韃(dá)靼(dá)利り亞あ(拉ひしげ丁ひのと語ご:Tartaria)並なみ非ひ一いち個こ國家こっか,而是中ちゅう世紀せいき至いたり20世紀せいき初はつ歐おう洲しゅう人じん對たい於 中ちゅう亞あ的てき裏うら海うみ至いたり東北とうほく亞あ韃靼だったん海峽かいきょう一帶いったい的てき稱呼しょうこ,尤ゆう指ゆび蒙こうむ古こ帝國ていこく没落ぼつらく後ご泛突厥人じん和わ蒙こうむ古人こじん等ひとし遊牧ゆうぼく民族みんぞく散ち居きょ的てき區域くいき,在ざい當時とうじ的てき語ご境さかい下か包括ほうかつ中ちゅう亞あ及天山てんざん南北なんぼく路ろ的てき突厥諸しょ汗あせ國こく、蒙こうむ古こ諸もろ部ぶ、滿まん洲しゅう等ひとし。「韃靼だったん利とぎ亞あ」是ぜ歐おう洲しゅう探險たんけん家か繪え制せい的てき地圖ちず裡うら常用じょうよう的てき地理ちり用よう詞し。
在ざい歐おう洲しゅう文獻ぶんけん裡うら有ゆう時じ將はた「China」理解りかい為ため漢人かんど聚居的てき關せき內十じゅう八はち省しょう,而將元もと、明あきら、清朝せいちょう时期的てき北部ほくぶ蒙こうむ古和こわ滿みつる洲しま(女おんな真人しんじん聚居区く)列れつ入いれ「韃靼だったん利とぎ亞あ」之これ中ちゅう,兩者りょうしゃ並列へいれつ。譬たとえ如法にょほう國こく傳でん教きょう士し古こ伯はく察在ざい1857年ねん出版しゅっぱん的てき《Christianity in China, Tartary, and Tibet》有ゆう言ごと「在ざい印度いんど,拜はい火ひ的てき摩ま尼あま教きょう徒と被ひ印度いんど教きょう徒と驅逐くちく,最終さいしゅう在ざい韃靼だったん利とぎ亞あ、西藏とりぞう和かず中國ちゅうごく的てき人民じんみん之の中ちゅう苟延殘存ざんそん。」[1]