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【刀剣ワールド】大物崩れ
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室町むろまち時代ときよ

大物おおものくず
 - 刀剣とうけんワールド

大物崩れ 大物崩れ
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室町むろまち時代じだい幕府ばくふ管領かんりょう(かんれい:将軍しょうぐんたす政務せいむ統括とうかつするもの)のめぐってあらそいをひろげたのが、「細川ほそかわだかこく」(ほそかわたかくに)と、「細川ほそかわはるもと」(ほそかわはるもと)です。そして1531ねんとおるろく4ねん)、ついに決着けっちゃくがつきます。最後さいご合戦かっせん舞台ぶたいとなったしろのひとつが現在げんざい兵庫ひょうごけん尼崎あまがさきにある「大物おおものじょう」(だいもつじょう)。拮抗きっこうしていた戦況せんきょう一気いっきおおったことから、このたたかいは「大物おおものくずれ」(だいもつくずれ)とばれています。今回こんかいは、この大物おおものくずれにいたるまでの経緯けいいを、戦況せんきょうわせて、ていきましょう。

大物おおものくずれにいたるまでの経緯けいい

細川ほそかわだかこく細川ほそかわはるもとが、「大物おおものくずれ」でぶつかりうまでには、細川ほそかわ家督かとくめぐる、「りょう細川ほそかわらん」(りょうほそかわのらん)、「かつら川原かわらたたかい」(かつらかわらのたたかい)をはじめとする、数々かずかずあらそいがありました。

えいただし錯乱さくらんりょう細川ほそかわらん

室町むろまち幕府ばくふ管領かんりょうとして、将軍家しょうぐんけをもしのぐほどの強大きょうだい権力けんりょくほこったのが、細川ほそかわです。細川ほそかわ12だい当主とうしゅであった「細川ほそかわまさしもと」(ほそかわまさもと)は、生涯しょうがい独身どくしんつらぬいたため、跡取あととりがいませんでした。

そこで細川ほそかわまさしもとは「細川ほそかわきよしこれ」(ほそかわすみゆき)、「細川ほそかわきよしもと」(ほそかわすみもと)、細川ほそかわだかこくの3めい養子ようしとしてむかえます。家督かとくぐのは、一番いちばんはじめに養子ようしむかえられた細川ほそかわきよしこれられていましたが、細川ほそかわきよしこれ他家たけだしであるため、重臣じゅうしんたちから疑問ぎもんするこえが。細川ほそかわまさしもとは、やがて分家ぶんけすじ細川ほそかわきよしもと跡取あととりに指名しめい

しかし、そのことが原因げんいんで、1507ねんえいただし4ねん)、細川ほそかわまさしもとは、廃嫡はいちゃくされた細川ほそかわきよしこれにより暗殺あんさつされてしまったのです。この細川ほそかわまさしもと暗殺あんさつ事件じけんは、「えいただし錯乱さくらん」(えいしょうのさくらん)とばれ、大物おおものくずれのきっかけになった事件じけんとされています。

えいただし錯乱さくらんに、幕府ばくふ管領かんりょう細川ほそかわまさしもと遺志いし意向いこう無視むしした、家督かとくあらそいが勃発ぼっぱつ。さらには、足利あしかが室町むろまち幕府ばくふ将軍しょうぐんめぐあらそいをもみながら複雑ふくざつ。やがて、細川ほそかわきよしもと細川ほそかわだかこくあらそったりょう細川ほそかわらん発展はってんしたのです。

りょう細川ほそかわらんで、一旦いったん勝利しょうりおさめたのは「大内おおうち義興よしおき」(おおうちよしおき)や「足利あしかが義稙よしたね」(あしかがよしたね)とんだ細川ほそかわだかこくでした。しかし、この家督かとくあらそいはつづき、りょう細川ほそかわらん正確せいかく終結しゅうけつ時期じきは、はっきりとさだめられていません。

かつら川原かわらたたか

細川ほそかわだかこくが「足利あしかが義晴よしはる」(あしかがよしはる)を将軍しょうぐんにして京都きょうと栄華えいがきわめていた一方いっぽう細川ほそかわきよしもとあらそいの最中さいちゅう死去しきょ細川ほそかわきよしもとあといだ息子むすこ・「細川ほそかわはるもと」は、反撃はんげき機会きかいをうかがいます。

その状況じょうきょうのなか、1526ねんだいなが6ねん)「丹後たんごこく」(たんごのくに:現在げんざい京都きょうと西部せいぶ)の領主りょうしゅ波多野はたのしょくどおり」(はたのたねみち)と、そのおとうと柳本やなぎもと賢治けんじ」(やなぎもとかたはる)が、細川ほそかわだかこくたいして挙兵きょへい

細川ほそかわはるもとは、これを好機こうきとらえ「阿波あわこく」(あわのくに:現在げんざい徳島とくしまけん)の武将ぶしょう三好みよし元長もとなが」(みよしもとなが)らとともに、京都きょうとへとみます。1527ねんだいなが7ねん)2がつ11にち波多野はたのぐん細川ほそかわはるもとぐんが「山崎やまざきしろ」で合流ごうりゅう

翌日よくじつの2がつ12にち波多野はたのしょくどおり細川ほそかわはるもとぐんと、細川ほそかわだか国軍こくぐんが、京都きょうと桂川かつらがわ一帯いったい激突げきとつかつら川原かわらたたかいの開戦かいせんです。このかつら川原かわらたたかいをせいした細川ほそかわはるもとらは、細川ほそかわだかこく京都きょうとからすことに成功せいこうしました。

細川ほそかわだかこくふたた進軍しんぐん

細川高国書状二(内一、永正十四年)
細川ほそかわだか国書こくしょじょううちいちえいただしじゅうよんねん

かつら川原かわらたたかいにやぶれ、各地かくち転々てんてんとしていた細川ほそかわだかこく管領かんりょう権威けんい完全かんぜん失墜しっついし、細川ほそかわだかこく支援しえんする勢力せいりょくほとんどいませんでした。

ところが、「播磨はりまこく」(はりまのくに:現在げんざい兵庫ひょうごけん南西なんせい制覇せいは目指めざしていた、「備前びぜんこく」(びぜんのくに:現在げんざい岡山おかやまけん)の戦国せんごく大名だいみょう浦上うらかみ村宗むらむね」(うらがみむらむね)が、細川ほそかわだかこく支援しえんうごきます。

細川ほそかわだかこくは、浦上うらかみ村宗むらむねみ、ふたた政権せいけん奪還だっかん目指めざし、摂津せっつへの侵略しんりゃく開始かいし。1530ねんとおるろく3ねん)、「神呪かんのうてらじょう」(かんのうじじょう)「富松とまつじょう」(とまつじょう)、「大物おおものじょう」を攻略こうりゃく

さらによく1531ねんとおるろく4ねん)には、「伊丹いたみじょう」(いたみじょう)、「池田いけだじょう」を、次々つぎつぎ落城らくじょうさせたのです。たいする細川ほそかわはるもと三好みよし元長もとなが援軍えんぐん要請ようせいし、やがてりょうぐんは、おおきく戦局せんきょく左右さゆうする大物おおものくずれとばれるたたかいに雪崩なだんでいきました。

大物おおものくずれの詳細しょうさい

細川ほそかわだかこく軍勢ぐんぜいやく20,000にんであったのにたいし、細川ほそかわはるもと軍勢ぐんぜいやく15,000にん戦力せんりょくてきにも拮抗きっこうしていたりょうぐんですが、細川ほそかわだか国軍こくぐんの「赤松あかまつはれまさし」(あかまつはるまさ)が裏切うらぎったことにより、戦況せんきょう細川ほそかわはるもとぐんおおきくかたむきます。

支持しじ基盤きばんかためることができなかった細川ほそかわだかこくは、大物おおものじょうへの退避たいひこころみますが、すでに赤松あかまつはるせいまわっていたためらえられ、仇敵きゅうてき細川ほそかわはるもとによって尼崎あまがさきの「広徳寺こうとくじ」で自害じがいまれたのです。

大物おおものくずれの舞台ぶたい

大物おおものくずれの戦跡せんせき

当初とうしょ大物おおものくずれの主戦しゅせんじょうは、京都きょうとでした。

しかし、京都きょうとまもりをまかされていた「木沢きさわ長政ながまさ」(きざわながまさ)は、細川ほそかわだかこくらのいきおいにされて京都きょうと奪回だっかいされてしまいます。

そこで、細川ほそかわだかこく細川ほそかわはるもとは、現在げんざい大阪おおさか天王寺てんのうじ周辺しゅうへんでぶつかることとなったのです。

たたかいの舞台ぶたいとなったしろのひとつが大物おおものじょう

現在げんざいでは遺構いこうはほとんどのこっていませんが、大物だいもつえき北側きたがわ公園こうえんでは「大物おおものくずれの戦跡せんせき」を確認かくにんできます。

赤松あかまつはるせい裏切うらぎ

大物おおものくずれの戦況せんきょう根底こんていからくつがえしたのは、浦上うらかみ村宗むらむね家臣かしん・「赤松あかまつはれまさし」(あかまつはるまさ)の裏切うらぎりでした。膠着こうちゃく状態じょうたいにあった戦況せんきょうなか赤松あかまつはるせいは、突如とつじょ背後はいごから細川ほそかわだかこく浦上うらかみ村宗むらむねらを急襲きゅうしゅう。それとほぼ同時どうじに、細川ほそかわはるもとがわ三好みよしぐんも、攻撃こうげき開始かいししたのです。

戦況せんきょうのあまりのわりように、浦上うらかみ村宗むらむね軍勢ぐんぜいのなかには、赤松あかまつまさしゆう寝返ねがえもの続出ぞくしゅつじつは、赤松あかまつはるせいは、事前じぜん細川ほそかわはるもとがわひそかに打合うちあわせていました。赤松あかまつはるせいにとって、浦上うらかみ村宗むらむねは、ちちったてきであり、表面ひょうめんじょう家臣かしんとしてしたがっていましたが、虎視眈々こしたんたん復讐ふくしゅう機会きかいねらっていたのです。

家督かとくあらそいの終結しゅうけつ

赤松あかまつはるせい裏切うらぎりによって、細川ほそかわだかこく浦上うらかみ村宗むらむねらは総崩そうくずれとなり、大物おおものくずれは、細川ほそかわはるもとがわ勝利しょうりわりました。膠着こうちゃく状態じょうたい戦局せんきょく一気いっきくずれたことと、戦場せんじょうとなった大物おおもの地名ちめいもあったことから、このせん大物おおものくずれとばれる所以ゆえんになったのです。

戦場せんじょうからげようとした細川ほそかわだかこく軍勢ぐんぜいは、結局けっきょく赤松あかまつはるせいによって殲滅せんめつ(せんめつ:のこらずほろぼすこと)。一旦いったんげのびた細川ほそかわだかこくも、「三好みよし一秀かずひで」(みよしかずひで)につかまってしまい、自害じがいしててました。ここにちょうきにわたったたたかいは、ようやく終結しゅうけつしたのです。

大物おおものくず以降いこう細川ほそかわはるもと

大物おおものくずれにおいて勝利しょうりおさめた細川ほそかわはるもとでしたが、そのあとも三好みよし元長もとながや「三好みよし長慶ちょうけい」(みよしながよし)らとのあらそいにれ、政権せいけんにできた期間きかんはさほどながくありませんでした。

細川ほそかわはるもと晩年ばんねんまで三好みよしあらがつづけましたが、晩年ばんねん三好みよし長慶ちょうけい和睦わぼくし、1560ねんえいろく3ねん)にその生涯しょうがいえています。

三好みよし元長もとなが排除はいじょ

三好長慶

三好みよし長慶ちょうけい

大物おおものくずれでは、三好みよし元長もとなが援軍えんぐんたのんだ細川ほそかわはるもとでしたが、のちにその強大きょうだいちからうとましくおもうように。このとき、細川ほそかわはるもと政権せいけん中心ちゅうしんとなっていたのが、大物おおものくずれのさいに、京都きょうとまもりをまかされていた「木沢きさわ長政ながまさ」。

そして、京都きょうと代官だいかんいていた「茨木いばらぎちょうたかし」(いばらきながたか)でした。

細川ほそかわはるもとは、やがて、「さかい公方くぼう」(さかいくぼう:将軍しょうぐん対立たいりつした呼称こしょう)とばれた「足利あしかがよし維」(あしかがよしつな)と、三好みよし一秀かずひで中心ちゅうしんとする三好みよし元長もとなが対立たいりつするようになりました。

そして、細川ほそかわはるもとは1532ねん天文てんもん元年がんねん)に「一向いっこうむね」(いっこうしゅう:鎌倉かまくら時代じだい浄土宗じょうどしゅうそう開祖かいそとなった仏教ぶっきょう一派いっぱ)の勢力せいりょくをそそのかし「一向いっこう一揆いっき」(いっこういっき:一向いっこうむね信徒しんとによる権力けんりょく対応たいおうする運動うんどう)にかたちで、三好みよし元長もとながいやったのです。

三好みよし長慶ちょうけい細川ほそかわはるもと家臣かしん

三好みよし元長もとながのあとに家督かとくいだのは、まだ10さいであった息子むすこ三好みよし長慶ちょうけいでした。三好みよし長慶ちょうけいは、当初とうしょこそ、ちちてきつべくうごきましたが、木沢きさわ長政ながまさ仲介ちゅうかいもあり、やがて家臣かしんとして細川ほそかわはるもとつかえることに。

のちに拡大かくだいした一向いっこう一揆いっき鎮圧ちんあつするなど、そのわかさからはしんじられないようなだい活躍かつやくせたとわれています。こうして一旦いったんあらそいをおさめた細川ほそかわはるもとは、1537ねん天文てんもん6ねん)に管領かんりょう任命にんめいされ、ようやく政権せいけんにぎったのです。

三好みよし長慶ちょうけいとの関係かんけい悪化あっか

一旦いったん細川ほそかわはるもとくだった三好みよし長慶ちょうけいですが、1548ねん天文てんもん17ねん)に、室町むろまち幕府ばくふ最後さいご管領かんりょうであった「細川ほそかわ氏綱うじつな」(ほそかわうじつな)とむすんで離反りはんします。細川ほそかわはるもと将軍しょうぐん足利あしかが義輝よしてる」(あしかがよしてる)ととも京都きょうとわれ、以降いこうは、三好みよし長慶ちょうけい政権せいけん掌握しょうあく

細川ほそかわはるもとは、そのあともなん三好みよし長慶ちょうけいたたかいをいどみますが、結局けっきょく勝利しょうりおさめることはできませんでした。そして、1561ねんえいろく4ねん)、細川ほそかわはるもと三好みよし長慶ちょうけい和睦わぼくむすびますが、そのあとに幽閉ゆうへいされ、2ねんの1563ねんえいろく6ねん)に、その生涯しょうがいじます。

三好みよし長慶ちょうけい日本にっぽんがたなだい般若はんにゃ長光ちょうこう

足利義輝

足利あしかが義輝よしてる

細川ほそかわはるもと勝利しょうりした三好みよし長慶ちょうけい所有しょゆうしていたのが、「だい般若はんにゃ長光ちょうこう」(だいはんにゃながみつ)と日本刀にっぽんとうです。

当時とうじとしては破格はかくの600かん現在げんざい金額きんがくやく60,000,000えん)とがついたことから、この600と数字すうじおなじく、ぜん600かんにもおよ経典きょうてん・「だい般若はんにゃ波羅蜜はらみつけい」(だいはんにゃはらみったきょう)にちなんで名付なづけられました。

だい般若はんにゃ長光ながみつ将軍しょうぐん足利あしかが義輝よしてるから三好みよし長慶ちょうけいあたえられ、以後いご織田おだ信長のぶなが徳川とくがわ家康いえやすら、大物おおもの戦国せんごく武将ぶしょうわたあるいたとつたえられています。

大般若長光
だい般若はんにゃ長光ちょうこう
めい
長光ちょうこう
鑑定かんてい区分くぶん
国宝こくほう
ちょう
73.6
所蔵しょぞう伝来でんらい
足利あしかが
織田おだ信長のぶなが
徳川とくがわ家康いえやす
伊藤いとう巳代治みよじ
東京とうきょう国立こくりつ博物館はくぶつかん

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室町むろまち時代じだい」の記事きじ


室町むろまち幕府ばくふとは

室町幕府とは
室町むろまち幕府ばくふ」は、1338ねんこよみおう元年がんねん)に、「足利尊氏あしかがたかうじ」(あしかがたかうじ)によって京都きょうと樹立じゅりつされた武家ぶけ政権せいけんです。鎌倉かまくら幕府ばくふ政策せいさく踏襲とうしゅうしつつ、各国かっこく支配しはい一任いちにんした守護しゅご大名だいみょう設置せっちや、あきら現在げんざい中国ちゅうごく)との日明ひあがり貿易ぼうえきなどにより、3だい将軍しょうぐん足利あしかが義満よしみつ」(あしかがよしみつ)の時代じだい最盛さいせいむかえます。現代げんだい日本にっぽんにおける美意識びいしきみなもとともえる、東山ひがしやま文化ぶんか発達はったつなどもまえて、やく240年間ねんかんにわたる室町むろまち幕府ばくふについて、ご紹介しょうかいします。

室町むろまち幕府ばくふとは

えいとおるらん

永享の乱
えいとおるらん」(えいきょうのらん)は、1438ねんえいとおる10ねん)に関東かんとうこった戦乱せんらんです。このせんは「鎌倉かまくら公方くぼう」(かまくらくぼう:室町むろまち幕府ばくふ設置せっちした鎌倉かまくら長官ちょうかん)であった「足利あしかが持氏もちうじ」(あしかがもちうじ)と「関東かんとう管領かんりょう」(かんとうかんれい:鎌倉かまくら公方くぼう補佐ほさする役職やくしょく)であった「上杉うえすぎ憲実のりざね」(うえすぎのりざね)との直接ちょくせつ対決たいけつとなりました。えいとおるらん京都きょうとかれていた室町むろまち幕府ばくふの6だい将軍しょうぐん足利あしかが義教よしのり」(あしかがよしのり)と足利あしかが持氏もちうじとの対立たいりつ原因げんいんこったとわれています。えいとおるらんが、どのような戦乱せんらんだったのかくわしくご紹介しょうかいします。

えいとおるらん

とおるとくらん

享徳の乱
とおるとくらん」(きょうとくのらん)は1467ねん応仁おうにん元年がんねん)から11年間ねんかんにわたる「応仁おうにんらん」(おうにんのらん)に先駆さきがけて、関東かんとうこった戦乱せんらんです。たたかいは断続だんぞくてきに28年間ねんかんつづき、関東かんとうはそのまま戦国せんごく時代じだい突入とつにゅうしました。この戦乱せんらん発端ほったんは、そのぜん段階だんかいこった「えいとおるらん」(えいきょうのらん)にあります。 えいとおるらんこった背景はいけいには「鎌倉かまくら公方くぼう」(かまくらくぼう:室町むろまち幕府ばくふ組織そしき[鎌倉かまくら]のトップで関東かんとう地方ちほう統治とうちする)と「関東かんとう管領かんりょう」(かんとうかんれい:鎌倉かまくら公方くぼう補佐ほさやく)の対立たいりつ、そして鎌倉かまくら公方くぼう室町むろまち幕府ばくふ将軍しょうぐんとの対立たいりつという複雑ふくざつ歴史れきしてき背景はいけいおおきくかかわっています。今回こんかいは、えいとおるらんをきっかけとしてこったとおるとくらんについてご紹介しょうかいします。

とおるとくらん

ちょうとおるらん

長享の乱
ちょうとおるらん」(ちょうきょうのらん)がこったのは、1487ねんちょうとおる元年がんねん)です。そのきっかけは、京都きょうと舞台ぶたいに10年間ねんかんつづいた「応仁おうにんらん」(おうにんのらん)によって室町むろまち幕府ばくふ疲弊ひへいし、関東かんとう支配しはいとどかなくなったことにありました。今回こんかいは、18ねんものながあいだつづいたちょうとおるらんについてご紹介しょうかいします。

ちょうとおるらん

応仁おうにんらん

応仁の乱
室町むろまち幕府ばくふ衰退すいたいした理由りゆうともわれる「応仁おうにんらん」。11ねんというながあらそいにより、戦国せんごく時代じだいへとつづくきっかけとなった応仁おうにんらんはなぜこったのでしょうか。 室町むろまち幕府ばくふ悲劇ひげきともわれている応仁おうにんらんきたきっかけや、戦国せんごく時代じだい幕開まくあけまでのながれなど、室町むろまち時代じだいこった応仁おうにんらんについて解説かいせつします。

応仁おうにんらん

川中島かわなかじまたたか

川中島の戦い
川中島かわなかじまたたかい」とは、1553ねん天文てんもん22ねん)~1564ねんえいろく7ねん)の12年間ねんかん、5かいわた伝説でんせつ合戦かっせん総称そうしょうです。宿敵しゅくてきである甲斐かい武田たけだ信玄しんげん越後えちご上杉うえすぎ謙信けんしんが、北信濃きたしなの支配しはいけんめぐってあらそいましたが、ながたたかいにもかかわらず勝敗しょうはいはついていません。 1561ねんえいろく4ねん)のだい4合戦かっせん激戦げきせんひろられているため、その戦場せんじょうとなった地名ちめいから、場所ばしょおこなわれたたたかいもふくめて川中島かわなかじまたたかいとばれていますが、一般いっぱんてきには川中島かわなかじまたたかいとったときには、だい4合戦かっせんします。

川中島かわなかじまたたか

ふね岡山おかやま合戦かっせん

船岡山合戦
ふね岡山おかやま合戦かっせん」(ふなおかやまがっせん)は、1511ねんえいただし8ねん)8がつ京都きょうとふね岡山おかやま周辺しゅうへんこった合戦かっせんです。船岡ふなおかさん京都きょうときた紫野むらさきの北船岡きたふなおかまちにある標高ひょうこう111.7mのちいさなやまで、清少納言せいしょうなごんが「おか船岡ふなおか」と「枕草子まくらのそうし」(まくらのそうし)にしるしていることでもられています。ふね岡山おかやま合戦かっせんは、室町むろまち幕府ばくふの「管領かんりょう」(かんれい:将軍しょうぐん補佐ほさする幕臣ばくしん最高さいこうしょく)である「細川ほそかわまさしもと」(ほそかわまさもと)がくなったあとの細川ほそかわ家督かとくあらそいと、将軍しょうぐん擁立ようりつあらそいをめぐる対立たいりつなかこったたたかいです。今回こんかいはこのふね岡山おかやま合戦かっせんこった理由りゆうから終結しゅうけつまでをご紹介しょうかいします。

ふね岡山おかやま合戦かっせん

おけ狭間はざまたたか

桶狭間の戦い
1560ねんえいろく3ねん)5がつ19にち日本にっぽん歴史れきしうごかすおおきな合戦かっせんこりました。「おけ狭間はざまたたかい」です。27さい織田おだ信長のぶながが4,000にんばかりのへい味方みかたに、2まん5せんにんもの今川いまがわ義元よしもとぐんたたかいをいどみ、勝利しょうりしました。その歴史れきしてき合戦かっせんには、世代せだいつうじてむねあつくなるドラマがあります。このような歴史れきしてき瞬間しゅんかんいまもなおかたがれるのは、それを記録きろくする人物じんぶつがいたからです。その人物じんぶつは「大田おおた牛一ごいち」(おおたぎゅういち)。かれは、織田おだ信長のぶなが家臣かしんでした。もっと身近みぢか距離きょりで、織田おだ信長のぶながることができた人物じんぶつきつづった記録きろく信長のぶながこう」。織田おだ信長のぶなが天下てんか統一とういつへの切符きっぷれた軌跡きせき今川いまがわ義元よしもと敗因はいいんはどのようなものだったのでしょうか。いま、「信長のぶながこう」によっておけ狭間はざまたたかいの全貌ぜんぼうかされます。

おけ狭間はざまたたか

金ヶ崎かねがさきたたか

金ヶ崎の戦い
1570ねんもとかめ元年がんねん)、越前えちぜんこく敦賀つるがぐん金ヶ崎かねがさき現在げんざい福井ふくいけん敦賀つるが金ヶ崎かねがさきまち)で織田おだ信長のぶなが徳川とくがわ家康いえやすひきいる「織田おだ徳川とくがわ連合れんごうぐん」と「朝倉あさくら義景よしかげ」(あさくらよしかげ)ひきいる「朝倉あさくらぐん」が対峙たいじしました。やく3まん織田おだ徳川とくがわ連合れんごうぐんたいし、やく4,500の朝倉あさくらぐん当初とうしょは、織田おだ徳川とくがわ連合れんごうぐん優勢ゆうせいでしたが、織田おだ信長のぶなが義弟ぎてい浅井あさい長政ながまさ」(あざいながまさ)の裏切うらぎりにより、形勢けいせい逆転ぎゃくてん戦国せんごく史上しじょう有名ゆうめい織田おだ信長のぶなが危機ききてき状況じょうきょうおこなった撤退てったいせんでもあることから、「金ヶ崎かねがさき退しりぞこう」や「金ヶ崎かねがさきくずれ」ともばれています。

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