徒と单镒(?—1214年ねん5月がつ26日にち),本名ほんみょう按出。女おんな真人しんじん。金かね國こく宰相さいしょう。
1173年ねん,以女おんな真しん进士,入にゅう仕つかまつ为翰林かんりん侍さむらい讲。金きむ章あきら宗むね即位そくい后きさき,任にん吏部侍さむらい郎ろう、御ご史し中ちゅう丞すすむ、参まいり知ち政事せいじ,监修国史こくし,后きさき任にん尚なお书右仆射。1192年ねん,出で京きょう任つとむ横よこ海うみ军、平ひら阳军的てき留守るす使し,同どう平たいら章あきら事ごと,封ふう济国公こう。不ふ满李り淑よし妃ひ专权,被ひ迫せり离京,先さき后きさき在ざい京きょう兆ちょう府ふ(今いま西安しーあん)、东京、上京じょうきょう任にん职。在ざい成吉せいきち思おもえ汗あせ南下なんか时,徒と单镒任にん丞相じょうしょう,负责拱卫金きむ中ちゅう都と。金かね宣せん宗むね即位そくい後ご封ふう廣こう平郡へごおり王おう,世襲せしゅう猛もう安やす謀はかりごと克かつ。1214年ねん,金きむ宣せん宗むね意欲いよく南みなみ迁汴京,徒と单镒极力劝谏,認みとめ為ため「銮辂一いち动,北きた路ろ皆みな不ふ守もり矣!」。宣せん宗むね不ふ听,徒と单镒愤愤而死。徒と单镒著ちょ有ゆう《弘道こうどう集しゅう》。
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