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黄道周 - 维基百科,自由的百科全书

黄道こうどうしゅう

南明なんめいこうせい英雄ひでお

黄道こうどうしゅう(1585ねん3がつ9にち—1646ねん4がつ20日はつか),ようげんのち避康熙帝げん燁諱改作かいさくようもと[1]ようひらたまた螭若细遵ごういしとき人称にんしょういしとき先生せんせい閩南台灣たいわん尊稱そんしょうためじょじゅん將軍しょうぐん」,福建ふっけん漳浦銅山どうざん清朝せいちょう时屬みことのりやすこん東山ひがしやまにん[1]せき莆田明朝みょうちょう政治せいじ人物じんぶつ学者がくしゃ、书法藝術げいじゅつあきらほろびこうきよし俘殉こくちゅうれついぬいたかし时改ちゅうはし

黃道こうどうしゅう
曾鯨繪《黃道周像》
曾鯨黃道こうどうしゅうぞう
大明だいめい武英たけひで殿どのだい學士がくしけん吏部兵部ひょうぶ尚書しょうしょ
せきぬき福建ふっけん漳州漳浦けん
ぞくかんぞく
ごうようげんごうせきとき
諡號しごうちゅうれつ
出生しゅっしょうまんれきじゅうさんねんがつきゅうにち(1585ねん3がつ9にち
逝世りゅうたけしねんさんがつにち(1646ねん4がつ20日はつか
出身しゅっしん
  • 萬曆四十六年戊午科舉人
  • 天啓てんけいねんみずのえいぬ進士しんし出身しゅっしん

生平おいだいら

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あきらまんれきじゅうさんねん,二月初九生於東山深井村,出生しゅっしょう年少ねんしょう贫,ざい福建ふっけん漳浦銅山どうざんこんぞく東山ひがしやま島上しまがみ石室いしむろ刻苦こっくおさむ讀,曾在家鄉かきょう漳州广东うしおしゅうおさむ讲学。ゆう「閩海才子さいしほまれ

天啟てんけいねん(1622ねん進士しんしあずか倪元璐おう同年どうねんあらため翰林院かんりんいん庶吉,授編修へんしゅうためけいむしろてんしょかんいんちょうゆうしょく

たかしただしはつふくかん編修へんしゅうたかしただしさんねん(1630ねん),にんみぎなかまことはちがつせんりゅうすず袁崇煥こと下獄げごく廷臣ていしん敢訟冤者。黃道こうどうしゅうあずか钱龙锡素无私交,却激于义愤,うえ疏稱:“こんるいゆう损于こく”,みとめためぜにりゅうすずむべすわ死罪しざいたかし祯帝えつ,以忤むねつみ黄道こうどうしゅうくだ级外调,また礙於舆论,乃釋放しゃくほうぜにりゅうすずあらため浙江せっこうていうみ

たかしただしじゅういちねん(1638ねん),楊嗣あきらちんしんかぶとかたいちみな有家ありえたかしただしみかどきゅうだつじょう起用きよう黃道こうどうしゅうたい此連じょうさん疏,ゆびせめさんにん不忠ふちゅう不孝ふこうみちしゅうまたいんゆび大臣だいじん楊嗣あきらとうわたし妄自,七月初五日崇禎帝在平台召开御前ごぜんかいよう杨嗣あきらあずか黄道こうどうしゅうとう场辩论,[2]黄道こうどうしゅうつよし滔滔とうとう,“あずか嗣昌そう辩上まえはん颜谏そうしょう退すさ,观者莫不战栗。”たかし祯怒不可ふか遏,斥责:“一生学问只办得一张佞口。”みちしゅう连贬ろく级,謫江西にしぬの政司せいじ知事ちじ[3]とげかん,於邺やま讲堂开坛讲学。

たかしじゅうさんねん(1640ねん),江西えにしじゅんかいがく以“忠孝ちゅうこう”为由,こう朝廷ちょうてい举荐黄道こうどうしゅう,认为にん辅导”。たかし祯大いかしたれいはた二人ふたりにゅう狱,以“伪学欺世”これざい重治しげはる,户部主事しゅじ廷秀かんせい涂仲きちとうりょくすくえ,也被逮入狱,周延しゅうえん曰:“ちょう黃道こうどうしゅうみなゆう些偏,ただかい讀書どくしょ所以ゆえん人人ひとびと惜他。”みかど沉默かたり[4]あらため廷杖はちじゅうたかし军广西にしたかしじゅうよんねん(1641ねん),杨嗣あきら病死びょうしたかし想起そうき黄道こうどうしゅうてきせいみさお力学りきがくなおさく励”,赦其ざいなみ复官。みちしゅうつげびょうかい,专心ちょ书。

あかりほろびにん南明なんめいれい尚書しょうしょ,“げんつめたかたつよし流俗りゅうぞく”,楊廷麟曾力こもたかしこうかんけんじきけいむしろ弘光ひろみつみかどほろびいたり福建ふっけんふくしゅうりゅうたけしみかどふう武英たけひで殿どのだい学士がくしけん吏部なお兵部ひょうぶなおただし兵權へいけんゆかり郑芝龙掌握しょうあくきよし頒布はんぷ发令江南こうなん人民じんみんもとめすくい南明なんめいりゅうたけし朝廷ちょうていしば龙養へい自重じちょう发一へいいちそつ[5]黄道こうどうしゅうただとくかえしきょう籌兵籌糧。

りゅうたけし元年がんねん(1645ねん),九月十九日道周募眾數千人[6]うまじゅうひき,另有いちがつかていずるせんかすみ與清ともきよへいこうげきほどこせいちあずかぜん往,ひさ卻径かえしかい福建ふっけん[7]夫人ふじん蔡氏叹道:“みちしゅう其所りょう!”じゅうがつはつ抵达广信いまうえ),つのとくさん個月かげつへい粮,ふんへいさんむかいきよしへい发起进攻,一路いちろこう西にしおさむ抚州いま临川),另两北上ほくじょうぶんおさむ婺源、きゅう宁,ひささんみなはい十二月じゅうにがつろくにち黄道こうどうしゅうりつたいこう婺源出發しゅっぱついたりわらわぼう得知とくち乐平やめおちいじゅうよんにち,抵明どうさとぐうふくまいりしょうこうまんよう逃去,於是ぜん军崩溃。黃道こうどうしゅうあずかよん門生もんせい蔡春溶ちょうちょうよりゆきつぎもういたるきよし衝鋒ざいまえおわりいんへいじゃくにんかむ徽州守将しゅしょう张天ろく俘獲。

みちしゅう俘後,いたりきむりょう獄中ごくちゅう獄中ごくちゅうぎん咏如きよし廷派あかり舊臣きゅうしんひろしうけたまわ勸降かんこう黃道こうどうしゅううつし這樣いちふくたいれん:“史筆しひつりゅうよし,雖未成みせいめいおわりほう洪恩こうおんひろしとろけおもえ報國ほうこくはんなりかたき。”はた殉難じゅんなんてきふみほうあずかひろしうけたまわ疇對うけたまわ疇頗愧,うえ疏请もとめ免除めんじょどうしゅう死刑しけいきよし廷不じゅんこう绝食じゅうにち期間きかん其妻蔡氏来信らいしん:“忠臣ちゅうしんゆうこく无家,勿内顾”。

りゅうたけしねん(1646ねん),さんがつにち就义,臨刑まえたらいあらい更衣ころもがえ取得しゅとくすみかく一幅长松怪石贈人,かえきゅう家人かじんとめりょう遺言ゆいごん:“蹈仁不死ふしくつけわしわかえびすゆう隕自てんしゃいのち渝”。いたり东华门刑场上,こう南方なんぽう再拜さいはいみちしゅう撕裂衣服いふく,咬破手指しゅしゆう血書けっしょのこ家人かじん:“纲常万古ばんこ,节义千秋せんしゅう天地あまちともわが家人かじん无忧。”最後さいご头已だん而身“兀立仆”,其門じん蔡春溶、赖继谨、赵士ちょう和毛にこげいたり洁同被害ひがい人稱にんしょう四君子しくんし」。

著作ちょさく

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しるゆう《儒行しゅうでん》《いしときしゅう》《えきぞう正義まさよし》《春秋しゅんじゅう揆略》《こうけいしゅうでんとう現存げんそんりょうせんしゅ俘後「さんひかりてきろうしつちゅう所作しょささんひゃくくび出自しゅつじいきどおさいためかんじん

書畫しょが

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黃道こうどうしゅうてき詩文しぶん書畫しょがひとし後世こうせいためだかかぜあきらぶしてき象徵しょうちょう他所よそてき松石まついしゆう其著めい

書畫しょが作品さくひん

成就じょうじゅ

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みちしゅう博学はくがく多才たさい僅精どおり经學、史學しがく、诗賦,甚至天文てんもん历法数学すうがく,且能書畫しょが。《あかりさん:「がくぬき古今ここんしょいたり學者がくしゃ雲集うんしゅう」。いぬいたかしみかどまたせつ:「いちだいかんじん」。

藝術げいじゅつ方面ほうめんみちしゅう书法みょう绝,しんはつそうせつ:“いしとき先生せんせい楷法ゆうしらげ所謂いわゆる氣密きみつうらら,如飛おおとり舞鶴まいづるれいじんさけべぜっ。”(《漫堂書畫しょがばつ》)みちしゅうまたのう绘画,じょかすみきゃくひょう字画じかく为馆阁第いち文章ぶんしょう为国あさだいいち人品じんぴん为海ないだいいち,其学问直接ちょくせつしゅうあな,为古今ここんだいいち”。

評價ひょうか

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顧誠南明なんめい評價ひょうかりゅうそうあまねかず黃道こうどうしゅうみなむね樑之ざい們「守正もりまさ」而不能ふのうたちへん;敢於はんがおちょく諫而闊於事理じりりつおのれ雖嚴而於[8]

信仰しんこう

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艋舺すすむとくみやじょじゅん將軍しょうぐん

清朝せいちょう初年しょねん閩南じん崇敬すうけい黃道こうどうしゅう忠義ちゅうぎまつりはい尊稱そんしょう其為「じょじゅん將軍しょうぐん」,以避めん朝廷ちょうてい查獲。也有やゆうじんみとめため黃道こうどうしゅうてき說法せっぽう穿鑿せんさく附會ふかいはた原本げんぽんしょう其名てき將軍しょうぐんるい神靈しんれいあらためためかなえかなえ大名だいみょうてき黃道こうどうしゅう

參考さんこう資料しりょう

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  1. ^ 1.0 1.1 闽中理学りがく渊源こう·まきはちじゅうさん
  2. ^ 闽中理学りがく渊源こう·まきよんじゅうはち
  3. ^ あきら儒學じゅがくあん·まきじゅうろく·しょ儒學じゅがく案下あんかよん
  4. ^ へりくだこれ:《たかしただし朝野あさのおさむ
  5. ^ 郑达.   野史やし无文·まきじゅう·郑成功せいこう传》. 维基ぶん ちゅうぶん. みちしゅうあずかしば龙隙,请督师援广信しば龙给羸弱るいじゃくそつさんせん以往いおういたり则败绩。 
  6. ^ ぐまさい上石あげし斋黄ろう师书》ちゅう说:“先生せんせいこれぎょう也,召募しょうぼ人才じんさいさんせんみみ,饷不给于国帑こくど,而资于门せい友之ともの题助,此一时义げき慷慨こうがいみみ朝廷ちょうていざい给空门扎ひゃく十道以当行银,兵事へいじ岁月かい,义助のう岁月れい输乎?そら劄可とう衣食いしょくえき死命しめい乎?就令马饱腾、人人ひとびと致命ちめいさん千未教之卒可枝住诸道分进数十万之方张之寇乎?”见黄むね羲编《明文あきふみうみ》,补遗だいさんなな页。
  7. ^ ひかりようむら语录续集》まきはち
  8. ^ 顾诚. 南明なんめい. 中国ちゅうごく青年せいねん出版しゅっぱんしゃ. 1997ねん: 231. 

外部がいぶ链接

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