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尚思紹王 - 维基百科,自由的百科全书

なおおもえ紹王

重定しげさだこうなおおもえ

なおおもえ琉球りゅうきゅうなおおもえショーシショー Shō Shishō ?;1354ねん—1421ねんため琉球りゅうきゅう王國おうこくだいいちしょう王朝おうちょう初代しょだい國王こくおう,1406ねんいたり1421ねん在位ざいいかみごうきみ志真しまぶつ琉球りゅうきゅうきみ志眞しまぶつきみ志真しまぶつチミシマムン chimishi mamun)。

なおおもえ紹王
だい3だい琉球りゅうきゅうこくちゅう山王さんのう
だいいちしょう王朝おうちょうだい1だい國王こくおう
在位ざいい期間きかん1406ねん—1421ねん
前任ぜんにんたけやすし
つぎにんなおともえこころざしおう
宗主そうしゅこく 大明だいめい
年號ねんごう 永樂えいらく
姓名せいめい なおおもえ
かみごう きみ志真しまぶつ
出生しゅっしょう 1354ねん
出生しゅっしょう 南山みなみやま王國おうこく佐敷さしきあいだきり新里あらざとむら
逝世 1421ねん(66—67さい
逝世 くびさとじょう
陵墓りょうぼ 佐敷さしき極樂ごくらくりょう
父親ちちおや 鮫川さめかわだいあるじ
母親ははおや 大城おおしろ按司おんな
美里みさとおんな

本名ほんみょうおもえ紹,なおせいため來所らいしょたまもの父親ちちおや鮫川さめかわだいあるじほんためかべ住人じゅうにん後來こうらい遷居いたり佐敷さしきあいだきり新里あらざとむらてんあずか大城おおしろ按司これおんなせいなおおもえ紹。なおおもえ紹成ねんこれ,遷居苗代なえしろむら人稱にんしょう苗代なわしろだいおや」(琉球りゅうきゅう苗代なわしろだいおやナーシルウフヌシ Naashiru Uhunushi)。よしためじん資質ししつじゅんあつし」,百姓ひゃくしょう推戴すいたいため山南さんなんこく南山なんざんこく佐敷さしき按司後來こうらいなおおもえ紹見嫡子ちゃくしなおともえこころざしゆう治世ちせいやすみんのう」,於是讓位じょういきゅうともえこころざし自己じこそく退すさきょ養老ようろう

1406ねんなおともえこころざしげきはいちゅう山王さんのうたけやすしたてまつおもえ紹為ちゅう山王さんのうなおおもえ紹以ともえこころざしため世子せいしれい其執てのひら政權せいけんちゅう山國やまぐに逐漸強大きょうだいおこりらい。1407ねんなおおもえ紹派さんりょうむかい明朝みょうちょう朝貢ちょうこうあきら永樂えいらくみかどふうなおおもえ紹為ちゅう山王さんのう。1416ねんなおおもえ紹遣世子せいしなおともえこころざしおさむめつきた山國やまぐに

なおおもえ在位ざいい期間きかん,也與暹羅しゃむ保持ほじ良好りょうこうてき外交がいこう關係かんけい。1420ねんなおおもえ紹遣使者ししゃけいともえ通事つうじりょうふくとうひといた暹羅しゃむこく,以行通交つうこうれい

なおおもえ紹死そう於第一尚氏家族的祖墳佐敷さしき極樂ごくらくりょう佐敷さしきようどれ於今南城なんじょう[1]佐敷さしき仲上なかがみげんうら[2]如今該地區ちくため日本にっぽん航空こうくう自衛隊じえいたい知念ちねんぶんたむろ管轄かんかつ

家族かぞく

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  • ちち 鮫川さめかわだいあるじ
  • はは 大城おおき按司おんな
  • いもうと じょうてんしゅく

腳註

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  1. ^ 地區ちくげんぞく佐敷さしきまち,2006ねん併入南城なんじょう
  2. ^ 沖縄おきなわ文化財ぶんかざい 互联网档あんてきそんそん档日2011-08-25.

參考さんこう資料しりょう

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なおおもえ紹王
初代しょだいだいいちしょう王朝おうちょう國王こくおう
1406ねん-1421ねん
つぎにん
なおともえこころざしおう
前任ぜんにん
たけやすし
だいさんだい琉球りゅうきゅうこくちゅう山王さんのう
1406ねん-1421ねん
つぎにん
なおともえこころざしおう
前任ぜんにん
たけやすし
中山なかやまてき統治とうちしゃ
1406ねん-1421ねん
つぎにん
なおともえこころざしおう