撒敦(?—1335年ねん),译名又また作さく合ごう散ち、哈散。元朝がんちょう大臣だいじん,钦察人ひと,元もと顺帝时中书左ひだり丞相じょうしょう。床ゆか兀儿第だい四よん子し,燕つばめ铁木儿的てき弟おとうと弟おとうと。
撒敦在ざい蒙こうむ古こ语是ぜ亲戚、亲属的てき意思いし。致和元年がんねん(1328年ねん),泰やすし定てい帝みかど死し于上うえ都と(今いま内うち蒙こうむ古こ自治じち区く正せい蓝旗东闪电河北岸ほくがん),撒敦奉たてまつ兄あに长燕铁木儿之召,从上都と还大だい都と(今いま北京ぺきん市し),共同きょうどう拥戴元もと武たけ宗はじめ子こ怀王图帖睦むつみ尔为帝みかど,即そく元もと文ぶん宗むね。与あずか即位そくい上じょう都と的てき元もと天てん顺帝阿おもね速はや吉きち八はち对峙,随ずい燕つばめ铁木儿率军于榆林、蓟州、白しろ浮、檀まゆみ子こ山やま等地とうち连败上うえ都と王おう禅ぜん、不ふ花はな、塔とう失しつ帖じょう木き儿统帅之の兵へい。以功历任宣せん徽使、知ち枢密院すうみついん事こと等とう职,赐号答こたえ刺とげ罕。至いたり顺三さん年ねん(1332年ねん),元もと宁宗即位そくい,任にん御ご史し大夫たいふ。元もと统元年がんねん(1333年ねん),元もと顺帝即位そくい,为中书左丞相じょうしょう、太ふとし傅でん,受封荣王,食しょく邑庐州(今いま安徽あんき省しょう合ごう肥こえ市し)。元もと统二に年ねん(1334年ねん)四よん月がつ,加か开府仪同三さん司つかさ、上うえ柱ばしら国こく、录军国重くにしげ事ごと。至いたり元もと元年がんねん(1335年ねん),撒敦卒そつ,至いたり元もと二に年ねん(1336年ねん),侄子唐から其势逆ぎゃく谋罪暴露ばくろ,撒敦被ひ籍せき没ぼつ家か财。
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