有明ありあけ町まち為ため臺灣たいわん日にち治ち時期じき臺北たいぺい市し之これ行政ぎょうせい區く,共とも分ぶん一いち~四よん丁目ちょうめ,位い於艋舺入船にゅうせん町まち之これ南みなみ。戰後せんご劃入龍山たつやま區く,包含ほうがん今いま臺北たいぺい市し萬まん華はな區く桂かつら林りん路ろ、西にし昌あきら街がい、西園にしぞの路ろ一いち段だん、華はな西にし街がい的てき一部いちぶ份。
昭和しょうわ18年ねん(1943年ねん)12月,臺北たいぺい帝國ていこく大學だいがく教授きょうじゅ金きむ關せき丈夫たけお於萬まん華はな有明ありあけ町まち發掘はっくつ貝塚かいづか。[1]