尚なお稷きび(?—1434年ねん)是これ琉球りゅうきゅう國こく第だい二に尚しょう氏し王朝おうちょう建立こんりゅう者しゃ尚なお圓えん之これ父ちち。
尚なお稷きび出生しゅっしょう在ざい伊是名島いぜなじま首くび見みる村むら(一作いつさく諸見しょみ村むら),人稱にんしょう伊平屋いへや里さと主ぬし。相傳そうでん他た是ぜ義ぎ本ほん的てき後裔こうえい,一說いっせつ為ため天孫てんそん氏し後裔こうえい。尚なお稷きび之の父ちち是ぜ伊平屋いへや大だい主ぬし,有ゆう一いち弟おとうと名めい叫さけべ向こう元もと輔(銘めい苅かり親方おやかた朝あさ烈れつ),一妹名叫多嘉屋田阿武。他た與あずか瑞雲ずいうん結婚けっこん,生なま有ゆう一いち女じょ二に子し:阿武あぶ加か那な志こころざし、尚なお圓えん、尚なお宣せん威い。
尚なお稷きび與あずか夫人ふじん瑞雲ずいうん都と於1434年ねん(宣せん德とく9年ねん)死去しきょ,葬そう於伊是名いぜな玉だま陵りょう(英えい语:Izena Tamaudun),當時とうじ尚なお圓えん還かえ年とし幼よう。1699年ねん(康かん熙38年ねん),由ゆかり於尚稷きび是ぜ尚なお圓えん王おう之の父ちち,因いん此被追つい尊みこと為ため王おう。尚なお稷きび、尚久なおひさ、尚なお懿三人的牌位被尊稱為「花王かおう」,[1]同どう歷代れきだい國王こくおう牌ぱい位い一起かずき被ひ供奉ぐぶ於圓覺寺えんかくじ[2](一說いっせつ安置あんち於崇たかし元もと寺てら)[1]。1719年ねん(康かん熙58年ねん),經けい久米くめ村むら的てき奏請そうせい,三人被剝奪王爵、降くだ稱しょう「公おおやけ」,尚なお稷きび公こう、尚久なおひさ公おおやけ神主かんぬし遷往天王寺てんのうじ(英えい语:Tennō-ji (Okinawa))供奉ぐぶ,尚なお懿公神主かんぬし遷往天界てんかい寺てら供奉ぐぶ。[1]