子育て経験のある方なら、一度は「母乳かミルクか」という論争を聞いたことがあるのではないでしょうか。
筆者は男性なので、自分の体から出る母乳を飲ませたい気持ちがうまく想像できないのですが、妻を含め多くの女性が特別な思いを語るのをよく聞きます。
母乳があまり出なくてミルク(人工乳)を足すとか、ミルクだけにする人の中にも、「本当はもっと母乳をあげたかった」と思っている人は多いようです。その気持ちはもちろん尊重したいと思います。
母乳を飲ませたい母親は大勢います。そして、母乳を与えると便利になる点もたくさんあります。
しかし、やむをえずミルクを使っている人や、ミルクのほうがいいと考えた人に向かって「母乳のほうがいいよ」とアドバイスするのは、いいことでしょうか。
母乳が十分出ない人や、仕事などの都合で母乳を与えることができない人に対しては、そのアドバイスは何の助けにもなりません。
まして、「こうすれば母乳が出るようになるはずだ」とか「こうすれば搾乳して飲ませられるはずだ」といった指示を付け加え、ただでさえ心配事の絶えない母親の仕事をさらに増やそうとする人を見ると(残念なことにそういう人はとても多いのですが)、心が寒々しくなります。
筆者も父親として、ミルクを飲ませる仕事を大事にしています。たとえば夜中のミルクを父親が担当すれば、その夜は母親がゆっくり眠れます。
ミルクのおかげで母親が1人で仕事に出かけることも、遊びに出かけることもできます。それなのに「ミルクより母乳」と言われると「男は引っ込んでいろ」と言われたようで、悲しくなってしまいます。
ひどい例になると、世界保健機関(WHO)の公式サイトに「もしも0-23カ月の子供すべてが最適な母乳育児をされれば毎年82万人を超える子供たちが救われる」と書いてあります(*1)。まるでミルクを与える親が悪いことをしているかのようです。
母乳をすすめる人が持ち出す理由にも、ときどき納得いかない点があります。「母乳には子供に免疫力を与える作用がある」という説もそうです。
この説は、母乳には母親の血液由来の細胞とか、抗体とか、インターロイキンという物質が含まれているから、と説明されます。
たしかに含まれてはいます。初乳には抗体が多いとも言います。
しかし、抗体もインターロイキンも壊れやすいたんぱく質ですから、子供の消化液によって変化することなく作用することが本当にありえるのか、筆者は自信を持って言えません。細胞も同様です。
しかも仮にそうした物質とか細胞が機能を保っているなら、子供の体を異物と認識して攻撃してこないのでしょうか。ちょっと首をかしげてしまいます。
少し違う説明として、「理由は不明だが母乳育児のほうが感染症が少ない」という立場をとった研究報告もあります。こちらはエビデンスに基づいているわけですから、細胞や抗体で説明するよりは理解できる主張です。
しかし、その多くは低中所得国で行われた研究です(*2)。1950年代の日本でも森永ヒ素ミルク事件があったように、安全な水道水と安全なミルク製品が手に入りにくい土地では、母乳を飲ませたほうがたしかに安全かもしれません。しかし、それは母乳によって免疫力がついたからとは限りません。
高所得国での研究をもとに、母乳育児によって中耳炎が減るとした報告(*3)もあります。この例では24件の研究報告が収集されましたが、研究方法として最も信頼度が高いとされるランダム化比較試験は1件も見つかりませんでした。
次いで重視された18件の研究のうち4件で、母乳育児による中耳炎に対する効果は確認できないとされていました。それら全体を総合した評価は有効とされていますが、本文中で「ただし、研究の数は少なくエビデンスの質は低かった」と明記されています。
母乳による健康効果は本当にあるのかもしれません。しかし筆者が調べた範囲では、たとえばタバコが体に悪いとか、抗がん剤が効くといった研究報告ほどに間違いなさそうなデータは見つけられませんでした。
何よりも、仮に母乳が健康的だったとして、すなわちミルクは赤ちゃんの体に悪いのだとしても、その差はわずかです。ミルクだけで元気に育った大勢の子供たちがそれを証明しています。
大きな差があるなら、たとえば母乳がたくさん出る人を募集して、母乳が足りない家庭に通い授乳する仕事をしてもらい、税金から給料を払ってもいいはずです。
現実には「母乳バンク」などの試みが散発的になされているだけで、全国規模の政策にはなっていません。専門家を含めてほとんどの人が、そこまでしなくていいと暗黙のうちに認めていることになります。ミルクを飲ませている親はもっと堂々としていていいと思います。
日本全国で毎年80万人の子供が生まれています。その全員があらゆる知識に基づいた完璧な育て方をされるわけではありません。多くの家庭で、医学的な推奨とは相反することがいくつもなされているはずです(筆者もそうです)。
にもかかわらず、「育て方を間違ったせいで」乳児が死亡するのは非常にまれなことです。すなわち、医学的に「正しい」子育てなんて、大した意味はないのです。
ちょっとダメ親になりましょう。親はみんなダメ親です。そして、それでいいのです。
*1 https://www.who.int/health-topics/breastfeeding#tab=tab_2
*2 Short-term effects of breastfeeding: a systematic review on the benefits of breastfeeding on diarrhoea and pneumonia mortality. World Health Organization. https://apps.who.int/iris/handle/10665/95585
*3 Acta Paediatr Suppl. 2015; 104: 85-95.(大脇幸志郎)