仆散师恭(?—1161年ねん),本名ほんみょう忽ゆるがせ土ど。金かね朝あさ将はた领。上京じょうきょう(今いま黑くろ龙江省しょう哈尔滨市阿おもね城ぐすく区く)老ろう海うみ达葛人じん。
金きむ熙宗时仆散忽ゆるがせ土ど为宿卫十じゅう人にん长。皇すめらぎ统九きゅう年ねん(1149年ねん)十二月じゅうにがつ初はつ九きゅう日にち,在ざい值宿日び,跟随海うみ陵りょう王おう完かん颜亮与あずか徒と单阿里さと出で虎とら于寝殿どの刺とげ杀熙宗むね,拥立完かん颜亮。他た担任たんにん左ひだり副ふく点てん检,赐铁券。转任都と点てん检,改名かいめい师恭。仆散师恭做为杀死金きん熙宗拥立完かん颜亮为帝的てき重要じゅうよう成なり员,是ぜ海うみ陵りょう王おう一朝いっちょう的てき重臣じゅうしん。迁会宁牧,拜はい太子たいし少しょう师、工こう部ぶ尚なお书,封ふう王おう。贞元元年がんねん(1153年ねん),为枢密すうみつ副使ふくし,进枢くるる密使みっし。贞元三さん年ねん(1155年ねん),为右みぎ丞相じょうしょう兼けん中ちゅう书令。正隆まさたか元年がんねん(1156年ねん)拜はい太ふとし尉じょう,复为枢くるる密使みっし。正隆まさたか六ろく年ねん(1161年ねん),仆散师恭率りつ军伐西にし夏なつ。之これ后きさき奉たてまつ命いのち镇压契ちぎり丹に撒八起おこり义,辞じ别徒と单太后きさき,徒と单太后きさき与あずか师恭抱だき怨完颜亮向こう南みなみ迁都、南みなみ征ただし南みなみ宋そう,导致北方ほっぽう契ちぎり丹に叛乱はんらん。高福たかふく娘むすめ极力夸张地ち把わ仆散师恭与太よた后きさき的てき谈话报给了りょう完かん颜亮,说太后きさき如何いか对皇帝こうてい不ふ满,仆散师恭又また怎样同意どうい太ふと后きさき的てき意い见等等とう。于是完かん颜亮更さら加か痛恨つうこん太ふと后きさき与あずか仆散师恭,杀害了りょう太ふとし后きさき。召回仆散师恭,将はた他た诛杀。
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