぽう改正かいせいとして定着ていちゃくしない。ぎゃくだい多数たすう国民こくみんのぞむのであれば、正式せいしき手続てつづきをんでの改正かいせい可能かのうだし、改正かいせいなしに憲法けんぽうおおきく変化へんかすることもある。

無論むろんアメリカのような多様たようせいんだくにでは、あるべきくにのかたちについて人々ひとびといだゆめかんがえもまた多様たようであり、ときこうから対立たいりつする。なかなか合意ごうい成立せいりつしない。しかし憲法けんぽう改正かいせい実質じっしつてき改憲かいけんをめぐるはげしい論争ろんそうが、憲法けんぽうをめぐる議論ぎろん内容ないようふかめ、くにのかたちが極端きょくたん方向ほうこうかうのをふせいでいる。憲法けんぽう改正かいせい解釈かいしゃく改憲かいけん仕組しくみそのものが、マディソンがとなえた人々ひとびと利益りえき思想しそう多様たようせいをベースとする抑制よくせい均衡きんこうかんがかたをうまく利用りようしている。そんなふうにもおもわれる。

日本国にっぽんこく憲法けんぽう改憲かいけん論議ろんぎかんする感想かんそう

本書ほんしょでは憲法けんぽう改正かいせいとその変化へんかについて、以上いじょうのような観察かんさつしるした。アメリカの憲法けんぽうにもとづく帰結きけつであり、わたしとしては比較的ひかくてき常識じょうしきてきたりまえなものだとかんじるけれども、大方おおかた日本人にっぽんじんにとっては存外ぞんがい新鮮しんせんであるかもしれない。読者どくしゃ諸子しょしはこれらの観察かんさつにいろいろな感想かんそうをもつだろうし、日本国にっぽんこく憲法けんぽうにあてはめてかんがえることであろう。実際じっさい、そうした感想かんそうがすでにていて、なるほどそんなふうんでくれたのかと、うなづいたりくびかしげたりしている。

わたし自身じしん本書ほんしょ日本国にっぽんこく憲法けんぽう改憲かいけん論議ろんぎかんする感想かんそう若干じゃっかんしるした。だい1にこの憲法けんぽういち改正かいせいされていないのは、やはりいかにも特殊とくしゅであり、他国たこく憲法けんぽうくらべて異質いしつであるとかんじる。もちろん改正かいせい必要ひつようがないほどこの憲法けんぽう完璧かんぺきどころがないなら、改正かいせいしなくてよい。けれども日本国にっぽんこく憲法けんぽうがそれほど完全かんぜん無欠むけつであるとは、とてもおもえない。憲法けんぽうひといたものである以上いじょう謬ではない。謬でないものを謬であるかのようにあつかうのは、危険きけんですらある。また憲法けんぽう改正かいせい国民こくみん権利けんりであるならば、それを実行じっこうしないのは権利けんりそのものをよわめることになる。そうおもう。

だい2に日本国にっぽんこく憲法けんぽうは、改正かいせいできなくても実質じっしつてきにその内容ないよう変化へんかさせてきた。その事実じじつ否定ひていできないとおもう。社会しゃかい構造こうぞう変化へんか政府せいふ解釈かいしゃく変更へんこう国民こくみん意識いしき変化へんかなどにより、憲法けんぽうわるときはわる。アメリカでも日本にっぽんでも、それが現実げんじつである。

もちろんいわゆる解釈かいしゃく改憲かいけんこのましいものなのか、ゆるされるべきことなのかについては、おおくの論争ろんそう主張しゅちょうがある。ただくにでは皮肉ひにくなことに、いわゆる護憲ごけん憲法けんぽう改正かいせい抵抗ていこうすればするほど、解釈かいしゃく改憲かいけん必要ひつようせいたかまる。もしかれらが解釈かいしゃく改憲かいけん危険きけんかんがえるならば、むしろ正式せいしき改正かいせい手続てつづきによる憲法けんぽう改正かいせいによって自分じぶんたちの主張しゅちょう実現じつげんすべきではないか。そうおもえる。

だい3に、日本人にっぽんじん憲法けんぽう神聖しんせいしているけれども、かならずしも大切たいせつにしていないとかんじる。おおくの護憲ごけん憲法けんぽう改正かいせい反対はんたいとなえ、憲法けんぽう平和へいわ主義しゅぎという絶対ぜったいのドグマを包含ほうがんした「不磨ふま大典たいてん」ととらえるが、戦前せんぜん大日本帝国だいにっぽんていこく憲法けんぽうを「不磨ふま大典たいてん」ととらえ、天皇てんのう機関きかんせつ痛罵つうばし、統帥とうすいけん干犯かんぱんをいいたて、日本にっぽん戦争せんそうへのみちみちびいたのは、軍部ぐんぶ中心ちゅうしんとする勢力せいりょくであった。

一方いっぽう一部いちぶ改憲かいけんぎゃくにこの憲法けんぽうを、日本にっぽんをだめなくににした元凶げんきょうとみなして敵視てきしし、罪悪ざいあくし、すべてえねばならないと主張しゅちょうする。護憲ごけん神聖しんせい裏返うらがえしであるが、どこかにつうそこするものがある。戦後せんご日本にっぽんがだめなくにになったかどうかはらないが、もしそうだとしても、それが憲法けんぽうのせいだとはとてもおもえない。護憲ごけん改憲かいけんも、完全かんぜん憲法けんぽう理想りそう憲法けんぽう執着しゅうちゃくしすぎて、現実げんじつ憲法けんぽうをおろそかにしている。

くりかえしになるが、政府せいふ目的もくてき国民こくみん平和へいわ安全あんぜん自由じゆう繁栄はんえい確保かくほであって、憲法けんぽうはその手段しゅだんでしかない。憲法けんぽうまもること自体じたい国家こっか目標もくひょうではない。憲法けんぽうはしばしば不完全ふかんぜんであるし、その意味いみするところもときとしてよくわからない。けれどもクーデターや革命かくめいなどによる体制たいせい急激きゅうげき変更へんこうけ、独裁どくさい圧政あっせいふせぎ、漸進ぜんしんてきまえすすんでいくには、不完全ふかんぜん憲法けんぽうであっても、それを大切たいせつにし、まもり、必要ひつようならばすこしずつえていって、かしこ利用りようする。国民こくみん全体ぜんたいがそうしためた態度たいど保持ほじすることが、なにより必要ひつようだろう。

20世紀せいき初頭しょとう有名ゆうめい最高裁さいこうさい判事はんじであったオリバー・ウェンデル・ホームズ・ジュニアは、ある判決はんけつ反対はんたい意見いけんのなかで、「自分じぶんの(言論げんろん自由じゆうひろみとめるべきだという)憲法けんぽう解釈かいしゃくは、(絶対ぜったいなものではなく)すべての人生じんせいがそうであるように、ひとつの実験じっけんである。我々われわれ毎日まいにちのように、不完全ふかんぜん情報じょうほうにもとづく予言よげんけて、なんとか救済きゅうさいされている(つづけている)」とべた。

憲法けんぽうによってくにのかたちをさだめ、運営うんえいしていく立憲りっけん主義しゅぎそのものもまた、実験じっけんひとつなのかもしれない。この実験じっけんはこれまで比較的ひかくてきうまくいってきた、あるいはそうひどい結果けっかはもたらさなかった。たかが憲法けんぽう、されど憲法けんぽうたましい救済きゅうさいはもたらさないが、たましい救済きゅうさいについてことなったかんがえをひと共存きょうぞん可能かのうにする。憲法けんぽうはそもそもそういうものだとおもう。

ほかにもまだ日本国にっぽんこく憲法けんぽうについての感想かんそうはあるが、本書ほんしょにもしるしたし、このあたりにしておこう。不思議ふしぎなもので、自分じぶんいたほんは、いったんると、みょうとおかんじられる。わたしほん見知みしらぬひとげ、んで、感想かんそうつのは、自分じぶん子供こども、あるいはまごが、活動かつどうしているのを、とおくからながめているのにている。

このほんも、そのいちさついちさつが、読者どくしゃ勝手かって対話たいわをするだろう。そうであれば著者ちょしゃであるわたしはあまり饒舌じょうぜつ自分じぶんほんについてかたるべきではないだろう。すこししゃべりすぎたので、このあたりふでこうとおもう。

プロフィール

阿川あがわ尚之なおゆき米国べいこく憲法けんぽう専攻せんこう

1951ねん東京とうきょうまれ。同志社大学どうししゃだいがく法学部ほうがくぶ特別とくべつ客員きゃくいん教授きょうじゅ慶應義塾大学けいおうぎじゅくだいがく名誉めいよ教授きょうじゅ慶應義塾大学けいおうぎじゅくだいがく法学部ほうがくぶ中退ちゅうたいジョじょジタウン大学じたうんだいがくスクール・オブ・フォーリン・サーヴィスならびにロースクール卒業そつぎょう。ソニー、米国べいこく法律ほうりつ事務所じむしょ勤務きんむとうて、慶應義塾大学けいおうぎじゅくだいがく総合そうごう政策せいさく学部がくぶ教授きょうじゅ。2002ねんから2005ねんまでざいべい日本国にっぽんこく大使館たいしかん公使こうし。2016ねんから現職げんしょくおも著書ちょしょに、『アメリカン・ロイヤーの誕生たんじょう』、『うみ友情ゆうじょう』、『アメリカがきらいですか』、『憲法けんぽうむアメリカ』(読売よみうり吉野よしの作造さくぞうしょう)、『憲法けんぽう改正かいせいとはなにか-アメリカ改憲かいけんからかんがえる』(新潮しんちょう選書せんしょ)。(写真しゃしん打田うちた浩一こういち

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