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尚元王 - 维基百科,自由的百科全书

なおもとおう

重定しげさだこうなおもと

なおもと琉球りゅうきゅうなおもとショーグヮン Shō Gwan ?;1528ねん—1572ねんこれ琉球りゅうきゅうこくだいしょう王朝おうちょうだいだい國王こくおうだいよんだい國王こくおうなお清王せいおうてきだい王子おうじ。1556ねんいたり1572ねん在位ざいいかみごうにちはじめ按司添琉球りゅうきゅうにちはじめ按司添ティダシアンジシー Tiidashi Anjisii)。わらわめいきむ千代ちよ琉球りゅうきゅうきむ千代ちよカニチヨ Kanichiyo),一作いっさくつる千代ちよ琉球りゅうきゅうつる千代ちよチルチヨ Chiruchiyo)。

なおもとおう
だい14だい琉球りゅうきゅうこくちゅう山王さんのう
だいしょう王朝おうちょうだい5だい國王こくおう
在位ざいい期間きかん1556ねん-1572ねん
前任ぜんにんなお清王せいおう
つぎにんなおながおう
尚元王
なおもとおうてき
こうもと小橋川こばしがわちょうやす於1796ねん
宗主そうしゅこく 明朝みょうちょう
年號ねんごう よしみやすし
りゅうけい
さつふうねん 1562ねん
せいさつふう使 けいきゅうごとちゅうかくなんじ
ふくさつふう使 行人こうじんさいはる
姓名せいめい なおもと
ふうごう 久米くめ中城なかしろ王子おうじ
わらわめい きむ千代ちよいちさくつる千代ちよ
かみごう にちはじめ按司添
出生しゅっしょう 1528ねん
よしみやすしななねん
逝世 1572ねん(43—44さい
りゅうけいろくねんよんがつはついち
陵墓りょうぼ たまりょう
父親ちちおや なお清王せいおう
母親ははおや おもえぜにきん按司こころざし
和志かずし聞得大君おおきみこころざし
夫人ふじん 久米くめ具志川ぐしかわ按司志良しろうれいわらわめい眞鍋まなべだるきんごう雪嶺せつれい
ぜん東之ひがしの按司わらわめい眞鍋まなべたるきんごううめみね
南風みなみかぜ按司わらわめいしんだるごうみなみしも
ちょく王子おうじ おもねおう利屋とぎやめぐみ王子おうじなおひさし
わき王子おうじ 久米くめ具志川ぐしかわ王子おうじなおかんはくちょうどおりはは雪嶺せつれい
金武かなたけ王子おうじ尚久なおひさははうめみね
嫡王おんな くびさと大君おおきみ按司こころざしごう一枝かずえ

よりどころ中山なかやま記載きさい[1]なおもとはらただしなお清王せいおう生前せいぜん指定していてき繼承けいしょうじんただし1555ねんなお清王せいおうほうかずらあきら城間しろま親方おやかた秀信ひでのぶ)、かずため國頭くにがみ親方おやかた景明かげあき)卻突しか變心へんしんよく擁立ようりつなお清王せいおうだいよんなおかんこころためくんほうもうりゅうぎん新城しんじょう親方おやかたやすもとひさげ薙刀なぎなた叱責しっせきにん群臣ぐんしんゆう支持しじりゅうぎんしゃいん此和、かずら二人畏懼而不敢複言。於是ひさしもとざい繼承けいしょうけん爭奪そうだつちゅう勝利しょうりなみ於次ねん即位そくい。1559ねんはたためりゅう久米島くめじまかずらあきらりゅう伊比いび屋島やしま[2]1562ねんよしみやすしよんじゅういちねん),明世あきよむね派遣はけんけいきゅうごとちゅうかくなんじ行人こうじんさいはるためさつふう正副せいふくさつふう使ふうひさしもとためおう

なおもとおうからだじゃく多病たびょう常常つねづね無法むほう正常せいじょう管理かんり國事こくじためりょう保證ほしょう朝政ちょうせいてき正常せいじょう運行うんこう琉球りゅうきゅうおう推舉りょう三名法司為其代理。したがえ琉球りゅうきゅうおう府中ふちゅうほうてき人數にんずう定例ていれいためさんめい,這三名法司被統稱為「さんつかさかん」。[3]朝政ちょうせい基本きほんじょう掌握しょうあくざいりゅうぎんとうさんつかさかんしゅうらいん此尚もとおうしょう人為じんい「啞巴國王こくおう」(琉球りゅうきゅうチーグーおう)。 なおもとおう死後しご,三司官的制度被保留了下來。

なおもとおう在位ざいい期間きかん琉球りゅうきゅうあずか明朝みょうちょう保持ほじ良好りょうこうてき外交がいこう關係かんけいつぎ送還そうかん漂流ひょうりゅういたり琉球りゅうきゅうさかい內的中國ちゅうごくせんみん。1565ねんよしみやすし44ねん),やまとさかい琉球りゅうきゅうざい北山きたやま地區ちくため琉將ていみやこところはいなおもとおう使つかいはたやまと寇虜てき中國人ちゅうごくじんこう送還そうかん明朝みんちょう

なおもとおう也曾いちあずか日本にっぽん薩摩さつまはん保持ほじ良好りょうこうてき關係かんけいしか而在1570ねんいたり1572ねん雙方そうほう關係かんけい出現しゅつげん兩次りょうじ危機きき。1570ねん薩摩さつま島津しまつ貴久たかひさてき使者ししゃゆき和尚おしょういたり琉球りゅうきゅう要求ようきゅうなおもとおうこう薩摩さつま朝貢ちょうこう,遭琉かた拒絕きょぜつ島津しまつだいいか煽動せんどう奄美あまみ大島おおしま酋長しゅうちょう發動はつどう叛亂はんらんなみこう奄美あまみ派遣はけん軍隊ぐんたいきゅう奄美あまみてき酋長しゅうちょう提供ていきょう軍事ぐんじじょうてき支持しじ。1571ねんなおもとりつせん五十餘隻御駕親征,ざい奄美あまみ大島おおしま兩次りょうじあずか薩摩さつまぐん交戰こうせんはい薩軍,俘殺叛變てき酋長しゅうちょうかえりぐん途中とちゅうなおもとおうびょう危,さんつかさかんうま順德じゅんとく國頭くにがみ親方おやかた正格せいかくたいてんいのり禱愿だいおう久尚ひさなおもとおう竟果しかやまいいよいよなおもとおうだいため感動かんどうふう順德じゅんとく之子ゆきこため按司しょう國頭くにがみ御殿ごてん世代せだい襲爵しゅうしゃく

1572ねん4がつ1にち,45さいてきなおもとおうびょう逝,次子じしなおひさしつぎ

家族かぞく

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  • ちち なおきよし
  • はは おもえぜにきん按司こころざし
  • 和志かずし聞得大君おおきみこころざし廣德寺こうとくじ浦添うらぞえ親方おやかたおんなまごごううめだけだいさんだい聞得大君おおきみ
  • 夫人ふじん
    • 久米くめ具志川ぐしかわ按司志良しろうれいわらわめい眞鍋まなべだるきんごう雪嶺せつれいちちため幸地こうじむら翁長おなが大屋おおや
    • ぜん東之ひがしの按司(わらわめい眞鍋まなべだるきんごううめみねちちためいちせい新城しんじょう親方おやかたやすもともうりゅうぎんそう於玉りょう
    • 南風みなみかぜ按司(わらわめいしんだるごうみなみしもちちためさんせい豊見城とみぐすく親方おやかたもりいさおもうみのるそう於玉りょう
  • 子女しじょ
    • 長子ちょうし なおかんはく久米くめ具志川ぐしかわ王子おうじちょうどおりまもるとくひさ御殿ごてんいちせいははため雪嶺せつれい庶子しょしとくりつ
    • 次子じし なおひさしおもねおう利屋とぎやめぐみ王子おうじははため
    • 三子みつご 尚久なおひさ金武かなたけ王子おうじちょうこう金武かなたけ御殿ごてんいちせいははためうめみね
    • 長女ちょうじょ くびさと大君おおきみ按司こころざしごういちえだ高級こうきゅうしゅくおんなくびさと大君おおきみ)、ははため小祿おろく御殿ごてんさんせいなおこれつまなおやすしこれはは

註釋ちゅうしゃく參考さんこう資料しりょう

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  1. ^ 中山なかやま·まきなな·なお清王せいおう
  2. ^ 中山なかやま·まきなな·なおもとおう
  3. ^ 柯喬Okinawa: The History of an Island People,Tuttle 出版しゅっぱんしゃ
なおもとおう
前任ぜんにん
なお清王せいおう
だいだいだいしょう王朝おうちょう國王こくおう
1556ねん—1572ねん
つぎにん
なおながおう
前任ぜんにん
なお清王せいおう
だいじゅうよんだい琉球りゅうきゅうこくちゅう山王さんのう
1556ねん—1572ねん
つぎにん
なおながおう