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查理曼 - 維基大典 とべいたり內容

查理曼

ぶん維基大典たいてん
うまみかど查理いちせい
ごう 查理いちせい
なまそつ おおやけもとななよんねんいたりはちいちよんねん
家族かぞく よしみらくりん
そとごう查理曼
そうしょとおるだい聖堂せいどう
父親ちちおや 裴平
母親ははおや 勃刹剌后
うま皇帝こうてい
はち〇〇ねんいたりはちいちよんねん
先君せんくん西にしうまみかど慕路[いち]
嗣君みちえきいちせい
ほうらんかつおう
ななろくきゅうねんいたりはちいちよんねん
先君せんくん裴平
嗣君みちえきいちせい
りんともえだいおう
ななななよんねんいたりはちいちよんねん
先君せんくん狄西とく
嗣君みちえきいちせい


うまみかど查理いちせいひしげちょうあや:Karolus Magnus),よしみらくりんおおやけもとななよんねんなまほうひと也。丕平つかまつ法王ほうおうためろうちゅうるいためこういたり曾祖そうそ丕平執政しっせい自稱じしょう大公たいこう查理こう,僭行封建ほうけん改號かいごうためよしみらくりんちち裴平[]もんおうきょう,乃廢おう自立じりつみかど儀容ぎよう英武ひでたけけんさとし謙遜けんそんあつしきょう好學こうがくぜん武功ぶこうしょうしたがえちちせい奎丹教練きょうれん騎兵きへいはじめようくら韉,屢立軍功ぐんこうななろくはちねんあき,裴平くずれのこみことのりどもおうとげあずかおとうとらくつぎ

ななろくきゅうねん奎丹ふく叛,おうちかしせいらくぶんきょぬの使つかい援而おう,乃有すきおう大勝たいしょう安國やすくにりん奎丹こういれ斯科涅。乃裂其土,分封ぶんぽうしょしょうため守之もりゆきつぎねんよくきた薩森めいともえとぎめとりん王女おうじょひろきゅうふくめと於日なんじ曼之けんおおやけきょうしゃなななないちねんらくぶんくずれ,其子ほしまましくらいおうもとなみおさむ其地。らくぶんつま忿,乃走りんこくななななさんねんせい薩森,げき西にし。薩森しゃにちしか曼人也。其民しょうこうはい鬼神きじん風物ふうぶつこと法人ほうじんときゆう四國しこく西にし西にし,鄰於ほうらんみなみ英利ひでとしせっともえとぎひがしひがしざいかわそときた曰挪どうまろうどよりどころにちとくらん.四國しこくしょう援,ひさおさむした

どきおうちゅうじょうひたすらかこえ[さん]ゆるがせ聞教廷使いたり,曰倫おうはんうまもとめそくすくいにわか而倫おう使いたりいいきょう宗之むねゆきあいだみみすすむ毋信おうだいいか,曰:よし大利おおとし乃宗せい,孰敢竊之。乃率ぐんりんはつ,裴平嘗征大利おおとしだつりん王土おうど以奉きょう廷,きょうむね善之よしゆき法人ほうじんりんおう趁王きた,窺復舊ふっきゅうまた懼王察之,乃出此謀。おうりつ騎兵きへいいれ山南さんなんいのちしたがえちちかいみなみとく先鋒せんぽう重圍じゅういりんきょうともえ維雅りん王子おうじ來援らいえん大敗たいはいおうこれ入海いりうみわたりはいうらないにわりんぐんとげ敢救。明年みょうねんはるおういたるうまきょうむねきょうむねふう山南さんなんあま西にしよしみしょ山南さんなんみな裴平也,きょうそうさいふうじかり神權しんけん以降いこうじん也。なつりんおうくだ,黜為庶人,れい出家しゅっけため修士しゅうしおう窺倫おうごうふく召倫こく舊臣きゅうしんらい諸侯しょこう唯唯ただただ,乃加ためりんおうどくかいあま維杜こうしたがえ歸國きこくあさ

歲末さいまつおうかえりともえはじむ使つかい法人ほうじんもりりんきょう。以長子ちょうし佩平ため太子たいしふう二子沛平為倫王,三子路易為亞奎丹王,ゆう軍功ぐんこうしゃみな封土ほうど,拱衛ほうこくいいさい邑。ななななねんさいせい薩森,えつ西にしはい英利ひでとし於西堡,とりこ其首なん西にしちく伊禮いれい堡鎮,薩森やややすななななろくねんさきりん王子おうじはかりごときゅうあずかとみとめこう斯波しばとしおおやけおこりごとかいあま維杜おおやけくら援之。おう往平とみ琉利こう斯波しばとしおおやけくだ結城ゆうき下之したのめいよくといかいあま維杜こう,薩森またみだれだい酋惠もりけんおちい伊禮いれい堡而焚之,りつみんふくはい鬼神きじんふくりつ騎兵きへいこれどきおうじんしょううまぐん,薩森じん不能ふのうてき大敗たいはいめぐみもりけんはしとくらんつぎねん往化きたおや布教ふきょう,薩森はじめたてまつ耶教。

ななななはちねん西にしはんまさらんなんじじん叛歸おうしかはらしゅうじん也,たてまつ回教かいきょう大食たいしょくみだれ白衣はくい大食たいしょくため黑衣くろごしょほろび,其裔剌滿わたりいたる西にしはんみやびよりどころふさが維城,而稱かくはなおうなんじじん怨,またこわ不敵ふてき剌滿,上表じょうひょう請降於王。おう受降ひょうりょうおやへい往撫またいのちりんぬのしょ鎮出たいらん以援。だしやまみなみよくげき剌滿。剌滿もり而不おう不能ふのうしょうほしあずかこれおうらんすすむせんくだりとげあずか剌滿退すさいたりりゅうふさが山路やまじ難行なんぎょう王命おうめいらん殿どのよしみみや涅公よくころせおうへいかさね其後,ぐん大敗たいはい部下ぶか請退,らん曰:「わがとう拱衛ちゅうぐんおう力戰りきせん退すさぞく不可ふか擾亂じょうらんぐんしん。」とげせんおう聞賊いたり,引兵すくいらんやめ

ななななきゅうねんじゅん西にし,於立かしわ佈道,おやためほどこせあらいななはちねん封建ほうけん薩森。おうさんねん布教ふきょうきたじんみな,乃令きん鬼神きじんたがえしゃしょ時人じじん尊公そんこうきょうしか其化ふかなおゆう不服ふふくしゃ,乃起はんあきめぐみもりけんかえし西にしあずか扶俚仙人せんにんめいこと泄,おう入費にゅうひ登城とじょう異教徒いきょうとよんせん餘人よにんつきほふこれ。薩森じんとげはんせんさんねんとりこもりめぐみけん,其部乃降。ねんおもね奎丹おうみなみせい泰隆やすたかななはちろくねんおもねとおるちくだい聖堂せいどう

ななはちななねんせいかいあま維杜,かこえかいきょうかいこうくだくだ為藩ためはんよし大利おおとし乃靖。ときゆう匈奴きょうどひがしらいよりどころはんしゅう自稱じしょうおもねはな。其人ぶん部落ぶらく遊牧ゆうぼくことさんこう劫掠ごうりゃくつね擾巴とぎゆうわたりかわよくおかせよし大利おおとしななはちきゅうねんおうきたじゅんえき北河きたがわちょみつぎともえとぎあさとげざいとうおもえこうしつとく,逐之,りょう其土。つぎねんせいおもねはなおうきたぐんかわがい,焚居なり使つかいりんおうかすめはんしゅうななきゅうねん西にしさい叛,使つかいちょこばめこれひがし及英とぎなみおこりおう乃棄匈奴きょうど往平かいあま維杜また叛,かいこうやめ薨,其子吉利よしとし茂德しげのりつぎ,趁王せい匈奴きょうど而叛。かいおおやけぜいだいりんおう不能ふのうしょうとげあずかもと獨立どくりつよし大利おおとしさんしつ其一。

ななきゅうよんねんひら西にしさいおもねはなかすめ其王ちょう無數むすう,其酋おやいたりきょういのち奉公ほうこうきょう。仍封ためあせおさむはんしゅうななきゅうねんきょうむねくずれ主教しゅきょうおくつぎさんせいななきゅうななねん奎丹おうせい西にしはんみやびいたりともえふさが守將しゅしょうくだつぎねん不能ふのうもりふくため剌滿所有しょゆうななきゅうきゅうねんうまらんゆうぞくよくがいきょうむねいくとげ白楊はくようもん隨從ずいじゅうすくいほうこく請救。おうよくむかえ而不けつ英人ひでとあいおんすすむ,乃迎きょうむね於峇德本とくもとはち〇〇ねんふゆにゅうたいらみだれきょうむねふくりつ

どきおうにゅう馬城ばじょうひらぞくみだれりつほういむあきら軍民ぐんみん不犯ふぼんにんみな善之よしゆきあるかたりおう曰教むねよく勸進かんじんおう固辭こじ。耶誕,おうのぞむわたる撒於かれとく殿どの,跪於堂下どうしたきょうそう金冠きんかん其首,ふうためうまみかどおうしょうよくやめきょうそうすすむ曰:「うま淪陷,帝室ていしつ東遷とうせん,棄民顧,へんやす一隅いちぐう今更いまさら奸佞かんねいさくみだれきさきみやせいはい皇帝こうてい東京とうきょう法王ほうおうむべとう大寶たいほう,以統東西とうざい兩朝りょうちょういち江山えやま而復もとぎょう。」おうかた受,しょう天佑てんゆう至尊しそん太平たいへいうま皇帝こうていある曰羅ぶんこくよんひゃくねん東西とうざいかくなり一統いっとう法王ほうおうすべ西國さいこくおうため西にしみかどきょうむねたい曰:「くにすべ雖貳,而國たいなおいち西にしみかどしつすべひさ矣,おもんみひがしみかどつぎすべいたりいまいまかかなん而失法王ほうおうぞく國體こくたい而成だいすべため天下でんかどもぬし。」ひがしみかどきみひろしひのとしんふとしきさきとうせい自稱じしょう皇帝こうていいいしつみつる

あずまふとしきさき聞帝新立しんだてほしあずかれん姻,きょう天下でんかみかどもといくひがしあさみだれしょうあまもとはく逐太きさき而稱みかどはちさんねんみかどじゅんはんしゅうはいおもねはなしょ酋,つき其地,乃接ひがしあささかいひがしみかどいのち關守せきもり使つかい海軍かいぐん擾義大利おおとしふう航路こうろぜっしょうたび西國さいごくにちひんみかどいのちはつさかい銀山ぎんざんぬさはい黃金おうごんぎょうせいきょうふく商賈しょうこはちよんとしあま內亂,きょ賈殺總督そうとくくだみかどつぎねんおもねはな請徙於維也納,かわ沿皆內屬,北邊ほくへんやややすし

みかどじゅんよんさかいこうぬのおおやけきょうまたみことのりもとめけん四方しほう才能さいのう,咸集きょうなかそくしつらえかん教授きょうじゅ文章ぶんしょうれい子弟してい習之。みかどしょう好學こうがくせいのり,識辭,而從ぐん經年けいねんややへりくだぶんさい。乃師あいおんがく文辭ぶんじしたがえあいおん天文てんもんりゃくどおりななげい

はちいちねんりんおうこうひがしあさうみしみやまし,薨於あま斯。りんおう嫡子ちゃくし,嘗與つかまつおんなどおりゆういちみかど使つぎつぎねん奎丹おうあずか剌滿,劃やまためかい山北やまきた內屬。ねんはい太子たいし與太よた薨。はちいちねんあずかひがしみかどひがしみかど以伊寨易あま斯。はちいちさんねんさつ奎丹おうため太子たいしみことのり入朝にゅうちょうためふくみかどつぎねん正月しょうがつ廿にじゅういちくずし於宮ちゅうねんななじゅうそう聖堂せいどう,殯儀したがえ簡,後人こうじんえき以石かんいちいちねんこむらとくれつみかどせいきん槨再殮之。

さん曰:「みかど軍功ぐんこう赫赫かくかくきゅうごう諸侯しょこうつぎみつるひらきせいひらきみん而衛宗教しゅうきょうれいけん下士かし恢復かいふく文雅ぶんがさら大功たいこうみかどまことぶんまことたけ後人こうじんしょうおうしゅうおうちちまこと不為ふため。」

[]
  1. みかどりつきょうむねいいつぎひがしうまきみひろしひのとろくせいくらい,而今じん以帝きょ西國さいこく,以為つぎ西にしみかどみつる
  2. 丕平及裴ひらめあずかみかど沛平,みな同名どうめい法文ほうぶんさくPépin。
  3. 即今そっこんみかどやす維爾はつ裴平築城ちくじょう而都於此。