河かわ內省(越えつ南みなみ语:Tỉnh Hà Nội/省しょう河かわ內),是ぜ越こし南みなみ1831年ねん至いたり1902年ねん之の間あいだ的てき一いち個こ省しょう份。阮朝自主じしゅ時期じき涵蓋今こん天てん的てき河かわ內市東部とうぶ和わ河南かなん省しょう大部たいぶ。
河かわ內省的てき前身ぜんしん是ぜ后きさき黎はじむ朝あさ的てき山南さんなん承うけたまわ宣せん和わ山南さんなん处(山南さんなん鎮)。西山にしやま朝ちょう時とき,山南さんなん鎮分ぶん為ため山南さんなん上じょう鎮和わ山やま南下なんか鎮。阮朝明あかり命いのち三さん年ねん(1822年ねん),明あかり命いのち帝みかど改あらため山やま南下なんか鎮為南みなみ定てい鎮,而山南上みなみうえ鎮復名山めいざん南みなみ鎮。
明あかり命いのち十じゅう二に年ねん(1831年ねん),阮朝分ぶん設しつらえ省しょう轄,改あらため山南さんなん鎮為河かわ內省,下しも轄懷ふところ德とく府ふ、應おう和かず府ふ、常信つねのぶ府ふ和わ里仁さとに府ふ4府ふ,共きょう15縣けん。懷ふところ德とく府下ふか轄壽ことぶき昌あきら縣けん、永えい順じゅん縣けん、慈廉縣けん,常信つねのぶ府下ふか轄上うえ福ふく縣けん、青池あおいけ縣けん、富川とみかわ縣けん,應おう和わ府下ふか轄青あお威たけし縣けん、彰あきら德とく縣けん、山やま明あかり縣けん、懷ふところ安やす縣けん,里仁さとに府下ふか轄南みなみ昌あきら縣けん、維先縣けん、平ひら陸くが縣けん、金きむ榜縣、青あお廉れん縣けん。
明あかり命いのち十じゅう三さん年ねん(1832年ねん),以南いなん昌あきら縣けん、平たいら陸くが縣けん增設ぞうせつ里仁さとに分ぶん府ふ,以彰德とく縣けん、青あお威たけし縣けん增設ぞうせつ應おう和わ分ぶん府ふ。
嗣德五ご年ねん(1852年ねん),廢除はいじょ里仁さとに分ぶん府ふ和かず應おう和わ分ぶん府ふ。
嗣德三さん十じゅう年ねん(1877年ねん),以應和かず府ふ彰あきら德とく縣けん、懷ふところ安やす縣けん和わ山西さんせい省しょう國威こくい府ふ美良みよし縣けん析設美德びとく道どう,隸屬れいぞく河かわ內省管轄かんかつ。
建けん福ぶく元年がんねん(1884年ねん),山西さんせい省しょう國威こくい府ふ丹に鳳おおとり縣けん劃歸懷ふところ德とく府ふ管轄かんかつ。同年どうねん,避咸宜帝みかど諱いみな,山やま明あきら縣けん改名かいめい為ため山やま朗ろう縣けん。
同慶どうけい三さん年ねん(1888年ねん)四よん月がつ,美德びとく道どう改あらため設しつらえ為ため美德びとく府ふ,仍隸河かわ內省管轄かんかつ,撤銷彰あきら德とく縣けん,4總そう與あずか懷ふところ安やす縣けん合併がっぺい為ため安德あんとく縣けん,3總そう與あずか美良みよし縣けん合併がっぺい為ため彰あきら美び縣けん。10月1日にち,以懷德とく府ふ永なが順じゅん縣けん、壽ことぶき昌あきら縣けん2縣けん割讓かつじょう給きゅう法ほう國こく,殖民しょくみん政府せいふ設立せつりつ為ため河かわ內市。
成なり泰やすし二に年ねん(1890年ねん)三さん月がつ,以里仁さとに府ふ南みなみ昌あきら縣けん、平たいら陸くが縣けん、青あお廉れん縣けん設しつらえ為ため廉平れんぺい府ふ,劃歸南みなみ定じょう省しょう管轄かんかつ。九月くがつ,殖民しょくみん政府せいふ又また以里仁ひとし府金ふがね榜縣、維先縣けん和南わなみ定じょう省しょう廉平れんぺい府ふ3縣けん析置河南かなん省しょう[1]。再さい改あらため美德びとく府ふ為ため美德びとく道どう。
成なり泰たい三さん年ねん(1891年ねん),復ふく改あらため美德びとく道どう為ため美德びとく府ふ[2]。
1896年ねん12月26日にち,河かわ內省蒞遷至いたり青あお威たけし縣けん梂多社しゃ(今こん屬ぞく河東かとう郡ぐん),並なみ因いん此於1902年ねん5月がつ3日にち改名かいめい為ため梂多省しょう。1904年ねん12月6日にち,梂多省しょう再さい改名かいめい為ため河東かわとう省しょう。
1902年ねん,河かわ內省下か轄懷ふところ德とく府ふ(兼けん理り慈廉縣けん)、常信つねのぶ府ふ(兼けん理り上うえ福ふく縣けん)、應おう和かず府ふ(兼けん理り山やま朗ろう縣けん)、美德びとく府ふ(兼けん理り安德あんとく縣けん)、丹に鳳おおとり縣けん、彰あきら美び縣けん、青池あおいけ縣けん、富川とみかわ縣けん、青あお威たけし縣けん4府ふ9縣けん。