2023.08.28
(最終更新:2023.08.28)
ドイツの水素普及・調達戦略を探る(前編) 熊谷徹のヨーロッパSDGリポート【8】
在独ジャーナリスト/熊谷徹
熊谷徹(くまがい・とおる)
1959年東京都生まれ。1982年、早稲田大学政治経済学部卒業後、NHKに入局。ワシントン支局勤務中にベルリンの壁崩壊、米ソ首脳会談などを取材。1990年からドイツ・ミュンヘンを拠点にジャーナリストとして活動。著書に『ドイツの憂鬱』『新生ドイツの挑戦』『ドイツ病に学べ』『なぜメルケルは「転向」したのか』『ドイツ中興の祖 ゲアハルト・シュレーダー』『ドイツ人はなぜ、年収アップと環境対策を両立できるのか』など。
日本政府同様に、ドイツ政府は、気候変動に歯止めをかけるための、産業の脱炭素化を進めるには、水素による化石燃料の代替が不可欠だと考えている。ドイツ政府と、エネルギー業界がどのように水素を普及させ、水素をどのように調達するのかについて、上下2回に分けてお伝えする。
独エネルギー業界は2040年までに水素市場を構築する
次世代エネルギーとしての水素に関する努力が、各国で急激に進んでいる。日本政府は6月6日に「水素基本戦略」を6年ぶりに改訂して、今後15年間に官民合わせて15兆円を投資するという方針を打ち出した。
日本と同じ物づくり国家であるドイツも、負けてはいない。今ドイツの政界、学界、エネルギー業界では、水素市場の構築をめぐって、活発に議論がおこなわれている。ドイツ連邦政府は7月26日、国家水素戦略(NWS)を3年ぶりに改訂し、2030年の国内の水素生産能力についての目標を、これまで予定していた5GW(ギガワット)から2倍の10GWに増やした。2030年までに、水素を輸送するためのパイプライン1800kmを建設する。
政府はNWSの中で、「2030年までに水素とその派生物質は、産業界だけではなく、船舶、航空機が使っている化石燃料を代替する重要なエネルギー源になる」と強調した。
ドイツのエネルギー業界が今年7月4日に公表した文書も、注目を集めた。日本の電気事業連合会に相当するドイツ連邦エネルギー水道事業連合会(BDEW)は、「水素の市場デザインのためのディスカッション・ペーパー」と名付けた提案書を公表し、2040年までに水素普及のためのインフラを整備するという道筋を示した。
つまりドイツは、今から17年かけて、競争が良好に機能する水素市場を構築する。当初は政府の援助が必要になるが、2040年の水素市場は、政府の助成がなくても独り立ちしなくてはならない。この文書は、電力業界など、民間企業の立場から見た、水素を普及させるためのロードマップだ。BDEWは、この文書を、ガス業界、製造業界、ドイツ政府や他の欧州連合(EU)加盟国、欧州委員会などとの水素をめぐるディスカッションのためのたたき台にする。
BDEWのケアスティン・アンドレー専務理事は、「水素エネルギーの実用化は、エネルギー転換だけではなく、ドイツの産業界にとっても大きなチャンスだ。今後数年間は、ドイツそして欧州全体の水素普及にとって、決定的な意味を持つだろう。我々は、欧州の水素市場デザインをめぐる議論の中で主導的な役割を果たすべきだ」と述べ、この国のエネルギー業界が水素普及に賭ける意気込みを強調した。
アンドレー専務理事は、2002年から17年にわたり緑の党の連邦議会議員を務めた後、2019年にエネルギー業界によって現在の要職に抜擢(ばってき)された。このためBDEWは、エネルギー事業のグリーン化、水素の実用化に積極的なのだ。日本の電事連に相当する団体の専務理事に緑の党の党員が選ばれ、エネルギー転換の牽引(けんいん)役になるという点に、ドイツのエネルギー業界のグリーン化へ向けた「真剣さ」が感じられる。
BDEWは、2040年までにドイツの水素関連インフラが完成し、市場メカニズムが有効に機能するようになるというシナリオを描いているが、それまでの17年間を四つの時期に分けている。
BDEWが想定する、水素市場構築の行程表
政府に対し「水素法」の制定を要求
第1期(2023/2024年・初期段階)
現在ドイツは、この段階にある。BDEWは、2024年までに市場構築に必要な前提条件を整える必要があると主張する。第1期には、政府が民間企業に対する助成金の枠組みを確立する。BDEWは、「現在の時点では水素の製造、輸送、蓄積のためのテクノロジーは成熟している。しかし水素のバリューチェーンの様々な段階における実証実験が不足している。さらに、民間投資も十分におこなわれていない」と指摘する。
BDEWによると、その理由の一つは、長期的な水素市場の見通しがまだ不明確なので、投資家にとっては経済的なリスクが大きすぎるためだ。政府に対し、「水素普及促進法」を制定することによって将来の水素関連インフラなどについての明確なビジョンを示すとともに、透明性を高めて企業の信頼を醸成し、投資リスクを最小限にするための法的枠組みを整えるよう求めている。
BDEWが求めているのは、2000年に施行された再生可能エネルギー促進法(EEG)のような法律だ。EEGの最新版であるEEG2023は、2030年の再エネ発電量を600TWh(テラワット時)に引き上げるための道筋や、2040年までの陸上風力発電設備や太陽光発電設備に設置容量の目標値を明記している。さらに2030年までにドイツの電力消費量に再エネが占める比率を少なくとも80%に引き上げるという、目標も設定した。
BDEWは水素についても、EEGと同じように年ごとの目標値を設定するべきだと主張しているのだ。
EEG2023に明記された、再エネ電力の発電量と再エネ発電設備容量の目標
グリーン水素普及のためには政府の助成が不可欠
さらにBDEWは、政府に対し水素関連事業のための助成システムの確立を要求している。この国の電力会社・ガス会社のエンジニアたちの間では、「水素に関する技術は成熟しており、実用化は可能だが、まだ経済性が低い」という意見が有力だ。その理由は、政府が重視するグリーン水素、つまり再生可能エネルギー(再エネ)による電力だけを使って水を電気分解して作られる水素の生産費用が、他の水素に比べて高いからだ。
水素は生産方法によって、次のように分類される。
水素の種類 |
生産方法 |
気候中立性 |
グリーン水素 |
再エネ電力で水を電気分解して生産 |
気候中立的 |
ブルー水素 |
天然ガスを使って生産。生成過程で発生したCO2(二酸化炭素)は、CCS(炭素分離貯留)によって地下などに貯留されるので、大気中には排出されない |
気候中立的 |
ターコイズ水素(ターコイズとはトルコ石のこと) |
天然ガスのメタンを直接分解して生産する。炭素は固形物として生成されるので大気中にCO2は放出されない |
気候中立的 |
グレー水素 |
天然ガスを使って生産 |
気候中立的ではない |
レッド水素(またはピンク水素) |
原子力発電設備による電力で水を電気分解して生産する |
気候中立的 |
世界経済フォーラムの資料をもとに筆者作成
だがグリーン水素の生産コストはまだ割高だ。国際エネルギー機関(IEA)の2022年度版「グローバル水素レビュー」によると、2021年のグリーン水素の平均生産費用は1kgあたり4ドル~9ドルだった。これはグレー水素(1ドル~2.5ドル)、ブルー水素(1.5ドル~3ドル)、レッド水素(3.5~7ドル)を上回る。これでは、投資家が「グリーン水素は本当に実用化されるのか」と二の足を踏むのは無理もない。
ドイツの製鉄業界や化学業界も、熱源としてグリーン水素を使うための準備を進めているが、「政府の大規模な助成なしには、熱源を短期に変更することは不可能」という見方を取っている。
つまり現状では、グリーン水素の価格競争性の低さがアキレス腱(けん)になっている。現在のところ、グリーン水素を普及させるには、政府が助成金を出して、生産費用と市場価格の間のギャップを埋めることが不可欠と言えるだろう。
ちなみにドイツ政府はグリーン水素を最優先にしているが、ブルー水素の使用についても含みを残している。その場合、CCS(炭素貯留技術)によって、水素生産時に発生するCO2を大気中に放出しないことが条件になる。
ただしドイツ政府は、原子炉からの電力を使って生産されるレッド水素の使用には反対している。同国は今年4月15日に脱原子力を完遂したからだ。(これに対し発電量の約70%を原子力に依存するフランス政府は、レッド水素をグリーン水素同様、地球温暖化の抑制に貢献する水素と見なしている)
水素輸送には、既存のガスパイプラインを改修して使う
第2期(2025~2032/2035年・構築段階)
BDEWによると第2期は、2032年から2035年ごろに水素の基幹系統や、長距離・短距離のパイプラインが完成するまで続く。基幹系統とは、水素を輸入港または水電解設備から、メーカーや家庭に輸送するパイプラインのことだ。全国規模で水素を普及させるうえで欠かせない。
ドイツのガス業界は、インフラ建設費用を最小限に抑えるために、現在使われている天然ガスの輸送パイプラインを改修して、水素の輸送に使う方針だ。天然ガスを輸送するパイプラインの網の目は、ルール工業地帯など、重厚長大産業が多いドイツ北西部で密になっているので、この輸送ルートを水素のために使用するのだ。ただし、ドイツのガス業界は、新設が必要になる部分もあると考えている。
たとえばドイツの長距離天然ガス輸送企業の団体であるFNBガスが最近公表した計画書によると、ニーダーザクセン州のヴォルフスブルク付近には、新しい水素パイプラインが建設される予定だ。その理由は、欧州最大の自動車メーカー、フォルクスワーゲン(VW)の本社工場がここにあるからだ。
同社は、自動車の生産ラインで使う電力や暖房用の熱を供給するために、1939年以来、主に石炭を使う熱電併給型発電所(コジェネ)を敷地内に持っていた。VWは2011年に石炭火力発電設備を天然ガス火力発電設備に更新した。将来同社はCO2の排出量をさらに減らすために、水素だけを発電所の燃料として使うことを計画している。このためヴォルフスブルクに水素のパイプラインが新設されるのだ。
第2期には、外国からの最初の本格的な水素供給が始まり、水素関連プロジェクトが拡大される。またドイツでは、北部を中心に大規模な天然ガスの地下貯蔵設備が使われているが、将来これらの備蓄設備は、水素の貯蔵のためにも使われる予定だ。
独エネ業界はグリーン水素生産費用の下落を想定
第3期(2032/2035~2040年・浸透段階)
BDEWは、「政府と業界は2035~2040年までに市場メカニズム、つまり需要と供給のバランスに基づいて機能する水素市場を構築するべきだ」と主張する。2040年までには、政府の水素関連事業のための助成プログラムも終了する。
この時期には、水素の生産は需要に反応しておこなわれ、再エネ電力の発電費用が低下するとともに、水素生産費用も下落する。ドイツ製造業界の約99%を占める中規模企業(ミッテルシュタント)の大部分が水素の供給を受ける。ドイツの水素のための基幹系統は、EU全体の水素系統の中に組み込まれる。
BDEWはこのシナリオの中で、将来水素の調達価格が下がることを想定している。実際IEAも、将来はグリーン水素の生産費用が下落すると予想している。たとえばIEAによると、2021年には陸上風力発電設備を使ったグリーン水素の生産費用は、1キログラムあたり約3.9ドル~約8ドルだったが、2050年には1キログラムあたり約1.8ドル~約3.9ドルに下がると予想している。洋上風力発電設備、太陽光発電設備を使ったグリーン水素についても価格が下がると見られている。
IEAによる、将来のグリーン水素の生産費用に関する予測
第4期(2040年以降・良好に機能する水素市場の完成)
BDEWは、2040年までに水素市場を完成させ、スムーズに機能させることを目指している。この時期には需要をカバーするために十分な量の水素と派生物質(グリーン・アンモニアや、水素を使う合成燃料)が生産され、取引される。水素と派生物質の市場が確立され、デジタル・プラットフォームを使った取引市場も完成する。水素のためのインフラが完成し、欧州全域を結ぶ水素系統が水素を消費者や企業に届ける。
アンドレー専務理事は、「水素に関する透明性を高めるために、EUは、水素がどのようなエネルギーを使って生産されたかを示す認証制度を確立してほしい。さらに、電力や天然ガスと同じように、水素を卸売市場で取引するための枠組みを整備することも重要だ」と訴えている。
ドイツのエネルギー業界が水素市場を構築するための前提は、水素の調達である。次回は、ドイツ政府とエネルギー業界が将来水素をどのようにして調達しようとしているのかについてお伝えする。
◇
この連載の筆者・熊谷徹さんの最新刊『次に来る日本のエネルギー危機』(青春出版社)が2023年8月に出版されました。
ロシアのウクライナ侵攻で、エネルギー危機の瀬戸際に追い詰められたドイツ。熊谷さんは、ドイツの経験は原油の9割以上を中東からの輸入に依存する日本にとっても「他人事ではない」と指摘します。著書では、ウクライナ侵攻で起きたドイツ経済の混乱ぶりを紹介するとともに、日本が同様のエネルギー危機を避けるためにとるべき施策を提言しています。
詳細は青春出版社のウェブサイトをご覧ください。
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