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晉簡文帝 - 维基百科,自由的百科全书

すすむ簡文みかど

东晋皇帝こうてい

すすむ簡文みかど司馬しば(320ねん—372ねん9がつ12にち),みちまん河内かわちぐんゆたかいま河南かなんしょうこげ作市さくいちゆたかにんすすむあさてきだい14だい皇帝こうてい东晋てきだい8だい皇帝こうてい。东晋开国皇帝こうていすすむもとみかどてき少子しょうしはは郑阿はる

すすむ簡文みかど
統治とうち372ねん1がつ6にち(农历うえねんじゅういちがつ)-9月12にち(250てん
出生しゅっしょう320ねん
逝世372ねん9がつ12にち(372さい—09—12)(51—52さい
やすそう
高平たかひらりょう
年號ねんごう
咸安:371ねん十一月じゅういちがつ-372ねん
谥号
简文皇帝こうてい
庙号
ふとしむね
せいすすむあさ东晋

为人宽厚,性情せいじょう温和おんわふか沉,ゆう智慧ちえ气度,爱好きよし谈。永和えいわ元年がんねん辅佐きよしみかどじゅうななねんまたざいあいみかど、废帝临朝てききゅうねんちゅうみな总揽あさ权,实际じょう执政さんじゅうねん,而最きさきただとうりょう两年皇帝こうてい。执政时期,くに无内みだれ,对外则把东晋てきばん图西扩至なり汉(こん四川しせんしょう东部,じゅう庆市全部ぜんぶうんみなみしょう、贵州しょうてきいち部分ぶぶん),きた扩至许、らく。且勤せい爱民,ぜん交友こうゆう名士めいし在学ざいがく文化ぶんか发展じょう也频ゆう口碑こうひ。其风みやび宽博给东すすむ带来りょういちだんやす宁。

咸安元年がんねん,桓温废海西にしこうたてつかさ马昱。咸安ねんつかさ马昱去,时年じゅう岁。谥号简文皇帝こうてい,庙号ふとしむね

生平おいだいら

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ふうかい稽王

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永昌えいしょう元年がんねん(322ねん),すすむもとみかどみことのりふう司馬しば昱為琅邪おう作為さくい自己じこにゅうつぎ大宗たいそう父親ちちおや爵位しゃくいてき繼嗣けいし咸和ねん(327ねんいん其母請求せいきゅうふくじゅう而改ふうかい稽王かんはいつねさむらい。咸和きゅうねん(334ねん轉任てんにんみぎ將軍しょうぐんさむらいちゅう咸康ろくねん(340ねんしんなでぐん將軍しょうぐんりょう祕書ひしょかんたてはじめ元年がんねん(343ねんりょうふとしつね

輔政しょうおう

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永和えいわ元年がんねん(345ねん),よしちょじょういちねんすすむかんみかどねんようてきすすむきよしみかどとうたかしとくふとしきさき褚蒜だきすすむきよしみかど臨朝。當時とうじ輔政てき驃騎將軍しょうぐんなにたかし希望きぼうよしふとしきさき父親ちちおや褚裒入朝にゅうちょう輔政ただしたいかたゆずる當時とうじ司馬しば聲望せいぼうだかます司馬しば昱為なでぐん大將軍だいしょうぐんろく尚書しょうしょろくじょうごとあずかなにたかし輔政。同年どうねん,荊州刺史しし庾翼ぜん請求せいきゅう以其庾爰せっだい其位,なにたかしのりぞくじょしゅう刺史しし桓溫だい庾氏掌握しょうあく荊州。司馬しば昱倚じゅうてき名士めいしりゅうじゅく悉桓あつしゆび桓溫雖然ゆう才幹さいかんただし也極有野ありのしん不能ふのうゆずきょ於荊しゅう這個ひかえせいちょう江上えがみゆうてき形勝けいしょう」,建議けんぎよし司馬しば昱親そと鎮荊しゅうあるゆかりりゅう自己じこにん荊州刺史しし司馬しば昱沒ゆう聽從ちょうじゅうりゅう惔的建言けんげん,桓溫にん荊州刺史しし獲得かくとくりょうだつけんてのひらせいてき資本しほん

永和えいわねん(346ねん),なにたかしひだりこう祿ろく大夫たいふ蔡謨りょうつかさけんろく尚書しょうしょろくじょうごとあずか司馬しば昱一どう輔政,司馬しば總理そうりまん,其實あずますすむ朝廷ちょうていてきけつさくしゃなにたかしけんりょうてきあげしゅう刺史しし此時出缺しゅっけつ,褚裒舉薦りょう名士めいしいんひろしいんひろしゆずるなみうつししんきゅう司馬しば說明せつめい理由りゆうただし司馬しば昱勸出仕しゅっし,四個月後殷浩終於出仕。つぎねん,桓溫ひらめつなりかん建立こんりゅう大功たいこうもち勢力せいりょくだいためひさげます同時どうじ也引來朝らいちょう內對其的忌憚きたん司馬しば決定けってい以殷ひろしこう衡桓あつし後來こうらいこうちょうくに內大みだれ,授殷ひろし以北いほくてき重任じゅうにんしか而殷ひろしきた失敗しっぱい,桓溫ざい永和えいわ十年借朝野對殷浩北伐失敗的不滿廢掉殷浩,司馬しば昱亦無力むりょくこう衡桓ゆたかだかみなぎてき力量りきりょうれいとく桓溫在朝ざいちょうちゅうどくだい

永和えいわはちねん(352ねん),みことのります司馬しば昱為つかさ司馬しば昱辭ゆずるきょうやすしさんねん(365ねん),琅邪おう司馬しば即位そくいためすすむ廢帝はいてい,琅邪こく嗣,すすむ廢帝はいていふう司馬しば昱爲琅邪おうあらため以司昱子司馬しば昌明まさあきためかい稽王。司馬しば昱辭ゆずる所以ゆえん仍以かい稽王ごうふう琅邪おうつぎねんみことのりしん司馬しば昱為丞相じょうしょうろく尚書しょうしょごと入朝にゅうちょう趨,さんはいけんくつ上殿かみどのたまもの葆,鼓吹こすい及班けんろくじゅうにん司馬しば昱又ゆずる

ふとしよんねん(369ねん),桓溫だい三次北伐大敗於ぜんつばめぜんはたれんぐんしゅう刺史しし袁真不堪ふかん桓溫しょ誣要上北かみきた失敗しっぱいてき責任せきにん而叛へん司馬しば昱在涂中あずか桓溫かいめんしょう討隨てき行動こうどう,以桓溫子あつこ桓熙ためしゅう刺史しし

のぼりはじめ为帝

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ふとやわろくねん十一月じゅういちがつおのれとり(372ねん1がつ6にち[1]だい司馬しば桓溫はい黜晉廢帝はいていため東海とうかいおうりつ百官到會稽王府奉迎司馬昱,司馬しば昱即即位そくいためみかどためすすむ簡文みかど改元かいげん咸安。桓溫及後就寫りょうこうやめ打算ださんこう司馬しば陳述ちんじゅつ自己じこ廢立はいりつてき本意ほんいただし司馬しば昱每接見せっけんとまりゅうなみだ,如此れい桓溫恐懼きょうく居然きょぜん不能ふのうせついちばなし

司馬しば昱的哥哥たけりょうおう司馬しばゆう軍事ぐんじ才幹さいかん桓溫しょ廢立はいりつひさ,桓溫就誣陷司馬しば謀反ぼうほんはた免官めんかん,及後さら逼令しん蔡王司馬しばあきら誣與司馬しば晞及庾倩とうひと謀反ぼうほん,以求翦滅ひねぐんいんかず穎川えいせん庾氏在朝ざいちょうちゅうてき勢力せいりょくずい桓溫指示しじちゅうすすむ司馬しば奏請そうせい司馬しば昱依りつほうしょ司馬しば晞,司馬しば昱不肯,したれいさいさく詳細しょうさい議論ぎろん。桓溫さいつぎ上奏じょうそうもとめ誅司晞,げんじゅうふんいむ厲急きり司馬しば昱於しゅみことのりきゅう桓溫,うつしどう:「わかはてすすむしつこく祚長ひさし麼你就應該依したがえはやまえてきみことのりいのち從事じゅうじ;如晉しつ大勢おおぜいやめ你就ゆずわが退位たいいゆずるけん吧。」桓溫流汗りゅうかんしょくへん敢再逼,ただ上奏じょうそうはい掉司晞和さんめいなみりゅう其家ぞく

いきどお辭世じせい

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司馬しば昱見熒惑いれふとほろかきよしすすむ廢帝はいていはいまたゆう同樣どうよう天象てんしょうじゅうふん不安ふあん,甚至たい桓溫おや信也しんや自己じこ昔日せきじつ僚屬てき郗超とい桓溫かいいやさいくだり廢立はいりつこと。郗超斷言だんげん桓溫かい這樣さく司馬しば昱仍じゅうふん感慨かんがいなみえい庾闡これ:「志士ししつうあさ危,忠臣ちゅうしんあいぬしはずかしめ。」司馬しば昱憂いきどお而得びょう[2]ざい咸安ねんなながつきのえとら(372ねん9がつ7にち[1]いんびょうきゅう召桓ゆたか入朝にゅうちょう輔政,桓溫すうゆずる司馬しば昱於ざいおのれ(9がつ12にち[1]だて司馬しば昌明まさあきため太子たいし同日どうじつざい東堂とうどう享年きょうねんじゅうさんさい臨終りんじゅうまえ司馬しば昱寫りょうのこみことのりよう桓溫しゅうこう先例せんれいさらうつし:「少子しょうし輔者輔之,如不可ふかきみこれ。」めんたい桓溫てき野心やしん,此舉いくきんゆずるこくおうひろしこれざい司馬しば昱面ぜんおやしゅ撕毀遺みことのり司馬しば昱說:「すすむしつ天下でんかただいん好運こううん而意がい獲得かくとく,你又たい這個決定けっていゆう甚麼いんも不滿ふまん呢!」おうひろし卻說:「すすむしつ天下でんかすすむせんみかどかずすすむもとみかど建立こんりゅうてき,怎由とく陛下へいか獨斷どくだん獨行どっこう!」司馬しば昱於いのちおうひろしあらためうつしのこみことのりうつしどう:「いえ國事こくじいち稟大司馬しば,如しょかずらたけこうおう丞相じょうしょう故事こじ。」桓溫其實また希望きぼう司馬しば臨終りんじゅう禪讓ぜんじょう帝位ていいきゅう自己じこまたあるものゆずぞうしゅうこう般居行事ぎょうじおうひろしあらためうつしてきのこみことのりれい桓溫だいしつ所望しょもう

司馬しば昱葬高平たかひらりょうびょうごうためふとしむねおくりなため簡文皇帝こうてい

性格せいかく特徵とくちょう

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  • 司馬しば昱崇なお清談せいだん長期ちょうきすわしるてきえびすゆかうえそく使せきりょう灰塵かいじん也不きよしいち司馬しば昱發現有げんゆうろうねずみはしえびすゆかてき痕跡こんせきさとしとく好事こうじさんぐんいたゆうろうねずみざいしろてんはしりょう出來でき,以ばんはたろうねずみころせ掉,司馬しば昱很こうきょう當時とうじ門下もんかてきぞく就檢舉殺ねずみてきじん,以圖えつ司馬しば昱,司馬しば昱卻せつ:「ろうねずみころせいた現在げんざいかえ不能ふのう忘記;而現在げんざいまたいんろうねずみ影響えいきょういた他人たにんあにさらおう該嗎?」其在よいこころげんがくこれあまりまた聰明そうめいゆうじんしん[3]
  • 司馬しば昱輔せい,一些政事拖了整年才得批准,桓溫さとしとくふとし慢,常常つねづね勸告かんこく司馬しば昱。ただし司馬しば昱卻せつ:「いちにちまん,怎能かい呀。」[4]
  • おう昔日せきじつ請求せいきゅうとう東陽とうよう太守たいしゅ司馬しば昱不こたえおう。及至おう濛病じゅう臨終りんじゅう司馬しば昱就悲哀ひあいせつ:「わがはたゆう於仲おう濛字)呀!」したれいいのち其為東陽とうよう太守たいしゅおう濛說:「ひと們說かい稽王しんこころ呀。」[5]

逸事いつじ

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  • 司馬しば昱看稻田いなだ不知ふち甚麼いんも,於是とい左右さゆう甚麼いんもそう左右さゆう於是こたえいね司馬しば昱事さんにちぼつゆう出外ではずれせつ:「哪有依賴いらい結果けっか不知ふち根本こんぽん。」
  • すすむしょ一次桓溫與司馬晞及司馬昱同車遊板桥,桓溫とくいのちじん吹響ごうかくれい馬匹ばひつ受驚狂奔きょうほん,藉此りょう人的じんてき反應はんのう司馬しば晞當だいおどろき而想下車げしゃ,而司昱就しょ泰然たいぜん。《せつ新語しんごまたゆう類似るいじ記載きさいゆうみとめため司馬しば晞既しか受桓ゆたかしょおうゆう如此反應はんのう,這是たいにちなりため皇帝こうていてき司馬しば昱的溢美いつびさく

大臣だいじん

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いえ

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すすむ簡文みかど家族かぞく
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
高祖父こうそふついみこと高祖こうそせん皇帝こうていつかさ马懿
 
 
 
 
 
 
 
曾祖父そうそふ琅邪たけおう司馬しば
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
高祖母こうそぼ扶风たいふく
 
 
 
 
 
 
 
祖父そふ琅邪きょうおう司馬しば
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
そと高祖父こうそふ高平たかひらこう诸葛诞
 
 
 
 
 
 
 
曾祖母そうそぼ琅邪たけ王妃おうひ诸葛
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
そと高祖母こうそぼ高平たかひらこう夫人ふじん
 
 
 
 
 
 
 
ちち ちゅうむねもと皇帝こうていつかさ马睿
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
そと高祖父こうそふ清明せいめいきよしこうなつほうたけし
 
 
 
 
 
 
 
そと曾祖父そうそふ清明せいめいていこうなつこうしょう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
そと高祖母こうそぼ清明せいめいきよしこう夫人ふじん
 
 
 
 
 
 
 
祖母そぼ琅邪きょう王妃おうひなつほうひかりひめ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
そと曾祖母そうそぼ清明せいめいていこう夫人ふじん
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ふとしそう简文皇帝こうてい司馬しば
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
そと曾祖父そうそふ临济县令郑合
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
外祖父がいそふやす太守たいしゅ郑恺
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
そと曾祖母そうそぼ临济县令夫人ふじん
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ははせんふときさきていおもねはる
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
外祖母がいそぼやす太守たいしゅ夫人ふじん吴氏
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

后妃こうひ

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  1. 简文顺皇后こうごう追贈ついぞうおう簡姬おうおんな,348ねんなま司馬しば道生みちお司馬しば俞生。
  2. えびすよしせい司馬しばいく司馬しばしゅせい
  3. おうよしなま司馬しばたかしりゅう
  4. りょうようはらただし婢女,簡文みかど生前せいぜん無位むいごう,簡文みかど死後しご其子追贈ついぞうよしふとしふとしきさきせいすすむこうたけみかど司馬しば曜、司馬しば道子みちこ鄱陽公主こうしゅ
  5. じょ貴人きじん生新せいしんやす公主こうしゅ司馬しばみちぶく。(《すすむしょさく貴人きじん,《すすむ中興ちゅうこうしょさくよしひめ

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  1. おもえ世子せいし司馬しば道生みちお司馬しば長子ちょうしはつたてため世子せいし永和えいわよんねん(348ねんあずか母親ははおやどう废,じゅうよん岁去
  2. 司馬しば俞生はや殇。
  3. 司馬しばいくじゅうなな岁去つい赠临かわけんじおう
  4. 司馬しばしゅせいはや殇。
  5. 司馬しばたかしりゅうはや殇。
  6. 太子たいし司馬しば昌明まさあき,咸安ねん(372ねんたて太子たいしきさきすすむこうたけみかど
  7. 司馬しば道子みちこ,咸安ねん(372ねんふう琅琊おうふとしもとじゅうななねん(392ねんあらためふうかい稽王,もとねん(403ねん桓玄どく杀,きさき谥文こう

おんな

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  1. 鄱阳公主こうしゅよめおうしるべ曾孫そうそんおう[6]
  2. しんやす公主こうしゅ司馬しばみちぶくさきよめ桓濟こうあらためよめ王獻之おうけんし[7]
  3. たけあきら公主こうしゅよめ桓脩

参考さんこう文献ぶんけん

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  1. ^ 1.0 1.1 1.2 中央ちゅうおう研究けんきゅういん りょうせんねんちゅう西曆せいれき轉換てんかん. sinocal.sinica.edu.tw. [2019-08-23]. (原始げんし内容ないようそん档于2018-06-15). 
  2. ^ ぞくすすむあき》:みかど外壓がいあつきょうしんいきどおとくこころざし在位ざいい兩年りょうねん而崩。
  3. ^ せつ新語しんご·言語げんごへん
  4. ^ せつ新語しんご·政事せいじへん
  5. ^ せつ新語しんご·かた正篇せいへん
  6. ^ 中華ちゅうかしょきょくみなみ·おう偃傳》校勘こうかんちょうもりみなみ校勘こうかん》:「《すすむしょおうしるべでん》以公ぬしため簡文みかどおんなこうたけしょうちょう公主こうしゅのりこうたけみかどいもうとおんな也。」
  7. ^ 太平たいへい御覽ごらんいち引《すすむ中興ちゅうこうしょ

外部がいぶ链接

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延伸えんしん阅读

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 すすむしょ/まき009》,出自しゅつじぼうげんよわいすすむしょ
すすむ簡文みかど
出生しゅっしょう于:320ねん逝世於:372ねん
統治とうちしゃあたま
前任ぜんにん
すすむ廢帝はいてい
司馬しば
(侄孫)
すすむちょう皇帝こうてい
371ねん-372ねん
つぎにん
すすむこうたけみかど
司馬しば
(三子みつご)
中國ちゅうごく南部なんぶ君主くんしゅ
371ねん-372ねん
中國ちゅうごく皇族こうぞく
前任ぜんにん
あに司馬しば
すすむちょう琅邪おう
322ねん-327ねん
つぎにん
司馬しばたけし