葛かずら邲(1135年ねん—1200年ねん),字じ楚すわえ辅,世せい居きょ丹に阳,后きさき居きょ吴兴,宋朝そうちょう人ひと。
紹興しょうこう五ご年ねん(1135年ねん)出生しゅっしょう。[1]以儒学じゅがく名家めいか,荫受建たて康やすし府ふ上うえ元もと县丞すすむ。隆りゅう兴元年がんねん進士しんし,为国学がく博士はかせ。奏そう论州县受纳及鬻爵之の弊へい,除じょ著作ちょさく佐さ郎ろう兼けん学士がくし院いん权直。宋そう孝たかし宗むね时,历任侍さむらい御ご史し、中ちゅう书舍人じん、给事中ちゅう、刑部おさかべ尚しょう书,奏そう论都切せつな中なか时事。宋そう光ひかり宗むね时,历任参まいり知ち政事せいじ、知ち枢密院すうみついん事こと。绍熙四よん年ねん三さん月がつ,拜はい左ひだり丞相じょうしょう,次じ年ねん正月しょうがつ,除じょ观文殿どの大だい学士がくし,知ち建たて康やすし府ふ。宋そう宁宗即位そくい,判ばん绍兴府ふ,后きさき来らい判ばん福ふく州しゅう,以少しょう保ほ致仕ちし。南みなみ宋そう慶けい元もと六ろく年ねん(1200年ねん)卒そつ。[2]
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