韋昭(201年ねん—273年ねん),字じ弘ひろ嗣。吳くれ郡ぐん雲くも陽ひ(今いま江蘇こうそ丹陽たんよう)人にん。東ひがし吳くれ史學しがく家か、經學けいがく家か。因よし避司つかさ马昭之これ讳,《三国志さんごくし》称しょう其为韦曜。
少時しょうじ好學こうがく能文のうぶん。早年そうねん曾任丞相じょうしょう掾じょう、西安しーあん令れい、尚書しょうしょ郎ろう、太子たいし中ちゅう庶子しょし、黃門こうもん侍さむらい郎ろう、太ふとし史し令れい等とう職しょく。
258年ねん,孫まご綝廢はい孫まご亮あきら,立だて孫まご休きゅう為ため吳ご國こく皇帝こうてい,改あらため年號ねんごう永安えいあん,昭あきら立りつ五經ごきょう博士はかせ而創設そうせつ國學こくがく,立たて太ふとし學がく博士はかせ制度せいど,開ひらく南京なんきん設しつらえ皇すめらぎ家か中央ちゅうおう學府がくふ之の始はじめ,為ため南京なんきん太たい學がく之の濫觴らんしょう;韋昭官かん拜はい中書ちゅうしょ郎ろう,出で任にん博士はかせ祭まつり酒しゅ,掌てのひら管かん國子くにこ學がく。
264年ねん孫まご休きゅう亡ほろび,孫まご皓あきら即位そくい,韋昭封ふう高陵こうりょう亭ちん侯こう,擔任たんにん中書ちゅうしょ僕ぼく射しゃ、侍さむらい中ちゅう,領りょう左ひだり國史こくし。时孙皓あきら欲よく为其父ちち孙和立たて本ほん纪,韦昭认为孙和并非皇帝こうてい应入列れつ传。二人多次发生类似之事,使つかい韦昭甚是忧虑。他た自称じしょう衰おとろえ老ろう而请求もとめ辞じ官かん,专心著ちょ书。孙皓终是不ふ听。後ご与あずか孙皓不和ふわ愈いよいよ加か严重,孙皓以其不承ふしょう用よう诏命,意い不忠ふちゅう尽つき,终為孫まご皓あきら所しょ害がい,時じ鳳おおとり皇すめらぎ二に年ねん(273年ねん),享年きょうねん73歲さい。[1]
韋昭一生いっしょう,历经东吴四よん朝あさ,是ぜ中国ちゅうごく古代こだい史上しじょう从事史し书编纂时间最长的史学しがく家か,目もく為ため東ひがし吳くれ第だい一いち史家しか。後世こうせい《三國志さんごくし》多た取材しゅざい其《吳くれ書しょ》,南朝なんちょう宋そう裴松之の為ため《吳ご志こころざし》(到いた北きた宋そう才ざい合あい為ため《三國志さんごくし》)作さく注ちゅう亦また有用ゆうよう此書。
子こ韋隆,亦また有ゆう文學ぶんがく天賦てんぷ。[2]
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