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コパ・アメリカだけのスターたち― スポニチ Sponichi Annex サッカー
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【コラム】西部にしべ謙司けんじ

コパ・アメリカだけのスターたち

[ 2019ねん6がつ23にち 18:00 ]

 生涯しょうがい1000ゴール以上いじょうをゲットしたストライカーは何人なんにんかいるが、そのなかでも最多さいた得点とくてんしゃがアルトゥール・フリーデンライヒである。1329得点とくてん、しかし記録きろくははっきりしておらず1239得点とくてんというせつもある。その場合ばあいは、1281得点とくてんのペレが史上しじょう最多さいたとなる(こちらもはっきりしていないところがあるが)。

 フリーデンライヒはそののとおり父親ちちおやがドイツじん母親ははおやはアフリカけいのブラジルじん当時とうじ、ブラジルでサッカーをプレーできるのは白人はくじんだけだったが、ドイツじんをひきグリーンのひとみだったためにゆるされていたという。フリーデンライヒを国民こくみんてきスターにしたのが1919ねんのコパ・アメリカだった。

 だい1かいだい2かい大会たいかい連覇れんぱしたウルグアイをやぶ決勝けっしょうゴールをゲットし、ブラジルはつ優勝ゆうしょうのヒーローになった。「とら」のニックネームでおそれられた。おそらく当時とうじ世界せかい最高さいこうのプレーヤーをようしていたサンパウロFCは欧州おうしゅう各地かくち転戦てんせん、フリーデンライヒは「サッカーおう」ともばれた。しかし、つぎのコパアメリカには出場しゅつじょうしていない。ブラジル大統領だいとうりょう白人はくじんだけのブラジル代表だいひょう編成へんせいするようにめいじたからだった。ちなみに30ねんはじまったワールドカップにもていない。ブラジルは出場しゅつじょうしていたが、選手せんしゅ全員ぜんいんリオデジャネイロのクラブ所属しょぞくだった。サンパウロとリオの対立たいりつはげしく、サンパウロFCに所属しょぞくしていたフリーデンライヒはそのためにワールドカップにけなかったのだ。史上しじょう最多さいた得点とくてんしゃはワールドカップではプレーせず、コパ・アメリカだけでかがやいたスーパースターだった。

 1942ねんと46ねん、ワールドカップはだい世界せかい大戦たいせん影響えいきょうで2大会たいかい開催かいさいされていない。もし、その2大会たいかいおこなわれていたら、優勝ゆうしょう候補こうほはアルゼンチンだったといわれている。そのころのアルゼンチン代表だいひょうはリーベルプレートの選手せんしゅ中心ちゅうしん当時とうじのリーベルは「ラ・マキナ」(機械きかい)の異名いみょうをとった、史上しじょう最強さいきょうともいわれるアタックラインをようしていた。

 CFのアドルフォ・ペデルネーラは、いわば元祖がんそファルソ・ノエベ(にせ9ばん)だった。みぎウイングにファン・アルロス・ムニョス、ひだりがフェリックス・ロウスタウ。ライトインナーのホセ・マヌエル・モレノが司令塔しれいとうで、もし開催かいさいされなかったワールドカップにプレーしていたら世界せかいてきなスーパースターになっていただろう。コパアメリカには3かい優勝ゆうしょうしている。インサイドレフトのアンヘル・ラブルーナは大柄おおがら馬力ばりきのある点取てんと、ラ・マキナの得点とくてんおうだった。ただ、有名ゆうめいなユニットのわりにリーベルで5にん勢揃せいぞろいしたのは18試合しあいしかない。アルゼンチンリーグがゼネストに突入とつにゅうして中断ちゅうだんしてしまい、5にんはそれぞれ国外こくがい移籍いせきするなどバラバラになってしまったのだ。リーベルにはわかいアルフレード・ディ・ステファノもいたが、レギュラーポジションをとれずにクラブへされていた。のちにペデルネーラからポジションをうばいとるのだが、サッカー史上しじょうでペレ、ディエゴ・マラドーナとならぶディ・ステファノが、若手わかて時代じだいとはいえポジションをとれなかったのだからラ・マキナのすごさが想像そうぞうできる。アルゼンチンは41、45、46、47ねんと、この時代じだいのコパ・アメリカ5大会たいかいに4かい優勝ゆうしょうげていた。

 1995ねん大会たいかい優勝ゆうしょうしたウルグアイのエース、エンツォ・フランチェスコリは南米なんべい限定げんていのスターといえるかもしれない。

 フランチェスコリは80年代ねんだい初頭しょとうからマラドーナとなら南米なんべいだいスターで、ワールドカップにも2かい出場しゅつじょうしている(1986、1990ねん)。しかし、ワールドカップではそれほど活躍かつやくできなかった。ヨーロッパではラシン・パリ、マルセイユ(フランス)、カリアリ、トリノ(イタリア)で活躍かつやくしたが、マルセイユをのぞ所属しょぞくクラブがよわくてあまり印象いんしょうのこっていない。マルセイユ時代じだいのフランチェスコリはジネディーヌ・ジダンがあこがれていたことが後年こうねんられるようになった。ジダンは息子むすこに「エンツォ」のをつけたぐらいだ。ただ、ジダンがつね優勝ゆうしょうできるチームをえらんだのにたいして、フランチェスコリはチーム選択せんたくあやまったといわれている。リーベルへもどってからふたた栄光えいこうきずくのだが、南米なんべい限定げんていのスーパースターだったわけだ。

 コパ・アメリカには3かい優勝ゆうしょう(83、87、95ねん)。とくに最後さいごの95ねんはキャプテンとしてチームを牽引けんいんし、大会たいかいMVPにも選出せんしゅつされるだい活躍かつやくだった。エレガントなプレーぶりはエル・プリンチペ(王子おうじ)のネックネームがよく似合にあっていた。(西部にしべ謙司けんじ=スポーツライター)

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