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天德军 - 维基百科,自由的百科全书

天德てんとく

天德てんとくはつ大安だいあん一作いつさくてんやす军),隶属于唐关内どう丰州,其两处治しょみな于今うちこうむふるともえ彦淖尔市山山やまやまみなみふもとあずかぜん地区ちくてきたけ为中ばんから时期(755ねん—907ねんからあさ北方ほっぽう边疆てき重要じゅうよう军事つくえ构。やすみだれきさきかい鹘汗こく一直未能对唐朝造成较大威胁,而天とく军与たけ军的防御ぼうぎょにん务不じゅう,驻军りょう也较西北せいほく地区ちくてき西にし银川平原へいげんしょう主要しゅようこれかい鹘对からあさ胁远吐蕃严重。天德てんとく军置ゆう防御ぼうぎょ使职,いん驻军りょうから朝河あさかわ套军镇中最少さいしょうてきいち个军镇,实力也比かわ套东平原へいげんてきたけ军弱,一直也未能像振武军一样升格为节度。最早もはやてき天德てんとく军节使はじめ见于911ねんてききさきはり时期。からあさ前期ぜんきかわ内外ないがい驻防じょうぐんからだつきついたちかた节度使统管,きさき驻防じょうぐんからだぶん别划归于なつしゅう天德てんとく军和たけ军四个方镇统辖,なり区域くいき社会しゃかい稳定てきもとせき[1][2][3]

历史

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からだい天德てんとく

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天德てんとく军最初治はつじ所在しょざい北城ほくじょううちこうむふる乌梁もとうみじょう),749ねん张齐おか于可あつしじょういまないこうむふる乌拉とくちゅうはたぬるさらみなみおおかみやまやまおけよこ寨军,同年どうねんちゅう受降じょうやす北都ほくと护府しょ于此じょうあつししろ乃可贺敦じょう误,为突厥语皇后こうごうじょう。753ねんやすおもえ顺与かくそう弃横ふさが军,请于大同だいどうかわ以西いせい筑一城置军为朔方根本,并拟以中受降、东受降じょう连振たけ军为左翼さよく以西いせい受降じょう连天とく军、てい远军为右ひじさく为东西にしいち线的かわ防御ぼうぎょ体系たいけい,755ねん筑毕おけ军,からげんむね赐名大安たいあん军,为其军镇しょそく天德てんとく军城。ひさいんやすみだれかく仪奉调征讨,ただとめ老弱ろうじゃくもり此城,为つばめはたそうぼしほしおさむやぶ,纵火焚毁,しょう天德てんとく军都防御ぼうぎょ使迁驻西にし受降じょう改名かいめい天德てんとく军,临时安置あんち军马于永きよし栅(いちさくえい济栅,いまないこうむ乌梁もと海南かいなんがん),北城ほくじょうとげ废弃。[1][4][3]

813ねんゆかり于河套泛滥,西にし受降じょう城南じょうなん黄河こうが河水こうすい冲毁。天德てんとく军都防御ぼうぎょ使しゅう怀义上表じょうひょう请修筑,おさむ费为21まん贯。围绕おさむじょう还是迁徙,かんしん们发せいりょうそう执。814ねんざいよしはじめてきけん议下,いん迁城费比おこりおさむじょう费要しょうとくただとめ天德てんとく军1千人守西受降城内城及月城,しょうあまり军及防御ぼうぎょ使往驻天德てんとくしろまた以3万馀家迁移至北城城内,此后,天德てんとく军一ちょく驻在北城ほくじょうちょくいたとうまつ[4][3]920ねん辽太阿保あほつくえ,领军おさむ天德てんとく军城,节度使そうよう投降とうこうさら其名为为应天军,はん师。ひさそうよう复叛,阿保あほつくえさいつぎ出兵しゅっぺい,俘宋よう,迁其ぞく及天とく军吏みん于东阴山山やまやま脉的だい青山あおやまみなみふもとよし辽对经营きさき地区ちく颇感こま难,とくしょう其统范围こう东收缩,はた丰州天德てんとく军治しょ迁至ぜん地区ちくいまないこうむふるよび和浩かずひろとく附近ふきん)。[5]

辽天とく

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916ねん辽置西南せいなん招讨,920ねん丰州东迁きさき,为其しょ,隶属于西京にしぎょうどう,此后またざい丰州以远设置りょういち些州、军,形成けいせいりょう辽在西南せいなん地区ちくてき统治网。辽在丰州おけゆう天德てんとく军为其军额,节度使颓刺于983ねんざいりつへいとう(时为てい难节使)时与其子战死。つきかん辽对かわ套统范围こう东收缩,ただし西南せいなんぼう务方めん也感いたちから从心。1122ねんざいかねへいてき进攻辽天祚帝きょうこう西にし逃亡とうぼう,曾反复经过天とく军,其路线大致从こん大同だいどう经呼和浩かずひろとく过渔阳岭しかきさき进入夹山。

きむ天德てんとく

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辽朝灭亡きさき天德てんとく军的西にしなつうらないすえかねあさかん颜亮在位ざいい时期とげ撤销其建おけ

经济

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やすみだれきさきかい鹘汗こく对唐あさ胁远如吐しげる严重,而在ちゅうばんから时期现了きた疆河套地区ちく战事はん较西套的银川平原へいげんしょうざい这种じょう况下,からあさ就看うえりょうきさき地区ちく这里广袤万里的良田以求发展农业,对经济ゆう很大发展。ただしきさき地区ちく中原なかはらはら悬远じんけむり稀少きしょう,也是历来とうあさめん配流はいる处,并以此来证这さと一定いってい数量すうりょうてききょみんいん此这也是农业发展てきいち重要じゅうようてき原因げんいん[4]きさき地区ちくうらないすえしょう对优えつてき条件じょうけんあずか自然しぜん环境。以河きょくがい围驻ぼうじょう而言,ぜんゆう贺兰やま,阴山山やまやま脉作为巨だいてき天然てんねんへいさわきさきゆう黄河こうがてん堑作为依たく山河さんが间土地平ちへい衍而肥沃ひよく水利すいり资源丰饶,受唐あさじんこう评,并反映はんえいりょう丰州じょう西にし受降じょう天德てんとく军城とう驻防城所きどころ处军ごと地理ちり条件じょうけんあずか自然しぜん环境适宜。[1]

天德てんとく军地处回鹘汗こくよう冲,也是草原そうげん丝绸みちてき必经からあさざいしんなだめしゅういたり天德てんとく军设ゆうしん馆11しょ,对使しゃ南下なんかなつしゅう灵州提供ていきょう便利べんり。此外,ゆかり于回鹘汗こく草原そうげん丝路てき中心ちゅうしんさく为丝绸之てきくるる纽与ちゅう转站,西方せいほうてきしょうたびようざい这里停留ていりゅういん此从ちゅう获利しょう,并给社会しゃかい增加ぞうかりょうきょ额财とみかい鹘人以马匹こうとうあさ换取丝绸,从而也就刺激しげきりょう畜牧业生产的迅速じんそく发展,此后兴起りょう经商风,そく迹远いたりちぎりたんかず中原なかはら地区ちく,并且ざいさと长住らいだいあわとく商人しょうにんらいとうあさ进贡てき西方せいほう使者ししゃいた西域せいいきてきとうあさしょうたび使节以此为ちゅう转站,かい鹘也便びんどう吸收きゅうしゅう东、西にし文化ぶんか,为跻いたていきょしき民族みんぞく行列ぎょうれつおこりりょう重要じゅうよう作用さよう[7]

遗址

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天德てんとく军城

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天德てんとく军城てき具体ぐたい位置いちざいいまないこうむ额尔とうぬのひしげかく苏木北境きたざかい,乌梁もとうみ东侧てきじょう古城こじょう,1933ねんいん洪水こうずい淹没ざい乌梁もとうみこんてんやめ不能ふのういたすえげんじゅうざい该地老人ろうじん,其城甚大じんだい当地とうち人称にんしょう为土じょうやすみだれ间,该城贼将そうぼしほししょ毁,よし天德てんとく军城疮痰复,とげうつり驻西受降じょう所部ところぶへい安置あんちざいえいきよし栅,そくずい大同だいどうじょういまないこうむふる乌拉とくぜんはた北部ほくぶ乌梁もと海南かいなんがん),ちょくいたり814ねんじゅうけん天德てんとく军城,防御ぼうぎょ使とげかい驻旧じょう[1][8]

1976ねん考古こうこ队在该地附近ふきん发现りょう一座いちざからはかはかこころざし铭文记死しゃめいおう逆修ぎゃくしゅなま前任ぜんにん天德てんとく防御ぼうぎょおそれこうだんきさきそう于天とく军城南原なんばらさと。张郁ざいうちこうむ文物ぶんぶつ考古こうこ》1981年刊ねんかん载的《唐王とうのう逆修ぎゃくしゅこころざし铭考释》 すえ1976ねんてき实地调查结果,しゅ确定乌梁もとうみ东岸てきじょう为故天德てんとく军城遗址てき具体ぐたい所在しょざい[1][8]

铭文记载りょうはかこころざし主人しゅじん于823ねんいんしみやまし家人かじん从良てき事情じじょうしょ4にん为51岁的汉婢张净とく,为前使金吾きんご大夫たいふ赏得,及其10岁女じゃくちぎり婢蕃めいしんてき铃,此婢汉名おうはるつばめ,14岁,あずかはかぬしつま贾氏为女;おとこ春子はるこ12岁,改名かいめいおうあきら铉,あずかはかぬしだい三子王昌鉷为弟。はかこころざし主人しゅじんやまし笃而释放奴婢ぬひ从良,ざい积阴とくおさむ来世らいせまたおそれきさき孙反复,请人しょう解放かいほう奴婢ぬひごと预先记录于自己じこてきはかこころざしわかゆう纠纷,让原奴婢ぬひ张净とくとう掘出ほりだしいれそうはかこころざし放免ほうめんてきすえつげかん[9]

えいきよし

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天德てんとく所属しょぞくてきえいきよし栅(あるなが济栅),在天ざいてんとく军城西南せいなん三里处隋大同城东北。遗址于今乌拉とくぜんはた额尔とうぬのひしげかく苏木さかい,乌梁もとうみ东南,そくじょう遗址西南せいなん1.5公里くり处。[1]

参考さんこう文献ぶんけん

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  1. ^ 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 1.5 もぐさ冲,论唐だい河曲かまがり内外ないがい驻防じょうぐんからだてき分布ぶんぷ及其对北疆民ぞく关系てき作用さようとう论丛だいじゅう辑,2008ねん
  2. ^ 利平りへいちゅうばんとうきょう西北せいほくはち镇考,中国ちゅうごく历史地理ちり论丛,2004ねんだい19かんだい2辑。
  3. ^ 3.0 3.1 3.2 天德てんとく军旧ざい西にし受降じょう,权置军马于永きよし栅,元和がんわ九年诏移理旧城……天宝てんぽうはちねん,张齐おかまた于可あつしじょうおけよこふさが军,またちゅう受降じょううつりよこふさが军。じゅうねんやすおもえ顺奏废横ふさが军,请于大同だいどう川西かわにし筑城おけ军,げんむね赐名曰大やす军。じゅうよんねん,筑城こう毕,うつり大安たいあん军理焉。いぬいもときさきあらため为天とく军……とげ西南せいなんうつり三里さんり,权居えいきよし栅,其理しょまたうつざい西にし受降じょうきさき频为河水こうすいしょおかせいたり元和がんわはちねんはる黄河こうが泛滥,しろ南面なんめん毁坏转多,防御ぼうぎょ使しゅう怀义上表じょうひょう请修筑,约当钱21まん贯。ちゅう书侍ろうたいらあきらごとよしはじめみつ便宜べんぎ以西いせいじょう费用いたり广,また难施こう,请修天德てんとくきゅうしろ以安军镇,其大りゃく曰:「ふく以西いせいじょう开元じゅうねん张说しょ筑,こん河水こうすいらいおかせやめ毁其はんしんりょう其事势,不堪ふかんじゅうおさむわか别筑新城しんじょう……した30まん贯钱……しろ南面なんめんそく为水しょ坏,其子じょう犹坚ろうりょうとめいちせんにんあしとく住居じゅうきょ天德てんとく军士,ごう抽居きゅうしろ,岂可さら劳版筑,きょ弃钱ぶつわか三城みき国家こっかもりせいひとしすなおきゅう规,また须得天德てんとく添兵,しかきさき有人ゆうじんおさむ筑。按天とくきゅうしろざい西城さいじょうただし东微みなみいちひゃくはちじゅう,其处见有两城。いまえいきよし栅,そくずい大同だいどうきゅうしろ本城ほんじょうさんやめしろ甚牢しょう……北城ほくじょう周回しゅうかいいちじゅうこうよんたけしも阔一たけななしゃく天宝てんぽうじゅう二载安思顺所置……天宝てんぽうちゅうやすおもえ顺、かく仪等ほん筑此じょう,拟为ついたちかた根本こんぽん,其意以中じょう、东城连振たけ左翼さよくまた以西いせいじょう、丰州连定远为みぎひじ……诚长久之ひさゆき规也。寻属ろくやま有事ゆうじ仪留老弱ろうじゃく于此じょうりつだい众河きた讨贼,为贼はたそうぼしほししょやぶ,纵火焚烧,とげうつり天德てんとく军永きよし栅,别置しょ于西じょう……しんひさ访略やめ计料,约修此城,过2まん贯钱。こんわか于天とくきゅうしろずいごとぞう饬,いんゆううつり换,仍取じょう隶于天德てんとく军,别置使めい为雄镇,以张ごえ势,讋殊邻。」诏从,于是复移天德てんとく军理しょ于旧じょう焉……及新じょうほどこせこうにちとげゆうさん万馀家移止城内……及是远近奔凑,边军えきたけし人心じんしんとげやす。《元和げんなぐん县图こころざし·まきよんじゅういち·关内どうよん·丰州
    はち载。于木剌山おけよこふさが军城。及移やす北大きたおお护府于永きよし栅北筑城。あらため横山よこやま为天とく军。《とうかいよう·まきななじゅうさん·やす北都ほくと护府
    またゆうよこふさが军,ほんあつしじょう天宝てんぽうはち载置,じゅう载废。西にし百里大同川有天德军,大同だいどうがわ西にしゆうてんやす军,みな天宝てんぽうじゅう载置。天德てんとく军,いぬいもときさき徙屯なが济栅,大同だいどうじょう也。元和がんわきゅうねん宰相さいしょうよしはじめそうおさむ复旧じょうきた有安ありやす乐戍。西にし受降じょう。开元はつ为河しょ圮,じゅうねん,总管张说于城东别おけ新城しんじょうきたさんひゃくさとゆう鸊鹈いずみ。《しんから书·まきさんじゅうなな·地理ちりいち·关内どう·丰州
    天德てんとく军,本中ほんなか受降じょうから开元ちゅう废横ふさが军,おけてんやす军於大同だいどうがわいぬいもとちゅうあらため天德てんとく军,うつりなが济栅。《辽史·まきよんじゅういち·地理ちり·西京にしぎょうどう·丰州
    ふゆじゅうがつからしおさむ天德てんとくみずのととり,节度使そうようくだ,赐弓矢ゆみやくら马、旗鼓きこさら其军曰应てんかぶといぬはん师。そうよう复叛。へい,拨其じょうとりこそうよう,俘其ぞく,徙其みん於阴山南さんなん。《辽史·まき·ほん·ふと
    うえいたるすすむ阳宫,召张承业诸しょうとう议讨つばめ谋,诸将またうんよろしみのり其恶。うえれい押衙戴汉ちょうぼくせい及六镇书如幽州,其辞曰:「天祐てんゆうはちねんさんがつじゅうななにち天德てんとく军节使そうようたけ节度使しゅういさおあきら义节使嗣昭、えきてい节度使おう处直、镇州节度使おう镕、かわ东节使なお书令すすむおう谨奉さつ进卢龙横うみとう军节、检校大尉たいいちゅう书令、つばめおう为尚书令、なおちち。」がつろく镇使いたり,汴使またしゅう。《きゅうだい·からさん·しょうむね纪一
  4. ^ 4.0 4.1 4.2 だいひろしつかさ马光资治どおり鉴唐纪考异一则辫证,せき整理せいり研究けんきゅうがくかん,2001ねんだい1
  5. ^ 樊文れい,辽代てき丰州天德てんとく军和西南せいなんめん招讨ないこうむ大学だいがくがく报哲がく社会しゃかい科学かがくばん,1993ねんだい03
  6. ^ から刺史ししこうぜん编》
  7. ^ 陈俊谋,试论かい鹘路てき开通及其对回鹘的かげ响, 中央ちゅうおう民族みんぞく学院がくいんがく报,1987ねんだい02
  8. ^ 8.0 8.1 おう北辰ほくしんないこうむきさき平原へいげんてき儿个历史地理ちり问题,ないこうむ社会しゃかい科学かがくぶんあきらばん,1989ねんだい05
  9. ^ 赵振华,とうだいやつ仆林そんはかこころざし研究けんきゅう远方出版しゅっぱんしゃ,2006ねん