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流求國 - 维基百科,自由的百科全书

ながれもとめこく

重定しげさだこうながれもとむ

ながれもとめこくまたたたえ琉求からあさ史家しかちょうれいきつねとくとうざいずいしょ·東夷あずまえびすかずずいしょ·まき64 ちんりょうちゅうしょひっさげいたざいずいあさ時期じき於東おひがしかた海上かいじょうてきいち島國しまぐに,其住民じゅうみん倭人わじんしょうさくえびすよこしま久國ひさくにじん根據こんきょ該史りょうてき記載きさいざいおおやけもと7世紀せいきはつ大業おおわざ年間ねんかん),ずい煬帝得知とくち此島派遣はけんりょうめい武將ぶしょういたりゅうもとめこく招降,當地とうちじん反抗はんこうただしげきはい大王だいおう歡斯渴刺かぶと及小おうみやこころせ,其住民じゅうみんてきすう千名男女被捕回隋。後來こうらい此島てき相似そうじ名稱めいしょう瑠求出現しゅつげんざい元朝がんちょう時期じき於《もと·がいえびすさん》、《もと·じゅうさんかずもと·なりむねさん》。

もといたりもとじゅうはちねんきゅうがつ,曾遣使澎湖巡檢じゅんけん宣撫せんぶ瑠求,渡海とかいぐういたいち个「やま长而ひくしゃてき地方ちほう使臣ししん認定にんてい到達とうたつ瑠求,ただし跟當人語じんごげん不通ふつうのぼりりくてきりょうひゃく餘人よにん中有ちゅううさんにん遭到殺害さつがいこう而返。元成もとなりむねもとさんねんがつ福建ふっけんしょうたいらあきら政事せいじこうげん:「今立いまだちしょう泉州せんしゅう,距瑠もとめ为近,伺其消息しょうそくあるよろし招宜必它调兵りょく,兴请就近试之。」きゅうがつこう兴遣しょう镇抚张浩ふくしゅうしんまん张进赴瑠もとめこくなまとりこいちひゃくさんじゅう余人よにん而返。だいねん正月しょうがつまたしょうしょ俘瑠求人きゅうじんかいよう们歸顺元あさ,此後りょうりょうこれ元朝がんちょうひろし大淵おおふちてきしまえびすこころざしりゃくのりしょう琉球りゅうきゅう」,文中ぶんちゅうひさげ及「彭湖もち甚近」,たい琉球りゅうきゅう峙山てき描述みとめためゆびいま高雄たかおてき壽山ことぶきやまなみ略述りゃくじゅつ其地てき物產ぶっさん(其中硫磺あずか臺灣たいわん早期そうきてき物產ぶっさん相對そうたいおうかず原住民げんじゅうみんてき生食なましょくじんにくるい習俗しゅうぞく

ほうこく學者がくしゃ圣第あま於1874ねんみとめため這個りゅうもとめこく就是こんてんてき臺灣たいわん可能かのう循《もと·琉求》てき記載きさいざい南海なんかいひがし。漳泉興福こうふく四界內彭湖諸島,あずか琉求相對そうたい」。りょうよしみあきらざい1958ねん發表はっぴょうこころざしまごけんでんえびすしゅう亶洲考證こうしょう〉,以東いとうよう針路しんろふうようりゅうとうしょう質疑しつぎくれこく發現はつげん臺灣たいわんてき說法せっぽう提出ていしゅつずいだいてきりゅうもとめおうゆびこんてんてき琉球りゅうきゅう群島ぐんとう,這是最早もはや提出ていしゅつらいてき反對はんたい觀點かんてん。另有史明ふみあきとうみとめため當時とうじずいだいてきりゅうもとめおう該是泛指琉球りゅうきゅう群島ぐんとう台灣たいわんひとし中國ちゅうごく以東いとう海中かいちゅうてき一連いちれんくし島嶼とうしょ

ずいしょじょうてき記載きさい

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ずい煬帝征討せいとうりゅうもとめ一事いちじしょう於《ずいしょまき81〈東夷あずまえびす列傳れつでん〉46〈ながれもとめこくでん〉、以及どう書卷しょかん64〈列傳れつでん〉29〈ひねりょうでん〉。其大致經過けいか如下: 大業おおわざ元年がんねん(605ねん),うみなにひとしまい春秋しゅんじゅうてん清風せいふうしずひがしもちまれゆう煙霧えんむまた不知ふちいく千里せんりさんねん(607ねん),煬帝れいじょうしゅひろし入海いりうみもとめおとずれぞくなに蠻言とげあずか蠻俱往,いんいたりゅうもとめこくげんそうどおりかすめいちにん而返。明年みょうねんみかどふくれいひろし慰撫いぶりゅうもとめしたがえひろし其布かぶと而還。とき倭國わのくに使來朝らいちょうみる曰:「此えびすよこしま久國ひさくにひと所用しょよう也。」みかどたけ賁郎はたひねりょうあさ大夫たいふちょう鎮州りつへいやす浮海げきいたりこうはなまたひがしぎょうにちいたり鼊嶼またいちにち便びんいたりりゅうもとめはつりょうはた南方なんぽう諸國しょこくじんぐんゆうこん崙人頗解其語,ひと慰諭りゅうもとめしたがえこばめぎゃく官軍かんぐんりょうげきはしこれしんいたり其都,しきせんみなはい,焚其宮室きゅうしつとりこ男女だんじょすうせんにんぐんじつ而還。なんじとげぜっ。(〈ながれもとめこくでん〉,引自楊麗しゅく nd)[1]

大業おおわざさんねんちん[2]はい賁郎しょうさんさいそく大業おおわざろくねん,610ねん),あずかちょうしん大夫たいふちょう鎮州はつ東陽とうようへいまん餘人よにんやす泛海,げきりゅうもとめこくがつあまり而至。りゅう求人きゅうじんはつ船艦せんかん,以為しょうたび往往おうおうまいぐんちゅう貿易ぼうえき。(〈ひねりょうでん〉,引自中國ちゅうごくもう 2001)

簡單かんたんこう,煬帝そうきょう征討せいとうながれもとめさんだいいち607ねんよしためかたりげん不通ふつう所以ゆえんただかすめいちにん而返」。つぎねんさいれいしゅひろしだい進擊しんげきただし也僅「ひろし其布かぶと而還」。而當時とうじ倭國わのくに使者ししゃ來朝らいちょうりょうせつ:「這是えびすよこしま久國ひさくにしゅ說法せっぽう一說いっせつ可能かのうため日本にっぽん九州きゅうしゅう屋久島やくしま(やくしま),ただし原文げんぶんためえびすよこしま久國ひさくに,而非よこしま久國ひさくに。且鼊嶼かかり澎湖離島りとう(引自たん其驤1987,21-22),ゆかり出發しゅっぱつ不可能ふかのう一日即達九州或琉球群島。)」だいさんそくざい610ねんゆかりひねりょうちょう鎮州りょうぐん一次相當大規模的軍事行動,「とりこ男女だんじょすうせんにん」而返。

文中ぶんちゅうこん崙人,うたぐゆびから文獻ぶんけんちゅうしょゆびしょうてきこん崙奴南洋なんよう群島ぐんとうあるみなみ人士じんし)。臺灣たいわん原住民げんじゅうみんため南島なんとうけいあずか東南とうなんしょ民族みんぞくがいどうぶん曰「ゆうこん崙人頗解其語」。しか日本にっぽん九州與琉球群島使用的語言屬於日本にっぽん-琉球りゅうきゅうけい和南わなみとうけい缺乏けつぼうどうみなもと相互そうご理解りかいせいごくひく完全かんぜん法相ほうしょうどおり,也不能ふのうあずかにんなん東南とうなんげんしょうどおり言上ごんじょうてき證據しょうこ使とくりゅうもとめこくゆびわたるいた今日きょう琉球りゅうきゅう群島ぐんとうある日本にっぽん列島れっとうてき可能かのうせい大幅おおはばくだていただし無法むほう排除はいじょ琉球りゅうきゅう群島ぐんとうあずか台灣たいわん原住民げんじゅうみんぞくしょ使用しようぬのかぶと款式相似そうじてき可能かのうせい)。此外,いにしえ以來いらい也從ゆう以崑崙人稱呼しょうこ朝鮮ちょうせん倭國わのくにとう東夷あずまえびす民族みんぞく(請參地圖ちず鼊嶼やすよこしま久國ひさくにとう地理ちり位置いち)。

いくしゅ既存きそんてき解釋かいしゃく

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ずいしょしょ記載きさいてきりゅうもとめ,其所ゆび究竟きゅうきょうためこんてんてき台灣たいわんあるもの琉球りゅうきゅうあるもの甚至其他てき地方ちほう,一直是台灣史學界長久以來爭論的問題。曹永みとめため「聚說まがえ紜,かくおのれいたりこん仍時ゆう爭論そうろん[3]史明ふみあきそうゆい眾多學者がくしゃたい於流もとめてき各種かくしゅ不同ふどう解釋かいしゃくみとめため結果けっか以歸ため以下いかさんしゅ不同ふどうてき說法せっぽう[4]

  1. ゆび今日きょう台灣たいわん
  2. ゆび今日きょう琉球りゅうきゅう群島ぐんとう
  3. 當時とうじ所謂いわゆるりゅうもとめしゃ,泛指琉球りゅうきゅう群島ぐんとう台灣たいわんとう西太平洋にしたいへいようちゅうてき一連いちれんくし島嶼とうしょ

ずいしょ·りゅうもとめこく上所かみところ記載きさいながれ求人きゅうじんてき習俗しゅうぞく乎是あずか台灣たいわん原住民げんじゅうみんてき文化ぶんか比較ひかく接近せっきんしかほそずいしょまきはちじゅういち列傳れつでんだいよんじゅうろくゆうせきりゅうもとめこくやくせんてき描寫びょうしゃ敘述,指出さしでてき當地とうち原住民げんじゅうみん生活せいかつがたたい以及女子じょしよめ鑿齒てき習俗しゅうぞく與平よへい埔族ちゅうてきともえそくうみぞく相近すけちかただし仍有學者がくしゃみとめどうゆび台灣たいわん原住民げんじゅうみん

ながれもとむ」這個ざいずいだいところ使用しようてき名稱めいしょういちちょくいたそうだいかえ繼續けいぞく使用しようしかさいいたもとだい也仍しか存在そんざい這個名稱めいしょうただあらためうつしため琉求ある瑠求[5]ざい中國ちゅうごく史書ししょてき記載きさいじょうゆう同意どうい這種はたながれもとむため台灣たいわんてき見解けんかい。其中有ちゅううてきみとめためずいだいてき這個「ながれもとむ現在げんざいてき琉球りゅうきゅうなみ台灣たいわん支持しじだい一種いっしゅ說法せっぽうてき著作ちょさく,以刊行かんこう於1737ねんてき清朝せいちょうかんかた史書ししょ福建ふっけんつうこころざし》(郝玉麟監修かんしゅうしゃどううけたまわとう編纂へんさんため代表だいひょう[6]

此外,也有やゆうさらてき著作ちょさく,雖然なみせんしょうずいだいてき這個「ながれもとむ現在げんざいてき琉球りゅうきゅうただし卻對「はたずいだいりゅうもとめため台灣たいわんてき這種見解けんかいだきちょ相當そうとう以為しかてき態度たいどしんだいしゅけいえいところちょてきうみひがしさつ[7]、以及きよしだいはやしつよしところちょてき澎湖ちょう[8]たい這種見解けんかい提出ていしゅつ相當そうとう程度ていどてき質疑しつぎざいちん(1856ねん-1938ねんしょちょてき台灣たいわんどおりちゅう這樣描述:「ずい大業おおわざちゅうとら賁將ひねりょういちいたり澎湖,東向こちむきもちよう而返」(ひね衍 1961,51)。就這だん文字もじらいちんりょう雖然抵達りょう澎湖,ただしなみさい繼續けいぞく前進ぜんしん而立じりつこくおりかえし。也就せつ根本こんぽん遠征えんせい台灣たいわんただしずいしょひねりょうでんちゅうやめあきらひねりょう渡海とかいいたりりゅうもとめしたがえなんとくひねりょう出海でうみ一次かずつぐわかまたゆう文獻ぶんけん記載きさいひねりょうりつ於義やす海邊うみべひがしもちかいためひねりょうしたがえ出海でうみはやしごうしょげん,以偏ぶたぜん。《そうふみ》『外國がいこく列傳れつでんちゅうみとめためながれもとめこくくらい泉州せんしゅう以東いとうあずか彭湖あいもち[9]:35明則あきのり以為りゅうもとめしゃ,泛指琉球りゅうきゅう臺灣たいわん大陸たいりく東方とうほう一連いちれんくし島嶼とうしょほどけ,頗有見地けんち。此外,しんだいてきりくおう於1686ねんしょちょてきこうきょう》〈琉求でんちゅう也有やゆう以下いか這段文字もじ

國王こくおう有三ゆうぞうちゅう山王さんのう山南さんなんおう山北やまきたおうかんたかし以來いらい不通ふつう中華ちゅうかずい大業おおわざはねしゅひろしおとずれもとめぞくはじめいたり其國,言語げんご不通ふつうかすめいちにん以還。れきからそうもと朝貢ちょうこういたりあきらひろしたけはつ,三王皆遣使朝貢,とめちゅう山王さんのう來朝らいちょう,而許王子おうじ及陪臣子しんし來遊らいゆう大學だいがくぶた山南さんなん山北さんぽく二王におうしょう併。……澎湖ちかふくしゅうぐんかい天氣てんき晴朗せいろうもち隱然いんぜんざい煙霧えんむなか……。[10]

りくおうてき這段はなし焉不しょうはん而和琉球りゅうきゅう群島ぐんとう歷史れきしうえてきさんやま時代じだいあずか文中ぶんちゅうてき其所描述てきさん王國おうこくしょう顯然けんぜんゆび台灣たいわん

したがえ以上いじょうてき這些證據しょうこらいわが們很なんゆういち明確めいかくてき結論けつろん判斷はんだんずいだいてきりゅうもとめこく到底とうていゆびてき現今げんこんてきいち地方ちほう。彭明敏和としかずあきらどうみとめため,「以流もとめ(琉求)ゆび現在げんざいてき琉球りゅうきゅう而非ゆび台灣たいわんしたがえあかりまつ開始かいしてき」,いんため根據こんきょもと·琉求》,地理ちり位置いちらいもとひっさげいた琉求もたれきん澎湖,不可能ふかのうしたがえ澎湖またが台灣たいわん直接ちょくせついた琉求とう。彭明敏めいびんあずかあきらどうみとめため一直要到明末以後,中國ちゅうごくてきかん人才じんさいたい琉球りゅうきゅう群島ぐんとうかず台灣たいわんてき區別くべつゆう比較ひかく清楚せいそてき認識にんしき,也開始かいし現在げんざいてき琉球りゅうきゅうしょうためだい琉求」,而台灣たいわん本土ほんどそくさけべ做是「しょう琉求」(今日きょう台灣たいわんてき西南せいなんかく海上うながみ也有やゆう小島こじまめいさけべしょう琉球りゅうきゅう」)。[6]

史明ふみあきみとめためずいだいてきりゅうもとむ不能ふのうせつただゆび台灣たいわんとう,而應該採取さいしゅだいさんせつそくみとめためながれもとむ」乃是包括ほうかつ現今げんこん琉球りゅうきゅう群島ぐんとうかず台灣たいわんとう島嶼とうしょてき總稱そうしょう比較ひかく恰當。[11]

這種たいながれもとめとうどう台灣たいわん說法せっぽうてき質疑しつぎ,也可以在しょう當今とうぎん學者がくしゃてき著作ちょさくちゅう找到,如說ぬさはらひろし(1938)、かくひろしあきら(2003)、かん才媛さいえん(2001)、よりゆきぶくじゅん(2000)以及はりすすむ(1971)とう

明朝みょうちょういむしたがえざいこといきしゅう咨錄ちゅうまたげん:「《くんちゅうゆうだい琉球りゅうきゅうしょう琉球りゅうきゅうこれべつしょう琉球りゅうきゅう不通ふつう往來おうらい入貢にゅうこうのりいまたてまつ敕封ためちゅう山王さんのうしゃ,乃大琉球りゅうきゅう也。」明太めんたい於《すめらぎあかりくん明正めいせいみなみへんひがしてき征之まさゆきこく包括ほうかつだい琉球りゅうきゅう琉球りゅうきゅうこくあずか不通ふつう往來おうらい入貢にゅうこうてきしょう琉球りゅうきゅう後者こうしゃゆび臺灣たいわん仍未明確めいかく

いたりょう明朝みんちょう中葉ちゅうよう,「ながれもとむてき名稱めいしょう逐漸消失しょうしつざいさつちゅうはん出現しゅつげん琉球りゅうきゅう」、「ひがしばん」這兩個りゃんこ地名ちめい,其中「ひがしばんやめ確定かくてい就是今日きょう台灣たいわんひねだいひがしばんあずか沈有ようてき相關そうかん資料しりょうしんだいてきいくながかわ繼承けいしょう其說)。

相關そうかん條目じょうもく

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引用いんよう

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  1. ^ 楊麗しゅく該文收錄しゅうろくゆうかんせいてきながれもとめこくでん〉,參考さんこう
  2. ^ 該引ぶんはたひねりょう誤寫ごしゃためひね棱」
  3. ^ 曹永(1979ねんだい5页
  4. ^ 史明ふみあき(1980ねんだい26页
  5. ^ 史明ふみあき(1980ねんだい26-27页
  6. ^ 6.0 6.1 明敏めいびん & あきらどう(1995ねん
  7. ^ しゅけいえい(1958ねんだい1页
  8. ^ はやしつよし(1963ねんだい53页,だいいちさつ
  9. ^ 台灣たいわん銀行ぎんこう經濟けいざい研究けんきゅうしつ編輯へんしゅう. ながれもとめあずか雞籠さん. 國史こくしかん台灣たいわん文獻ぶんけんかん. 1996-09-01. ISBN 9570079894. 
  10. ^ 史明ふみあき(1980ねんだい27页
  11. ^ 史明ふみあき(1980ねんだい27-28页

延伸えんしん阅读

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[]

 きた·まき094》,出自しゅつじ延壽えんじゅきた
 ずいしょ·まき81》,出自しゅつじちょうずい
 げんふみ/まき210》,出自しゅつじそうもと

參考さんこう文獻ぶんけん

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  • ぬさはらひろし. だいよんしょう琉球りゅうきゅう台灣たいわん混同こんどうろんそう批判ひはん. 南方なんぽう文化ぶんか建設けんせつへ. 東京とうきょう: 富山とやまぼう. 1938: 45–70 にち语). 
  • 曹永. 台灣たいわん早期そうき歷史れきし研究けんきゅう. 台北たいぺい: れんけい. 1979. 
  • ちん衍纂輯,1961,臺灣たいわんどおり よんかん台北たいぺい台灣たいわん銀行ぎんこう經濟けいざい研究けんきゅうしつ
  • かくひろしあきら. 台灣たいわん古代こだい名稱めいしょう. 台灣たいわん人的じんてき台灣たいわん. 2003 [2005-01-11]. (原始げんし内容ないようそん档于2004-10-15) –どおり台灣たいわん海外かいがいもう. 
  • かん才媛さいえん,2001,中國ちゅうごく歷史れきし台北たいぺいこうきょうしょきょく
  • よりゆきぶくじゅん,2000,じゅうなな世紀せいきぜん中國ちゅうごくたい台灣たいわんてき認識にんしき發現はつげん台灣たいわん論文ろんぶん發表はっぴょう於第八屆中國海洋發展史學術研討會,3がつ30にち-31にち台北たいぺい。。
  • はやしつよし. 澎湖ちょう(13かん) 再版さいはん. 台北たいぺい: 台灣たいわん銀行ぎんこう經濟けいざい研究けんきゅうしつ. 1963. 
  • 明敏めいびん; あきらどう. 台灣たいわんざい國際こくさいほうじょうてき地位ちい. よし蔡秋ゆうこぼし译. 台北たいぺい: 玉山たまやましゃ. 1995. 
  • 史明ふみあき. 台灣たいわんじんよんひゃくねん(うえ) たいらそう普及ふきゅうばん. San Jose,CA: よもぎとう文化ぶんか公司こうし. 1980. 
  • からさん袞,1958,だい見聞けんぶんろく かん台北たいぺい台灣たいわん銀行ぎんこう經濟けいざい研究けんきゅうしつ
  • 楊麗しゅく,nd,「美麗びれいとうてき出現しゅつげんじゅうなな世紀せいき西にし殖民しょくみん [online]。台北たいぺいおもねしゅくてき。[引用いんよう於2005ねん1がつ10日とおか]。ぜんたま訊網もう[1]页面そん档备份そん互联网档あん)。
  • ちょうすすむ,1971,我國わがくにたいたい澎主けんてき法理ほうり依據いきょ再版さいはん台北たいぺい中央ちゅうおう文物ぶんぶつ供應きょうおうしゃ
  • しゅけいえい. うみひがしさつ(よんかん). 台北たいぺい: 台灣たいわん銀行ぎんこう經濟けいざい研究けんきゅうしつ. 1958. 
  • しゅつかまつ玠,1957,しょう琉球りゅうきゅう漫誌。台北たいぺい台灣たいわん銀行ぎんこう經濟けいざい研究けんきゅうしつ
  • たん其驤,1987,中國ちゅうごく歷史れきし地圖ちずしゅう. だいさつ, ずい·から·だいじゅうこく時期じき北京ぺきん中國ちゅうごく地圖ちず出版しゅっぱんしゃ

外部がいぶ連結れんけつ

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