李り秉鈞(1873年ねん—1904年ねん),一いち名めい秉均[1],字じ子こ桂かつら,號ごう石いし樵きこり。台灣たいわん台北たいぺい艋舺人ひと,出身しゅっしん耕こう讀傳家か,清しん代だい貢みつぎ生せい,日にち治ち後ご曾任台北たいぺい縣けん參事さんじ、舊慣きゅうかん調ちょう查會委員いいん、台灣たいわん日にち日にち新報しんぽう編輯へんしゅう。長ちょう於詩文書ぶんしょ畫が,師承ししょう黃き中ちゅう理り。曾參加さんか日本人にっぽんじん「玉山たまやま吟社ぎんしゃ」詩し會かい活動かつどう,著ちょ有ゆう《石いし樵きこり集しゅう》八はち卷かん,已やめ散佚さんいつ。部ぶ份收錄ろく於《台灣たいわん日にち日にち新報しんぽう》。[2]
1885年ねん中ちゅう法ほう戰爭せんそう西にし仔こ反はん之これ暖だん暖だん坐すわ探さがせ委員いいん[3]。且因戰功せんこう成なり為ため候補こうほ縣けん丞すすむ[4]。同年どうねん10月がつ17日にち,將領しょうりょう劉りゅう朝ちょう祜率りつ領りょう軍隊ぐんたい,會同かいどう李り秉鈞、劉りゅう廷玉,並なみ派は翻譯ほんやく人員じんいん入山いりやま勸すすむ說せつ馬ば來らい(即そく烏がらす來らい)八はち社しゃ「生なま番ばん」。結果けっか安やす撫なで成功せいこう,所有しょゆう原住民げんじゅうみん八はち個こ社しゃ,都と接受せつじゅ安やす撫なで。[5]1891年ねん淡水たんすい縣けん歲とし貢みつぎ貢みつぎ生せい[6]。
乙おつ未み戰爭せんそう之これ時じ,日にち軍ぐん進すすむ迫さこ獅球嶺みね。唐から景けい崧不ふ願ねがい死守ししゅ八はち堵と,逃往滬尾搭上德とく國こく商用しょうよう輪わ船せん。清しん軍ぐん向むこう德とく國こく商しょう輪はなわ開ひらく砲ほう攻擊こうげき,但ただし引起德とく國軍こくぐん艦かん開ひらき砲ほう還かえ擊げき。當時とうじ台北たいぺい城じょう內充滿了まんりょう散ち兵へい遊ゆう勇いさみ與あずか匪徒ひと,死亡しぼう500多た人じん,甚多人じん爭そう吵要返かえし回かい中國ちゅうごく大陸たいりく,李り秉鈞只ただ得とく委い請吳ご聯れん元もと、陳ちん舜臣しゅんしん、李り春生はるお等とう向むかい日にち軍ぐん請求せいきゅう,但ただし不ふ敢去。僅辜顯榮さかえ基もと隆見たかみ謁總督そうとく。[7]並なみ讓原ゆずりはら居きょ於台北たいぺい城じょう,而想返かえし回かい中國ちゅうごく的てき粵勇いさむ及民眾,聚集於淡水たんすい港みなと。當日とうじつ軍ぐん過か濾名單たん的てき同時どうじ,遠とお在ざい台たい中ちゅう的てき丘おか逢甲自任じにん副ふく總統そうとう,眾人遂とげ得え以脫離はなれ日にち軍ぐん之これ手しゅ。
台灣たいわん日にち治ち時期じき後ご,李り秉鈞於明治めいじ28年ねん(1896年ねん)擔任たんにん台北たいぺい縣けん事務じむ囑託しょくたく,明治めいじ30年ねん(1897年ねん)4月がつ授佩紳しん章あきら,9月任にん台北たいぺい縣けん參事さんじ,並なみ任にん總督そうとく府ふ國語こくご學校がっこう囑託しょくたく。明治めいじ34年ねん(1901年ねん),被ひ任命にんめい為ため臨時りんじ舊慣きゅうかん調ちょう查會事務じむ囑託しょくたく。明治めいじ37年ねん(1904年ねん)病びょう逝。