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李善長 - 维基百科,自由的百科全书

よしちょう

明朝みょうちょう开国丞相じょうしょう

よし(1314ねん—1390ねん7がつ6にち),ひゃくしつほりしゅうていこんぞく安徽あんきにん明朝みょうちょう開國かいこく功臣こうしん,曾任中書ちゅうしょしょう丞相じょうしょう本名ほんみょうもときさき避讳明太めんたいしゅもとあきら改名かいめい[1]

よしちょう
李善長

よし长像,しんだい上官じょうかんしゅうばんわらいどう传》

大明だいめい開國かいこく輔運推誠もり正文せいぶんしん
とく进光ろく大夫たいふひだりばしらこくふとし师中书左丞相じょうしょう
爵位しゃくい 韩国こう1371ねん11月29にち
ぞく 汉族
原名げんめい もと
ごう ひゃくしつ
諡號しごう じょう
出生しゅっしょう のべゆう元年がんねん(1314ねん
もと河南かなん江北こうほくとう处行ちゅう书省やす丰路ほりしゅうてい远县
逝世 ひろしじゅうさんねん(1390ねん(75—76さい)) 處決たまもの自盡じじん
あきらおうてん
おやぞく
かおるまご
しげるまご
著作ちょさく

监修《もと
ふとし训录》、《大明だいめいしゅうれい

よし长早ねんとうもたれしゅもとあきら,跟随せい战。曾担任たんにんてのひら书记、帅府ごと江南こうなんくだりちゅう书省たいらあきらまいり政事せいじ、吴国ひだり相国しょうこく比肩ひけん萧何明朝みょうちょう建立こんりゅうきさきにんちゅう书省ひだり丞相じょうしょう,受封韩国こう,并位きょ开国功臣こうしんくびひろしたけじゅうさんねん(1390ねん),雖擁りょうかたまりめんてつただし其卷いれえびすおもんみいさおあんゆびたてよう謀反ぼうほん不在ふざい赦免しゃめん範圍はんい內,いん此仍しゅもとあきら赐死,并株连三ぞく

人物じんぶつ生平おいだいら

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早年そうねん經歷けいれき

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よしちょう出生しゅっしょうのべゆう元年がんねん(1314ねん),从小爱读书,ゆう智慧ちえ谋略,つう法家ほうかがく说,预计事情じじょうだい说中,乡里推为さいしゅ[2]もといたりただしじゅうよんねん(1354ねん),しゅもとあきら經略けいりゃく滁阳こん安徽あんき滁州けいちょういさおきょう引薦ずいおこりよしとめてのひら书记軍政ぐんせいよう秘書ひしょ)。しゅもとあきら曾问よし长:“天下てんかみだれ什么时候才能さいのう平定へいてい呢?”回答かいとう说:“はたまつ战乱时,高祖こうそ从普どおり百姓ひゃくしょうちゅう崛起。他生たしょうせい豁达大度たいど知人ちじんぜんにん胡乱うろん杀人,五年成就了帝王的基业。现在元朝がんちょう纲常やめ混乱こんらん国家こっか四分五裂しぶんごれつ。倘若上位じょういこうほう高祖こうそ天下てんか便びん轻易平定へいてい!”しゅもとあきらしょう他言たごん有理ゆうり,此后さん预机谋,负责きさきつとむきょう应,甚得しゅもとあきら信任しんにん[3]

しゅもとあきら威名いめいえき显著,诸将ぜんらいとうもたれてきよし考察こうさつ们的才能さいのう,禀告给朱もとあきらよし長又ながまたがえしゅもとあきら对投诚者ひょう达诚挚情意じょうい使つかい们能够安しん有人ゆうじんいん为某些事さじじょう相互そうご见不あい,产生矛盾むじゅんよし长便おもえかた设法从中调解。かくいん听信流言りゅうげん而怀疑しゅもとあきら,逐渐剥夺他てきへい权。またそう从朱もとあきら边把よし长夺过来辅佐自己じこよし长坚决谢绝。しゅもとあきらざいかず驻军时,亲自りつ军前进攻鸡笼やま寨,ただとめ少量しょうりょう兵力へいりょく帮助よし留守るすもと军将领得きさきぜんらい偷袭阳,よし长佈设伏へい败了もと军,しゅもとあきら认为是能これよししん[4]

ずい军征战

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しゅもとあきら获得みずうみみず师后,よし长极りょく赞成渡江とのえおさむかつさいせききさきしゅもとあきらりつ军直趋太平たいへいよし长事さきうつし榜文,严禁へい违反军纪。おさむうらない太平たいへいきさきよし长马じょう张贴榜文,军中秩序ちつじょ井然せいぜんしゅもとあきら为太ひら兴国つばさ大元おおもと帅时,任命にんめいよし长为帅府ごと[5]ひさずい军攻かつしゅう庆路ざいしょうよう进攻镇江时,しゅもとあきら担心诸将约束りょう部下ぶか便びん佯装发怒,よう惩罚们,经李ぜん长力すくえ,此事ざいとく以解决。镇江おさむ下之したのきさき,百姓都不知道有军队到来[6]しゅもとあきら为江みなみくだりちゅう书省たいらあきら,以李ぜん长为さん议。とうそうおもえ梦庚かくけいさちとう幕僚ばくりょうただし军机进退赏罚章程しょうていよしよし长决じょうしゅもとあきらあらため枢密院すうみついん为大とくいのちよし长兼领府马,すすむます为行しょうまいり政事せいじ[7]

いたりせいじゅうよんねん(1364ねん),しゅもとあきら自立じりつ为吴おう,以李ぜん长为みぎ相国しょうこくよし长曾请求专卖两淮これ盐,设立ちゃほうみやこただしざい再三さいさん斟酌しんしゃく元朝がんちょう制度せいど其弊はしきさき提出ていしゅつらいてき恢復かいふくせい钱法,开矿冶铁,制定せいてい鱼税,国家こっか财富えきぞう长,百姓也不再贫困[8]。吴元ねん(1367ねんきゅうがつしゅもとあきら论平吴之こうふうよし长为せんくにこうひだり相国しょうこくしゅもとあきら渡江とのえ时,经常使用しよう严刑たかしほうゆう一天いってん对李ぜん长说:“ほうゆう连坐さんじょうふとし过分りょう吗?”よし长因此请もとめじょ大逆だいぎゃくつみがい全部ぜんぶまぬかれ连坐つみしゅもとあきら于是命令めいれいあずかちゅうすすむ刘伯ぬるとう裁定さいてい律令りつりょう,颁示あさちゅう内外ないがい[9]

明朝みょうちょう建国けんこくきさき

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しゅもとあきらしょうみかどきさきついふう自己じこ祖先そせん及册立后りっこう太子たいし、诸王,みやこゆかりよし担任たんにん大礼たいれい使しゅもとあきら设置东宫かんぞく,以李ぜん长兼太子たいししょう,授为银青荣禄大夫たいふうえばしらこく参与さんよ决定国家こっか大政たいせい,其他仍然如故。ひさりつれいかん制定せいてい郊社むね庙之れいよし长请もとめ按照元朝がんちょう制度せいどゆかり皇太子こうたいし兼任けんにんちゅう书令ただししゅもとあきら批准ひじゅん[10]しゅもとあきらじゅん开封时,ゆかりよし留守るす,一切事情李善长都可以不经请示灵活处理。ひさよし上奏じょうそう确定ろく官制かんせいしょう官民かんみん丧服及朝贺东宫礼议,たてまついのち监修《もと》,编写《ふとし训录》、《大明だいめいしゅうれいとう书。确定天下でんか山川やまかわしん癨封ごうふうりつ诸王,爵赏功臣こうしんこと无巨细,しゅもとあきらたくよし长与诸儒しんしょう议执ぎょう[11]

ひろしたけさんねん(1370ねん),しゅもとあきらさつふう功臣こうしん,说:“よし长虽无輝煌戰こうただし跟随わが多年たねんきょう给军粮後つとむこう劳很だい,应当すすむふう大国たいこく。”于是授他为开こく辅运推诚もり正文せいぶんしんとくひかりろく大夫たいふひだりばしらこくふとしちゅう书省ひだり丞相じょうしょうふう为韩こくおおやけねんろくよんせんせき孙世袭。并授しょてつけん免除めんじょよし二死にし,其子めん一死いっしとう时被ふうおおやけしゃよし长位きょ首位しゅい,诏书中将ちゅうじょう比作ひっつくり萧何,对他褒奖备至[12]よし长外ひょう宽厚温和おんわ,却为じんぜん妒,待人まちびと苛刻ひょううら不一ふいつまいり饮冰杨希圣ただこれややほろおかせはんりょうてき权威,よし长马じょうはた其罪上奏じょうそうしゅもとあきら,黜免にんよし长与刘基そう论法れい,以至于辱骂刘もと,刘基内心ないしん不安ふあん便びん请求つげろう还乡。よし长权势地いたりょう顶点,こころさと慢慢变得傲慢ごうまんおこりらいしゅもとあきら开始对他ゆうしょ反感はんかんひろしよんねん(1371ねん),よし长因びょうかん归居,しゅもとあきら临濠若干じゃっかん顷,设置もり坟户いちひゃくじゅういえ,赐给つくだいちせんひゃくいえ,仪仗じゅういえいちねんきさきよし长病いよいよしゅもとあきら便びんいのち负责おさむけん临濠宫殿,はた江南こうなん富民ふみんじゅうよんまんにん迁徙到ほりしゅうこう种,让李ぜん管理かんり们,とめざいほりしゅうすうねんひろしななねんしゅもとあきらつつみますよし长之おとうとそん为太仆丞,そん义之しんたすく为群まきしょかん[13]

ひろしきゅうねん(1376ねん),しゅもとあきら临安公主こうしゅしもよめ其子,授为驸马じょう受宠显赫,时人极为羡慕。祺与公主こうしゅ结婚いち个月きさき大夫たいふひろし广洋陈宁うえ疏说:“よし长恃宠自纵,陛下へいかいんびょう几乎じゅうにち不能ふのうじょうあさらい问候。驸马じょう祺也ろくにち来朝らいちょう见,召他いたる殿どのまえまた认罪,这是对陛极大てき不敬ふけい。”よし长因此获ざいそぎねんろくいちせんはちひゃくせきひさしゅもとあきらまたいのちよし长与曹国こう文忠ふみただ一起统领中书省、だいとくだいどう议军こく大事だいじ,监督圜丘工程こうてい[14]

获罪

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えびすおもんみいさお早年そうねんにん宁国县,いん为李ぜん长的推荐,擢为ふとつねてらしょうきょうきさきますにんひだり丞相じょうしょう,两人いん此互しょう往来おうらい。而李ぜん长的おとうとおとうとそん之子ゆきこたすくまたえびすおもんみいさおてき女婿じょせいひろしじゅうさんねん(1380ねん),えびすおもんみいさおあん发生,受牵连而处死しゃ甚多,ただしよし长仍しか如故。此时ちゅうすすむそらかけよし长暂时管理かんりだいごと务,つぎこうしゅもとあきら提出ていしゅつけん议。ひろしじゅうはちねん(1385ねん),有人ゆうじんつげ发李そん父子ふし实为えびすおもんみいさおてきとうしゅもとあきら诏免はた安置あんちざいたかしあきらただしよし长没ゆう表示ひょうじかん谢,しゅもとあきらいん而怀恨在こころ[15]

ひろしじゅうさんねん(1390ねん),よし长曾そう建造けんぞうたく,从信こくおおやけ汤和处借卫士さんひゃくにん,汤和悄悄しょうしょうつげ诉朱もとあきら他所よそ听到てきこと[16]よんがつ应天ゆう百姓受株连而被发配到边疆,よし长屡请求赦免しゃめん其亲戚ちょうあきらひとししゅもとあきらだいいかはたちょうあきらざいちょうあきら以前いぜんざいえびすおもんみいさお做事,供出きょうしゅつそん义等过去あずかえびすおもんみいさお互相交往てきじょう况。于是しゅもとあきられいはたそん父子ふし逮捕たいほ审讯,们的きょう词牵连到よし长,きょう词上说:“えびすおもんみいさおくわだて图谋はんそん义暗さと劝说よし长。よし长惊叱どう:‘你这么说到底とうてい为了什么?你们一定いっていよう慎重しんちょういや则九族都要被灭。’ひさまたよし长的ろうとも杨文ひろし劝他说:‘こと成之しげゆききさきとう以淮西之にしのふう你为おう。’よし长惊骇不やめ,仍不同意どうい,却又颇为こころ动。えびすおもんみいさお于是亲自劝说よし长,仍然同意どうい。过了いちだん时间きさきえびすおもんみいさおまたそん义去劝说,よし长叹どう:‘わがやめ经老りょうわがきさき,你们こう为之。’”[17]

有人ゆうじんまたつげ发李ぜん长说:“はた蓝玉りつ军出ふさがいた鱼儿うみ时,俘获えびすおもんみいさお私通しつう沙漠さばく使者ししゃふうよし长却匿而报。”于是,竞相上奏じょうそう弹劾よし长。而李ぜん长的やつ卢仲谦ひとし,也告发李ぜん长与えびすおもんみいさお间互しょう贿赠,经常偷偷わたし语。よし此被判定はんてい证据确凿,说李ぜん长虽すめらぎ亲国戚,知道ともみちゆう叛逆はんぎゃく阴谋却不揭发检举,而是徘徊はいかい观望,こころ怀两はし大逆だいぎゃくみちとう时正こう有人ゆうじん说将よう发生ぼし变会ゆう灾祸发生,うらないぼくてき结果灾祸应当くだ临在大臣だいじん身上しんじょう。于是,しゅもとあきら便びんはたよし长赐はた其妻おんなおとうと侄等ぜんいえななじゅう余人よにんいち并处かぶれんさんぞく[18][19]しゅもとあきら亲自诏罗れつ们的罪状ざいじょうざい狱辞さとめん,纂成《あきらしめせ奸党さん录》,布告ふこく天下でんかよし长之祺与公主こうしゅ迁徙いたり江浦えうら祺在やすし难之やくいんしゅ棣破じょうとうすい而死。祺之かおるしげるいん公主こうしゅおん牵累ばんざいかおるにん留守るすちゅうゆび挥,しげるにん旗手きしゅ镇抚,ただし取消とりけし袭韩こく公的こうてき权利[20]

よし长死きさきてき隔年かくねんおそれろうちゅう王国おうこくよううえ书为辩冤,认为よし长“谋反”てき罪名ざいめい难以成立せいりつ指出さしでよし长与しゅもとあきら同心どうしん协力,出生しゅっしょういれ开国たいら天下でんかこうきょ勋臣だいいち生得しょうとくふうこうとくふうおうてき儿子しゅもとあきら招为驸马,众多てき亲戚也纷纷拜かんふう爵。さくいち人臣じんしんやめあんとおるりょうまんぜんとみ贵,其荣ほまれやめ臻于极致,绝不かいおかせ险谋はん以图侥幸。さいしゃらい说,倘若有人ゆうじん说他よう图谋轨,自立じりつ为帝,这一罪名或许还能成立;ただし现在竟说ようじょうじょえびすおもんみいさお谋反,则大谬不しかよし长与えびすおもんみいさおただ侄儿、侄女辈的亲家,而与しゅもとあきら却是儿女亲家。仅两てき亲疏不可ふか同日どうじつ而语,而且,そく使つかいよし长帮じょえびすおもんみいさお谋反成功せいこういたり也不过仍个“勋臣だいいち”罢了,其地绝对かいざいしゅもとあきら手下てしたさらだか王国おうこくようてき这些话说てきざい,连朱もとあきら也被驳得哑口无言,さいつみ责王こくよう[21]たかしじゅうななねん(1644ねん),あきらあんはじめつい谥其为“じょう愍”[22]

延伸えんしん阅读

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[]

 くにあさけんじちょうろく·まきじゅういち》,出自しゅつじこげくにあさけんじちょうろく
 あかりまきいちひゃくじゅうなな》,出自しゅつじあかり

参考さんこう文献ぶんけん

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  1. ^ 钱谦えきくにはつ群雄ぐんゆうごとりゃく
  2. ^ くにあさけんじちょう》(まき11):“よし长者,ほりてい远人。しょう有志ゆうし,计读书,ぶんすみ,而以さくごとたたえ里中さとなか推为さいしゅ。”
  3. ^ あかり》(まき127):“よし长,ひゃくしつてい远人。しょう读书ゆうさとし计,习法げんさくごとちゅうふとしりゃく滁阳,ぜん长迎谒。其为里中さとなか长者,れいとめてのひら书记。尝从よう问曰:“四方しほう战斗,なに时定乎?”对曰:“はたらん,汉高おこり布衣ふい,豁达大度たいど知人ちじんぜんにん嗜杀じん,五载成帝业。今元いまもと纲既紊,天下てんかくずし瓦解がかいおおやけほり产,距沛远。山川やまかわおう气,おおやけとう受之。ほう其所为,天下てんか不足ふそくてい也。”ふとししょうぜん。从下滁州,为参谋,预机しゅ馈饷,甚见亲信。”
  4. ^ あかり》(まき127):“ふとし威名いめいもり,诸将来しょうらい归者,ぜん长察其材,げんふとし。复为ふとしぬの款诚,使つかいみなとくやすゆう以事りょくしょう龃龉しゃ委曲いきょく为调护。かく兴中流言りゅうげんうたぐふとやや夺其へいまたよく夺善长自辅,ぜん长固谢弗往。ふとしふか倚之。ふとし军和阳,しょう击鸡笼山寨,しょうとめへい佐善さぜん长居もりもとしょう谍知らい袭,设伏败之,ふとし以为のう。”
  5. ^ くにあさけんじちょう》(まき11):“俟之,而巢はた俞通うみ、廖永やすとう以舟师まん馀、粮数まんせき请降。ぜん长乃说上曰:“てん赞我也,渡江とのえ此其时矣。”すんでやぶ蛮子うみきばへい,长驱泛牛なぎさ,拔采せきとげ胜取太平たいへい上之うえの发采せき也,あずかぜん长谋おけ榜谕士卒しそつゆう虏略しゃ必斩。太平たいへいそく悬之ちち逵肃しか,无敢はんうえしょう太平たいへい兴国つばさ大元おおもと帅,以善长为もと帅府ごと。”
  6. ^ あかり》(まき127):“ふとしとく湖水こすい师,ぜん长力赞渡江とのえすんで拔采せき,趋太ひらめぜん长预书榜きん戢士そつ城下じょうかそく揭之どおり衢,肃然无敢はんしゃふとし为太ひら兴国つばさ大元おおもと帅,以为帅府ごと。从克しゅう庆。はた镇江,ふとし虑诸はた戢下,乃佯いかほしおけ诸法,ぜん长力すくいとくかい。镇江みん不知ふちゆうへい。”
  7. ^ あかり》(まき127):“ふとし为江みなみぎょうちゅう书省たいらあきら,以为さん议。时宋おもえ颜、梦庚、かくけいさちとう俱为しょう僚,而军つくえ进退,赏罚章程しょうてい决于ぜん长。あらため枢密院すうみついん为大とくいのちけん领府马,进行しょうさん政事せいじ。”
  8. ^ あかり》(まき127):“ふとし为吴おうはいみぎ相国しょうこくぜん长明习故事こじたっ决如りゅうまた娴于いのちふとしゆうしょ招纳,辄令为书。ぜんきさきしょうせい讨,みないのちきょもりはた吏帖ふくきょみん安堵あんど,转调へい饷无とぼし。尝请榷两淮盐,たてちゃほうみな斟酌しんしゃくもとせい弊政へいせいすんで复制钱法,开铁冶,てい鱼税,くに用益ようえき饶,而民こま。”
  9. ^ あかり》(まき127):“吴元ねんきゅうがつ,论平吴功,ふうぜん长宣こくこうあらため官制かんせいなおひだり,以为ひだり相国しょうこくふとしはつ渡江とのえ,颇用重典しげのりいちにち,谓善长:“ほうゆう连坐さんじょうやめ甚乎?”ぜん长因请自大逆だいぎゃく而外みなじょとげいのちあずかちゅうすすむ刘基とう裁定さいてい律令りつりょう,颁示中外ちゅうがい。”
  10. ^ くにあさけんじちょう》(まき11):“すんで即位そくいれい毕,たてまつよんだい考妣こうひみかど躬上さつたから于太庙,寻立马氏为皇后こうごうふう皇太子こうたいし诸王,ぜん长皆たかし大礼たいれい使あらためちゅう书左丞相じょうしょうぜん长请缘元きゅう,以皇太子たいし领中书令,うえ许。”
  11. ^ あかり》(まき127):“ふとしそく帝位ていいついみかどこう及册立后りっこう太子たいし诸王,みな以善长充大礼たいれい使おけ东宫かんぞく,以善长兼太子たいししょう师,授银あお荣禄大夫たいふうえばしらこく,录军国重くにしげごと如故。やめ,帅礼かんてい郊社むね庙礼。みかどこう汴梁,ぜん留守るす一切いっさい便宜べんぎ行事ぎょうじ。寻奏じょうろく官制かんせい,议官民かんみん丧服及朝贺东宫仪。たてまついのち监修《もと》,编《训录》、《大明だいめいしゅうれい》诸书。てい天下てんかだけ渎神祇封ごう封建ほうけん诸王,爵赏功臣こうしんこと无巨细,悉委ぜん长与诸儒しん谋议ぎょう。”
  12. ^ あかり》(まき127):“ひろしさんねんだいふう功臣こうしんみかど谓:“ぜん长虽无汗马劳,しかことちんひさし,给军しょくこう甚大じんだいむべ进封大国たいこく。”乃授开国辅运推诚もり正文せいぶんしんとく进光ろく大夫たいふひだりばしらこくふとし师、ちゅう书左丞相じょうしょうふう韩国こう,岁禄よんせんせき孙世袭。铁券,めん二死にしめん一死いっし。时封おおやけしゃじょ达、つねぐう春子はるこしげる文忠ふみただ、冯胜、邓愈及善长ろくにん。而善长位だいいちせい词比萧何,褒称甚至。”
  13. ^ あかり》(まき127):“ぜん长外宽和,内多うちだ忮刻。まいり议李饮冰、杨希圣,ややおかせぜん长权,そく按其ざいそう黜之。あずかちゅうすすむ刘基そうほう而訽。もとやす,请告归。ふとししょにん张昶、杨宪、ひろし广洋、えびすおもんみいさおみな获罪,ぜん长事よせ如故。贵富极,やや骄,みかどはじめほろ厌之。よんねん以疾致仕ちし,赐临ほり若干じゃっかん顷,おけもり冢户ひゃくじゅう,给佃户千ひゃくいえ,仪仗じゅういえ。逾年,びょういよいよいのちただしけん临濠宫殿。徙江みなみ富民ふみんじゅうよんまんほりしゅう,以善长经理之まさゆきとめほりしゃすうねん。七年擢善长弟存义为太仆丞,そん义子しんたすくみな为群まきしょかん。”
  14. ^ あかり》(まき127):“九年以临安公主归其子祺,はい驸马じょうはつてい婚礼こんれい公主こうしゅおさむ妇道甚肃。ひかり宠赫奕,时人艳之。祺尚ぬしきさきいちがつ大夫たいふひろし广洋、陈宁疏言:“ぜん长狎宠自恣じし陛下へいかびょう视朝几及しゅん问候。驸马じょうろくにちあさせんいたる殿どのまえまた引罪,だい不敬ふけい。”すわそぎ岁禄せんはちひゃくせき。寻命あずか曹国こう文忠ふみただ总中书省だいとくだいどう议军こく大事だいじとく圜丘こう。”
  15. ^ あかり》(まき127):“丞相じょうしょうえびすおもんみいさおはつ为宁こく县,以善长荐,擢太つねしょうきょうきさき为丞しょういんしょう往来おうらい。而善长弟そん义子たすくおもんみいさお女婿じょせい也。じゅうさんねんおもんみいさお谋反ふく诛,すわとう死者ししゃ甚众,ぜん长如ゆえだいかけちゅうすすむ,以善长理だいごとすうゆうしょ建白けんぱくじゅうはちねん有人ゆうじんつげそん父子ふし实惟いさおとうしゃ,诏免安置あんちたかしあかりぜん长不谢,みかど衔之。”
  16. ^ くにあさけんじちょう》(まき11):“またねんぜん长年ななじゅうなな矣,ほけ不能ふのう检饬其下。尝欲营第たく,从信こく公和きんかずかり卫卒さんひゃくにんやくさがせうえむね攘臂曰:“ふとし师敢擅发へい耶?”みつ以闻。”
  17. ^ あかり》(まき127):“またねんぜん长年やめななじゅうゆうななほけ检下。尝欲营第,从信こくおおやけ汤和かり卫卒さんひゃくにんかずひそか以闻。よんがつきょうみんすわつみ应徙边者,ぜん长数请免其私亲丁あきらとうみかどいか按斌,あきら给事おもんみいさおいんごとそん义等往时交通こうつうおもんみいさおじょういのち逮存义父子ふし鞫之,词连ぜん长,うん:“おもんみいさおゆうはん谋,使つかいそん义阴说善长。ぜん长惊叱曰:‘尔言なん为者!审尔,九族きゅうぞくみな灭!’やめまた使つかいぜん长故じん杨文ひろし说之うん:‘こと成当なりとう以淮西にしふう为王。’ぜん长惊许,しか颇心动。おもんみいさお乃自往说ぜん长,犹不许。きょ久之ひさゆきおもんみいさお复遣そん义进说,ぜん长叹曰:‘われろう矣。われなんじとう为之!’””
  18. ^ あかり》(まき3):“がつかぶとうま诸公こう还里,赐金币有おつ,赐太师韩こくおおやけよし长死,陆仲とおるとうみなすわ诛。さくあきらしめせ奸党录》,布告ふこく天下でんか。”
  19. ^ あかり》(まき127):“あるまたつげぜん长云:“はた军蓝だまふさがいたり鱼儿うみ,获惟いさおどおり沙漠さばく使者ししゃふう绩,ぜん长匿以闻。”于是交章劾善长。而善长奴卢仲谦等,またつげぜん长与おもんみいさおどおり赂遗,交私语。狱具,谓善长元勋国戚,ぎゃく谋不发举,狐疑こぎ观望怀两はし大逆だいぎゃくみちかいゆうごとほし变,其占とううつり大臣だいじんとげ并其妻女さいじょおとうと侄家こうななじゅう余人よにん诛之。”
  20. ^ あかり》(まき127):“みかどしゅ诏条れつ其罪,でんちょ狱辞,为《あきらしめせ奸党さん录》,布告ふこく天下でんかぜん长子祺与ぬし徙江うら久之ひさゆきそつ。祺子よししげる,以公主恩しゅおんとくすわよし留守るすちゅう卫指挥,しげる为旗しゅ卫镇抚,罢世袭。”
  21. ^ あかり》(まき127):“ぜん长死明年みょうねんおそれろうちゅう王国おうこくようじょうげん:“ぜん长与陛下へいか同心どうしんまん以取天下でんか,勋臣だいいちなまふうこうふうおうなんなお公主こうしゅ,亲戚はいかん人臣じんしんぶん极矣。藉令ほし图不轨,なお可知かち,而今谓其よくたすくえびすおもんみいさおしゃ,则大谬不しか人情にんじょう爱其,必甚于兄弟きょうだい之子ゆきこあんとおる万全ばんぜんとみ贵者,必不侥幸まんいちこれとみ贵。ぜん长与おもんみいさお,犹子亲耳,于陛则亲子女しじょ也。使つかいぜん长佐おもんみいさおなり过勋しんだいいち而已矣,ふとし师国こうふうおう而已矣,なおしゅ纳妃而已矣,宁复有加ゆか于今?且善长岂不知ふち天下でんか不可ふかこうとう元之もとゆきよく为此しゃなんげん,莫不为齑くつがえそう绝祀,のうくび领者几何人なんにん哉?ぜん长胡乃身见之,而以おとろえ倦之ねん蹈之也。凡为此者,必有ふかかたきげき变,だいとくやめ父子ふし间或いたりしょうはさみ以求だつ祸。こんぜん长之祺备陛下へいか骨肉こつにく亲,无纤あくたいやなに而忽为此。わか天象てんしょうつげ变,大臣だいじんとう灾,杀之以应天象てんしょう,则尤不可ふかしんおそれ天下でんか闻之,谓功如善长且如此,四方しほういん解体かいたい也。こんぜん长已げん无益,ところすなお陛下へいかさく将来しょうらいみみ。”ふとしとく书,竟亦つみ也。”
  22. ^ きよし·たかし爝火录》(まき6):“つい补开国名こくめいしん赠谥。……よし长谥“じょう愍”。”
かん
前任ぜんにん
明朝みょうちょう開國かいこく
明朝みょうちょう中書ちゅうしょしょうひだり丞相じょうしょう
1368ねん1がつ23にち—1371ねん
つぎにん
じょ