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瞿曇僧伽提婆 - 维基百科,自由的百科全书

瞿曇そうとぎひさげばば

重定しげさだこうそうとぎひさげばば

そうとぎひさげばば(Saṃghadeva),またつくそうとぎひさげそう迦禘ばば意譯いやく“眾天”,せい瞿曇罽賓ひとすすむちょう时期著名ちょめい佛教ぶっきょう高僧こうそうため毗曇むねざい中國ちゅうごくてき始祖しそ

简介

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そうとぎひさげばばがくどおり三藏さんぞうせい於《おもね毘曇しんろん》,つね誦《さん法度はっとろん》。 ぜんはたたてはじめなかいた長安ながやすでんよう佛法ぶっぽうすけそうとぎばつきよしばば須蜜けい》。けんもと19ねん(383ねんおもね毘曇はち揵度》,ゆかり竺佛ねんつてやく[1]けんもとまつふとしもとじゅうねん(385ねんあずか冀州沙門しゃもんほうらいいた洛陽らくようよし逐漸せいじゅく漢語かんごぽうさき前出ぜんしゅつけいゆう乖失。ざいほう請託せいたく改訂かいていさきぜんざいみちやすわけ場所ばしょてきおもね毘曇はち揵度》、《鞞婆すなおもね毘曇》。

ふともとじゅうろくねん(391ねん),そうとぎひさげばば慧遠えおんこれ邀前らいいおりやま翻譯ほんやく佛經ぶっきょう重譯じゅうやくばとばつひさげ(Kumārabuddhi)所出しょしゅつてきおもね毘曇しんろん》及《さん法度はっとろん[2][3]あずますすむりゅうやすし元年がんねんそうとぎひさげばばゆうけんぎょうこん南京なんきん),頗受すすむしつ王公おうこう及風りゅう名士めいしたかししんじ,曾為ひがしていこうおう講說こうせつおもね毘曇たかしやすねん(398ねん),ゆかり罽賓沙門しゃもんそう伽羅きゃらまた(Saṃgharakṣa)えびすほんそうとぎひさげばば受託じゅたくでんやくちゅうおもね含經ろくじゅうかん[4],這是ちゅうおもね含的だいやく後期こうきけいろくしょうそうとぎひさげばば也重やくりょうぞういちおもね含經じゅういちかん現代げんだい研究けんきゅうしゃみとめためたださく改訂かいてい,而未重譯じゅうやく[5][6]

參考さんこう文獻ぶんけん

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  1. ^ おもね毘曇じょだいきゅう〉:「以建もとじゅうきゅうねん。罽賓沙門しゃもんそう迦禘ばば。誦此けい甚利。まい長安ながやす比丘びくしゃくほう請令ふつねんやくでんとしりょくそうしげひつ受。其指よんがつじゅうにちいたりじゅうがつじゅうさんにち乃訖。」
  2. ^ 高僧こうそうでん》:「請難ひさげ譯出やくしゅつなか》、《增一ますいちおもね含》,并先所出しょしゅつ《毘曇しん》、《さん法度はっととう,凡一ひゃくろくかんふつねんでんやくとしかさひつ受,なつまではる綿めんわたるりょう文字もじかた。……むかしやす法師ほうしざいせき,請曇なん提出ていしゅつおもね毘曇しん》。其人ぜんすすむげん,頗多うたぐとどこおこうゆう罽賓沙門しゃもんそうとぎひさげばば博識はくしき眾典,以晉ふともとじゅうろくねんらいいたり潯陽。とお請重やくおもね毘曇しん》及《さん法度はっとろん》,於是がく乃興,并製じょしめぎはじめ,貽於學者がくしゃ

    (《さんぞうしゅうてきおもね毘曇しんじょだいじゅう」於此ごと記載きさいため:「しゃく和尚おしょうむかしざいせきちゅうれいばとばつ提出ていしゅつ此經。其人閑晉ほんなんやくとげかくれ而不でん……及見ひさげばば。乃知ゆう此偈。」,則道のりみちやす所謂いわゆるぜんすすむげんしゃおうゆびばとばつひさげ(Kumāra-buddhi),而非《高僧こうそうでんしょしょうてきくもりなんひさげばとばつひさげ曾出《四阿あずまや鋡暮しょうかい》,そくさん法度はっとろんことやく,《おもね毘曇しょうそくおもね毘曇しんことやくよし此「さき所出しょしゅつ《毘曇しん》、《さん法度はっと》」,ばとばつひさげしょこぼし,而非くもりなんひさげ。)
  3. ^ さんぞうしゅう·ちゅうおもね含經》:「むかししゃく法師ほうし於長安出やすいでちゅうおもね》、《ぞういち》、《おもね毘曇》(はつさとしろん)、《こうせつ》(だい毗婆すなろん)、《そう伽羅きゃらまた》、《おもね毘曇こころ》、《ばば須蜜》、《さん法度はっと》、《眾從解脫げだつえん》(はな奈耶),此諸けいりつ凡百ぼんぴゃくあまりまんことなみたがえほんしつむねめい不當ふとう俙屬あじまたりょうよしやく人造じんぞうぜんすすむげん使つかいなんじみみかいつばめしん交戰こうせんせきちゅう大亂たいらん,於是りょうたくみ以弗改正かいせい。乃經すうねんいたり關東かんとう小清こせい,冀州道人どうじんしゃくほう、罽賓沙門しゃもんそうとぎひさげ招集しょうしゅう門徒もんと,俱遊らく邑,よんねん中研ちゅうけんこうとげしらげ,其人ややあかつき漢語かんごしかこう乃知さきしつ也。於是,かず乃追恨先しつそくしたがえひさげさらおもね毘曇》及《こうせつ》也。これ,此諸けいりつややみなやくただしただちゅうおもね含》、《そう伽羅きゃらまた》、《ばば須蜜》、《したがえ解脫げだつえんさらみみ。……しかこう乃以すすむりゅうやすし元年がんねんひのととりとしじゅういちがつじゅうにち,於楊しゅう楊郡たてやすしけんかいざい其精しゃさら此中おもね含。」
  4. ^ 高僧こうそうでん卷一けんいち:“そうとぎひさげばば此言眾天。あるうんひさげおとなまり也。本姓ほんせい瞿曇。罽賓じん入道にゅうどう修學しゅうがくとおもとめあかりがくどおり三藏尤善阿毘曇心。ほら其纖むねつねさん法度はっとろん晝夜ちゅうや嗟味。以為入道にゅうどう也。ためじん俊朗としろうゆうふかかん。而儀とめぬるきょうつとむざい誨人。まことまことだるけんもとちゅうにゅう長安ながやすせんりゅうほうはつそうとぎばつきよしばば須蜜及曇なんつつみ所出しょしゅつ二阿含毗曇廣說三法度等凡百餘萬言。ぞく慕容なんえびすてき紛擾ふんじょうけんやく人造じんぞうぜんしょう悉。むねあじ往往おうおう不盡ふじんにわか而安こう棄世改正かいせいこう山東さんとうきよしひらひさげばば。乃與冀州沙門しゃもんほう俱適洛陽らくようよん年間ねんかんけんこうぜんけいきょはなややせき博明ひろあき漢語かんごほうともさき所出しょしゅつけいゆう乖失。ほう慨嘆がいたん未定みてい。乃更れいつつみばばおもね毘曇及廣せつ眾經。ころ姚興おうしん法事ほうじ甚盛。於是ほういれせき。而提ばば渡江とのえさきいおりやま慧遠えおん法師ほうし。翹勤妙典みょうでんひろしゅう經藏きょうぞう虛心きょしんがわせきのべ望遠ぼうえんまろうど。聞其いたりとめそく請入いおりだけ。以晉ふともとちゅう請出おもね毘曇こころさん法度はっととうひさげばば乃於般若はんにゃだい梵文ぼんぶんこうせんすすむはなそん實務じつむつきほんいま所傳しょでんぶた文也ふみやいたりたかし安元やすもと年來ねんらいゆう京師けいしすすむちょう王公おうこう及風りゅう名士めいし莫不づくりせき致敬。ときまもるぐんひがしていこう瑯琊おう珣淵懿有ふかしん正法しょうぼう建立こんりゅう精舍しょうじゃこう招學眾。ひさげばばすんでいたり。珣即のべ請。仍於其舍こうおもね毘曇。名僧めいそう畢集。ひさげばばむね致既せいむねあかり析。はつ義理ぎり。眾咸えつさとるときおうわたるまたざい聽。こう於別こう。珣問ほうつな道人どうじん阿彌あみ所得しょとくうんなにこたえ曰。大略たいりゃくぜんしょうせいかくみみ。其敷析之あかりえきけい人心じんしん如此。其冬珣集京都きょうとがく沙門しゃもんしゃくとしとうよんじゅう餘人よにんさら請提ばば重譯じゅうやくちゅうおもね含等。罽賓沙門しゃもんそう伽羅きゃらまた梵本。ひさげばばこぼしためすすむげんいたり來夏らいかかた訖。其在江あるえらく左右さゆう所出しょしゅつ眾經ひゃくあまり萬言まんげん歷遊れきゆうはなえびす備悉風俗ふうぞく從容しょうよう警善於談笑だんしょう。其道聲譽せいよ莫不聞焉。こう不知ふちしょおわり。”
  5. ^ 水野みずのひろしもとぞう一阿含經解說》:現存げんそんぞう一阿含經並非曇摩難提所譯,而係けいそうとぎひさげばば改譯かいやくしゃしかのりそうとぎひさげばばなんなん改譯かいやく呢?大周たいしゅうかんていろくさくたかしやす元年がんねん(さんきゅういち)いおりやまやく」(大正たいしょうよんa)、ひらくもとろくまたりゅうやすし元年がんねん正月しょうがつあずかなんひさげほん小異しょうい」(大正たいしょうa)。常盤大ときわだいていざいやくけいそうろく(はちはちはちさんいちぺーじ)ちゅうみとめためがかりざいそうとぎひさげばばいたりいおりやままえあずかほうざい洛陽らくよう共同きょうどう改譯かいやくてき
  6. ^ しるしじゅん原始げんし佛教ぶっきょう聖典せいてん集成しゅうせい》:「くもりなんひっさげげん譯本やくほんそうとぎひさげばば改正かいせいほん可能かのう曾同流行りゅうこうただしただはつ譯本やくほんあずか重治しげはるほん,而決ぼつゆうことべつほんてき差別さべつ。如現けいそうとぎひさげばば改正かいせいほんきょうよんななけい;而道やすじょ所說しょせつくもりなんつつみ譯本やくほん,也是『よんひゃくななじゅうけい』。みちやすせつ下部かぶじゅう五卷失其錄偈』,今本いまもとてきろく』,也是參差しんし不全ふぜんてき所以ゆえんそく使ゆうりょうほん流行りゅうこう,也只小異しょうい』而已。はりだいしょしゅうてきけいりつ異相いそう》,引有《ぞういちおもね含經》いちのりただし不足ふそく證明しょうめいくもりなんつつみほんさらなん證明しょうめいためせつ一切いっさいゆうほん。」