明朝 みんちょう 第 だい 一 いち 位 い 皇帝 こうてい 朱 しゅ 元 もと 璋 あきら 畫像 がぞう 。台北 たいぺい 國立 こくりつ 故 こ 宮 みや 博物 はくぶつ 院 いん 藏 ぞう
元朝 がんちょう 末期 まっき ,官員 かんいん 貪 むさぼ 污,貴族 きぞく 靡爛,朝政 ちょうせい 腐敗 ふはい ,爆發 ばくはつ 紅 べに 巾 はば 軍 ぐん 為 ため 主力 しゅりょく 的 てき 民 みん 變 へん (元 もと 末 すえ 民 みん 變 へん )。朱 しゅ 元 もと 璋 あきら 所部 ところぶ 的 てき 義軍 ぎぐん 紀律 きりつ 嚴 いむ 明 あきら ,用人 ようにん 唯 ただ 賢 けん ,先後 せんご 有 ゆう 馮國用 よう 兄弟 きょうだい 、李 り 善 よし 長 ちょう 、陶 とう 安 やすし 、劉 りゅう 基 はじめ 等 とう 文士 ぶんし ,徐 じょ 達 いたる 、常 つね 遇 ぐう 春 はる 、湯 ゆ 和 わ 等 とう 將領 しょうりょう ,勢力 せいりょく 日 び 增 ぞう 。元 もと 至 いたり 正 せい 十 じゅう 六 ろく 年 ねん (1356年 ねん ),朱 しゅ 元 もと 璋 あきら 佔領集 しゅう 慶 けい (今 こん 江蘇 ちぁんすー 省 しょう 南京 なんきん 市 し ),繼 つぎ 而向蘇 そ 、浙、皖、贛發展 はってん ,採納 さいのう 謀 はかりごと 士 し 朱 しゅ 升 ます 「高 こう 築 ちく 牆,廣 こう 積 せき 糧 かて ,緩 なる 稱 しょう 王 おう 」的 てき 建議 けんぎ ,經過 けいか 幾 いく 年 ねん 努力 どりょく ,其軍事 ぐんじ 和 わ 經濟 けいざい 實力 じつりょく 迅速 じんそく 壯大 そうだい [ 10] :4-7 。元 もと 至 いたり 正 せい 二 に 十 じゅう 三 さん 年 ねん (1363年 ねん ),通過 つうか 鄱陽湖水 こすい 戰 せん ,陳 ちん 友 とも 諒 りょう 勢力 せいりょく 基本 きほん 被 ひ 消滅 しょうめつ 。元 もと 至 いたり 正 せい 二 に 十 じゅう 四 よん 年 ねん (1364年 ねん ),朱 しゅ 元 もと 璋 あきら 自稱 じしょう 吳 くれ 王 おう 。至 いたり 元 もと 二 に 十 じゅう 七 なな 年 ねん (1367年 ねん ),率 りつ 軍 ぐん 攻 おさむ 下 か 平江 ひらえ (今 こん 江蘇 ちぁんすー 省 しょう 蘇州 そしゅう 市 し ),滅 めつ 張 ちょう 士 し 誠 まこと ,同年 どうねん 又 また 消滅 しょうめつ 割據 かっきょ 浙江 せっこう 沿海 えんかい 的 てき 方 かた 國 こく 珍 めずらし [ 10] :8-13 。元 もと 至 いたり 正 せい 二 に 十 じゅう 八 はち 年 ねん 正月 しょうがつ 初 はつ 四 よん 日 にち (1368年 ねん 5月 がつ 23日 にち ),朱 しゅ 元 もと 璋 あきら 於应天府 ふ (今 こん 南京 なんきん )稱 しょう 帝 みかど ,即 そく 明太 めんたい 祖 そ ,定國 さだくに 號 ごう 「大明 だいめい 」,以當年 ねん 為 ため 洪 ひろし 武 たけ 元年 がんねん 。同年 どうねん 八 はち 月 がつ ,攻 おさむ 佔元 もと 大 だい 都 と (今北 いまきた 京 きょう ),元 もと 廷撤出 で 中原 なかはら ,史 し 稱 しょう 北元 きたもと 。之 これ 後 ご 於洪武 ぶ 四 よん 年 ねん (1371年 ねん )消滅 しょうめつ 位 い 於四川 しせん 的 てき 明 あかり 玉 だま 珍 めずらし 勢力 せいりょく ,於洪武 ぶ 十 じゅう 四 よん 年 ねん (1381年 ねん )消滅 しょうめつ 據 よりどころ 守 もり 雲南 うんなん 的 てき 元朝 がんちょう 梁 はり 王 おう 。最後 さいご ,明太 めんたい 祖 そ 于洪武 ぶ 五 ご 年 ねん (1372年 ねん )、洪 ひろし 武 ぶ 二 に 十 じゅう 一 いち 年 ねん (1388年 ねん )两度深入 ふかいり 漠 ばく 北 きた 進攻 しんこう 北元 きたもと ,对北元 もと 造成 ぞうせい 沉重打 だ 击,天下 てんか 至 いたり 此初定 じょう [ 10] :13-16 。
皇 すめらぎ 权集中 ちゅう 与 あずか 建 けん 文 ぶん 削 そぎ 藩 はん
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明太 めんたい 祖 そ 即位 そくい 后 きさき 一 いち 方面 ほうめん 減 げん 輕 けい 農民 のうみん 負擔 ふたん ,恢復 かいふく 社會 しゃかい 的 てき 經濟 けいざい 生產 せいさん ,改革 かいかく 元朝 がんちょう 遺留 いりゅう 的 てき 吏治,懲治貪 むさぼ 官 かん ,社會 しゃかい 經濟 けいざい 從 したがえ 戰亂 せんらん 中 ちゅう 得 え 到 いた 恢復 かいふく 和 わ 發展 はってん ,史 し 稱 しょう 洪 ひろし 武之 たけゆき 治 ち 。明太 めんたい 祖 そ 確立 かくりつ 里 さと 甲 かぶと 制 せい ,配合 はいごう 賦役 ふえき 黃 き 冊 さつ 戶籍 こせき 登記 とうき 簿 ぼ 冊 さつ 和 わ 魚鱗 ぎょりん 圖 ず 冊 さつ 的 てき 施行 しこう [ B] ,落實賦 ふ 稅 ぜい 勞役 ろうえき 的 てき 徵收 ちょうしゅう 及地方 ちほう 治安 ちあん 的 てき 維持 いじ [ 11] :32-35 。
明太 めんたい 祖 そ 為 ため 了 りょう 巩固皇 すめらぎ 权,大 だい 肆屠戮功臣 こうしん 大將 たいしょう 。洪 ひろし 武 ぶ 十 じゅう 三 さん 年 ねん (1380年 ねん ),朱 しゅ 元 もと 璋 あきら 以「擅權植 うえ 黨 とう 」之 の 名 めい 處 しょ 死中 しちゅう 書 しょ 丞相 じょうしょう 胡 えびす 惟 おもんみ 庸 いさお ,藉此廢除 はいじょ 宰相 さいしょう 制度 せいど ,集 しゅう 君 くん 權 けん 和 わ 相 しょう 權 けん 于一身 いっしん 。事 こと 隔 へだた 十 じゅう 年 ねん ,又 また 以株連 れん 李 り 善 よし 長 ちょう 、陸 りく 仲 なか 亨 とおる 等 ひとし 大 だい 批大臣 だいじん ,宣 せん 佈他們奸黨 とう ,連坐 れんざ 受誅者 しゃ 達 たち 三 さん 萬 まん 餘人 よにん (胡 えびす 惟 おもんみ 庸 いさお 案 あん )。洪 ひろし 武 ぶ 二 に 十 じゅう 六 ろく 年 ねん (1393年 ねん ),朱 しゅ 元 もと 璋 あきら 又 また 借 か 大將軍 だいしょうぐん 藍 あい 玉 たま 張 ちょう 狂 きょう 跋扈 ばっこ 之 の 名 めい 對 たい 其誅殺 ちゅうさつ ,連坐 れんざ 被 ひ 族 ぞく 誅的有 ゆう 一 いち 萬 まん 五 ご 千 せん 餘人 よにん ,史 し 稱 しょう 藍 あい 玉案 ぎょくあん 。胡 えびす 惟 おもんみ 庸 いさお 案 あん 、藍 あい 玉案 ぎょくあん 、空 そら 印 しるし 案 あん 與 あずか 郭 かく 桓案合 ごう 稱 しょう 明 あきら 初 はつ 四大 しだい 案 あん ,「元 もと 功 こう 宿將 しゅくしょう 相 しょう 繼 つぎ 盡 つき 矣!」[ a] [ 12] :164 。明太 めんたい 祖 そ 通過 つうか 打擊 だげき 权臣、特務 とくむ 監視 かんし 等 とう 一系列方式加強皇權,使 つかい 明 あかり 初 はつ 的 てき 皇帝 こうてい 專制 せんせい 程度 ていど 與 あずか 中國 ちゅうごく 此前歷代 れきだい 相 しょう 比 ひ 更 さら 高 だか [ 11] :20-45 。
明太 めんたい 祖 そ 分封 ぶんぽう 诸子為 ため 王 おう ,以加強 きょう 邊 あたり 防 ぼう ,藩屏 はんぺい 皇室 こうしつ 。諸王 しょおう 之 の 中 ちゅう ,以北 いほく 方 かた 諸王 しょおう 勢力 せいりょく 較強,又 また 以秦王 おう 朱 しゅ 樉 、晉 すすむ 王 おう 朱 しゅ 棡與 あずか 燕 つばめ 王 おう 朱 しゅ 棣的 てき 勢力 せいりょく 最大 さいだい 。為 ため 防止 ぼうし 朝 ちょう 中 ちゅう 奸臣 かんしん 不軌 ふき ,明太 めんたい 祖 そ 規定 きてい 諸王 しょおう 可 か 移 うつり 文 ぶん 中央 ちゅうおう 捉拿奸臣 かんしん ,必要 ひつよう 時 じ 得 とく 奉天 ほうてん 子 こ 密 みつ 詔 みことのり ,領 りょう 兵 へい 「靖 やすし 難 なん 」(意 い 为“平定 へいてい 國難 こくなん ”)。同時 どうじ 為 ため 防止 ぼうし 諸王 しょおう 尾大 びだい 不 ふ 掉,明太 めんたい 祖 そ 也允許 いんきょ 今後 こんご 的 てき 皇帝 こうてい 在 ざい 必要 ひつよう 時 じ 可 か 下 した 令 れい 「削 そぎ 藩 はん 」[ 11] :20-45 [ 12] :163-164 。
洪 ひろし 武 ぶ 三 さん 十 じゅう 一 いち 年 ねん (1398年 ねん )明太 めんたい 祖 そ 驾崩,由 ゆかり 於皇太子 たいし 朱 しゅ 標 しるべ 於七年前因巡视陕西而病薨逝,遗诏由 ゆかり 皇 すめらぎ 太 ふとし 孫 まご 朱 しゅ 允 まこと 炆即位 そくい 。改 あらため 年號 ねんごう 建 たて 文 あや ,即 そく 明惠 あきえ 宗 むね (亦 また 稱 たたえ 建 けん 文 ぶん 帝 みかど 、明惠 あきえ 帝 みかど )。明惠 あきえ 宗 そう 為 ため 鞏固 きょうこ 皇 すめらぎ 權 けん ,與 あずか 親 しん 信 しん 大臣 だいじん 齊泰 なりやす 、黃 き 子 こ 澄 きよし 等 とう 密謀 みつぼう 削 そぎ 藩 はん 。周 しゅう 王 おう 朱 しゅ 橚 、代 だい 王 おう 朱 しゅ 桂 かつら 、齊 ひとし 王 おう 朱 しゅ 榑 、湘王朱 しゅ 柏 かしわ 等 とう 先後 せんご 或 ある 被 ひ 廢 はい 為 ため 庶人,或 ある 自殺 じさつ 。同時 どうじ 以邊防 ぼう 為 ため 名 めい 調 ちょう 離 はなれ 燕 つばめ 王 おう 的 てき 精兵 せいびょう ,準備 じゅんび 削除 さくじょ 燕 つばめ 王 おう 。結果 けっか 燕 つばめ 王 おう 朱 しゅ 棣在 ざい 姚廣孝 こう 的 てき 建議 けんぎ 下 か 以「清 きよし 君 くん 側 がわ ,靖 やすし 內難」的 てき 名義 めいぎ 起 おこり 兵 へい ,遭到盛 もり 庸 いさお 等 とう 忠 ちゅう 于建文 ぶん 帝 みかど 的 てき 大臣 だいじん 的 てき 痛 つう 击,但 ただし 最後 さいご 迂 まが 迴南下 なんか ,佔領京師 けいし ,是 ぜ 為 ため 靖 やすし 難 なん 之 の 變 へん 。朱 しゅ 棣即位 そくい ,即 そく 明成 めいせい 祖 そ ,年號 ねんごう 永 えい 乐 。明惠 あきえ 宗 そう 在 ざい 宮城 みやぎ 大 だい 火中 かちゅう 下落 げらく 不明 ふめい [ 11] :46-65 。明成 めいせい 祖 そ 對 たい 支持 しじ 明惠 あきえ 宗 むね 的 てき 官 かん 员大肆诛殺 ころせ ,諸 しょ 如黃 き 子 こ 澄 きよし 、齊泰 なりやす 等 ひとし [ 12] :167-168 。
永樂 えいらく 盛 もり 世 よ 与 あずか 仁 じん 宣 せん 之 の 治 ち
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将 はた 明朝 みょうちょう 推向鼎 かなえ 盛 もり 的 てき 明成 めいせい 祖 そ 朱 しゅ 棣(在位 ざいい :1402年 ねん -1424年 ねん ),台北 たいぺい 国立 こくりつ 故 こ 宫博物 はくぶつ 院 いん 藏 ぞう
繼 ままし 洪 ひろし 武之 たけゆき 治 ち ,明成 めいせい 祖 そ 、明仁 あきひと 宗 むね 與 あずか 明 あかり 宣 せん 宗 むね 相 あい 繼 つぎ 興起 こうき 永樂 えいらく 盛 もり 世 よ 與 あずか 仁 じん 宣 せん 之 の 治 ち ,這是明朝 みんちょう 的 てき 盛 もり 世 よ 。
明成 めいせい 祖 そ 時期 じき 武功 ぶこう 昌 あきら 盛 もり 。在 ざい 北方 ほっぽう ,明成 めいせい 祖 そ 親 おや 自 じ 五入漠北攻打北元 分裂 ぶんれつ 後 ご 的 てき 韃靼 だったん 與 あずか 瓦 かわら 剌 。明成 めいせい 祖 そ 冊 さつ 封 ふう 瓦 かわら 剌三王 おう ,使 つかい 與 あずか 韃靼 だったん 對立 たいりつ ,等 とう 到 いた 瓦 かわら 剌興盛 もり 後 ご 又 また 助 じょ 韃靼 だったん 討伐 とうばつ 瓦 かわら 剌,不 ふ 使 つかい 任 にん 何 なに 一方 いっぽう 独 どく 大 だい 。在 ざい 南方 なんぽう ,明成 めいせい 祖 そ 出 で 击安 やす 南 みなみ ,将 はた 安 やす 南 みなみ 纳入明朝 みんちょう 版 ばん 图,设立交趾布 ぬの 政司 せいじ ,安 やす 南 みなみ 后 きさき 来 き 在 ざい 明 あかり 宣 せん 宗 むね 年 ねん 间重新 しん 获得独立 どくりつ 。
在 ざい 東北 とうほく ,明成 めいせい 祖 そ 為安 ためやす 撫 なで 東北 とうほく 女 おんな 真 ま 各部 かくぶ ,在 ざい 歸 き 附 ふ 的 てき 海 うみ 西 にし 女 おんな 真 しん (位 い 於松 まつ 花江 はなえ 上 うえ 游 ゆう )與 あずか 建 けん 州 しゅう 女 おんな 真 しん (位 い 於松花江 はなえ 、牡丹 ぼたん 江 こう 之 これ 間 あいだ )設置 せっち 衛 まもる 所 しょ ,並 なみ 派 は 亦 また 失 しつ 哈安 やす 撫 なで 位 い 於黑龍江 こくりゅうこう 下 した 游 ゆう 的 てき 野人 やじん 女 おんな 真 しん 。永 えい 乐七 なな 年 ねん (1409年 ねん )亦 また 失 しつ 哈在黑 くろ 龙江下 か 游 ゆう 东岸奴 やつ 儿干地方 ちほう (元朝 がんちょう 征 せい 东元帅府旧 きゅう 地 ち )設置 せっち 奴 やつ 兒 じ 干 ひ 都 みやこ 司 つかさ ,擴大 かくだい 明朝 みんちょう 東 ひがし 疆,但 ただし 因 よし 为鞑靼干预,至 いたり 永 なが 乐九 きゅう 年 ねん (1409年 ねん ),明成 めいせい 祖 そ 击败鞑靼后 きさき ,派遣 はけん 亦 また 失 しつ 哈护送此前委任 いにん 的 てき 康 やすし 旺、王 おう 肇 はじめ 州 しゅう 前 ぜん 往奴儿干都 と 司 つかさ 衙署就任 しゅうにん ,奴 やつ 儿干都 と 司 し 正式 せいしき 建立 こんりゅう [ 13] 。在 ざい 西南 せいなん ,永樂 えいらく 十 じゅう 一 いち 年 ねん (1413年 ねん ),明成 めいせい 祖 そ 利用 りよう 贵州土 ど 司 し 地方 ちほう 矛盾 むじゅん ,进行改 あらため 土 ど 归流,设立貴 き 州 しゅう 布 ぬの 政 せい 使 し 司 し ,对贵州 しゅう 进行直接 ちょくせつ 管理 かんり ,同 どう 时加強 きょう 對 たい 雲南 うんなん 的 てき 開發 かいはつ [ 10] :60-65 [ 12] :168-170 。除 じょ 此之外 がい ,明成 めいせい 祖 そ 还在西藏 にしくら 地区 ちく 多 た 封 ふう 众建,先 さき 后 きさき 设立三 さん 大 だい 法王 ほうおう 、五大 ごだい 教 きょう 王 おう ,加 か 强 きょう 对西藏 ぞう 地区 ちく 的 てき 羁縻统治。
明成 めいせい 祖 そ 一改明太祖閉關自守的外交策略,自 じ 永樂 えいらく 三 さん 年 ねん (1405年 ねん )開始 かいし 派 は 宦官 かんがん 鄭 てい 和 かず 下 か 西洋 せいよう 計 けい 七 なな 次 じ ,前 ぜん 六次均在永乐年间由明成祖派遣,郑和船 せん 队足迹遍佈東南 とうなん 亞 あ 與 あずか 南 みなみ 亞 あ 地區 ちく ,還 かえ 於滿 まん 剌加建 たて 有 ゆう 基地 きち 。其規模 きぼ 空前 くうぜん ,最 さい 遠 とお 到達 とうたつ 東 ひがし 非 ひ 索 さく 馬 ば 利 とぎ 亞 あ 地區 ちく ,擴大 かくだい 明朝 みんちょう 對 たい 南洋 なんよう 、西洋 せいよう 各國 かっこく 的 てき 影響 えいきょう 力 りょく [ 10] :56-60 。
国内 こくない 政治 せいじ 方面 ほうめん ,明成 めいせい 祖 そ 将 しょう 大 だい 宁都司 し 内 うち 迁保 ほ 定 じょう ,将 はた 宁王朱 しゅ 权内 うち 迁南 みなみ 昌 あきら ,授予兀良哈蒙古 いにしえ 的 てき 朵颜 、泰 たい 宁和 わ 福 ぶく 余 あまり 三 さん 个卫所 自治 じち 权,但 ただし 不 ふ 允 まこと 许三卫蒙古人南迁到大宁地区驻牧。明成 めいせい 祖 そ 还于永 なが 乐四 よん 年 ねん (1406年 ねん )和永 かずえ 乐二 に 十 じゅう 年 ねん (1422年 ねん )对兀良 りょう 哈蒙古 こ 进行镇压,以维持 じ 这一地区 ちく 的 てき 稳定[ 14] 。与 あずか 此同时,明成 めいせい 祖 そ 还将镇守总兵派遣 はけん 到 いた 各地 かくち ,用 よう 以代替 だいたい 藩 はん 王 おう 镇守要地 ようち ,逐渐形成 けいせい “三 さん 司 つかさ ”之 の 上 うえ 的 てき “三 さん 堂 どう ”制度 せいど [ 15] 。明成 めいせい 祖 そ 还在国内 こくない 疏浚会 かい 通 どおり 河 かわ ,沟通南北 なんぼく 漕 こげ 运,更 さら 在 ざい 永樂 えいらく 十 じゅう 八 はち 年 ねん (1420年 ねん ),遷都 せんと 北京 ぺきん 。另一方面 ほうめん ,明成 めいせい 祖 そ 时期对建文 ぶん 旧臣 きゅうしん 进行残酷 ざんこく 镇压,非常 ひじょう 惨烈 さんれつ ,也受到后 きさき 世 よ 诟病。
文化 ぶんか 方面 ほうめん ,明成 めいせい 祖 そ 下 か 令 れい 修 おさむ 大型 おおがた 類書 るいしょ 永 えい 乐大典 たいてん 。在 ざい 三 さん 年 ねん 時間 じかん 內即告 つげ 完成 かんせい 。永 えい 乐大典 たいてん 有 ゆう 22877卷 かん ,又 また 凡例 はんれい 、目錄 もくろく 60卷 かん ,全書 ぜんしょ 分 ぶん 裝 そう 為 ため 11095冊 さつ ,引書達 たち 七 なな 八 はち 千 せん 種 しゅ ,字數 じすう 約 やく 有 ゆう 三 さん 億 おく 七 なな 千 せん 多 た 萬 まん ,且未有 ゆう 任 にん 何 なん 刪節,這是之 これ 後 ご 的 てき 四 よん 庫 こ 全書 ぜんしょ 無 む 法相 ほうしょう 提 ひさげ 並 なみ 論 ろん 的 てき [ 16] 。根據 こんきょ 記載 きさい ,明朝 みんちょう 年間 ねんかん 僅有明 あかり 孝 こう 宗 むね 和 わ 明世 あきよ 宗 むね 二 に 帝 みかど 閱《大典 たいてん 》[ 17] 。此外,明成 めいせい 祖 そ 并未将 はた 《永 えい 乐大典 たいてん 》复写刊 かん 刻 こく ,且决定 てい 只 ただ 制作 せいさく 一 いち 份抄本 しょうほん ,並 なみ 于永乐八 はち 年 ねん (1410年 ねん )告 つげ 一段落 いちだんらく [ 18] [ 19] 。
永樂 えいらく 二 に 十 じゅう 二 に 年 ねん (1424年 ねん ),明成 めいせい 祖 そ 親 おや 征 せい 韃靼 だったん 阿 おもね 魯台 ,班 はん 师途中 ちゅう 于榆木川 かわ 病 やまい 故 こ ,其長子 ちょうし 朱 しゅ 高 だか 熾 おき 即位 そくい ,即 そく 明仁 あきひと 宗 むね ,年號 ねんごう 洪 ひろし 熙[ 12] :170-17 。明仁 あきひと 宗 そう 年齡 ねんれい 已 やめ 經 けい 偏 へん 高 だか ,即位 そくい 僅一 いち 年 ねん 就駕崩 くずし 。明仁 あきひと 宗 そう 驾崩後 ご 長子 ちょうし 朱 しゅ 瞻基即位 そくい ,是 ぜ 為 ため 明 あかり 宣 せん 宗 むね ,年號 ねんごう 宣 せん 德 とく 。他 た 基本 きほん 繼承 けいしょう 父親 ちちおや 的 てき 路線 ろせん ,實行 じっこう 德 とく 政治 せいじ 國 こく ,收 おさむ 缩兵力 りょく ,放 ひ 弃安南 みなみ ,並 なみ 且發起 ほっき 最後 さいご 一 いち 次 じ 下 か 西洋 せいよう 。另一方面 ほうめん ,明 あかり 宣 せん 宗 むね 也延续祖父 ちち 政策 せいさく ,亲自率 りつ 军出喜 き 峰 ほう 口 くち 打 だ 击兀良 りょう 哈三 さん 卫,维持了 りょう 这一部蒙古人在宣德年间的稳定。明 あかり 宣 せん 宗 むね 同樣 どうよう 熱愛 ねつあい 美術 びじゅつ ,有 ゆう 畫 が 作 さく 傳 でん 世 よ 。但 ただし 是 ぜ ,其執政 しっせい 期間 きかん 也並非 ひ 毫無弊 へい 端 はし 。由 よし 於明宣 せん 宗 そう 喜好 きよし 養 やしなえ 蟋蟀 こおろぎ ,許多 きょた 官吏 かんり 因 いん 此競相 しょう 拍 はく 馬 ば ,被 ひ 稱 しょう 為 ため 「促織天子 てんし 」。同時 どうじ ,明 あかり 宣 せん 宗 むね 打破 だは 明太 めんたい 祖 そ 留 とめ 下 か 的 てき 宦官 かんがん 不 ふ 得 とく 干 ひ 政 せい 的 てき 規矩 きく ,开始教 きょう 宦官 かんがん 读书,并开始 はじめ 任用 にんよう 宦官 かんがん ,為 ため 明 あきら 英 えい 宗 むね 時期 じき 的 てき 太 ふとし 監 かん 專權 せんけん 埋 うめ 下 か 隱 かくれ 患。虽然有 ゆう 此问题,但 ただし 仍不失 しつ 为明君 くん ,他 た 与 あずか 他 た 父 ちち 亲统治 ち 时期被 ひ 称 しょう 为仁 じん 宣 せん 之 の 治 ち 。宣 せん 德 とく 十 じゅう 年 ねん (1435年 ねん )明 あきら 宣 せん 宗 むね 去 さ 世 よ ,九歲的朱祁鎮繼位,即 そく 明 あきら 英 えい 宗 むね ,年號 ねんごう 正統 せいとう [ 11] :46-55 。
土木 どぼく 堡之變 へん 与奪 よだつ 門 もん 之 の 變 へん
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击退也先率 りつ 领的瓦 かわら 剌 军,成功 せいこう 守 もり 卫北京 ぺきん 的 てき 于谦
明 あきら 英 えい 宗 むね 自 じ 小 しょう 寵 ちょう 信服 しんぷく 侍 さむらい 左右 さゆう 的 てき 宦官 かんがん 王 おう 振 ふ ,自 じ 此開始 かいし 明朝 みんちょう 的 てき 宦官 かんがん 嚴重 げんじゅう 專 せん 權 けん 。正統 せいとう 七 なな 年 ねん (1442年 ねん )限 きり 制 せい 王 おう 振 ふ 權勢 けんせい 的 てき 張 ちょう 太皇太后 たいこうたいこう 去 さ 世 よ [ b] ,當時 とうじ 明 あきら 英 えい 宗 むね 僅十 じゅう 五 ご 歲 さい ,王 おう 振 ふ 更 さら 加 か 攬權。元老 げんろう 重臣 じゅうしん 「三 さん 楊 」死後 しご ,王 おう 振 ふ 專橫 せんおう 跋扈 ばっこ ,將 はた 明太 めんたい 祖 そ 留 とめ 下 か 的 てき 禁止 きんし 宦官 かんがん 干 ひ 政 せい 的 てき 敕命鐵 てつ 牌 ぱい 撤下,舉朝稱 しょう 其為「翁 おう 父 ちち 」,明 あきら 英 えい 宗 むね 對 たい 他 た 信任 しんにん 有加 ゆか [ c] 。王 おう 振 ふ 擅權七 なな 年 ねん ,家產 かさん 計 けい 有 ゆう 金銀 きんぎん 六 ろく 十 じゅう 餘 あまり 庫 こ ,其受賄 まかない 程度 ていど 可 か 想 そう 而知[ 11] :119-123 。
正統 せいとう 十 じゅう 四 よん 年 ねん (1449年 ねん ),瓦 かわら 剌首領 りょう 也先 率 りつ 軍 ぐん 南下 なんか 伐 き 明 あかり 。王 おう 振 ふ 聳 そびえ 使 し 明 あきら 英 えい 宗 そう 領 りょう 兵 へい 二 に 十 じゅう 萬 まん 御 ご 駕 が 親 おや 征 せい 。大軍 たいぐん 離 はなれ 燕 つばめ 京 きょう 後 ご ,兵士 へいし 乏 とぼし 糧 かて 勞 ろう 頓 とみ 。八月 はちがつ 初 はつ 大軍 たいぐん 才 ざい 至 いたり 大同 だいどう 。王 おう 振 ふ 得 とく 報 ほう 前線 ぜんせん 各 かく 路 みち 潰 つぶせ 敗 はい ,懼不敢戰,又 また 令 れい 返 かえし 回 かい 。回 かい 師 し 至 いたり 土木 どぼく 堡 (今日 きょう 河北 かほく 省 しょう 懷 ふところ 來 らい 縣 けん ),八 はち 月 がつ 十 じゅう 五 ご 日 にち ,也先假 かり 意 い 求 もとめ 和 わ ,在 ざい 王 おう 振 ふ 的 てき 命令 めいれい 下 か 全 ぜん 军撤出原 いではら 有 ゆう 壕 ごう 沟,被 ひ 瓦 かわら 剌軍追 おい 上 じょう ,士 し 兵 へい 死傷 ししょう 過半 かはん ,隨從 ずいじゅう 大臣 だいじん 有 ゆう 五 ご 十 じゅう 餘人 よにん 陣 じん 亡 ほろび 。三大营几乎全军覆没,明 あきら 英 えい 宗 むね 突圍不 ふ 成 なり 被 ひ 俘,王 おう 振 ふ 為 ため 將軍 しょうぐん 樊忠 所 ところ 怒 いか 殺 ころせ [ d] ,史 し 稱 しょう 土木 どぼく 堡之變 へん [ 11] :125-130 。
土木 どぼく 堡之變 へん 的 てき 消息 しょうそく 來 らい 到 いた 北京 ぺきん 後 ご ,朝 ちょう 中 ちゅう 混亂 こんらん 。一 いち 些大臣 だいじん 要求 ようきゅう 遷都 せんと 南京 なんきん 應 おう 天 てん 府 ふ ,被 ひ 兵部 ひょうぶ 侍 さむらい 郎 ろう 于謙 駁斥。同年 どうねん ,大臣 だいじん 擁 よう 戴明英 えい 宗 むね 弟 おとうと 朱 しゅ 祁鈺即位 そくい ,以求長 ちょう 君 くん ,即 そく 明 あかり 景 けい 帝 みかど (又 また 稱 たたえ 明代 あきよ 宗 むね ),年號 ねんごう 景 けい 泰 やすし 。于謙升 ます 兵部 ひょうぶ 尚書 しょうしょ ,整頓 せいとん 邊 べ 防 ぼう 積極 せっきょく 備戰,同時 どうじ 決定 けってい 堅守 けんしゅ 北京 ぺきん ,隨 ずい 後 ご 京師 けいし 、南京 なんきん 、河南 かなん 、山東 さんとう 等 ひとし 地 ち 勤王 きんのう 部隊 ぶたい 陸續 りくぞく 趕到。同年 どうねん 十 じゅう 月 がつ ,瓦 かわら 剌軍直 ちょく 逼北京 ぺきん 城下 じょうか ,也先安置 あんち 明 あきら 英 えい 宗 むね 於德 とく 勝 かち 門 もん 外 そと 土 ど 關 せき 。于謙率 りつ 領 りょう 各 かく 路 みち 明 あかり 軍 ぐん 奮勇抗 こう 擊 げき ,屢次大破 たいは 瓦 かわら 剌軍,也先率 りつ 軍 ぐん 撤退 てったい [ e] 。明朝 みんちょう 取得 しゅとく 北京 ぺきん 保衛 やすえ 戰 せん 的 てき 勝利 しょうり ,于謙力 りょく 排 はい 眾議,加 か 緊鞏固 きょうこ 國防 こくぼう ,拒絕 きょぜつ 求 もとめ 和 わ ,並 なみ 於次年 ねん 擊退 げきたい 瓦 かわら 剌多次 じ 侵犯 しんぱん [ 11] :130-137 。
景 けい 泰 たい 元年 がんねん (1450年 ねん ),也先認 みとめ 為 ため 綁架明 あきら 英 えい 宗 むね 已 やめ 無意義 むいぎ ,釋放 しゃくほう 了 りょう 他 た 。然 しか 而明 あかり 景 けい 帝 みかど 因 いん 為 ため 皇 すめらぎ 權 けん 問題 もんだい ,不 ふ 願意 がんい 接受 せつじゅ 明 あきら 英 えい 宗 むね ,先 さき 是 ぜ 不 ふ 願 ねがい 遣 や 使 つかい 迎 むかえ 駕 が ,又 また 把 わ 明 あきら 英 えい 宗 むね 困 こま 於南宮 みや (今 こん 南 みなみ 池子 いけご )軟禁 なんきん ,並 なみ 廢 はい 皇太子 こうたいし 朱見 あけみ 深 ふか (即 そく 後來 こうらい 的 てき 明憲 あきのり 宗 むね )为沂王 おう ,立 たて 自己 じこ 的 てき 獨 どく 子 こ 朱見 あけみ 濟 ずみ 為 ため 太子 たいし 。不 ふ 久見 くみ 濟 ずみ 病死 びょうし ,沒 ぼつ 有 ゆう 兒 じ 子 こ 的 てき 景 けい 帝 みかど 也遲遲 ちち 不 ふ 肯再立 りつ 朱見 あけみ 深 ふか 為 ため 太子 たいし 。景 けい 泰 たい 八 はち 年 ねん (1457年 ねん ),石 いし 亨 とおる 、徐 じょ 有 ゆう 貞 さだ 等 ひとし 在 ざい 景 けい 帝 みかど 重病 じゅうびょう 之 の 際 さい 發動 はつどう 兵 へい 變 へん ,擁 よう 戴明英 えい 宗 むね 復辟 ふくへき ,史 し 稱 しょう 奪 だつ 門 もん 之 の 變 へん 。徐 じょ 有 ゆう 貞 さだ 率 りつ 軍 ぐん 攻 おさむ 入 いれ 紫 むらさき 禁城 きんじょう ,石 せき 亨 とおる 等 とう 人 じん 占領 せんりょう 東 ひがし 華 はな 門 もん ,禁錮 きんこ 了 りょう 景 けい 帝 みかど ,立 たて 明 あきら 英 えい 宗 むね 於奉天 ほうてん 殿 でん ,改元 かいげん 天 てん 順 じゅん 。明 あきら 英 えい 宗 むね 復辟 ふくへき 後 ご ,略 ほぼ 有 ゆう 新政 しんせい ,廢除 はいじょ 自 じ 明太 めんたい 祖 そ 時 じ 殘酷 ざんこく 的 てき 殉葬 制度 せいど 。之 これ 後 ご 因 いん 為 ため 內部政變 せいへん 流 りゅう 放 ひ 徐 じょ 有 ゆう 貞 さだ ,因 よし 為 ため 曹石之 の 變 へん 誅殺 ちゅうさつ 石 せき 亨 とおる 、曹吉祥 きっしょう 等 とう 人 ひと ,並 なみ 且以李 り 賢 けん 等 とう 賢 けん 臣 しん 掌 てのひら 政 せい 。[ 11] :138-148
憲 けん 孝 こう 中興 ちゅうこう 與 あずか 武 たけ 宗 はじめ 荒 あら 嬉 うれし
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中 ちゅう 兴明朝 みんちょう 的 てき 明 あかり 孝 こう 宗 むね 朱 しゅ 祐 ゆう 樘,台北 たいぺい 国立 こくりつ 故 こ 宫博物 はくぶつ 院 いん 藏 ぞう
天 てん 順 じゅん 八 はち 年 ねん (1464年 ねん )明 あきら 英 えい 宗 むね 過 か 世 よ ,兒 じ 子 こ 朱見 あけみ 深 ふか 即位 そくい ,即 そく 明憲 あきのり 宗 むね ,年號 ねんごう 成 なり 化 か 。明憲 あきのり 宗 そう 為 ため 于謙冤昭雪 ゆき ,恢復 かいふく 景 けい 帝 みかど 的 てき 帝 みかど 號 ごう ,平 ひらた 反 はん 了 りょう 奪 だつ 門 もん 一案 いちあん [ 10] :73 統治 とうち 上 じょう ,憲 けん 宗 むね 前期 ぜんき 颇能能 のう 體 たい 諒 りょう 民情 みんじょう ,勵精圖 ず 治 ち ,儼然 げんぜん 為 ため 一 いち 代 だい 明 あきら 君 くん 。琉球 りゅうきゅう 、哈密 、暹羅 しゃむ 、土 ど 魯番 、撒馬兒 じ 罕 等 とう 國 くに 紛紛 ふんぷん 入貢 にゅうこう 。宪宗更 さら 任用 にんよう 王越 おうごし 成功 せいこう 驱逐了 りょう 占 うらない 据 すえ 河 かわ 套的蒙 こうむ 古 こ 部落 ぶらく ,一度收复河套。
然 しか 而宪宗 むね 口 こう 吃 ども 內向,因 いん 此很少 しょう 廷見大臣 だいじん [ 20] [ 21] 后 きさき 期 き 逐渐庸 いさお 碌 ろく 無為 むい ,史 し 稱 しょう 「是 ぜ 時 じ 帝 みかど 怠 だる 於政,大臣 だいじん 希 まれ 得 とく 見 み ,萬 まん 安 やす 同 どう 在 ざい 閣 かく ,結 ゆい 中 ちゅう 戚貴畹,上下 じょうげ 壅隔」[ f] 。他 た 終日 しゅうじつ 专宠萬 まん 貴 き 妃 ひ [ g] ,寵 ちょう 信 しん 宦官 かんがん 汪 ひろし 直 ただし 、梁 りょう 芳 かおる 等 とう 人 ひと ,晚年 ばんねん 好 こう 方術 ほうじゅつ 。以至奸佞 かんねい 當 とう 權 けん ,西 にし 廠 しょう 橫 よこ 恣 ほしいまま ,盜 とう 竊威柄 がら 。明憲 あきのり 宗 むね 直接 ちょくせつ 頒詔封 ふう 官 かん ,是 ぜ 為 ため 傳 でん 奉 たてまつ 官 かん 。這使得 とく 傳 でん 奉 たてまつ 官 かん 氾濫 はんらん ,舞 まい 弊 へい 成 なり 風 ふう ,直 ちょく 到 いた 明 あかり 孝 こう 宗 むね 才 ざい 全 ぜん 被 ひ 裁 たっ 撤。他 た 也是皇 すめらぎ 莊 そう 的 てき 始 はじめ 置 おけ 者 しゃ 。該舉措事實 じじつ 上 じょう 鼓 こ 勵豪強 きょう 門閥 もんばつ 兼併 けんぺい 土地 とち ,危害 きがい 不 ふ 淺 あさ 。宦官 かんがん 汪 ひろし 直 ただし 受到明憲 あきのり 宗 むね 的 てき 寵 ちょう 信 しんじ ,透過 とうか 西 にし 廠 しょう 張 ちょう 狂 きょう 跋扈 ばっこ 。不 ふ 久 ひさ 後 ご 由 よし 於民憤 いきどお 四 よん 起 おこり ,西 にし 廠 しょう 被 ひ 罷 やめ ,但 ただし 汪 ひろし 直 ちょく 依然 いぜん 握 にぎ 有 ゆう 大權 たいけん 。直 ちょく 到 いた 成 なり 化 か 十 じゅう 八 はち 年 ねん (1482年 ねん )汪 ひろし 直 ちょく 因 いん 言 げん 官 かん 彈劾 だんがい 才 ざい 被 ひ 貶[ 11] :148-154 [ 12] :184-186 。
成 なり 化 か 二 に 十 じゅう 三 さん 年 ねん (1487年 ねん )明憲 あきのり 宗 むね 去 さ 世 よ ,其子朱 しゅ 祐 ゆう 樘繼位 い ,即 そく 明 あかり 孝 こう 宗 むね ,年號 ねんごう 弘治 こうじ 。其在位 ざいい 期間 きかん 政治 せいじ 清明 せいめい ,使 つかい 得 とく 自明 じみょう 英 えい 宗 むね 以來 いらい 的 てき 陋習得 しゅうとく 以去除 じょ ,被 ひ 譽 ほまれ 為 ため 「中興 ちゅうこう 之 の 令 れい 主 あるじ 」[ h] ,宣 せん 德 とく 以下 いか 僅見。明 あかり 孝 こう 宗 むね 先 さき 是 ぜ 將 はた 明憲 あきのり 宗 そう 時期 じき 留 とめ 下 か 的 てき 一批奸佞冗官盡數罷去,逮捕 たいほ 治 ち 罪 ざい 。並 なみ 選 せん 賢 けん 舉能,任用 にんよう 王 おう 恕 じょ 、馬 うま 文 ぶん 升 ます 、劉 りゅう 大 だい 夏 なつ 、李 り 東陽 とうよう 等 とう 人 ひと ,將 はた 能 のう 臣 しん 委 い 以重任 じゅうにん 。[ 11] :159-160 孝 こう 宗 そう 勤 つとむ 於政事 せいじ ,每日 まいにち 兩次 りょうじ 視 し 朝 あさ ,廣 こう 開 ひらき 言 げん 路 ろ ,對 たい 批評 ひひょう 他 た 亦 また 虛心 きょしん 接 せっ 納 おさめ 。明 あかり 孝 こう 宗 むね 對 たい 宦官 かんがん 嚴 いむ 加 か 節制 せっせい ,錦 にしき 衣 ころも 衛 まもる 與 あずか 東 ひがし 廠 しょう 也謹慎 きんしん 行事 ぎょうじ ,用 よう 刑 けい 寬 ひろし 鬆 す 。明 あかり 孝 こう 宗 むね 力行 りっこう 節儉 せっけん ,不 ふ 大 だい 興 きょう 土木 どぼく ,減免 げんめん 稅 ぜい 賦 ふ 。[ 11] :161-162
弘治 こうじ 十 じゅう 八 はち 年 ねん (1505年 ねん )明 あきら 孝 こう 宗 むね 去 さ 世 よ ,其子朱 しゅ 厚 あつし 照 あきら 即位 そくい ,是 ぜ 為 ため 明 あきら 武 たけ 宗 はじめ ,年號 ねんごう 正德 まさのり [ 10] :78 。即位 そくい 不 ふ 久 ひさ ,便 びん 信任 しんにん 刘瑾 、谷 たに 大用 おおゆう 等 とう 宦官 かんがん (八 はち 虎 とら ),和 かず 他 た 們一起戲玩作樂,不 ふ 管 かん 政事 せいじ ,朝 ちょう 中 ちゅう 大事 だいじ 皆 みな 由 ゆかり 劉 りゅう 瑾自決 じけつ 。朝 ちょう 中 ちゅう 雖有大臣 だいじん 上 じょう 言 げん 「八 はち 虎 とら 」罔上誣下,也被革 かわ 職 しょく 。正德 しょうとく 五 ご 年 ねん ,刘瑾被 ひ 武 たけ 宗 はじめ 处以极刑。但 ただし 武 たけ 宗 はじめ 未 み 改 あらため 其聲色 しょく 犬馬 けんば 。他 た 頻 しき 顏 かお 出 で 巡 じゅん ,正德 しょうとく 十 じゅう 四 よん 年 ねん (1519年 ねん )寧 やすし 王 おう 朱 しゅ 宸濠叛亂 はんらん ,明 あきら 武 たけ 宗 はじめ 假 かり 藉出征 しゅっせい 江西 えにし 寧 やすし 王 おう 朱 しゅ 宸濠為 ため 由 よし 而南下 か 遊 ゆう 玩,至 いたり 次 じ 年 ねん 七 なな 月 がつ 才 ざい 到 いた 南京 なんきん ,親 おや 自 じ 俘虜 ふりょ 已 やめ 被 かむ 王 おう 守 まもる 仁 ひとし 擊 げき 敗 はい 的 てき 寧 やすし 王 おう [ 12] :190-194 。
明 あきら 武 たけ 宗 はじめ 的 てき 荒 あら 游 ゆう 逸樂 いつらく 導 しるべ 致正德 とく 年間 ねんかん 戰 せん 事 こと 頻 しき 生 なま 。正德 しょうとく 一朝 いっちょう 先後 せんご 發生 はっせい 韃靼 だったん 達 いたる 延 のべ 汗 あせ (明 あかり 史 し 稱 たたえ 韃靼 だったん 小 しょう 王子 おうじ )進 しん 犯 おかせ 、寧 やすし 夏 なつ 安 やす 化 か 王 おう 朱 しゅ 寘鐇謀反 むほん 、山東 さんとう 劉 りゅう 六 ろく 劉 りゅう 七 なな 起 おこり 義 よし 、江西 えにし 寧 やすし 王 おう 朱 しゅ 宸濠謀反 ぼうほん 等 ひとし 重大 じゅうだい 事件 じけん 。武 たけ 宗 はじめ 班 はん 師 し 回 かい 京 きょう 途中 とちゅう ,於南 みなみ 直 ただし 隸清 きよし 江浦 えうら (今 こん 江蘇 ちぁんすー 淮安)泛舟取 と 樂 たのし 時 とき 落水 おちみず 染 しみ 病 びょう ,正德 しょうとく 十 じゅう 六 ろく 年 ねん (1521年 ねん ),明 あきら 武 たけ 宗 はじめ 於豹房 ぼう 驾崩[ 11] :171-175 。
大禮 たいれい 議 ぎ 與 あずか 張 ちょう 居 きょ 正 せい 改革 かいかく
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侵犯 しんぱん 明朝 みょうちょう 與 あずか 朝鮮 ちょうせん 王國 おうこく 沿海 えんかい 的 てき 倭 やまと 寇 。倭 やまと 寇主要 よう 由 ゆかり 日本 にっぽん 浪人 ろうにん 與 あずか 流浪 るろう 海外 かいがい 的 てき 中國 ちゅうごく 水 すい 手 しゅ 所 しょ 組成 そせい
万历年间推行改革的内阁首辅张居正 ただし
武 たけ 宗 はじめ 無 む 子 こ ,明 あきら 孝 こう 宗之 むねゆき 侄兴献 けんじ 王 おう 朱 しゅ 祐 ゆう 杬之子 こ 朱 しゅ 厚 あつし 熜入嗣大统,是 ぜ 為 ため 明世 あきよ 宗 むね ,年號 ねんごう 嘉 よしみ 靖 やすし 。登 のぼり 基 はじめ 前 ぜん 后 きさき ,因 いん 时任内 ない 阁首辅杨廷和 わ 、礼 れい 部 ぶ 尚 なお 书毛 もう 澄 きよし 等 とう 護 まもる 禮 れい 派 は 引宋濮安事 ごと 强 つよ 令 れい 明世 あきよ 宗尊 むねかた 亲生父母 ちちはは 为皇叔父 おじ 母 はは ,引起明世 あきよ 宗 むね 的 てき 反感 はんかん ,是 ぜ 为大礼 たいれい 议之 これ 争 そう 。最 さい 终明世 あきよ 宗 むね 在 ざい 張 ちょう 璁等 とう 議 ぎ 禮 れい 派 は 支持 しじ 下 か ,得 とく 以尊父母 ちちはは 為 ため 皇帝 こうてい 與 あずか 皇后 こうごう 、立 たて 太 ふとし 廟 びょう 在 ざい 明 あきら 武 たけ 宗之 むねゆき 上 じょう 。反對 はんたい 者 しゃ 多 た 被 ひ 罷 やめ 官 かん 或 ある 被 ひ 下 した 詔 みことのり 入獄 にゅうごく [ 11] :217-221 。
在 ざい 嘉 よしみ 靖 やすし 初年 しょねん ,明世 あきよ 宗 むね 實行 じっこう 了 りょう 自己 じこ 的 てき 政治 せいじ 抱負 ほうふ ,清 きよし 除 じょ 宿弊 しゅくへい ,史 し 稱 しょう 「嘉 よしみ 靖 やすし 中興 ちゅうこう 」。明人 あきと 霍與瑕 きず 曾評論 ろん :「嘉 よしみ 靖 やすし 初 はつ 政 せい ,自 じ 洪 ひろし 武 たけ 、永樂 えいらく 以後 いご ,百 ひゃく 年 ねん 僅見」。但 ただし 即位 そくい 不 ふ 久之 ひさゆき 後 ご ,世 せい 宗 むね 對 たい 政事 せいじ 便 びん 開始 かいし 荒 あら 怠 だる ,他 た 迷信 めいしん 方 かた 士 し ,在 ざい 宮中 きゅうちゅう 日夜 にちや 做法。當時 とうじ 大臣 だいじん 能否 のうひ 進 しん 用 よう ,都 と 視 し 乎能否 ひ 寫 うつし 青 あお 詞 し ,夏 なつ 言 げん 、嚴 いむ 嵩 たかし 、徐 じょ 階 かい 都 と 以善撰 せん 青 あお 詞 し 得 とく 寵 ちょう 。嘉 よしみ 靖 やすし 二 に 十 じゅう 一 いち 年 ねん (1542年 ねん )十 じゅう 月 がつ ,楊金英 えい 十 じゅう 六名宮女趁明世宗熟睡之際企圖將其勒死,但 ただし 未 み 成功 せいこう ,此即壬 みずのえ 寅 とら 宮 みや 變 へん 。此事后 きさき ,直 ちょく 至 いたり 明世 あきよ 宗 むね 驾崩前 まえ 一 いち 晚 ばん ,明世 あきよ 宗 むね 迁出大内 おおうち ,移 うつり 居 きょ 西内 にしうち ,與 あずか 大臣 だいじん 隔絕 かくぜつ ,政事 せいじ 依 よ 靠 もたれ 首 くび 輔處理 しょり 。明世 あきよ 宗 むね 寵 ちょう 信 しん 權臣 けんしん 嚴 いむ 嵩 たかし ,他 た 任 にん 首 くび 輔十 じゅう 四 よん 年間 ねんかん ,排斥 はいせき 異 い 己 おのれ ,結黨 けっとう 營私。其子嚴 いむ 世 よ 蕃 しげる 協 きょう 助 じょ 其父作 さく 惡 あく 。朝臣 あそん 雖然不斷 ふだん 有人 ゆうじん 彈劾 だんがい 嚴 いむ 嵩 たかし 結黨 けっとう 營私,但 ただし 均 ひとし 以失敗 しっぱい 告 つげ 終 おわり 。嘉 よしみ 靖 やすし 四 よん 十 じゅう 四 よん 年 ねん (1565年 ねん ),嚴 いむ 世 よ 蕃 しげる 被 ひ 充 たかし 軍 ぐん 、嚴 いむ 嵩 たかし 被 ひ 勒令致士[ 11] :232-237 。嘉 よしみ 靖 やすし 一朝 いっちょう ,國家 こっか 外患 がいかん 不斷 ふだん 。北方 ほっぽう 韃靼 だったん 趁明朝 あさ 衰弱 すいじゃく 而佔據 よりどころ 河 かわ 套 ,東南 とうなん 沿海 えんかい 則 そく 有 ゆう 倭 やまと 寇,時人 じじん 有 ゆう 「北 きた 虜 とりこ 南 みなみ 倭 やまと 」之 の 稱 たたえ [ 10] :87 。
嘉 よしみ 靖 やすし 四 よん 十 じゅう 五 ご 年 ねん (1566年 ねん ),明世 あきよ 宗 むね 驾崩,皇太子 こうたいし 朱 しゅ 載 の 坖即位 そくい ,即 そく 明 あきら 穆 きよし 宗 むね ,年號 ねんごう 隆 りゅう 慶 けい [ 11] :238 。明 あきら 穆 きよし 宗 むね 在任 ざいにん 內整肅吏治 ち ,施行 しこう 了 りょう 一 いち 些「安 あん 民生 たみお ,足 あし 國 こく 用 よう 」的 てき 措施,史 し 稱 しょう 隆 りゅう 慶 けい 新政 しんせい 。穆 きよし 宗 そう 中 ちゅう 後期 こうき ,他日 たじつ 漸 やや 怠 だる 於政司 し ,熱 ねつ 衷於玩樂。隆 りゅう 慶 けい 六 ろく 年 ねん (1572年 ねん ),明 あきら 穆 きよし 宗因 そういん 中風 ちゅうぶ 突然 とつぜん 駕 が 崩 くずし ,年 ねん 僅九歲的皇太子朱翊鈞繼位,即 そく 明神 みょうじん 宗 むね ,年號 ねんごう 萬 まん 曆 れき [ 11] :238-244 。
由 よし 於明神 みょうじん 宗 むね 年 とし 幼 よう ,於是由 ゆかり 太 ふとし 后 きさき 攝政 せっしょう 。重臣 じゅうしん 高 だか 拱由於與太 よた 后 きさき 信任 しんにん 的 てき 宦官 かんがん 馮保 對抗 たいこう 而被罷 やめ 官 かん ;相反 あいはん 的 てき ,張 ちょう 居 きょ 正 ただし 得 え 到 いた 馮保的 てき 鼎 かなえ 力 りょく 支持 しじ ,推行政治 せいじ 和 わ 經濟 けいざい 改革 かいかく 。其任首 くび 輔其間 あいだ ,他 た 創立 そうりつ 了 りょう 「考 こう 成 なり 法 ほう 」以考核 かく 官吏 かんり 的 てき 政 せい 績。經濟 けいざい 方面 ほうめん ,他 た 注意 ちゅうい 清 しん 理 り 逋欠田 た 賦 ふ ,清 せい 丈 たけ 全國 ぜんこく 的 てき 田地 でんち 。萬 まん 曆 れき 九 きゅう 年 ねん ,他 た 在 ざい 全國 ぜんこく 推行一 いち 條 じょう 鞭 むち 法 ほう ,將 はた 賦役 ふえき 以及土 ど 貢 みつげ 方 かた 物 ぶつ 等 とう 雜 ざつ 徵 ちょう 合 あい 為 ため 一 いち 項 こう ,一律 いちりつ 徵 ちょう 銀 ぎん ,並 なみ 按人丁 ひのと 和田 わだ 畝 うね 分 ぶん 攤,減少 げんしょう 了 りょう 行政 ぎょうせい 手續 てつづき 。另外,他 た 重用 じゅうよう 名將 めいしょう 李 り 成 しげる 梁 はり 、戚继光 こう 等 ひとし ,鎮守 ちんじゅ 北部 ほくぶ 邊 べ 防 ぼう ,「邊境 へんきょう 晏然」。[ 12] :200-203
明朝 みょうちょう 內閣原則 げんそく 上 じょう 只 ただ 是 ぜ 協 きょう 助 じょ 皇帝 こうてい 的 てき 輔政機構 きこう ,並 なみ 沒 ぼつ 有 ゆう 執政 しっせい 的 てき 能力 のうりょく ,張 ちょう 居 きょ 正 せい 的 てき 改革 かいかく 是 ぜ 依 よ 靠 もたれ 掌握 しょうあく 吏部和 かず 都 と 察院而展開 てんかい 的 てき 。在 ざい 其反對 はんたい 者 しゃ 來 らい 說 せつ ,張 ちょう 居 きょ 正 せい 是 ぜ 在 ざい 越權 えっけん 。萬 まん 曆 れき 五 ご 年 ねん (1577年 ねん ),按儒家 か 倫理 りんり 他 た 需要 じゅよう 丁 ちょう 憂 ゆう ,但 ただし 張 ちょう 居 きょ 正 せい 以為改革 かいかく 事業 じぎょう 未 み 竟,不 ふ 願 ねがい 丁 ちょう 憂 ゆう 。他 た 的 てき 政敵 せいてき 借 か 此大做文章 ぶんしょう ,此即為 ため 奪 だつ 情 じょう 之 の 爭 そう 。張 ちょう 居 きょ 正 せい 雖得到 いた 神 かみ 宗 はじめ 的 てき 支持 しじ ,被 ひ 奪 だつ 情 じょう 起 おこり 復 ふく (免 めん 於在家 か 守孝 もりたか ),但 ただし 其品行 ひんこう 評價 ひょうか 也因此大打 だ 折 おり 扣[ 22] :126 。萬 まん 曆 れき 十 じゅう 年 ねん (1582年 ねん ),張 ちょう 居 きょ 正 せい 病 びょう 逝,其政治 せいじ 盟友 めいゆう 馮保不 ふ 久 ひさ 後 ご 也被清算 せいさん 。朝臣 あそん 得知 とくち 神 かみ 宗 はじめ 的 てき 心意 しんい ,開始 かいし 彈劾 だんがい 張 ちょう 居 きょ 正 ただし ,張 ちょう 居 きょ 正 ただし 被 ひ 抄 しょう 家 か 。改 あらため 制 せい 漸 やや 漸 やや 回 かい 覆 くつがえ 原狀 げんじょう [ 10] :103-104 [ 22] :131-132 。
一幅由明代画师所繪的明神 みょうじん 宗 むね 朱 しゅ 翊钧畫像 がぞう 。台北 たいぺい 國立 こくりつ 故 こ 宮 みや 博物 はくぶつ 院 いん 藏 ぞう 。朱 しゅ 翊钧為 ため 明朝 みんちょう 在位 ざいい 时间最 さい 长的皇帝 こうてい
張 ちょう 居 きょ 正 ただし 死後 しご ,明神 みょうじん 宗 むね 親政 しんせい 。他 た 初期 しょき 尚 なお 能 のう 勤 つとむ 于政事 せいじ ,但 ただし 很快對 たい 政務 せいむ 不 ふ 多 た 關心 かんしん ,連 れん 輔弼 ほひつ 大臣 だいじん 也不願 ねがい 接見 せっけん 。申 さる 時 じ 行 ぎょう 任 にん 首 くび 輔九 きゅう 年 ねん ,只 ただ 被 ひ 召對三 さん 次 じ 。他 た 不 ふ 視 み 朝 あさ 聽政、不 ふ 批答奏 そう 章 あきら ,官 かん 缺 かけ 不 ふ 補 ほ ,朝廷 ちょうてい 事實 じじつ 上 じょう 在 ざい 癱瘓或 ある 半 はん 癱瘓的 てき 狀態 じょうたい 。同時 どうじ ,他 た 為 ため 了 りょう 聚斂財 ざい 富 とみ ,派遣 はけん 宦官 かんがん 开矿榷税。礦監稅 ぜい 使 し 實際 じっさい 上 うえ 是 ただし 向 こう 百姓 ひゃくしょう 敲詐勒索,同時 どうじ 傷害 しょうがい 了 りょう 地方 ちほう 政府 せいふ 的 てき 稅源 ぜいげん 。在 ざい 萬 まん 曆 れき 中 ちゅう 後期 こうき ,發生 はっせい 了 りょう 三 さん 十多起反對礦監稅使的民變,有 ゆう 臨清民 みん 變 へん 、武 たけ 昌 あきら 民 みん 變 へん 、蘇 そ 州民 しゅうみん 變 へん 等 とう 。[ 11] :333-337
由 よし 於朝政 ちょうせい 混亂 こんらん ,部分 ぶぶん 中 ちゅう 下 した 階 かい 官吏 かんり 在 ざい 政治 せいじ 上 じょう 受到排斥 はいせき ,紛紛 ふんぷん 要求 ようきゅう 政治 せいじ 改革 かいかく ,並 なみ 強調 きょうちょう 道德 どうとく 標準 ひょうじゅん 。萬 まん 曆 れき 二 に 十 じゅう 一 いち 年 ねん (1593年 ねん )癸巳 きし 京 きょう 察促成 そくせい 東 ひがし 林 りん 黨 とう 的 てき 形成 けいせい 。主持 しゅうもち 京 きょう 察的 てき 孫 まご 鑨 、李 り 世 よ 達 たち 和 わ 趙 ちょう 南星 なんせい ,利用 りよう 京 きょう 察將不 ふ 符 ふ 他 た 们標準 じゅん 和 わ 不 ふ 属 ぞく 于东林 りん 党 とう 的 てき 官吏 かんり 降職 こうしょく 解雇 かいこ 。經 けい 過多 かた 次 じ 京 きょう 察後,引起眾多反對 はんたい 黨 とう 如宣黨 とう 、崑 こん 黨 とう 、齊 ひとし 黨 とう 、浙黨等 とう 興起 こうき 並 なみ 與 あずか 東 ひがし 林 りん 黨 とう 互相傾 かたぶけ 軋 ぎし 。自 じ 此門戶 もんこ 之 の 禍 わざわい 堅固 けんご 而不可 ふか 拔,圖 ず 使 し 朝政 ちょうせい 空轉 くうてん 內耗。[ 11] :339-345
在 ざい 對外 たいがい 軍事 ぐんじ 方面 ほうめん ,以萬 まん 曆 れき 三 さん 大 だい 征 せい 最 さい 為 ため 顯著 けんちょ ,分別 ふんべつ 為 ため 平定 へいてい 蒙 こうむ 古 ふる 哱拜 叛變的 てき 寧 やすし 夏 なつ 之 の 役 やく 、抗 こう 擊 げき 日本 にっぽん 豐臣 とよとみ 政權 せいけん 入 にゅう 侵 おかせ 朝鮮 ちょうせん 王朝 おうちょう 的 てき 朝鮮 ちょうせん 之 これ 役 やく ,以及平定 へいてい 苗 なえ 疆土司 し 楊應龍 りゅう 叛變的 てき 播州 ばんしゅう 之 これ 役 やく ,這三場戰爭幾乎同時發生,其性質 しつ 均 ひとし 不 ふ 相 あい 同 どう 。明朝 みんちょう 於三戰皆勝以鞏固明朝邊疆、守護 しゅご 朝鮮 ちょうせん 王朝 おうちょう ,但 ただし 也消耗 しょうもう 大量 たいりょう 人力 じんりき 物 ぶつ 力 りょく ,成 なり 為 ため 國庫 こっこ 空虛 くうきょ 、財政 ざいせい 拮据的 てき 重要 じゅうよう 原因 げんいん 之 の 一 いち [ 23] [ 24] 。粗略 そりゃく 統計 とうけい 出 で 這八年間國家的軍事開支高達一千一百六十餘萬兩白銀。万 まん 历四十 じゅう 五 ご 年 ねん (1617年 ねん )後金 あときん 努 つとむ 爾 なんじ 哈赤 以「七 なな 大 だい 恨 」為 ため 由 ゆかり 反 はん 明 あきら ,兩年 りょうねん 後 ご 在 ざい 薩爾滸之戰 せん 中 ちゅう 大敗 たいはい 明 あかり 軍 ぐん ,明朝 みんちょう 至 いたり 此對後金 あときん 改 あらため 以防禦 ぼうぎょ 為 ため 主 ぬし 的 てき 策略 さくりゃく 。
神 かみ 宗 はじめ 有 ゆう 二 に 子 し ,長子 ちょうし 朱 しゅ 常 つね 洛 らく ,由 ゆかり 宮 みや 女王 じょおう 氏 し 所生 しょせい ;三 さん 子 し 朱 しゅ 常 つね 洵 まこと ,由 ゆかり 神 かみ 宗 はじめ 寵愛 ちょうあい 的 てき 鄭 てい 貴 たか 妃 ひ 生 せい 。明神 みょうじん 宗 むね 偏愛 へんあい 皇 すめらぎ 三 さん 子 し 朱 しゅ 常 つね 洵 まこと ,不 ふ 願 ねがい 立 りつ 皇 すめらぎ 長子 ちょうし 朱 しゅ 常 つね 洛 らく 為 ため 太子 たいし ,多 た 次 つぎ 拖延。萬 まん 曆 れき 二 に 十 じゅう 九 きゅう 年 ねん (1601年 ねん )年 とし 在 ざい 皇太后 こうたいごう 的 てき 強迫 きょうはく 下 か ,朱 しゅ 常 つね 洛 らく 才 ざい 被 ひ 封 ふう 為 ため 太子 たいし ,是 ぜ 為 ため 「國本 こくほん 之 の 爭 そう 」,東 ひがし 林 りん 黨 とう 和 わ 反對 はんたい 東 ひがし 林 りん 黨 とう 的 てき 借 か 「國本 こくほん 」問題 もんだい 互相攻擊 こうげき ,相互 そうご 逐罷。[ 25] :239-244 萬 まん 曆 れき 四 よん 十 じゅう 八 はち 年 ねん (1620年 ねん ),朱 しゅ 常 つね 洛 らく 登 のぼり 基 はじめ ,任 にん 一 いち 個月 かげつ 後 ご ,服 ふく 李 り 可 か 灼的紅 べに 丸 まる 而猝死 し ,史 し 稱 しょう 「紅 べに 丸 まる 案 あん 」。[ 26] :573-575
明 あかり 熹宗朱 しゅ 由 ゆかり 校 こう 由 よし 於幼年 ねん 喪 も 母 はは ,對 たい 乳母 うば 客 きゃく 氏 し 有 ゆう 特殊 とくしゅ 感情 かんじょう ,魏 ぎ 忠 ちゅう 賢 けん 則 そく 從 したがえ 小 しょう 就照顧朱由 よし 校 こう 。當 とう 熹宗即位 そくい 之 これ 後 ご ,二人 ふたり 日 び 漸 やや 得 とく 勢 ぜい 。天啟 てんけい 早期 そうき 大量 たいりょう 啟 けい 用 よう 東 ひがし 林 りん 黨 とう 人 ひと ,天啟 てんけい 四 よん 年 ねん (1624年 ねん ),魏 ぎ 忠 ちゅう 賢 けん 任 にん 東 ひがし 廠 しょう 提督 ていとく ,給 きゅう 予 よ 他 た 司法 しほう 和 わ 懲罰 ちょうばつ 的 てき 權力 けんりょく ,自 じ 此東林 りん 黨 とう 勢力 せいりょく 日 び 減 げん ,閹黨 勢力 せいりょく 日 び 增 ぞう 。魏 ぎ 忠 ちゅう 賢 けん 氣 き 焰最為 ため 囂張之 の 時 とき ,被 ひ 稱 しょう 為 ため 「九 きゅう 千 せん 歲 さい 」。魏 ぎ 忠 ちゅう 賢 けん 大 だい 肆打擊 げき 東 ひがし 林 りん 黨 とう ,大 だい 毀東林 りん 黨人 とうじん 的 てき 書院 しょいん ,偽造 ぎぞう 《東 ひがし 林 りん 黨 とう 點 てん 將 しょう 錄 ろく 》上 うえ 報 ほう 朝廷 ちょうてい 。天啟 てんけい 七 なな 年 ねん (1627年 ねん )明 あきら 熹宗去 さ 世 よ ,其五弟信王朱由檢繼位,即 そく 明 あかり 思 おもえ 宗 むね ,年號 ねんごう 崇 たかし 禎 ただし [ 25] :383-389 。
明 あかり 思 おもえ 宗 むね 即位 そくい 後 ご ,剷除了 りょう 魏 ぎ 忠 ちゅう 賢 けん 、客 きゃく 氏 し 等 とう 人 じん ,依 よ 附 つけ 魏 ぎ 忠 ちゅう 賢 けん 的 てき 都 と 被 ひ 貶黜或 ある 處 しょ 死 し 。明 あかり 思 おもえ 宗 そう 多 た 疑 うたぐ 而躁刻 こく ,果 はて 於屠戮大臣 だいじん ,信用 しんよう 宦官 かんがん ,不 ふ 善用 ぜんよう 人 じん ,其統治 とうち 期間 きかん ,內閣大 だい 學士 がくし 換 かわ 了 りょう 五 ご 十 じゅう 人 にん 。在 ざい 崇 たかし 禎 ただし 一朝 いっちょう ,閹黨和 わ 東 ひがし 林 りん 黨 とう 爭議 そうぎ 不斷 ふだん ,東 ひがし 林 りん 黨人 とうじん 本身 ほんみ 亦 また 走 はし 向 こう 腐 くさ 化 か ,放棄 ほうき 了 りょう 他 た 們的改革 かいかく 主張 しゅちょう ,「朝廷 ちょうてい 之 の 上 うえ ,玄黃 げんこう 互戰,不 ふ 講 こう 固 かた 境 さかい 恢圉之 の 術 じゅつ ,而但務 つとむ 於口鋒 ほこさき 舌 した 劍 けん 」[ 25] :390-392 。
在 ざい 崇 たかし 禎 ただし 一朝 いっちょう ,嚴寒 げんかん 、乾 いぬい 旱 ひでり 、饑 ひだる 荒 あら 、蝗 いなご 災 わざわい 、地震 じしん 、鼠 ねずみ 疫等天災 てんさい 頻頻 ひんぴん 出現 しゅつげん [ 27] :239-242 。1627年 ねん 至 いたり 1641年間 ねんかん ,黃河 こうが 流域 りゅういき 出現 しゅつげん 連續 れんぞく 14年 ねん 的 てき 嚴重 げんじゅう 乾 いぬい 旱 ひでり ,災 わざわい 情 じょう 蔓延 まんえん 至 いたり 整 せい 個 こ 長江 ちょうこう 以北 いほく 地區 ちく [ 28] 。崇 たかし 禎 ただし 十 じゅう 三 さん 年 ねん (1640年 ねん ),123個 こ 縣 けん 出現 しゅつげん 人相 にんそう 食 しょく 的 てき 情況 じょうきょう ,是 ぜ 近 きん 500年 ねん 以來 いらい 最 さい 嚴重 げんじゅう 的 てき [ 28] 。當時 とうじ ,糧食 りょうしょく 歉收,食物 しょくもつ 供應 きょうおう 縮減 しゅくげん ,商品 しょうひん 交易 こうえき 停止 ていし [ 27] :239-242 。
天啟 てんけい 七 なな 年 ねん (1627年 ねん ),陝西 せんせい 大 だい 饑 ひだる ,王 おう 二 に 殺 ころせ 知 ち 縣 けん 張 ちょう 斗 と 耀 ,展開 てんかい 了 りょう 起 おこり 義 よし (見 み 王 おう 二 に 起 おこり 義 よし 、明 あかり 末 まつ 民 みん 變 へん )。其後,府谷 ふのたに 王 おう 嘉 よしみ 胤 たね 、漢 かん 南 みなみ 王 おう 大 だい 梁 はり 、安 やす 塞 ふさが 高 こう 迎 むかい 祥 さち 相 あい 繼起 けいき 義 ぎ 。崇 たかし 禎 ただし 三 さん 年 ねん (1630年 ねん ),張 ちょう 獻 けんじ 忠 ただし 起 おこり 兵 へい 延 のべ 安 やす ,號 ごう 「八 はち 大王 だいおう 」。明 あかり 政府 せいふ 先 さき 是 ぜ 以楊鶴 づる 為 ため 三 さん 邊 へん 總督 そうとく ,主要 しゅよう 「以撫為 ため 主 ぬし 」,後 こう 以洪承 うけたまわ 疇為總督 そうとく ,以「進 すすむ 剿為主 ぬし 」,但 ただし 都 と 告 つげ 失敗 しっぱい 。崇 たかし 禎 ただし 十 じゅう 四 よん 年 ねん (1641年 ねん ),李 り 自 じ 成 なり 攻 おさむ 克 かつ 洛陽 らくよう 。十 じゅう 七 なな 年 ねん (1644年 ねん ),建立 こんりゅう 「大 だい 順 じゅん 」,改元 かいげん 永昌 えいしょう ,三 さん 月 がつ 十 じゅう 九 きゅう 日 にち 攻 おさむ 克 かつ 北京 ぺきん 。明 あかり 思 おもえ 宗 そう 在 ざい 煤 すす 山 やま 自 じ 縊,明 あきら 亡 ほろび [ 7] 。明朝 みんちょう 滅亡 めつぼう 後 ご ,明 あきら 宗室 そうしつ 先後 せんご 建立 こんりゅう 了 りょう 一 いち 些地區 ちく 式 しき 政權 せいけん ,主要 しゅよう 勢力 せいりょく 有 ゆう :福 ぶく 王 おう 弘光 ひろみつ 帝 みかど 朱 しゅ 由 ゆかり 崧 、魯王監 かん 國 こく 朱 しゅ 以海 、唐王 とうのう 隆 りゅう 武 たけし 帝 みかど 朱 しゅ 聿鍵與 あずか 紹武帝 みかど 朱 しゅ 聿𨮁 、桂 かつら 王 おう 永 ひさし 曆 れき 帝 みかど 朱 しゅ 由 ゆかり 榔等 とう ,史 し 稱 しょう 南明 なんめい 。永 なが 曆 れき 十 じゅう 五 ご 年 ねん 十 じゅう 二 に 月 がつ 初 はつ 三 さん (1662年 ねん 1月 がつ 22日 にち ),永 えい 曆 れき 帝 みかど 被 ひ 俘 ,不 ふ 久 ひさ ,在 ざい 昆 こん 明 あきら 被 ひ 吴三桂 かつら 杀害,南明 なんめい 滅亡 めつぼう 。[ 29] 1683年 ねん ,在 ざい 臺灣 たいわん 的 てき 延 のべ 平郡 へごおり 王 おう 鄭 てい 克 かつ 塽降 くだ 清 きよし ,清 しん 軍 ぐん 佔領臺灣 たいわん 島西 しまにし 南部 なんぶ 和 かず 澎湖群島 ぐんとう ,寧 やすし 靖 やすし 王 おう 朱 しゅ 術 じゅつ 桂 かつら 自殺 じさつ 殉國 じゅんこく ,标志着 ぎ 明朝 みょうちょう 最後 さいご 一 いち 個 こ 殘存 ざんそん 政權 せいけん 的 てき 覆滅 ふくめつ 。
内 うち 阁的 てき 衙署文 ぶん 渊阁 ,明朝 みんちょう 政治 せいじ 中心 ちゅうしん 之 の 一 いち ,位 い 于紫 むらさき 禁城 きんじょう 三 さん 大殿 おおいどの 东侧
洪 ひろし 武 ぶ 十 じゅう 三 さん 年 ねん (1380年 ねん ),明太 めんたい 祖 そ 以丞相 しょう 胡 えびす 惟 おもんみ 庸 いさお 謀反 むほん 伏 ふく 誅,於是廢 はい 去 さ 中書 ちゅうしょ 省 しょう 和 わ 丞相 じょうしょう 一 いち 職 しょく 。秦 はた 、漢 かん 以来 いらい 實行 じっこう 一 いち 千 せん 六 ろく 百 ひゃく 餘 よ 年 ねん 的 てき 宰相 さいしょう 制度 せいど 自 じ 此廢除 じょ ,六部直接向皇帝負責,相 そう 權 けん 與 あずか 君 きみ 權 けん 合 ごう 而為一 いち ,大權 たいけん 獨 どく 攬,施行 しこう 軍 ぐん 權 けん 、行政 ぎょうせい 權 けん 、監察 かんさつ 權 けん 三權分立 さんけんぶんりつ 的 てき 國家 こっか 體制 たいせい 。由 よし 於國家 こっか 事務 じむ 繁多 はんた ,皇帝 こうてい 無法 むほう 處理 しょり ,而明太 めんたい 祖 そ 也一度深感疲憊,於是設立 せつりつ 四輔制度來輔佐政事。但 ただし 這項制度 せいど 效能 こうのう 不 ふ 彰 あきら 。洪 ひろし 武 ぶ 十 じゅう 七 なな 年 ねん (1384年 ねん )後 ご 被 ひ 廢 はい 。之 これ 後 ご 朱 しゅ 元 もと 璋 あきら 請來 しょうらい 幾 いく 位 い 翰林 かんりん 學士 がくし 幫忙輔佐 ほさ ,這些翰林 かんりん 學士 がくし 的 てき 官職 かんしょく 效 こう 仿唐宋 そう 馆阁学士 がくし 旧制 きゅうせい ,被 ひ 命 いのち 為 ため 「某某 ぼうぼう 殿 どの (阁)大 だい 學士 がくし 」[ C] ,官 かん 階 かい 只 ただ 有正 ありまさ 五 ご 品 ひん 。明成 めいせい 祖 そ 登 のぼり 基 はじめ 后 きさき ,特派 とくは 解 かい 缙、胡 えびす 广 、杨荣 等 ひとし 入 にゅう 午 うま 门值文 ぶん 渊阁,参 まいり 预机务,由 ゆかり 此始設 しつらえ 內閣 [ 30] :77 。
內閣最初 さいしょ 只 ただ 是 ぜ 皇帝 こうてい 的 てき 諮詢 しじゅん 機構 きこう ,相當 そうとう 於今日 び 秘書 ひしょ 或 ある 幕僚 ばくりょう 的 てき 職務 しょくむ ,奏 そう 章 しょう 的 てき 批答為 ため 皇帝 こうてい 的 てき 專 せん 責 せめ 。到 いた 後來 こうらい 成 なり 為 ため 明朝 みんちょう 實際 じっさい 上 じょう 最高 さいこう 決 けつ 策 さく 機構 きこう ,首 くび 輔地位 ちい 有 ゆう 時 じ 可 か 比 ひ 丞相 じょうしょう ,有 ゆう 票 ひょう 擬 なずらえ 及封 ふう 驳之 これ 權 けん 。明朝 みんちょう 內閣由 よし 始 はじめ 至 いたり 終 おわり 都 と 不 ふ 是 ぜ 明朝 みんちょう 中樞 ちゅうすう 的 てき 正式 せいしき 行政 ぎょうせい 機構 きこう ,所謂 いわゆる 內閣 只 ただ 是 これ 文淵 ぶんえん 閣 かく 的 てき 別稱 べっしょう 。內閣大 だい 學士 がくし 一職多以碩德宿儒或朝中重臣擔任,只 ただ 有 ゆう 有 ゆう 实无名 めい 之 の 地位 ちい ,而沒有 ゆう 法定 ほうてい 地位 ちい 。宣 せん 宗 むね 時期 じき ,由 ゆかり 於楊溥 、楊士奇 き 、楊榮 等 とう 三 さん 楊入閣 かく ,宣 せん 宗 むね 批准 ひじゅん 內閣在 ざい 奏 そう 章 しょう 上 じょう 以條旨 むね 陳述 ちんじゅつ 己 おのれ 見 み ,稱 しょう 為 ため 「票 ひょう 擬 なずらえ 」制度 せいど ,又 また 授予宦官 かんがん 機構 きこう 司 つかさ 禮 あや 監 かん 「批紅 」。票 ひょう 擬 なずらえ 之 これ 法 ほう 補 ほ 救 すくい 可 か 君主 くんしゅ 不 ふ 願 ねがい 面 めん 見 み 閣 かく 臣 しん 之 の 弊 へい ,但 ただし 內閣大臣 だいじん 與 あずか 皇帝 こうてい 溝 みぞ 通 どおり ,全 ちょん 賴 よりゆき 司 つかさ 禮 あや 監 かん (宦官 かんがん )。由 よし 是 ぜ 開 ひらき 啟 けい 明朝 みんちょう 宦官 かんがん 專 せん 政之 まさゆき 大門 だいもん [ i] [ 11] :20-45 。
胡 えびす 惟 おもんみ 庸 いさお 案 あん 之 これ 後 ご ,朱 しゅ 元 もと 璋 あきら 廢 はい 丞相 じょうしょう 之 の 職 しょく ,取消 とりけし 中書 ちゅうしょ 省 しょう ,升 ます 六 ろく 部 ぶ 為 ため 正 せい 二 に 品 ひん 部門 ぶもん ,直接 ちょくせつ 對 たい 皇帝 こうてい 負 ふ 責 せめ 。六部 ろくぶ 以吏、戶 と 、兵 へい 三 さん 部 ぶ 或 ある 因 いん 權 けん 重 じゅう ,或 ある 因 いん 事 ごと 繁 しげる ,稱 しょう 為 ため 「上 うえ 三 さん 部 ぶ 」,在 ざい 禮 れい 、刑 けい 、工 こう 部 ぶ 之 の 上 うえ 。六部 ろくぶ 各 かく 設 しつらえ 尚書 しょうしょ 一 いち 人 にん ,左右 さゆう 侍 さむらい 郎 ろう 一 いち 人 にん 。下 した 有清 ありきよ 吏司,所屬 しょぞく 清 しん 吏司各 かく 設 しつらえ 郎 ろう 中 ちゅう 一 いち 人 にん 、員外 いんがい 郎 ろう 一 いち 人 にん ,主事 しゅじ 一人 ひとり (事務 じむ 較繁者 しゃ 增設 ぞうせつ 一 いち 人 にん )[ 31] :137-138 。各部 かくぶ 機構 きこう 設置 せっち 及職責 しょくせき 分 ぶん 工 こう 如下:[ 31] :137-138
吏部 :負 ふ 責 せめ 全國 ぜんこく 官吏 かんり 的 てき 選 せん 授、封 ふう 勛、考課 こうか 等 とう 政令 せいれい 。下 した 有 ゆう 文選 ぶんせん 、驗 けん 封 ふう 、稽勛 、考 こう 功 こう 四 よん 清 きよし 吏司。
戶部 とべ :負 ふ 責 せめ 管理 かんり 全國 ぜんこく 戶口 とぐち 、田 た 賦 ふ ,俸餉及一切 いっさい 財 ざい 政事 せいじ 宜 よろし 。事務 じむ 最 さい 為 ため 繁 しげる 重 じゅう 。最初 さいしょ 只 ただ 有 ゆう 五 ご 個 こ 屬 ぞく 部 ぶ 。洪 ひろし 武 ぶ 二 に 十 じゅう 三 さん 年 ねん (1390年 ねん ),為 ため 了 りょう 減 げん 輕 けい 工作 こうさく 負擔 ふたん ,設 しつらえ 十 じゅう 二 に 清 きよし 吏司,和 わ 十 じゅう 二 に 布 ぬの 政司 せいじ 相對 そうたい 應 おう 。其後隨 ずい 布 ぬの 政司 せいじ 建立 こんりゅう 所 しょ 變更 へんこう ,宣 せん 德時 とくどき 定 てい 為 ため 十 じゅう 三 さん 個 こ 清 きよし 吏司。
禮 れい 部 ぶ :負 ふ 責 せめ 典禮 てんれい 事務 じむ 與 あずか 學校 がっこう 科 か 舉之事 ごと 。下 した 有 ゆう 儀 ぎ 制 せい (掌 てのひら 嘉 よしみ 禮 れい 、軍 ぐん 禮 れい 及科舉、學校 がっこう 事務 じむ )、祠祭 しさい (掌 てのひら 祀 まつ 典 てん 及天文 てんもん 、國 くに 恤、廟 びょう 諱 いみな )、主客 しゅかく (掌 てのひら 賓禮 ひんれい 和 わ 外國 がいこく 朝貢 ちょうこう 事務 じむ )、精 せい 膳 ぜん (掌 てのひら 宴 えん 飨、品 しな 料 りょう 、酒 さけ 膳 ぜん 等 とう 事務 じむ )四 よん 個 こ 清 きよし 吏司。
兵部 ひょうぶ :負 ふ 責 せめ 全國 ぜんこく 軍事 ぐんじ ,掌 てのひら 全國 ぜんこく 軍 ぐん 衛 まもる ,武官 ぶかん 選 せん 授。下 した 有 ゆう 武 たけ 選 せん (掌 てのひら 軍 ぐん 官 かん 和 わ 士官 しかん 選 せん 授、升 ます 調 ちょう )、職方 しょくかた (掌 てのひら 輿 こし 圖 ず 、軍制 ぐんせい 、城 しろ 隍、鎮戍、簡練、征討 せいとう )、車 くるま 駕 が (掌 てのひら 鹵簿 ろぼ 、儀仗 ぎじょう 、禁衛 きんえい 、驛傳 えきでん 、廐牧)、武庫 むこ (掌 てのひら 兵籍 へいせき 、兵器 へいき )四 よん 清 きよし 吏司。
刑部 おさかべ :負 ふ 責 せめ 管理 かんり 全國 ぜんこく 刑罰 けいばつ 政令 せいれい 和 わ 審 しん 核 かく 刑 けい 名 めい 之 の 事 こと 。和戶 わど 部 ぶ 一 いち 樣 よう ,清 きよし 吏司的 てき 數 すう 目 もく 和布 わかめ 政司 せいじ 對應 たいおう 。
工 こう 部 ぶ :負 ふ 責 せめ 管理 かんり 全國 ぜんこく 工程 こうてい 事務 じむ 。下 した 有 ゆう 營繕 えいぜん (掌 てのひら 經營 けいえい 興 きょう 作 さく 之 の 事 こと )、虞 おそれ 衡 (掌 てのひら 山澤 やまさわ 采 さい 捕 と 和 わ 陶冶 とうや 之 の 事 こと )、都 と 水 すい (掌 てのひら 估銷工程 こうてい 力 りょく 役 やく 、費用 ひよう 之 の 事 こと )、屯田 とんでん (掌 てのひら 屯 たむろ 種 しゅ 、抽分、薪炭 しんたん 、夫役 ぶやく 、陵墓 りょうぼ 之 の 事 こと )四 よん 清 きよし 吏司,和 かず 寶 たから 源 はじめ 局 きょく 、抽分局 きょく 等 とう 機構 きこう 。
明代 あきよ 法規 ほうき 有 ゆう 律 りつ 、誥、例 れい 、令 れい 等 とう 。明朝 みんちょう 的 てき 刑 けい 律 りつ 主要 しゅよう 是 ぜ 《大明 だいめい 律 りつ 》30卷 かん [ 32] 。相 あい 較《唐 から 律 りつ 》為 ため 簡核,但 ただし 不 ふ 如《宋 そう 律 ただし 》寬厚 かんこう 。[ 33] :309 《大明 だいめい 律 りつ 》为适应形势的发展,变通了 りょう 体 たい 例 れい ,调整了 りょう 刑 けい 名 めい ,肯定 こうてい 了 りょう 明 あきら 初 はつ 人身 じんしん 地位 ちい 的 てき 变化,注 ちゅう 重 じゅう 了 りょう 经济立法 りっぽう ,在 ざい 体 からだ 例 れい 上表 じょうひょう 现了各部 かくぶ 门法的 てき 相 しょう 对独立 どくりつ 性 せい ,并扩大 だい 了 りょう 民法 みんぽう 的 てき 范围,結合 けつごう 「禮 れい 」和 かず 「法 ほう 」[ 34] 。明太 めんたい 祖 そ 留 とめ 下 か 祖 そ 訓 くん ,不 ふ 得 とく 更改 こうかい 《大明 だいめい 律 りつ 》一 いち 字 じ ,因 いん 此後代 だい 皇帝 こうてい 都 と 以條例 れい 以補不足 ふそく ,主要 しゅよう 有 ゆう 弘治 こうじ 朝 ちょう 的 てき 《問 とい 刑 けい 條例 じょうれい 》。[ 32]
皇帝 こうてい 有 ゆう 最高 さいこう 最大 さいだい 的 てき 司法 しほう 權力 けんりょく ,其下有 ゆう 三 さん 法 ほう 司 し 。三 さん 法 ほう 司 し 即 そく 刑部 おさかべ 、都 と 察院 、大 だい 理 り 寺 てら 。刑部 おさかべ 負 ふ 責 せめ 受理 じゅり 天下 でんか 上訴 じょうそ 案件 あんけん ,審 しん 核 かく 地方 ちほう 的 てき 要 よう 案 あん 以及中央 ちゅうおう 百官 ひゃっかん 的 てき 案件 あんけん 。其下有 ゆう 十 じゅう 三清吏司分治各省案件。大 だい 理 り 寺 てら 則 そく 負 ふ 責 せめ 審 しん 核 かく 案件 あんけん ,都 と 察院則 そく 負 ふ 責 せめ 監察 かんさつ 刑部 おさかべ 的 てき 審理 しんり 和大 かずひろ 理 り 寺 てら 的 てき 覆 くつがえ 核 かく 。假 かり 如有重大 じゅうだい 案件 あんけん ,則 のり 由 よし 三 さん 法 ほう 司 し 共同 きょうどう 審理 しんり ,由 ゆかり 皇帝 こうてい 判斷 はんだん 。各 かく 府 ふ 州 しゅう 有 ゆう 按察司 し ,負 ふ 責 せめ 審理 しんり 各 かく 府 ふ 州 しゅう 的 てき 案件 あんけん [ 33] :314-316 。
都 と 察院是 ぜ 國家 こっか 最高 さいこう 監察 かんさつ 機關 きかん 。都 と 察院下面 かめん 設立 せつりつ 監 かん 察御史 し 若干 じゃっかん 人 じん ,分 ふん 巡 じゅん 全國 ぜんこく 各省 かくしょう ,稱 しょう 為 ため 十 じゅう 二道 ふたみち 監 かん 察御史 し 。每 まい 道 みち 有 ゆう 監 かん 察御史 し 三 さん 至 いたり 五 ご 人 にん ,範圍 はんい 大體 だいたい 為 ため 一 いち 省 しょう 。但 ただし 監 かん 察御史 し 都 と 駐在 ちゅうざい 京師 けいし ,有事 ゆうじ 帶 たい 印 しるし 出 で 巡 じゅん ,事 こと 畢回京 きょう 繳印。到 いた 明 あかり 末 まつ ,監 かん 察御史 し 分 ぶん 為 ため 十 じゅう 三 さん 道 みち ,共有 きょうゆう 一 いち 百 ひゃく 一 いち 十 じゅう 人 にん 。都 と 察院与 あずか 六科同样具有谏官的职能和风闻言事的职责,故 こ 合 ごう 称 しょう 「科 か 道 どう 言 げん 官 かん 」[ 30] :69-70 。
人口 じんこう 普 ひろし 查方面 めん ,洪 ひろし 武 ぶ 三 さん 年 ねん (1370年 ねん ),明太 めんたい 祖 そ 命 いのち 戶部 とべ 制 せい 訂 てい 戶籍 こせき 、戶 と 帖 じょう (登記 とうき 人 じん 口田 くちた 產 さん 的 てき 帖 じょう 子 こ ),統計 とうけい 全國 ぜんこく 人口 じんこう ,這次明朝 みんちょう 第 だい 一次比較全面的人口普查。洪 ひろし 武 ぶ 十 じゅう 四 よん 年 ねん (1381年 ねん ),明太 めんたい 祖 そ 「以賦役 やく 不 ふ 均 ひとし ,命 いのち 戶部 とべ 編 へん 賦役 ふえき 黃 き 冊 さつ 」[ j] 。規定 きてい 每 ごと 里 さと (110戶 こ )編 へん 為 ため 一 いち 冊 さつ ,冊 さつ 前 まえ 有 ゆう 一 いち 總 そう 圖 ず ,記錄 きろく 稅 ぜい 糧 かて 戶 ど 口之 くちの 類 るい 。鰥寡孤獨 こどく 不服 ふふく 徭役者 しゃ ,則 のり 帶 たい 管 かん 於一百 ひゃく 一 いち 十 じゅう 戶 こ 之 の 外 そと ,列 れつ 於圖後 ご ,稱 しょう 為 ため 「畸零」。冊子 さっし 一 いち 份四份,一 いち 份送戶部 とべ ,三份分別保在於司(省 しょう )、府 ふ 、縣 けん 。賦役 ふえき 黃 き 冊 さつ 每 ごと 十 じゅう 年 ねん 編 へん 造 づくり 一 いち 次 じ 。賦役 ふえき 黃 き 冊 さつ 可 か 以使戶部 とべ 得知 とくち 人口 じんこう 的 てき 變遷 へんせん ,也使賦役 ふえき 負擔 ふたん 盡 つき 可能 かのう 合理 ごうり 。明 あかり 中期 ちゅうき 後 ご ,黃 き 冊 さつ 制度 せいど 敗 はい 壞,只 ただ 是 ぜ 徒 と 具 ぐ 形式 けいしき [ 12] :514-521 。
在 ざい 《明 あきら 實錄 じつろく 》中 ちゅう ,戶口 とぐち 統計 とうけい 數字 すうじ 計 けい 有 ゆう 136次 じ ,但 ただし 這些人口 じんこう 統計 とうけい 有 ゆう 「有 ゆう 頭 あたま 無 む 尾 お 、人口 じんこう 減少 げんしょう 、變化 へんか 無常 むじょう 、連年 れんねん 照 あきら 抄 しょう 」的 てき 問題 もんだい ,缺乏 けつぼう 可 か 信 しん 度 ど 。若 わか 據 よりどころ 《明 あきら 實錄 じつろく 》等 とう 史料 しりょう 的 てき 說法 せっぽう ,明朝 みんちょう 的 てき 戶口 とぐち 是 ただし 越來 ごえく 越 えつ 少 しょう 的 てき ,大 だい 多 おお 都 と 低 てい 於洪武 たけ 一朝 いっちょう 的 てき 數字 すうじ ,但 ただし 實際 じっさい 上 じょう 明朝 みょうちょう 大體 だいたい 而言沒 ぼつ 有 ゆう 出現 しゅつげん 大 だい 規模 きぼ 的 てき 戰爭 せんそう ,社會 しゃかい 秩序 ちつじょ 平靜 へいせい ,按理而言是 ぜ 上 じょう 升 ます 的 てき [ 12] :544-554 。對 たい 於明代 だい 人口 じんこう 數字 すうじ 學者 がくしゃ 有 ゆう 不同 ふどう 的 てき 看 み 法 ほう 。據 よりどころ 何 なに 炳棣的 てき 研究 けんきゅう ,在 ざい 十 じゅう 四 よん 世紀 せいき 後期 こうき ,明朝 みんちょう 的 てき 人口 じんこう 大約 たいやく 有 ゆう 6,500萬 まん 。1600年 ねん (萬 まん 曆 れき 二 に 十 じゅう 八 はち 年 ねん ),約 やく 有 ゆう 1.5億 おく 人口 じんこう 左右 さゆう (數字 すうじ 只 ただ 包括 ほうかつ 兩 りょう 京 きょう 十 じゅう 三 さん 省 しょう )[ 35] 。明朝 みんちょう 中期 ちゅうき 後 ご ,全國 ぜんこく 範圍 はんい 內的性別 せいべつ 比 ひ 曾一 いち 度 ど 達 たち 到 いた 每 まい 100個 こ 女性 じょせい 中有 ちゅうう 150個 こ 男性 だんせい 的 てき 狀況 じょうきょう ,有 ゆう 些地區 ちく 甚至出現 しゅつげん 每 ごと 一 いち 百 ひゃく 個 こ 女性 じょせい 中有 ちゅうう 大約 たいやく 300個 こ 男性 だんせい 的 てき 狀況 じょうきょう 。有明 ありあけ 一朝普遍存在男女比例失衡的问题[ 36] 。
明成 めいせい 祖 そ 时期(1402年 ねん —1424年 ねん )明朝 みんちょう 行政 ぎょうせい 区 く 划,此後除 じょ 奴 やつ 兒 じ 干 ひ 都 みやこ 司 つかさ 、安 やす 南 みなみ 、烏 がらす 思 おもえ 藏 くら 都 と 司 し 和 わ 朵甘都 と 司 し 外為 がいため 明朝 みんちょう 的 てき 固定 こてい 疆域
萬 まん 曆 れき 八 はち 年 ねん (1580年 ねん )的 てき 明朝 みんちょう 疆域[ D]
明朝 みょうちょう 初期 しょき 沿元制 せい ,地方 ちほう 設 しつらえ 行 くだり 中書 ちゅうしょ 省 しょう 。後 こう 因 いん 行 ぎょう 省 しょう 權力 けんりょく 過大 かだい ,一 いち 分 ふん 為三 ためぞう ,設 しつらえ 都 と 、布 ぬの 、按三司 し 。都 と 揮指使 し 司 し (簡稱都 と 司 し )掌 てのひら 地區 ちく 軍事 ぐんじ ,布 ぬの 政 せい 使 し 司 し (簡稱布 ぬの 政司 せいじ )掌 てのひら 行政 ぎょうせい 、按察使 し 司 し (簡稱按察司 し )掌 てのひら 司法 しほう ,三 さん 人 にん 合 ごう 管 かん 一 いち 省 しょう 事務 じむ 。其下有 ゆう 直 ちょく 隸州、府 ふ 、縣 けん (見 み 圖 ず )。洪 ひろし 武 たけ 一朝 いっちょう 對 たい 於府、州 しゅう 、縣 けん 有 ゆう 較大規模 きぼ 調整 ちょうせい 之 これ 後 ご ,除 のぞき 永樂 えいらく 年間 ねんかん 設置 せっち 貴 き 州 しゅう 布 ぬの 政司 せいじ 、交阯布 ぬの 政司 せいじ 外 がい ,終 おわり 明 あかり 一 いち 代 だい ,變化 へんか 並 なみ 不 ふ 大 だい 。至 いたり 明 あかり 末 まつ 崇 たかし 禎 ただし 十 じゅう 三 さん 年 ねん (1640年 ねん ),明朝 みんちょう 一 いち 共有 きょうゆう 162府 ふ (含軍民 ぐんみん 府 ふ )、255州 しゅう (含直隸州、屬 ぞく 州 しゅう 、土 はに 州 しゅう )、1173縣 けん [ E] [ 38] :10-13 。
都 と 指揮 しき 使 し 司 し ,掌 てのひら 軍事 ぐんじ 事務 じむ 。都 と 司 し 一级包括了都司、行 あるき 都 と 司 し 、留守 るす 司 し 。洪 ひろし 武 ぶ 十 じゅう 三 さん 年 ねん ,有 ゆう 13个都司 し ,2个行都 と 司 つかさ ;二 に 十 じゅう 六 ろく 年 ねん 增 ぞう 至 いたり 15年 ねん 都 と 司 し ,3个行都 と 司 つかさ ;正德 しょうとく 四 よん 年 ねん ,增 ぞう 至 いたり 16个都司 し ,5个行都 と 司 し 。[ 38] :250-253
布 ぬの 政 せい 使 し 司 し ,掌 てのひら 行政 ぎょうせい 事務 じむ 。洪 ひろし 武 ぶ 九 きゅう 年 ねん ,改 あらため 浙江 せっこう 、江西 えにし 等 とう 十 じゅう 二行省為承宣布政使司,廢 はい 行 ぎょう 省 しょう 平 たいら 章 あきら 政事 せいじ 等 とう 官 かん ,改 あらため 參 さん 知 ち 政 せい 使 し 為 ため 布 ぬの 政司 せいじ 。至 いたり 宣 せん 德 とく 初年 しょねん ,全國 ぜんこく 設 しつらえ 十 じゅう 三 さん 布 ぬの 政 せい 使 し 司 し ,为陝西 せんせい 、山西 さんせい 、山東 さんとう 、河南 かなん 、浙江 せっこう 、江西 えにし 、湖 みずうみ 广 、四川 しせん 、廣東 かんとん 、福建 ふっけん 、廣西 ひろせ 、貴 き 州 しゅう 、雲南 うんなん 。較元代行 だいこう 省 しょう 而言,劃界上 じょう 較為考慮 こうりょ 「山川 やまかわ 形 がた 便 びん 」的 てき 原則 げんそく [ 38] :10-13 。
明朝 みょうちょう 实行一 いち 省 しょう 分 ぶん 置 おけ 都 と 、布 ぬの 、按 三 さん 司 つかさ 的 てき 制度 せいど ,原 はら 为防止 ぼうし 地方 ちほう 权力集中 しゅうちゅう ,不 ふ 过在实际使用 しよう 中 ちゅう 体 からだ 现出一定 いってい 的 てき 不便 ふべん 。永 えい 乐年间,明成 めいせい 祖 そ 为了加 か 强 きょう 对地方 ちほう 的 てき 控 ひかえ 制 せい ,先 さき 后 きさき 设立镇守总兵、巡 めぐ 抚都御 ご 史 し 、镇守中 ちゅう 官 かん ,成 なり 为三司 し 之 の 上 うえ 的 てき 三 さん 堂 どう 制度 せいど 。宣 せん 德 とく 以后,开始派 は 部 ぶ (六 ろく 部 ぶ )、院 いん (都 と 察院)大臣 だいじん 以总督 和 わ 巡 めぐ 抚的 まと 名 めい 义督抚地方 ちほう 行政 ぎょうせい ,景 けい 泰 たい 朝 ちょう 之 の 后 きさき 基本 きほん 成 なり 为各省 しょう 常 つね 制 せい ,随 ずい 着 ぎ 镇守总兵地位 ちい 下降 かこう ,镇守中 ちゅう 官 かん 逐步召回,巡 じゅん 抚最终凌驾于“三 さん 司 つかさ ”之 の 上成 うえなし 为一省甚至跨省的最高长官。还有同 どう 时兼任 けんにん 巡 じゅん 抚与总督的 てき 情 じょう 况,称 しょう 督 とく 抚。此外,还有以监察御 ご 史 し 为巡 めぐ 按 ,任 にん 监察之 の 职。
其中,总督主要 しゅよう 署 しょ 理 り 军务,分 ふん 短期 たんき 与 あずか 长期两种。巡 めぐ 抚主理 り 民政 みんせい ,每 まい 省 しょう 皆 みな 有 ゆう ,有 ゆう 的 てき 一巡抚辖两布政使地,如正 せい 统年 とし 间的山西 さんせい 河南 かなん 巡 じゅん 抚 。有 ゆう 的 てき 一 いち 省 しょう 一 いち 巡 じゅん 抚。有 ゆう 的 てき 一省几巡抚。如北直 ちょく 隶有顺天巡 じゅん 抚 (驻今遵化市 し )、保 ほ 定 じょう 巡 じゅん 抚 (驻真定 じょう ,今 いま 河北 かほく 省 しょう 正 せい 定 じょう )、宣 せん 府 ふ 巡 じゅん 抚 (驻宣府 ふ 镇,今 こん 河北 かほく 宣 せん 化 か ,一度 いちど 兼 けん 领山西 さんせい 大 だい 同府 どうふ )三 さん 巡 じゅん 抚;南 みなみ 直 ちょく 隶有两巡抚:应天巡 じゅん 抚 (驻苏州府 ふ ,今 いま 江 こう 苏苏州 )、凤阳巡 じゅん 抚 (驻淮安 やす 府 ふ ,今江 いまえ 苏淮安 楚 すわえ 州 しゅう )。有 ゆう 的 てき 在 ざい 几省交界处设置 おけ 一 いち 巡 じゅん 抚,如南 みなみ 赣韶汀 なぎさ 巡 じゅん 抚 就越江西 えにし 、广东、福建 ふっけん 三 さん 省 しょう 。
巡 めぐ 抚制度 せいど 在 ざい 明朝 みんちょう 是 ぜ 约定俗 ぞく 成 なり 逐渐发展起 おこり 来 らい 的 てき ,至 いたり 今 こん 历史学界 がっかい 甚至仍有对于其起源 みなもと 和 かず 发展等 とう 有 ゆう 一 いち 些争议,不 ふ 过这一 いち 制度 せいど 在 ざい 之 の 后 きさき 的 てき 清朝 せいちょう 被 ひ 正式 せいしき 保留 ほりゅう 并大大 だい 发展,成 なり 为标准 じゅん 建 けん 制 せい 。
1930年代 ねんだい 哈佛大学 だいがく 所 ところ 绘明朝永 あさなが 乐年间疆域 いき 图,能 のう 够看出 で 中 ちゅう 西方 せいほう 在 ざい 明朝 みんちょう 疆域上 じょう 认识的 てき 差 さ 异
洪 ひろし 武 たけ 年 みのる 间明朝 みんちょう 所 しょ 绘大明 だいめい 混 こん 一 いち 图 ,展示 てんじ 了 りょう 明朝 みんちょう 对当时世界 かい 的 てき 地理 ちり 认识,除 じょ 了 りょう 明朝 みんちょう 疆域外 がい ,还涉及东北 きた 亚、东南亚、南 みなみ 亚,最 さい 远还可 か 以看见阿拉 ひしげ 伯 はく 半 はん 岛、非 ひ 洲 しゅう
明太 めんたい 祖 そ 開 ひらき 創 そう 了 りょう 明代 あきよ 對外 たいがい 交往的 てき 方針 ほうしん 「海外 かいがい 蠻夷 ばんい 之 の 國 くに ,有為 ゆうい 患於中國 ちゅうごく 者 しゃ ,不可 ふか 不 ふ 討;不為 ふため 中國 ちゅうごく 患者 かんじゃ ,不可 ふか 輒自興 きょう 兵 へい 。古人 こじん 有 ゆう 言 ごと ,地 ち 廣 こう 非 ひ 久安 ひさやす 之 の 計 けい ,民 みん 勞 ろう 乃易亂 らん 之 の 源 みなもと ……得 とく 其地不足 ふそく 以供給 きょうきゅう ,得 とく 其民不足 ふそく 以使令 れい ,徒 と 慕虛名 めい ,自 じ 弊 へい 中土 なかつち ,載 の 諸 しょ 史 し 冊 さつ ,為 ため 後世 こうせい 譏 そし 。朕 ちん 以諸蠻夷 ばんい 小國 しょうこく 阻山越海 こしうみ ,僻 へき 在 ざい 一隅 いちぐう 。彼 かれ 不為 ふため 中國 ちゅうごく 患者 かんじゃ ,朕 ちん 決 けつ 不 ふ 伐 き 之 これ 。惟 おもんみ 西北 せいほく 胡 えびす 戎 えびす ,世 せい 為 ため 中國 ちゅうごく 患,不可 ふか 不 ふ 謹備之 の 耳 みみ 」。[ 39] [ 40]
洪 ひろし 武 ぶ 四 よん 年 ねん (1371年 ねん ),元 げん 遼 りょう 陽 ひ 行 ゆき 中書 ちゅうしょ 省 しょう 劉 りゅう 益 えき 降 くだ 明 あきら ,置 おけ 遼東 りゃおとん 衛 まもる 。洪 ひろし 武 ぶ 二 に 十 じゅう 年 ねん (1385年 ねん ),納 おさめ 哈出降 くだ 明 あきら ,女 おんな 真 ま 各部 かくぶ 「悉境歸 き 附 ふ 」。永樂 えいらく 七 なな 年 ねん (1409年 ねん ),設 しつらえ 奴 やつ 儿干都 と 司 し 以管理 かんり 东北地区 ちく ,下 した 設 しつらえ 一 いち 百 ひゃく 八 はち 十 じゅう 四 よん 個 こ 衛 まもる ,二 に 十 じゅう 多 た 個所 かしょ ,至 いたり 永 なが 乐九 きゅう 年 ねん (1411年 ねん )正式 せいしき 设立。萬 まん 曆 れき 十 じゅう 一 いち 年 ねん (1583年 ねん ),建 けん 州 しゅう 左 ひだり 衛 まもる 指揮 しき 使 し 努 つとむ 爾 なんじ 哈赤的 てき 祖父 そふ 覺 さとし 昌 あきら 安 やす ,和 かず 父親 ちちおや 塔 とう 克 かつ 世 よ 被 ひ 明 あかり 軍 ぐん 誤殺 ごさつ 。努 つとむ 爾 なんじ 哈赤以祖父 ちち 、父親 ちちおや 遺 のこ 甲 かぶと ,統一 とういつ 女 おんな 真 ま 各部 かくぶ 。萬 まん 曆 れき 四 よん 十 じゅう 四 よん 年 ねん (1616年 ねん ),宣布 せんぷ 獨立 どくりつ ,建國 けんこく 「後金 あときん 」。[ 12] :291-295
萬 まん 曆 れき 四 よん 十 じゅう 六 ろく 年 ねん (1618年 ねん ),努 つとむ 爾 なんじ 哈赤以「七 なな 大 だい 恨 」告 つげ 天 てん ,為 ため 祖 そ 、父 ちち 報 ほう 仇 かたき ,開始 かいし 伐 き 明 あきら ,攻 おさむ 陷 おちい 撫 なで 順 じゅん 。楊鎬率 りつ 明 あかり 軍 ぐん 分 ぶん 作 さく 數 すう 路 ろ 進攻 しんこう 後金 あときん ,為 ため 努 つとむ 爾 なんじ 哈赤所 しょ 敗 はい ,為 ため 薩爾滸之戰 せん 。明朝 みんちょう 陣 じん 亡 ほろび 將士 しょうし 四 よん 萬 まん 五 ご 千 せん 有餘 ゆうよ ,損失 そんしつ 馬 ば 騾駝二 に 萬 まん ,自 じ 始 はじめ 明朝 みんちょう 對 たい 後金 あときん 不 ふ 得 とく 不 ふ 由 よし 進攻 しんこう 進入 しんにゅう 防御 ぼうぎょ 。[ 12] :295-296 明 あかり 廷改用 よう 熊 くま 廷弼守 まもり 遼東 りゃおとん ,他 た 「督 とく 軍 ぐん 士 し 造 づくり 戰車 せんしゃ ,治 ち 火器 かき ,濬濠繕 つくろえ 城 じょう ,為 ため 守 もり 御 ご 計 けい ,令 れい 嚴 げん 法 ほう 行 ぎょう ,數 すう 月 がつ 守備 しゅび 大 だい 固 かたま 」[ k] ,後金 あときん 不 ふ 敢侵犯 しんぱん 。[ 11] :361-362
熹宗即位 そくい 後 ご 不 ふ 到 いた 一 いち 個月 かげつ ,即 そく 罷免 ひめん 熊 ぐま 廷弼,改 あらため 任 にん 袁應泰 やすし 。袁應泰 たい 為 ため 淅黨信賴 しんらい ,為 ため 人 じん 精 せい 敏 さと 強 つよ 毅 あつし ,但 ただし 「用兵 ようへい 非 ひ 所長 しょちょう 」。他 た 一改熊廷弼守御的方策,打算 ださん 進攻 しんこう 後金 あときん 。次 つぎ 年 ねん 三 さん 月 がつ ,即 そく 天啟 てんけい 元年 がんねん (1621年 ねん ),後金 あときん 攻 おさむ 陷 おちい 瀋陽 しんよう ,袁應泰 やすし 自 じ 縊,熹宗重 おも 新 しん 起用 きよう 熊 ぐま 廷弼。二 に 年 ねん (1622年 ねん ),廣 こう 寧 やすし 失 しつ 守 もり ,孫 まご 承 うけたまわ 宗 むね 任 にん 遼東 りゃおとん 督 とく 師 し ,法度 はっと 嚴 いむ 明 あきら ,後金 あときん 一 いち 時 じ 不 ふ 敢西進 せいしん 。天啟 てんけい 五 ご 年 ねん ,孫 まご 承 うけたまわ 宗 そう 被 ひ 撤職,改 あらため 由 よし 閹黨高 こう 第 だい 經略 けいりゃく 遼東 りゃおとん 。次 つぎ 年 ねん ,努 つとむ 爾 なんじ 哈赤再 さい 次 つぎ 攻 おさむ 明 あきら ,高 こう 第 だい 率 りつ 兵 へい 退 すさ 回 かい 關 せき 內。袁崇煥以二 に 萬 まん 軍隊 ぐんたい 抗 こう 擊 げき 後金 あときん 五 ご 、六 ろく 萬 まん 人 にん ,以少勝 しょう 多 た ,取得 しゅとく 寧 やすし 遠 とお 大捷 たいしょう 。[ 11] :394-397
祟 たたり 禎 ただし 二 に 年 ねん (1629年 ねん ),皇 すめらぎ 太極 たいきょく 繞 にょう 道 どう 蒙 こうむ 古 こ 攻 おさむ 明 あきら ,袁崇煥率兵 へい 來援 らいえん ,成功 せいこう 保 ほ 卫北京 ぺきん 。崇 たかし 祯三 さん 年 ねん (1630年 ねん ),经过半年 はんとし 多 た 的 てき 审判,袁崇焕被以“通 つう 虏谋叛”、“擅主和 わ 议”、“专戮大 だい 帅”的 てき 罪名 ざいめい 遭判凌 しのげ 迟 ,死 し 於北京 ぺきん 甘 あま 石橋 いしばし ,并流放 ひ 其妻妾 わらわ 、子女 しじょ 及兄弟 きょうだい 等 とう 人 じん 两千里 せんり ,其余不 ふ 予 よ 究 きわむ 问[ 41] [ 42] 。明 あかり 思 おもえ 宗 むね 中 ちゅう 皇 すめらぎ 太極 たいきょく 的 てき 反間 はんかん 計 けい ,袁崇煥被殺 ころせ (己 おのれ 巳 み 之 の 變 へん ),「自 じ 崇 たかし 煥死,邊 へん 事 こと 益 えき 無人 むじん ,明 あきら 亡 ほろび 徵 ちょう 決 けつ 矣」[ l] 。不 ふ 久 ひさ 皇 すめらぎ 太極 たいきょく 在 ざい 盛 もり 京 きょう 稱 しょう 帝 みかど 改 あらため 國號 こくごう 為 ため 大 だい 清 きよし ,並 なみ 且五 ご 次 じ 經 けい 長城 ちょうじょう 入 にゅう 侵 おかせ 明朝 みんちょう 直 ちょく 隸、山東 さんとう 等 ひとし 地區 ちく (清 しん 兵 へい 入 いれ 塞 ふさが )。當時 とうじ 直 ちょく 隸連年 ねん 災 わざわい 荒 あら 疫疾,民 みん 不 ふ 聊生。遼 りょう 西 にし 局 きょく 勢 いきおい 亦 また 日 にち 益 えき 惡化 あっか ,清 しん 軍 ぐん 多 た 次 つぎ 與 あずか 明 あかり 軍 ぐん 作戰 さくせん ,最後 さいご 於崇禎 ただし 十 じゅう 五 ご 年 ねん (1642年 ねん )佔領錦 にしき 州 しゅう 等地 とうち ,明 あかり 軍 ぐん 主力 しゅりょく 洪 ひろし 承 うけたまわ 疇等 とう 人 ひと 投降 とうこう ,明朝 みんちょう 勢力 せいりょく 退 すさ 縮 ちぢみ 至 いたり 山海 さんかい 關 せき 。自 じ 此明軍 ぐん 再 さい 無力 むりょく 和 わ 清朝 せいちょう 對抗 たいこう 。[ 11] :388-399
洪 ひろし 武 ぶ 二 に 年 ねん (1369年 ねん ),明朝 みんちょう 首 くび 次 じ 派遣 はけん 官員 かんいん 「持 もち 詔 みことのり 諭 さとし 吐蕃」。明太 めんたい 祖 そ 遣 や 使 つかい 冊 さつ 封 ふう 帕木竹 ちく 巴 ともえ 王朝 おうちょう 僧俗 そうぞく 為 ため 官 かん ,並 なみ 賜 たまもの 印 しるし 。洪 ひろし 武 ぶ 三 さん 年 ねん (1370年 ねん )徐 じょ 达在定 てい 西之 にしの 战击败扩廓 くるわ 帖 じょう 木 き 儿,明太 めんたい 祖 そ 在 ざい 次 つぎ 年 ねん 设立朵甘卫指挥使司 し ,开始管理 かんり 藏 ぞう 区 く 。洪 ひろし 武 ぶ 五 ご 年 ねん (1372年 ねん ),明太 めんたい 祖 そ 後 ご 承 うけたまわ 认帕木 き 竹 ちく 巴 ともえ 政 まさし 权第二位第悉释迦坚赞“灌顶国 こく 师”头衔,次 じ 年 ねん ,释迦坚赞遣使 し 朝 あさ 贡,双方 そうほう 建立 こんりゅう 起 おこり 使 し 节往还制度 せいど 。洪 ひろし 武 ぶ 六 ろく 年 ねん (1373年 ねん )二 に 月 がつ ,明太 めんたい 祖 そ 设立乌思藏 ぞう 、朵甘卫指挥使司 し ,洪 ひろし 武 ぶ 七 なな 年 ねん (1374年 ねん )改 あらため 为乌思 おもえ 藏 ぞう 、朵甘行 あるき 都 と 指 ゆび 挥使司 し ,后 きさき 来 らい 乌思藏 くら 行 あるき 都 と 指 ゆび 挥使司 し 再 さい 改 あらため 为乌思藏 くら 都 と 指 ゆび 挥使司 し 。中国 ちゅうごく 大 だい 陆学者 しゃ 的 てき 主 しゅ 张认为,洪 ひろし 武 ぶ 二 に 十 じゅう 一 いち 年 ねん (1388年 ねん )明太 めんたい 祖 そ 参与 さんよ 批准 ひじゅん 了 りょう 帕木竹 ちく 巴 ともえ 政 まさし 权第 だい 悉的 てき 更 さら 替 かえ ,强化 きょうか 了 りょう 明朝 みんちょう 对藏区 く 的 てき 控 ひかえ 制 せい 。[ 43]
明成 めいせい 祖 そ 即位 そくい 之 これ 後 ご ,于永乐四 よん 年 ねん (1406年 ねん )三月册封帕木竹巴政权第五位第悉扎巴坚赞为“阐化王 おう ”,改變 かいへん 了 りょう 元 もと 朝 ちょう 獨 どく 尊 みこと 薩迦的 てき 制度 せいど ,尊崇 そんすう 各派 かくは ,對 たい 於各地 ち 藏 ぞう 傳 でん 佛教 ぶっきょう 宗教 しゅうきょう 首領 しゅりょう 都 と 各 かく 有 ゆう 封 ふう 號 ごう ,陆续册 さつ 封 ふう 噶举派 は 领袖哈立麻 あさ 为大宝 たいほう 法王 ほうおう ,格 かく 鲁派释迦也失 为大国 たいこく 师,宣 せん 德 とく 年 ねん 间进一 いち 步 ほ 册 さつ 封 ふう 为大慈 だいじ 法王 ほうおう ,萨迦派 は 领袖昆 こん 泽思巴 ともえ 为大乘 だいじょう 法王 ほうおう ,加 か 上 じょう 赞善王 おう 、护教王 おう 、阐教王 おう 、辅教王 おう ,最 さい 终构成 なり 明朝 みんちょう 在 ざい 藏 くら 区 く 构建的 てき 三 さん 大 だい 法王 ほうおう 、五大 ごだい 教 きょう 王 おう 制度 せいど 。[ 44] 直 ちょく 到 いた 明世 あきよ 宗 そう 嘉 よしみ 靖 やすし 年 ねん 间仁 じん 蚌巴 崛起后 きさき ,这一制度 せいど 才 ざい 逐渐解体 かいたい 。
西藏 とりぞう 與 あずか 汉地 的 てき 經濟 けいざい 交易 こうえき 頻繁 ひんぱん ,明 あきら 朝廷 ちょうてい 先後 せんご 在 ざい 秦 しん 州 しゅう (今 こん 甘肅 かんせい 天水 てんすい )、洮州(今 こん 甘肅 かんせい 臨潭 )等地 とうち 設 しつらえ 茶 ちゃ 馬司 まつかさ 管理 かんり 互市 ごし 貿易 ぼうえき 。[ 45] :125-147
洪 ひろし 武 ぶ 三 さん 年 ねん (1370年 ねん ),明太 めんたい 祖 そ 遺 のこ 使 つかい 持 じ 金 きん 印 しるし 封 ふう 文 ぶん 誥,封 ふう 王 おう 顓為 ため 高麗 こうらい 國王 こくおう ,確立 かくりつ 兩國 りょうこく 宗 むね 藩 はん 關係 かんけい 。洪 ひろし 武 ぶ 七 なな 年 ねん (1374年 ねん ),高 こう 丽恭愍王被 ひ 弑,两国关系恶化。洪 ひろし 武 ぶ 二 に 十 じゅう 五 ご 年 ねん (1392年 ねん ),李 り 成桂 せいけい 接受 せつじゅ 高 こう 丽恭让王禅 ぜん 让,建立 こんりゅう 朝 あさ 鲜王朝 あさ ,明太 めんたい 祖 そ 虽然根 ね 据 すえ 其意愿 すなお 赐予“朝 あさ 鲜”为其新 しん 国号 こくごう ,但 ただし 始 はじめ 终不予 よ 正式 せいしき 册 さつ 封 ふうじ ,两国还发生 せい 两次表 ひょう 笺风波 は ,关系紧张,朝 あさ 鲜国内 ない 甚至出 で 现征伐 せいばつ 辽东的 てき 思潮 しちょう 。洪 ひろし 武 ぶ 三 さん 十 じゅう 一 いち 年 ねん (1398年 ねん ),李 り 芳 かおる 果 はて 在 ざい 其弟李 り 芳 かおる 远 发动第 だい 一 いち 次 じ 王子 おうじ 之 の 乱 みだれ 后 きさき 获得明惠 あきえ 宗 そう 册 さつ 封 ふう 。其后李 り 芳 かおる 远发动第 だい 二 に 次 じ 王子 おうじ 之 の 乱 みだれ 即位 そくい 后 きさき ,仍旧在 ざい 建 けん 文 ぶん 三 さん 年 ねん (1401年 ねん )获得明惠 あきえ 宗 そう 册 さつ 封 ふう 。明成 めいせい 祖 そ 取得 しゅとく 靖 やすし 难之役 やく 胜利后 きさき ,于永乐元年 ねん (1403年 ねん )二月重新册封李芳远为朝鲜国王,两国关系由 よし 此进入 にゅう 稳定的 てき 宗 むね 藩 はん 关系。[ 46]
豐臣 とよとみ 秀吉 ひでよし 統一 とういつ 日本 にっぽん 後 ご ,意欲 いよく 佔領朝鮮 ちょうせん 。萬 まん 曆 れき 二 に 十 じゅう 年 ねん (1592年 ねん ),日本 にっぽん 進攻 しんこう 朝鮮 ちょうせん ,朝鮮 ちょうせん 國王 こくおう 逃到義 よし 州 しゅう 並 なみ 派 は 使節 しせつ 向 こう 明朝 みんちょう 求 もとめ 救 すくい 。明朝 みんちょう 派 は 军救援 きゅうえん ,收 おさむ 复平壤 ぴょんやん ,后 きさき 一 いち 度 ど 受挫于碧 あお 蹄馆 ,汉城收 おさむ 复后,中日 ちゅうにち 進行 しんこう 和談 わだん ,但 ただし 随 ずい 着 ぎ 两国封 ふう 贡失败,萬 まん 曆 れき 廿 にじゅう 五 ご 年 ねん (1597年 ねん )後 ご ,日本 にっぽん 再 さい 次 つぎ 進攻 しんこう 朝鮮 ちょうせん ,双方 そうほう 在朝 ざいちょう 鲜半岛南部 なんぶ 多 た 次 つぎ 交战,戰爭 せんそう 進入 しんにゅう 僵局狀態 じょうたい 。萬 まん 曆 れき 二 に 十 じゅう 六 ろく 年 ねん ,豐臣 とよとみ 秀吉 ひでよし 逝世,日本 にっぽん 軍 ぐん 心 こころ 動搖 どうよう ,結果 けっか 撤軍,明 あきら 、朝 あさ 联军通 どおり 过露 ろ 梁 やな 海 かい 战最 さい 终收复全部 ぶ 国土 こくど 。此即為 ため 万 まん 历朝鲜之役 やく ,朝 あさ 鲜称为壬 みずのえ 辰 たつ 衛 まもる 國 こく 戰爭 せんそう 。天啟 てんけい 七 なな 年 ねん (1627年 ねん ,天 てん 聰 さと 元年 がんねん )皇 すめらぎ 太極 たいきょく 攻 おさむ 打 だ 朝鮮 ちょうせん ,朝鮮 ちょうせん 政府 せいふ 被 ひ 迫 せり 簽訂「江 こう 都和 つわ 約 やく 」,朝鮮 ちょうせん 同 どう 明朝 みんちょう 的 てき 關係 かんけい 中斷 ちゅうだん 。[ 12] :317-320
洪 ひろし 武 たけ 年間 ねんかん ,因 いん 為 ため 沿海 えんかい 多 た 有 ゆう 倭 やまと 寇,方 ぽう 、張 ちょう 餘部 あまるべ 多和 たわ 倭 やまと 寇勾結 ゆい 。再 さい 加 か 上 じょう 當時 とうじ 日本 にっぽん 分裂 ぶんれつ 為 ため 南北 なんぼく 二 に 朝 あさ ,明太 めんたい 祖 そ 雖有派 は 人 じん 與 あずか 日本 にっぽん 修好 しゅうこう ,但 ただし 南朝 なんちょう 的 てき 懷 なつけ 良 よ 親王 しんのう 已 やめ 自 じ 顧不暇 ひま ,對 たい 明 あかり 廷態度 ど 冷淡 れいたん 。至 いたり 永樂 えいらく 年間 ねんかん ,明成 めいせい 祖 そ 遺 のこ 使 つかい 和 わ 幕府 ばくふ 足利 あしかが 義滿 よしみつ 修好 しゅうこう ,足利 あしかが 义满接受 せつじゅ 明成 めいせい 祖 そ 册 さつ 封 ふう 为“日本 にっぽん 国王 こくおう ”,兩國 りょうこく 使節 しせつ 頻繁 ひんぱん 來往 らいおう ,兩國 りょうこく 展開 てんかい 了 りょう 勘合 かんごう 貿易 ぼうえき (見 み 明日 あした 貿易 ぼうえき )[ F] ,至 いたり 永樂 えいらく 九 きゅう 年 ねん (1411年 ねん )為 ため 止 どめ 。宣 せん 德 とく 年間 ねんかん ,勘合 かんごう 貿易 ぼうえき 再開 さいかい 。名義 めいぎ 上 じょう 來 き 說 せつ ,勘合 かんごう 是 ぜ 由 よし 幕府 ばくふ 支配 しはい 的 てき ,但 ただし 不 ふ 久 ひさ 後便 こうびん 落人 おちうど 大 だい 內氏 、細川 ほそかわ 氏 し 二 に 個 こ 大名 だいみょう 之 の 中 なか ,他 た 們又交由商人 しょうにん 控 ひかえ 制 せい 。在 ざい 經濟 けいざい 上 じょう ,明 あきら 廷難以得益 えき ,只 ただ 是 ぜ 希望 きぼう 以此維護沿海 えんかい 安定 あんてい 。至 いたり 嘉 よしみ 靖 やすし 年間 ねんかん ,經濟 けいざい 出現 しゅつげん 危機 きき ,便 びん 難 なん 以維持 いじ 勘合 かんごう 貿易 ぼうえき 。嘉 よしみ 靖 やすし 二 に 年 ねん (日 ひ 大 だい 永 ひさし 三 さん 年 ねん ,1523年 ねん ),大 だい 內氏和 わ 細川 ほそかわ 氏 し 因 いん 勘合 かんごう 符 ふ 效力 こうりょく 之 の 辯 わきまえ 的 てき 問題 もんだい ,發生 はっせい 寧 やすし 波 は 之 の 亂 みだれ ,朝延 とものぶ 便 びん 不 ふ 再發 さいはつ 新 しん 的 てき 勘合 かんごう ,又 また 加 か 上 じょう 沿海 えんかい 多 た 有 ゆう 倭 やまと 亂 みだれ ,貿易 ぼうえき 因 いん 此中止 ちゅうし 。隆 りゅう 慶 けい 開 ひらき 關 せき 之 これ 後 ご ,兩國 りょうこく 的 てき 貿易 ぼうえき 轉 てん 為 ため 以民間 あいだ 貿易 ぼうえき 為 ため 主 ぬし 。[ 47] :67-157
與 あずか 蒙 こうむ 古 ふる 的 てき 關係 かんけい 。明前 みょうまえ 期 き ,退 すさ 居 きょ 塞外 さいがい 的 てき 北元 きたもと 政權 せいけん 伺機南下 なんか 擾明,企圖 きと 東山 ひがしやま 再起 さいき ,成 なり 為 ため 明朝 みんちょう 的 てき 心腹 しんぷく 之 の 患。[ 48] 在 ざい 明 あきら 初 はつ 武功 ぶこう 強 きょう 盛時 せいじ ,一度將其驅至漠北,蒙 こうむ 古 こ 勢力 せいりょく 大 だい 減 げん ,內亂分裂 ぶんれつ 為 ため 韃靼 だったん 、瓦 かわら 剌等 とう 部 ぶ ,明朝 みんちょう 稱 しょう 之 の 為 ため 「北 きた 虜 とりこ 」。[ 49] 永樂 えいらく 遷都 せんと 之 これ 後 ご ,「明朝 みんちょう 以北 いほく 京 きょう 為 ため 中心 ちゅうしん ,以九 きゅう 鎮為重 ためしげ 要 かなめ 軍 ぐん 防 ぼう 點 てん ,以衛所 しょ 等 とう 為 ため 網 もう 絡 からま ,以長城 じょう 為 ため 屏 へい 障 さわ 和 わ 陣地 じんち ,形成 けいせい 北部 ほくぶ 的 てき 嚴密 げんみつ 防 ぼう 綫」。正統 せいとう 年間 ねんかん ,瓦 かわら 剌部崛起,多 た 次 つぎ 進攻 しんこう 明朝 みょうちょう (土木 どぼく 之 の 變 へん 等 ひとし )。成 なり 化 か 六 ろく 年 ねん (1471年 ねん )漠 ばく 南 みなみ 蒙 こうむ 古 ふる 各部 かくぶ 佔據了 りょう 河 かわ 套地區 ちく 。嘉 よしみ 靖 やすし 二 に 十 じゅう 九 きゅう 年 ねん (1550年 ねん ),俺 おれ 答 とう 舉兵南下 なんか ,焚掠北京 ぺきん 城 じょう 外 がい 八 はち 天 てん ,史 し 稱 しょう 庚 かのえ 戌 いぬ 之 の 變 へん 。隆 りゅう 慶 けい 初年 しょねん ,明朝 みんちょう 的 てき 邊 あたり 防 ぼう 有 ゆう 所 しょ 增強 ぞうきょう 。隆 りゅう 慶 けい 五 ご 年 ねん (1571年 ねん ),在 ざい 王 おう 祟 たたり 吉 きち 、張 ちょう 居 きょ 正 せい 等 とう 力 りょく 排 はい 眾議下 か ,俺 おれ 答 とう 汗 あせ 被 ひ 封 ふう 為 ため 順 じゅん 義 ぎ 王 おう ,兩 りょう 地 ち 互市 ごし ,經濟 けいざい 得 とく 以往 いおう 來 らい ,史 し 稱 しょう 「俺 おれ 答 とう 封 ふう 贡 」。其後的 てき 三 さん 娘 むすめ 子 こ 繼承 けいしょう 和平 わへい 的 てき 政策 せいさく 。數 かず 十年間明蒙之間邊境安寧和平。[ 12] :300-309 万 まん 历年间,俄 にわか 罗斯使者 ししゃ 伊 い 萬 まん ·佩特林 りん 经过蒙 こうむ 古 こ 高原 こうげん 到 いた 达明朝 あさ ,并获得 とく 了 りょう 万 まん 历皇帝 こうてい 的 てき “国 くに 书”。
與 あずか 帖 じょう 木 き 兒 じ 帝國 ていこく 的 てき 關係 かんけい 。洪 ひろし 武 ぶ 二 に 十 じゅう 年 ねん (1387年 ねん ),帖 じょう 木 き 兒 じ 首 くび 次 じ 遣 や 使 つかい 到 いた 明朝 みょうちょう 。在 ざい 洪 ひろし 武 たけ 永樂 えいらく 之 の 間 あいだ ,明朝 みんちょう 派遣 はけん 陳 ちん 誠 まこと 等 とう 人出 ひとで 使 し 西域 せいいき ,兩國 りょうこく 發生 はっせい 磨 みがけ 擦 ず 。永樂 えいらく 二 に 年 ねん (1404年 ねん ),帖 じょう 木 き 兒 じ 領 りょう 兵 へい 八 はち 十 じゅう 萬 まん 攻 おさむ 明 あかり 。次 つぎ 年春 としはる ,帖 じょう 木 き 兒 じ 中途 ちゅうと 病死 びょうし ,大軍 たいぐん 返 かえし 回 かい 。永樂 えいらく 年間 ねんかん ,兩國 りょうこく 又重 またしげ 新 しん 修好 しゅうこう 。據 よりどころ 《明 あきら 實錄 じつろく 》等 とう 書 しょ 記載 きさい ,自 じ 洪 ひろし 武 たけ 年間 ねんかん 至 いたり 萬 まん 曆 れき 九 きゅう 年 ねん (1581年 ねん ),帖 じょう 木 き 兒 じ 朝貢 ちょうこう 至 いたり 明 あかり 首都 しゅと 達 たち 五 ご 十 じゅう 餘 よ 次 じ ;洪 ひろし 武 たけ 至 いたる 天 てん 順 じゅん 年間 ねんかん ,有 ゆう 十 じゅう 一 いち 次 じ 遣 や 使 つかい 撒馬兒 じ 罕 ,兩國 りょうこく 關係 かんけい 良好 りょうこう 。[ 12] :332-334 [ 47] :261-270
朝 あさ 鲜所绘混 こん 一疆理历代国都之图 ,展示 てんじ 了 りょう 明朝 みんちょう 在 ざい 航海 こうかい 時代 じだい 進行 しんこう 的 てき 海上 かいじょう 活動 かつどう ,主要 しゅよう 涉 わたる 及東南 みなみ 亞 あ 與 あずか 印度 いんど 洋 よう 一帶 いったい ,最 さい 遠 とお 達 たち 阿 おもね 拉 ひしげ 伯 はく 與 あずか 非 ひ 洲 しゅう
在 ざい 明朝 みんちょう 初期 しょき ,琉球 りゅうきゅう 、暹羅 しゃむ 、占 うらない 城 じょう 、爪 つま 哇諸國 しょこく 先後 せんご 遣 や 使 つかい 入貢 にゅうこう 。永樂 えいらく 、宣 せん 德 とく 年間 ねんかん ,鄭 てい 和 かず 七 なな 次 じ 出 で 使 し 西洋 せいよう ,到 いた 訪 おとずれ 了 りょう 多 た 個 こ 東南 とうなん 亞 あ 國家 こっか ,最 さい 遠 とお 到達 とうたつ 了 りょう 非 ひ 洲 しゅう 的 てき 木骨 もっこつ 都 と 束 たば (今 こん 索 さく 马里摩 ま 加 か 迪 すすむ 沙 すな )、卜 ぼく 剌哇(今 こん 屬 ぞく 索 さく 馬 ば 里 さと )、麻 あさ 林 りん (今 こん 肯尼亞 あ 馬 うま 林 はやし 迪 すすむ )等地 とうち ,並 なみ 建立 こんりゅう 了 りょう 友好 ゆうこう 關係 かんけい 。鄭 てい 和 かず 下 か 西洋 せいよう 的 てき 同時 どうじ ,許多 きょた 外國 がいこく 使節 しせつ 也會乘 じょう 鄭 てい 和 かず 的 てき 船 せん 來 らい 中國 ちゅうごく 。如永樂 らく 十 じゅう 七 なな 年 ねん 第 だい 五 ご 次 じ 下 か 西洋 せいよう 時 じ ,便 びん 帶 たい 回 かい 了 りょう 十 じゅう 七 なな 個 こ 國家 こっか 和 わ 地區 ちく 的 てき 貢 みつぎ 使 し 。此外,滿 まん 剌加 、蘇 そ 祿 ろく 、渤泥 、古 こ 麻 あさ 剌朗的 てき 國王 こくおう 也來明 あかり 訪問 ほうもん 。[ 12] :329-332
與 あずか 越 えつ 南 みなみ 的 てき 關係 かんけい 。明 あかり 初 はつ ,朱 しゅ 元 もと 璋 あきら 遺 のこ 使 つかい 安 やす 南國 なんごく 王 おう ,建立 こんりゅう 了 りょう 宗 むね 藩 はん 關係 かんけい 。永樂 えいらく 四 よん 年 ねん (1406年 ねん ),成 なり 祖 そ 命 いのち 張 ちょう 輔 、沐晟 出擊 しゅつげき 安 やす 南 みなみ ,将 はた 安 やす 南 みなみ 纳入明朝 みんちょう 版 ばん 图 ,设立交趾布 ぬの 政司 せいじ 。宣 せん 德 とく 二 に 年 ねん (1427年 ねん )放棄 ほうき 交趾 ,明朝 みんちょう 册 さつ 封 ふう 黎 はじむ 利 り 为安南国 なんごく 王 おう ,史 し 稱 しょう 「後 こう 黎 はじむ 朝 あさ 」[ 10] :50-61 。黎 はじむ 朝 ちょう 基本 きほん 的 てき 制度 せいど 取 と 法 ほう 明朝 みょうちょう ,大力 だいりき 提 ひさげ 倡理學 がく ,專 せん 漢文 かんぶん 為 ため 「聖賢 せいけん 之 の 字 じ 」。黎 はじむ 灝一朝 いっちょう ,曾侵擾廣西 にし 、雲南 うんなん ,但 ただし 明朝 みょうちょう 采 さい 用 よう 姑息 こそく 政策 せいさく ,只 ただ 是 ぜ 加 か 強 きょう 邊 あたり 備,沒 ぼつ 有 ゆう 多 た 加 か 理會 りかい 。嘉 よしみ 靖 やすし 六 ろく 年 ねん (1527年 ねん ),莫登庸 とうよう 建立 こんりゅう 了 りょう 莫朝 ,和 かず 黎 はじむ 氏 し 對立 たいりつ 。明朝 みんちょう 處 しょ 於中立 ちゅうりつ 的 てき 態度 たいど ,「既 すんで 不 ふ 拒 こばめ 黎 はじむ ,亦 また 不 ふ 棄莫」。黎 はじむ 朝 ちょう 戰勝 せんしょう 莫朝之 これ 後 ご ,明 あきら 廷又授予黎 はじむ 氏 し 安 やす 南都 なんと 統 すべ 使 し 之 の 銜。[ 50] :32-40
與 あずか 葡萄 ぶどう 牙 きば 的 てき 關係 かんけい 。正德 しょうとく 十 じゅう 二 に 年 ねん (1517年 ねん ),安 やす 特 とく 拉 ひしげ 德 とく 和 わ 皮 かわ 萊資等 とう 率 りつ 船 せん 到達 とうたつ 廣州 こうしゅう ,廣州 こうしゅう 官員 かんいん 沒 ぼつ 有 ゆう 允許 いんきょ 他 た 們登岸 がん 。正德 しょうとく 十 じゅう 六 ろく 年 ねん (1521年 ねん ),明 あかり 軍 ぐん 和 わ 葡萄 ぶどう 牙 きば 發生 はっせい 屯 たむろ 門 もん 海戰 かいせん 、西 にし 草 くさ 灣 わん 之 の 戰 たたかえ ,葡萄 ぶどう 牙 きば 戰敗 せんぱい 。嘉 よしみ 靖 やすし 三 さん 十 じゅう 二 に 年 ねん (1553年 ねん ),葡商托 たく 言 ごと 晾晒貨物 かもつ ,請求 せいきゅう 在 ざい 澳門 まかお 定 てい 居 い ,並 なみ 向 こう 官員 かんいん 行 ぎょう 賄 まかなえ ,明朝 みょうちょう 見 み 有利 ゆうり 可 か 圖 ず ,便 びん 沒 ぼつ 有理 ゆうり 會 かい 。[ 12] :335-336
與 あずか 荷 に 蘭 らん 的 てき 關係 かんけい 。萬 まん 曆 れき 二 に 十 じゅう 九 きゅう 年 ねん (1601年 ねん ),荷 に 蘭 らん 船隊 せんたい 到達 とうたつ 澳門 まかお ,請求 せいきゅう 貿易 ぼうえき ,未 み 准 じゅん ,萬 まん 曆 れき 三 さん 十 じゅう 二 に 年 ねん (1604年 ねん ),他 た 們在廣東 かんとん 一 いち 無 む 所得 しょとく ,便 びん 轉向 てんこう 福建 ふっけん ,佔領了 りょう 澎湖 約 やく 五 ご 個月 かげつ 左右 さゆう ,結果 けっか 被 ひ 明 あかり 政府 せいふ 驅逐 くちく 。崇 たかし 禎 ただし 十 じゅう 五 ご 年 ねん (1642年 ねん ),荷 に 蘭 らん 人 じん 驅逐 くちく 了 りょう 西 にし 班 はん 牙 きば 人 じん ,佔領了 りょう 台灣 たいわん 北部 ほくぶ 。[ 12] :338-339
明朝 みょうちょう 發行 はっこう 的 てき 紙幣 しへい —大 だい 明宝 あけたから 钞洪 ひろし 武 ぶ 八 はち 年 ねん (1375年 ねん ),開始 かいし 實行 じっこう 鈔法。鈔法規定 きてい 了 りょう 「大 だい 明寶 あけたから 鈔 」的 てき 印 しるし 制 せい 、管理 かんり 機構 きこう (寶 たから 鈔提舉司 ),定義 ていぎ 了 りょう 「大 だい 明寶 あけたから 鈔」的 てき 形態 けいたい 、防 ぼう 偽 にせ 方式 ほうしき 。明朝 みんちょう 政府 せいふ 沒 ぼつ 有為 ゆうい 大 だい 明寶 あけたから 鈔設立 せつりつ 保證 ほしょう 金 きん ,發行 はっこう 數量 すうりょう 沒 ぼつ 有明 ありあけ 確 かく 限 げん 額 がく ,發行 はっこう 的 てき 依據 いきょ 單純 たんじゅん 依 よ 靠 もたれ 政治 せいじ 力量 りきりょう 。「大 だい 明寶 あけたから 鈔」主要 しゅよう 依 よ 靠 もたれ 財政 ざいせい 支出 ししゅつ 流 りゅう 向 こう 民間 みんかん ,但 ただし 同時 どうじ 百姓不能以寶鈔向朝延兌換金銀。雖然明朝 みんちょう 鈔法規定 きてい 「每 まい 鈔四 よん 貫 かん ,易 えき 赤金 あかがね 一 いち 兩 りょう 」,但 ただし 鈔法定立 ていりつ 之 の 後 こう 很長時間 じかん 都 と 沒 ぼつ 有 ゆう 辦法使用 しよう 這個比價 ひか ,寶 たから 鈔長期 き 貶值。至 いたり 成 なり 化 か 年間 ねんかん ,其價值大約 やく 只 ただ 有原 ありはら 來 らい 規定 きてい 的 てき 千 せん 分 ふん 之 の 一 いち 。至 いたり 天 てん 順 じゅん 、成 なり 化 か 年間 ねんかん ,「大 だい 明寶 あけたから 鈔」在民 ざいみん 間 あいだ 基本 きほん 上 じょう 不 ふ 再 さい 使用 しよう 。[ 51] :555-581
為 ため 了 りょう 推行鈔法,在 ざい 明朝 みんちょう 初期 しょき ,明 あきら 政府 せいふ 禁止 きんし 民間 みんかん 使用 しよう 金 きん 、銀 ぎん ,限 げん 制 せい 銅錢 どうせん 進行 しんこう 交易 こうえき ,「以鈔法 ほう 不通 ふつう ,下 した 令 れい 禁 きん 金銀 きんぎん 交易 こうえき ,犯 はん 者 しゃ 准 じゅん 奸惡 かんあく 論 ろん 」,但 ただし 民間 みんかん 依然 いぜん 多 おお 有 ゆう 使用 しよう 。至 いたり 明 あかり 中期 ちゅうき ,寶 たから 鈔貶值,金銀 きんぎん 的 てき 禁令 きんれい 不能 ふのう 繼續 けいぞく 保持 ほじ ,民間 みんかん 大 だい 多 た 銀 ぎん 進行 しんこう 交易 こうえき 。[ 51] :581-588 此外尚 ひさし 有 ゆう 銅錢 どうせん ,但 ただし 只 ただ 是 ぜ 在 ざい 小額 しょうがく 交易 こうえき 時 じ 使用 しよう 。[ 51] :589-612
自明 じめい 朝 あさ 就開發 かいはつ 至 いたり 今 いま 的 てき 雲南 うんなん 梯 はしご 田 た
明朝 みょうちょう 初期 しょき ,由 ゆかり 於多年 ねん 的 てき 戰爭 せんそう 加 か 上 じょう 通貨 つうか 膨脹 ぼうちょう ,且前朝 あさ 元 げん 惠 めぐみ 宗 むね 為 ため 治水 ちすい 加重 かじゅう 徭役 ,經濟 けいざい 近 きん 乎在崩潰 ほうかい 的 てき 邊 あたり 緣 えん 。為 ため 了 りょう 恢復 かいふく 農業 のうぎょう ,明 あきら 廷主要 よう 有 ゆう 移民 いみん 墾荒和 わ 軍隊 ぐんたい 開 ひらけ 荒 あら 兩 りょう 項 こう 措施。移民 いみん 墾荒大 だい 致是從 したがえ 「狹 せま 鄉 きょう 」移入 いにゅう 「寬 ひろし 鄉 きょう 」,主要 しゅよう 集中 しゅうちゅう 在 ざい 內地「土 ど 曠人稀 まれ 」的 てき 地方 ちほう 。軍隊 ぐんたい 開 ひらき 荒 あら 方面 ほうめん ,主要 しゅよう 集中 しゅうちゅう 在 ざい 邊 あたり 陲地區 ちく 。在 ざい 洪 ひろし 武 ぶ 初年 しょねん ,每年 まいとし 需要 じゅよう 由 よし 南方 なんぽう 運 うん 糧 かて 至 いたり 遼東 りゃおとん 軍隊 ぐんたい ;至 いたり 永樂 えいらく 一朝 いっちょう ,已 やめ 經 けい 自給自足 じきゅうじそく 而有餘 あまり 。此兩項 こう 政策 せいさく 調整 ちょうせい 了 りょう 全國 ぜんこく 農村 のうそん 人口 じんこう 和 わ 耕地 こうち 布 ぬの 局 きょく ,並 なみ 增加 ぞうか 了 りょう 全國 ぜんこく 人口 じんこう 和 わ 耕地 こうち 面積 めんせき 。[ 51] :233-246
明 あかり 政府 せいふ 重視 じゅうし 水利 すいり 建設 けんせつ ,主要 しゅよう 包括 ほうかつ 常 つね 年 とし 性 せい 的 てき 水利 すいり 工程 こうてい 建設 けんせつ 與 あずか 維修、江南 こうなん 水 みず 患的治 ち 理 り 和治 かずはる 黃 き (黃河 こうが )工程 こうてい 。在 ざい 建 けん 文 ぶん 四 よん 年 ねん (1402年 ねん )至 いたり 萬 まん 曆 れき 四 よん 十 じゅう 二 に 年 ねん (1614年 ねん )間 あいだ 的 てき 210年 ねん ,在 ざい 《明 あきら 實錄 じつろく 》記載 きさい 75項 こう 較大的 てき 水利 すいり 工程 こうてい 之 の 中 なか ,南 みなみ 直 ただし 隸地區 ちく 佔44個 こ ,可 か 見明 みみょう 政府 せいふ 對 たい 江南 えな 水利 すいり 的 てき 重視 じゅうし 。治 ち 黃 き 主要 しゅよう 的 てき 目的 もくてき 是 ぜ 為 ため 了 りょう 保障 ほしょう 大 だい 運河 うんが 的 てき 漕 こげ 運 うん 。在 ざい 永樂 えいらく 一朝 いっちょう ,政治 せいじ 中心 ちゅうしん 北移 きたうつし ,而經濟 けいざい 中心 ちゅうしん 卻在南方 なんぽう ,因 いん 此糧食 しょく 都 と 需要 じゅよう 從 したがえ 南方 みなかた 運 はこぶ 過 か 來 らい 。成 なり 化 か 七 なな 年 ねん ,明 あきら 廷置河 かわ 道 どう 總督 そうとく ,專管 せんかん 黃 き 、淮等河 かわ 堤 つつみ 疏浚諸事 しょじ 。[ 51] :246-276
在 ざい 明朝 みんちょう ,特別 とくべつ 是 ぜ 明朝 みんちょう 中 ちゅう 後期 こうき ,經濟 けいざい 作物 さくもつ 的 てき 種 たね 植 うえ 得 え 到 いた 發展 はってん 。政府 せいふ 推行了 りょう 「折 おり 色 しょく 」的 てき 稅收 ぜいしゅう 方式 ほうしき ,可 か 以改徵 ちょう 其他實物 じつぶつ 或 ある 銀 ぎん 錢 ぜに 以代替 だいたい 糧食 りょうしょく 作 さく 賦 ふ 稅 ぜい ,鼓 つづみ 勵百姓不只裁種糧食作物。棉花 めんか 在 ざい 成 なり 化 か 、弘治 こうじ 年間 ねんかん 「其種已 やめ 遍 あまね 布 ぬの 於天下 か ,地 ち 無 む 南北 なんぼく 皆 みな 宜 よろし 之 これ ,人 ひと 無 む 貧富 ひんぷ 皆 みな 賴 よりゆき 之 これ 」[ m] ,農民 のうみん 摸索 もさく 出 で 種 しゅ 植 うえ 棉花 めんか 的 てき 新 しん 方法 ほうほう ,提 ひさげ 高 だか 了 りょう 產 さん 量 りょう ,棉花 めんか 取 と 代 だい 了 りょう 絲 いと 、麻 あさ 成 なり 為 ため 一般人紡織制衣的原料。其他經濟 けいざい 作物 さくもつ 的 てき 種 しゅ 植 うえ 都 と 得 え 到 いた 的 てき 快速 かいそく 的 てき 發展 はってん ,如藍 あい 和 わ 紅花 べにばな 等 とう 染料 せんりょう 作物 さくもつ 、花 はな 生 せい 、胡麻 ごま 等 とう 油 あぶら 料 りょう 作物 さくもつ 、甘蔗 かんしゃ 、茶 ちゃ 樹 じゅ 、果樹 かじゅ 、蔬菜 そさい 、花卉 かき 等 とう 。煙草 たばこ 在 ざい 萬 まん 曆年 れきねん 間引 まびき 入 にゅう 中國 ちゅうごく ,很快就推廣 こう 至 いたり 全國 ぜんこく 栽種。[ 51] :276-295 糧食 りょうしょく 作物 さくもつ 方面 ほうめん ,栗 ぐり 米 まい 和 わ 番 ばん 薯 いも 在 ざい 明 あかり 中 ちゅう 後期 こうき 傳 でん 入 にゅう 了 りょう 中國 ちゅうごく ,使 つかい 旱 ひでり 地 ち 和 わ 山地 さんち 得 え 到 いた 利用 りよう ,增加 ぞうか 了 りょう 全國 ぜんこく 糧食 りょうしょく 產 さん 量 りょう 。[ 52] :262-263
明朝 みょうちょう 初期 しょき ,政府 せいふ 的 てき 户役制度 せいど ,商 しょう 税 ぜい 制度 せいど ,海 うみ 禁 きん 政策 せいさく 等 とう 政策 せいさく 限 げん 制 せい 了 りょう 商 しょう 业发展 てん ,各地 かくち 以自然 しぜん 经济为主。[ 51] :479-492 正 せい 统至嘉 よしみ 靖 やすし 年 ねん 间,市場 いちば 上 じょう 的 てき 商品 しょうひん 種類 しゅるい 大增 おおます ,流通 りゅうつう 的 てき 範圍 はんい 擴大 かくだい ,出現 しゅつげん 了 りょう 很多商業 しょうぎょう 市 し 鎮。據 よりどころ 不完全 ふかんぜん 統計 とうけい ,明朝 みんちょう 的 てき 商 しょう 稅 ぜい 由 よし 弘治 こうじ 時期 じき 共 ども 46180090貫 かん 升 ます 至 いたり 嘉 よしみ 靖 やすし 時期 じき 52068109貫 かん ,反映 はんえい 這時期 じき 商業 しょうぎょう 的 てき 繁榮 はんえい 。[ 51] :492-503 嘉 よしみ 靖 やすし 中期 ちゅうき 之 これ 後 ご ,隨 ずい 絲織 いとおり 業 ぎょう 、陶 とう 瓷業等 とう 手工業 しゅこうぎょう 發展 はってん ,商品 しょうひん 生產 せいさん 領域 りょういき 擴大 かくだい ,貨品數量 すうりょう 大增 おおます ,農產 のうさん 品 ひん 亦 また 開始 かいし 商業 しょうぎょう 化 か 。全國 ぜんこく 形成 けいせい 了 りょう 若干 じゃっかん 個 こ 以產品 ひん 著名 ちょめい 的 てき 地區 ちく ,貨品生產 せいさん 呈 てい 現 げん 分 ぶん 工 こう 的 てき 傾向 けいこう ,同時 どうじ 商品 しょうひん 在 ざい 各 かく 地區 ちく 之 の 間 あいだ 交流 こうりゅう ,乃至 ないし 一些中小城市或者偏遠山區的貨品也相當齊全。如四 よん 川 がわ 建 たて 昌 あきら 衛 まもる (今 いま 四 よん 川西 かわにし 昌 あきら )也可以買到 いた 蘇州 そしゅう 、杭州 こうしゅう 的 てき 絲 いと 綢。在 ざい 此時,一些商人為了擴大資本,成 なり 了 りょう 商 しょう 幫,控 ひかえ 制 せい 了 りょう 某 ぼう 些地區 ちく 、行 くだり 業 ぎょう 的 てき 商業 しょうぎょう 貿易 ぼうえき 。[ 51] :503-533
明朝 みょうちょう 首 くび 先 さき 興 きょう 建 けん 的 てき 是 ぜ 兩 りょう 京 きょう 與 あずか 十 じゅう 三 さん 布 ぬの 政司 せいじ 之 の 間 あいだ 的 てき 大道 だいどう 。為 ため 了 りょう 鞏固 きょうこ 北方 ほっぽう 邊 べ 防 ぼう ,以北 いほく 京 きょう 為 ため 中心 ちゅうしん ,明 あきら 政府 せいふ 共修 きょうしゅう 建 たて 了 りょう 11條 じょう 道路 どうろ 。在 ざい 永樂 えいらく 年間 ねんかん ,為 ため 了 りょう 鞏固 きょうこ 在 ざい 東北 とうほく 的 てき 管 かん 治 ち ,修 おさむ 建 たて 了 りょう 以開原 げん 為 ため 中心 ちゅうしん 的 てき 四條驛道和以海西為中心的兩條道路。明朝 みんちょう 中期 ちゅうき ,隨 ずい 商品 しょうひん 經濟 けいざい 的 てき 發展 はってん ,很多富民 とみん 、商人 しょうにん 為 ため 了 りょう 商品 しょうひん 流通 りゅうつう 、方便 ほうべん 運輸 うんゆ ,大量 たいりょう 興 きょう 修道 しゅうどう 路 ろ 橋梁 きょうりょう 。整體 せいたい 而言,在 ざい 各 かく 級 きゅう 官 かん 府 ふ 和 かず 商 しょう 民 みん 的 てき 努力 どりょく 下 か ,形成 けいせい 了 りょう 緊密 きんみつ 的 てき 交通 こうつう 網 もう 。據 よりどころ 黃 き 汴《天下 てんか 水陸 すいりく 路程 ろてい 》等 とう 統計 とうけい ,兩 りょう 京 きょう 至 いたる 十 じゅう 三 さん 布 ぬの 政司 せいじ ,各 かく 布 ぬの 政司 せいじ 至 いたり 各 かく 府 ふ ,以及各省 かくしょう 之 の 間 あいだ 的 てき 水陸 すいりく 交通 こうつう 幹線 かんせん 二 に 百 ひゃく 有餘 ゆうよ 。[ 51] :617-623
主要 しゅよう 的 てき 交通 こうつう 道路 どうろ 有 ゆう 以下 いか 五 ご 條 じょう :[ 51] :623-629
京 きょう 杭 くい 大 だい 運河 うんが 。元 もと 末明 ほのか 初 はつ ,運河 うんが 淤塞而使用 しよう 海運 かいうん 。永樂 えいらく 九 きゅう 年 ねん ,宋 そう 禮 あや 率 りつ 軍民 ぐんみん 疏通 そつう 大 だい 運河 うんが ,歷 れき 時 じ 二 に 十 じゅう 年 ねん 而成。河 かわ 道 どう 長 ちょう 1794公里 くり ,連 れん 通 どおり 錢塘 ぜんども 、長江 ながえ 、淮河、黃河 こうが 五 ご 大水 おおみず 系 けい 。
江西 えにし 至 いたり 廣東 かんとん 的 てき 大道 だいどう ,走 はし 線 せん 為 ため 鄱陽湖 みずうみ →贛江→南 みなみ 安 やす 府 ふ 大 だい 庾縣橫浦 よこうら 驛 えき →梅 うめ 關 せき 古道 ふるみち →南 みなみ 雄 おんどり 府 ふ 保昌 やすまさ 縣 けん 陵 りょう 江 え 驛 えき →北江 ほっこう →廣州 こうしゅう 。當 とう 中 ちゅう 橫浦 よこうら 至 いたり 驛 えき 陵 りょう 江 え 驛 えき 一 いち 節 せつ 為 ため 陸路 りくろ ,其他為 ため 水路 すいろ 。在 ざい 明 あかり 初期 しょき ,此路只 ただ 作 さく 「递送官 かん 物 ぶつ 」之 これ 用 よう 。至 いたり 景 けい 泰 たい 年 ねん 後 ご ,成 なり 為 ため 南北 なんぼく 貨物 かもつ 交流 こうりゅう 最 さい 頻繁 ひんぱん 的 てき 商 しょう 路 ろ 。
北京 ぺきん 至 いたり 東北 とうほく 地區 ちく 的 てき 大道 だいどう ,走 はし 線 せん 為 ため 北京 ぺきん →山海 さんかい 關 せき →瀋陽 しんよう →開原 かいはら 。貨品至 いたり 開原 かいはら 之 これ 後 ご ,又 また 轉 うたて 至 いたり 海 うみ 西 にし 、朝鮮 ちょうせん 、奴 やつ 爾 しか 干 ひ 都 と 司 し 等地 とうち 。
長江 ながえ 水道 すいどう ,是 ぜ 明代 あきよ 最大 さいだい 的 てき 內河航行 こうこう 系統 けいとう ,四川 しせん 的 てき 木材 もくざい 、藥 くすり 材 ざい 運 うん 銷江浙,長 ちょう 三角 さんかく 的 てき 絲織 いとおり 、布 ぬの 匹 ひき 也依靠 もたれ 長江 ちょうこう 水運 すいうん 至 いたり 其他地區 ちく 。
由江 よしえ 浙地區 ちく 出發 しゅっぱつ ,經 けい 揚 あげ 州 しゅう 、汴梁、鄭 てい 州 しゅう 、洛陽 らくよう 、西安 しーあん ,接 せっ 絲 いと 綢之路 ろ 至 いたり 新 しん 疆和中東 ちゅうとう 。陝西 せんせい 商 しょう 幫在這條商 しょう 路 ろ 非常 ひじょう 活躍 かつやく ,將 はた 西域 せいいき 的 てき 皮 かわ 毛 げ 、羊毛 ようもう 運 うん 至 いたり 關 せき 中 ちゅう ,加工 かこう 後 ご 東 ひがし 運 うん 至 いたり 東南 とうなん 沿海 えんかい ,又 また 收 おさむ 購棉布 ぬの 、綢緞等 とう 貨品,兩頭 りょうとう 賺錢。
戴進 《冒 おかせ 雪 ゆき 返 かえし 家 か 圖 ず 》。此冬景 けい 圖 ず 作 さく 於1455年 ねん 左右 さゆう ,正 せい 是 ぜ 明朝 みんちょう 第 だい 一波 いっぱ 的 てき 寒冷 かんれい 期 き 的 てき 最後 さいご 一 いち 年 ねん 。[ G] 明代 あきよ 正 せい 值小 しょう 冰河時期 じき ,整體 せいたい 氣溫 きおん 都 と 較為寒冷 かんれい 。在 ざい 明 あかり 初 はつ ,氣候 きこう 寒冷 かんれい ,洪 ひろし 武 ぶ 二 に 十 じゅう 七 なな 年 ねん 至 いたり 正統 せいとう 三 さん 年 ねん (1394至 いたり 1438年 ねん )間 あいだ ,氣候 きこう 回復 かいふく 正常 せいじょう ,隨 ずい 後 ご 的 てき 15年間 ねんかん 又 また 轉 うたて 寒 かん 。景 けい 泰 たい 四 よん 年 ねん (1453年 ねん ),山東 さんとう 至 いたる 江西 えにし 大 だい 帶 たい 下 か 大雪 おおゆき ,長江 ちょうこう 下 か 游 ゆう 一帶 いったい 「凍死 とうし 人民 じんみん 無 む 算 さん 」。寒 かん 潮 しお 至 いたり 景 けい 泰 たい 七 なな 年 ねん (1456年 ねん )結束 けっそく ,其後氣溫 きおん 較為波動 はどう ,但 ただし 整體 せいたい 以寒時 じ 較多,至 いたり 嘉 よしみ 靖 やすし 十 じゅう 年 ねん (1536年 ねん )為 ため 止 どめ ,在 ざい 此之後 ご 的 てき 三 さん 十 じゅう 多年 たねん 間 あいだ ,明朝 みんちょう 的 てき 氣溫 きおん 都 と 較為暖 だん 。萬 まん 曆 れき 五 ご 年 ねん (1577年 ねん ),再 さい 次 つぎ 出現 しゅつげん 寒 かん 潮 しお ,寒冷 かんれい 的 てき 氣溫 きおん 持續 じぞく 至 いたり 明王 みょうおう 朝 あさ 結束 けっそく ,崇 たかし 禎 ただし 二 に 年 ねん 至 いたり 十 じゅう 六 ろく 年 ねん (1629至 いたり 1643年 ねん )的 てき 氣溫 きおん 更 さら 是 ぜ 史 し 無 む 前例 ぜんれい 地 ち 低 てい 。小 しょう 冰河時期 じき 的 てき 出現 しゅつげん 被 ひ 視 し 為 ため 明朝 みんちょう 滅亡 めつぼう 的 てき 因 いん 素 もと 之 の 一 いち 。[ 27] :49-55
明朝 みょうちょう 一 いち 代 だい 氣候 きこう 較為乾燥 かんそう 。在 ざい 元 もと 末明 ほのか 初 はつ (1352至 いたり 1374年 ねん )間 あいだ ,進入 しんにゅう 了 りょう 乾燥 かんそう 期 き 。在 ざい 十 じゅう 五 ご 世紀 せいき 的 てき 首 くび 二 に 十 じゅう 五 ご 年間 ねんかん ,氣候 きこう 濕潤 しつじゅん ,但 ただし 在 ざい 1426年 ねん (宣 せん 德 とく 元年 がんねん )便 びん 遭遇 そうぐう 大 だい 乾 いぬい 旱 ひでり 。接 せっ 下 か 來 らい 的 てき 後 ご 七 なな 十 じゅう 五 ご 年 ねん ,雖偶有 ぐうゆう 濕潤 しつじゅん 期 き ,但 ただし 整體 せいたい 來 らい 說 せつ 乾 いぬい 旱 ひでり 不斷 ふだん 。弘治 こうじ 十 じゅう 七 なな 年 ねん (1504年 ねん )至 いたり 嘉 よしみ 靖 やすし 二 に 十 じゅう 三 さん 年 ねん (1544年 ねん ),降雨 こうう 量 りょう 回復 かいふく 常態 じょうたい ,但 ただし 之 これ 後 ご 的 てき 天氣 てんき 都 と 異常 いじょう 乾燥 かんそう ,尤 ゆう 以嘉靖 やすし 二 に 十 じゅう 三 さん 年 ねん 至 いたり 二 に 十 じゅう 五 ご 年 ねん (1544至 いたり 1546年 ねん ),萬 まん 曆 れき 十 じゅう 三 さん 年 ねん 至 いたり 十 じゅう 七 なな 年 ねん (1585至 いたり 1589年 ねん ),萬 まん 曆 れき 四 よん 十 じゅう 二 に 至 いたり 四 よん 十 じゅう 七 なな 年 ねん (1614年 ねん 至 いたり 1619年 ねん )為 ため 嚴重 げんじゅう 。[ 27] :55-56
明朝 みょうちょう 發生 はっせい 了 りょう 兩次 りょうじ 較大規模 きぼ 的 てき 地震 じしん 。嘉 よしみ 靖 やすし 三 さん 十 じゅう 四 よん 年 ねん 十二月 じゅうにがつ 二 に 日 にち (1556年 ねん 1月 がつ 23日 にち ),在 ざい 渭河流域 りゅういき 發生 はっせい 了 りょう 一場 いちじょう 大 だい 地震 じしん (嘉 よしみ 靖 やすし 大 だい 地震 じしん ),受災範圍 はんい 達 たち 到 いた 250公里 くり ,震 ふるえ 級 きゅう 約 やく 在 ざい 里 さと 氏 し 8級 きゅう 左右 さゆう 。萬 まん 曆 れき 三 さん 十 じゅう 二 に 年 ねん 十 じゅう 一 いち 月 がつ 初 はつ 九 きゅう (1604年 ねん 12月29日 にち ),在 ざい 東南 とうなん 沿海 えんかい 發生 はっせい 了 りょう 一 いち 次 じ 大 だい 地震 じしん (1604年 ねん 泉州 せんしゅう 地震 じしん ),破壞 はかい 了 りょう 泉州 せんしゅう 、漳州 這兩個 りゃんこ 海上 かいじょう 貿易 ぼうえき 中心 ちゅうしん 。在 ざい 月 つき 港 こう ,廬 いおり 舍 しゃ 傾 かたぶけ 圮殆盡 つき ,但 ただし 死亡 しぼう 人數 にんずう 不 ふ 多 た 。[ 27] :58-61
明代 あきよ 的 てき 瘟疫主要 しゅよう 集中 しゅうちゅう 在 ざい 以下 いか 這些時期 じき :永樂 えいらく 五 ご 年 ねん 至 いたり 九 きゅう 年 ねん (1407至 いたり 1411年 ねん )、萬 まん 曆 れき 十 じゅう 五 ご 年 ねん 至 いたり 十 じゅう 六 ろく 年 ねん (1587至 いたり 1588年 ねん ),明代 あきよ 最後 さいご 的 てき 六 ろく 年 ねん (1639至 いたり 1641年 ねん 、1643至 いたり 1644年 ねん ,明 あかり 末 まつ 大 だい 鼠 ねずみ 疫 )。後 こう 兩次 りょうじ 的 てき 瘟疫都 と 應 おう 為 ため 鼠 ねずみ 疫,中國 ちゅうごく 人口 じんこう 史家 しか 曹樹基 もと 認 みとめ 為 ため ,萬 まん 曆 れき 、崇 たかし 禎 ただし 兩次 りょうじ 的 てき 鼠 ねずみ 疫是因 いん 為 ため 中國 ちゅうごく 農民 のうみん 在 ざい 遷居蒙 こうむ 古 こ 草原 そうげん 的 てき 時候 じこう ,侵犯 しんぱん 了 りょう 可能 かのう 帶 たい 有 ゆう 鼠 ねずみ 疫的长爪沙 すな 鼠 ねずみ 而引致 いんち 的 てき 。[ 27] :61-64 [ 54]
官 かん 方 かた 教育 きょういく 方面 ほうめん 。明朝 みょうちょう 早 はや 中期 ちゅうき 最 さい 重要 じゅうよう 的 てき 教育 きょういく 機構 きこう 也就是 ぜ 國子 くにこ 監 かん ,設 しつらえ 有 ゆう 監 かん 規 ぶんまわし ,規矩 きく 極 ごく 嚴 げん 。在 ざい 各 かく 府 ふ 、州 しゅう 、縣 けん 、則 のり 有 ゆう 儒學 じゅがく ,以行教化 きょうか ,育 いく 人材 じんざい 。學習 がくしゅう 書籍 しょせき 有 ゆう 《大明 だいめい 律 りつ 》、《大 だい 誥三 さん 編 へん 》等 とう 進入 しんにゅう 仕 つかまつ 途 と 應 おう 讀的書籍 しょせき ,以及是 ぜ 《孟子 もうし 節 ぶし 文 ぶん 》、《四書 ししょ 大全 たいぜん 》、《五經 ごきょう 大全 たいぜん 》等 とう 儒學 じゅがく 書籍 しょせき 。[ 12] :825-841
民間 みんかん 教育 きょういく 方面 ほうめん ,洪 ひろし 武 ぶ 八 はち 年 ねん (1375年 ねん ),地方 ちほう 社 しゃ 學 がく 始 はじめ 建 けん ,屬 ぞく 於半官 かん 方 かた 的 てき 啟蒙 けいもう 學習 がくしゅう 機構 きこう ,但 ただし 成 なり 效 こう 不 ふ 是 ぜ 很明顯 あらわ 。洪 ひろし 武 ぶ 十 じゅう 八 はち 年 ねん (1385年 ねん )起 おこり ,明太 めんたい 祖 そ 不 ふ 再 さい 提 ひさげ 倡,正統 せいとう 、成 なり 化 か 年間 ねんかん 尚 なお 設 しつらえ ,至 いたり 弘治 こうじ 年間 ねんかん 已 やめ 沒 ぼつ 有 ゆう 記載 きさい 。另外有 ゆう 私塾 しじゅく 和 わ 家 か 館 かん 等 とう ,有 ゆう 錢 ぜに 人家 じんか 延 のべ 請老師 し 教授 きょうじゅ 子弟 してい ,以求出路 でっち 。[ 12] :818-825
科 か 舉在 ざい 明朝 みんちょう 是正 ぜせい 式 しき 的 てき 選拔 せんばつ 官吏 かんり 制度 せいど 。科 か 舉考試 こうし 分 ぶん 為 ため 兩 りょう 級 きゅう ,每 まい 三 さん 年 ねん 舉行一 いち 次 じ ,稱 しょう 為 ため 大 だい 比 ひ 。科 か 舉考試 こうし 的 てき 內容主要 しゅよう 是 ぜ 四書 ししょ 五經 ごきょう ,考 こう 生 せい 必須 ひっす 用 よう 八 はち 股 また 文 ぶん 做答。所謂 いわゆる 股 また ,即 そく 對偶 たいぐう 之 の 意 い 。八股文萌芽於宋朝 そうちょう ,形成 けいせい 於明成 なり 化 か 以後 いご 。由 よし 於八股取士的制度,讀書 どくしょ 人 じん 既 すんで 不通 ふつう 經 けい 史 し ,又 また 不 ふ 諳實際 ぎわ ,嚴重 げんじゅう 束縛 そくばく 民 みん 眾智慧 ちえ 的 てき 進步 しんぽ [ 10] :40-49 。
明朝 みんちょう 的 てき 宗教 しゅうきょう 以佛教 ぶっきょう 和 わ 道教 どうきょう 為 ため 主 ぬし 。在 ざい 明朝 みんちょう 初期 しょき (洪 ひろし 武 たけ 元年 がんねん (1638年 ねん )至 いたり 宣 せん 德 とく 十 じゅう 年 ねん (1435年 ねん )),諸 しょ 帝 みかど 雖然相 しょう 信 しん 佛教 ぶっきょう 、道教 どうきょう ,制定 せいてい 了 りょう 保護 ほご 、提 つつみ 倡佛教 ぶっきょう 、道教 どうきょう 的 てき 政策 せいさく ,但 ただし 同時 どうじ 也加以限制 せい 、整頓 せいとん 佛道 ぶつどう 二 に 教 きょう 。至 いたり 明 あかり 中期 ちゅうき ,當時 とうじ 的 てき 皇帝 こうてい 較為平 ためひら 庸 いさお ,部 ぶ 份的皇帝 こうてい (如武宗 むね 、世 よ 宗 むね )過度 かど 祟 たたり 奉 たてまつ 宗教 しゅうきょう ,因 いん 此明初 はつ 的 てき 限 きり 制 せい 政策 せいさく 沒 ぼつ 有 ゆう 很好執行 しっこう 。至 いたり 明代 あきよ 後期 こうき ,當時 とうじ 的 てき 統治 とうち 者 しゃ 雖祟奉 たてまつ 宗教 しゅうきょう ,但 ただし 沒 ぼっ 有 ゆう 對 たい 佛 ふつ 道 どう 二教有過度的放縱,保持 ほじ 對 たい 宗教 しゅうきょう 的 てき 限 きり 制 せい 政策 せいさく 。[ 55] :3-5
明朝 みょうちょう 佛教 ぶっきょう 。朱 しゅ 元 もと 璋 あきら 登 のぼり 基之 もとゆき 後 ご ,對 たい 於佛教 ぶっきょう 多 た 有 ゆう 整頓 せいとん 。他 た 設置 せっち 了 りょう 僧 そう 司 し 衙門,在京 ざいきょう 設立 せつりつ 僧 そう 錄 ろく 司 し ,「掌 てのひら 天下 でんか 增 ぞう 教 きょう 事 ごと 」,各 かく 府 ふ 、州 しゅう 、縣 けん 分 ぶん 設 しつらえ 僧 そう 綱 つな 、僧正 そうじょう 、僧 そう 會 かい 等 とう 司 し ,分掌 ぶんしょう 其事。明太 めんたい 祖 そ 又 また 將 はた 天下 てんか 的 てき 寺院 じいん 分 ぶん 作 さく 禪 ぜん 、講 こう 、教 きょう 三 さん 類 るい ,要求 ようきゅう 他 た 們各務 かがみ 本業 ほんぎょう ,不 ふ 得 とく 超越 ちょうえつ ,並建 なみたて 了 りょう 立 りつ 度 ど 牒制度 せいど ,限 げん 制 せい 出家 しゅっけ 人數 にんずう 。明世 あきよ 宗 むね 即位 そくい 後 ご ,因 いん 為 ため 前代 ぜんだい 明 あきら 武 たけ 宗 はじめ 極度 きょくど 祟 たたり 信 しん 佛教 ぶっきょう 而朝綱 つな 弊 へい 壞,加 か 上 じょう 祟 たたり 信 しん 道教 どうきょう ,他 た 對 たい 於佛教 ぶっきょう 多 た 有 ゆう 焚絕,史 し 稱 しょう 明世 あきよ 宗 むね 滅 めつ 佛 ほとけ 。[ 55] :3-5 此外,藏 ぞう 傳 でん 佛教 ぶっきょう 、印度 いんど 密教 みっきょう 在 ざい 漢 かん 地 ち 也多有 ゆう 傳播 でんぱ 。[ 55] :110-140
明朝 みょうちょう 道教 どうきょう 。明太 めんたい 祖 そ 、明成 めいせい 祖 そ 都 と 相 しょう 信 しん 道教 どうきょう ,明太 めんたい 祖 そ 甚至親 おや 自 じ 為 ため 《道德 どうとく 經 けい 》作 さく 注 ちゅう 。由 よし 洪 ひろし 武 たけ 至 いたる 宣 せん 德 とく 數 すう 朝 あさ ,皇帝 こうてい 都 と 尊 みこと 祟 たたり 天 てん 一 いち 派 は 首領 しゅりょう ,恩寵 おんちょう 有加 ゆか 。至 いたり 英 えい 宗 むね 、代 だい 宗 むね 二 に 朝 あさ ,開始 かいし 出現 しゅつげん 過度 かど 祟 たたり 道 どう 的 てき 現象 げんしょう 。[ 55] :143-160 至 いたり 明世 あきよ 宗 むね 一朝 いっちょう ,對 たい 於道教 きょう 極度 きょくど 祟 たたり 奉 たてまつ ,在 ざい 宮中 きゅうちゅう 大 だい 設 しつらえ 道教 どうきょう 殿 どの 壇 だん ,並 なみ 為 ため 自己 じこ 和 わ 父母 ちちはは 封 ふう 道 どう 號 ごう ,對 たい 善 ぜん 寫 うつし 青 あお 詞 し 的 てき 官員 かんいん 大 だい 為 ため 有 ゆう 賞 しょう 。明 あかり 政府 せいふ 於京師 し 設 しつらえ 道 どう 篆司,府 ふ 置 おけ 道正 どうしょう 監 かん ,對 たい 道教 どうきょう 實行 じっこう 監督 かんとく 和 わ 管制 かんせい 。[ 55] :161-172
明朝 みょうちょう 伊 い 斯蘭教 きょう 。明朝 みんちょう 對 たい 於伊斯蘭教 きょう 的 てき 政策 せいさく 較為寬容 かんよう ,對 たい 於伊斯蘭教 きょう 多 た 有 ゆう 肯定 こうてい ,如明太 めんたい 祖 そ 有 ゆう 《至 いたり 聖 ひじり 百 ひゃく 字 じ 贊 さん 》,肯定 こうてい 了 りょう 穆 きよし 罕默德 とく 為 ため 「至 いたり 貴 き 聖人 せいじん 」。明朝 みんちょう 政府 せいふ 修 おさむ 建 たて 了 りょう 很多的 てき 清真 きよざね 寺 てら ,如南京 きょう 淨 きよし 覺寺 かくじ 、西安 しーあん 清 せい 修 おさむ 寺 てら 等 とう ,亦 また 任命 にんめい 了 りょう 很多信奉 しんぽう 伊 い 斯蘭教 きょう 的 てき 官員 かんいん 。在 ざい 明朝 みんちょう ,伊 い 斯蘭教 きょう 向中 むこうなか 小城 おぎ 市 し 、鄉 さと 鎮發展 はってん ,至 いたり 明朝 みんちょう 中期 ちゅうき ,內地絕大 ぜつだい 部 ぶ 份的一 いち 級 きゅう 行政 ぎょうせい 單位 たんい ,大 だい 部分 ぶぶん 的 てき 二 に 級 きゅう 行政 ぎょうせい 單位 たんい ,約 やく 一半的三級行政單位都有穆斯林分佈。明朝 みんちょう 中期 ちゅうき 後 ご ,實行 じっこう 海 うみ 禁 きん 政策 せいさく ,伊 い 斯蘭教 きょう 的 てき 傳播 でんぱ 基本 きほん 停止 ていし 了 りょう 。[ 55] :238-242
明朝 みょうちょう 天主教 てんしゅきょう 。最初 さいしょ ,傳 つて 教 きょう 士 し 主要 しゅよう 集中 しゅうちゅう 在 ざい 澳門 まかお ,並 なみ 執行 しっこう 葡萄 ぶどう 牙 きば 化 か 的 てき 傳 つて 教 きょう 方針 ほうしん 。1562年 ねん ,澳門 まかお 天主教 てんしゅきょう 會 かい 已 やめ 有 ゆう 教徒 きょうと 600餘人 よにん 。耶穌會 かい 創始 そうし 人 じん 方 ほう 濟 わたる 各 かく ·沙 すな 勿略打算 ださん 到 いた 中國 ちゅうごく 傳 でん 教 きょう ,未 み 得 とく 准 なぞらえ ,在 ざい 上川島 かみかわしま 過 か 世 よ 。他 た 的 てき 過 か 世 よ 引起了 りょう 西方 せいほう 天主教 てんしゅきょう 會 かい 傳 でん 教 きょう 的 てき 熱情 ねつじょう ,各 かく 修 おさむ 會 かい 派出 はしゅつ 了 りょう 傳 でん 教 きょう 士 し 來 らい 華 はな 傳 でん 教 きょう 。其後,范禮安 やす 指出 さしで 應 おう 該要傳 でん 教 きょう 士 し 中國 ちゅうごく 化 か ,培養 ばいよう 中國 ちゅうごく 籍 せき 神父 しんぷ 。此政策 さく 之 の 下 した ,天主教 てんしゅきょう 在中 ざいちゅう 國 こく 的 てき 傳播 でんぱ 得 とく 以開展 てん 。利 り 馬 ば 竇在北京 ぺきん 得 とく 了 りょう 明神 みょうじん 宗 むね 的 てき 好感 こうかん ,當時 とうじ 的 てき 官員 かんいん 多 た 有 ゆう 受洗 じゅせん 入 にゅう 教 きょう 。[ 55] :271-285 萬 まん 曆 れき 四 よん 十 じゅう 四 よん 年 ねん (1616年 ねん ),發生 はっせい 了 りょう 南京 なんきん 教案 きょうあん ,傳 つて 教 きょう 工作 こうさく 一 いち 時 じ 受阻。[ 55] :305-307 1627年 ねん (天啟 てんけい 七 なな 年 ねん ),全 ぜん 國有 こくゆう 天主 てんしゅ 教徒 きょうと 1萬 まん 3千 せん 人 にん 。[ 56]
此外,明朝 みょうちょう 尚 なお 有 ゆう 白蓮 びゃくれん 教 きょう 、羅 ら 教 きょう 、黃 き 天 てん 教 きょう 、聞香 ぶんこう 教 きょう 、西 にし 大乘 だいじょう 教 きょう 、弘 ひろ 陽 ひ 教 きょう 等 とう 民間 みんかん 秘密 ひみつ 宗教 しゅうきょう 。[ 55] :323-358
王 おう 陽明 ようめい
哲學 てつがく 思想 しそう 上 じょう ,王 おう 陽明 ようめい 繼承 けいしょう 陸 りく 九 きゅう 淵 ふち 的 てき 「心學 しんがく 」並 なみ 發揚 はつよう 光 こう 大 だい ,他 た 的 てき 思想 しそう 強調 きょうちょう 「致良知 りょうち 」及「知行 ちぎょう 合一 ごういつ 」,並 なみ 且肯定 こうてい 人的 じんてき 主體性 しゅたいせい 地位 ちい ,將 はた 「人 ひと 」的 てき 主動 しゅどう 性 せい 放 ひ 在 ざい 學說 がくせつ 的 てき 重心 じゅうしん [ n] 。而王陽明 ようめい 的 てき 弟子 でし 王 おう 艮 うしとら 更進 こうしん 一部 いちぶ 的 てき 強化 きょうか 此方 こちら 面 めん 的 てき 論述 ろんじゅつ ,提出 ていしゅつ 「百姓 ひゃくしょう 日用 にちよう 即 そく 道 どう 」,肯定 こうてい 平民 へいみん 百姓 ひゃくしょう 日常 にちじょう 生活 せいかつ 的 てき 意義 いぎ 。而李 り 贄 にえ 則 のり 更 さら 肯定 こうてい 「人 ひと 欲 よく 」的 てき 價 あたい 值,認 みとめ 為 ため 人的 じんてき 道德 どうとく 觀念 かんねん 系 けい 源 げん 自 じ 於對日常 にちじょう 生活 せいかつ 的 てき 需求,表現 ひょうげん 追求 ついきゅう 個體 こたい 價 か 值的思想 しそう 。而隨著 ちょ 西 にし 學的 がくてき 傳 でん 入 いれ ,科學 かがく 精神 せいしん 與 あずか 實 じつ 學風 がくふう 尚也 なおや 開始 かいし 流行 りゅうこう 。明 あかり 末 まつ 之 の 際 さい ,伴 ばん 隨 ずい 著 ちょ 朝代 あさしろ 的 てき 更 さら 替 かえ 與 あずか 異 い 族 ぞく 的 てき 入 いれ 主 ぬし ,哲學 てつがく 家 か 開始 かいし 更 さら 多 た 的 てき 思考 しこう 現實 げんじつ 問題 もんだい 與 あずか 政治 せいじ 改良 かいりょう ,如王 おう 船山 ふなやま 、黃 き 梨 なし 洲 しゅう 、顧亭林 りん 等 ひとし [ 11] :309-325 。
而明代 だい 晚期 ばんき 書院 しょいん 的 てき 興 きょう 盛 もり ,衝擊 しょうげき 官學 かんがく 的 てき 地位 ちい 。許多 きょた 知識 ちしき 分子 ぶんし 利用 りよう 在 ざい 書院 しょいん 講 こう 學 がく 之 の 際 さい 藉機批評 ひひょう 時政 ときまさ ,例 れい 如曾講 こう 學 がく 於東 ひがし 林 りん 書院 しょいん 的 てき 顧憲成 なり 及高 こう 攀 よじ 龍 りゅう ,就常諷刺 ふうし 時政 ときまさ ,也使東 ひがし 林 りん 書院 しょいん 成 なり 為 ため 與 あずか 當 とう 權 けん 派 は 對抗 たいこう 的 てき 中心 ちゅうしん ,進 しん 而造成 ぞうせい 東 ひがし 林 りん 黨爭 とうそう 。當時 とうじ 學者 がくしゃ 也會借用 しゃくよう 寺 てら 廟 びょう 周邊 しゅうへん 的 てき 空地 くうち 舉行「講 こう 會 かい 」,倡導新 しん 的 てき 思想 しそう 價 か 值與人生 じんせい 觀 かん [ 11] :409-440 。
以顧炎武 たけし 、黃 き 宗 むね 羲 、王 おう 夫 おっと 之 の 並 なみ 為 ため 明 あきら 末清 すえきよ 初 はつ 三 さん 大儒 たいじゅ 。顧炎武 たけ 提 つつみ 倡「經學 けいがく 即 そく 理學 りがく 」,提出 ていしゅつ 以「實學 じつがく 」代替 だいたい 宋 そう 明 あきら 理學 りがく ,要 よう 學者 がくしゃ 直接 ちょくせつ 研 とぎ 習六經 りくけい 。提 ひさげ 倡“天下 てんか 興亡 こうぼう ,匹夫 ひっぷ 有 ゆう 責 せめ ”(《日 にち 知 ち 錄 ろく 》),著 ちょ 有 ゆう 《日 にち 知 ち 錄 ろく 》、《音 おと 學 がく 五 ご 書 しょ 》等 とう 。黃 き 宗 むね 羲有「中國 ちゅうごく 思想 しそう 啟蒙 けいもう 之 の 父 ちち 」之 の 譽 ほまれ 稱 しょう ,著 ちょ 有 ゆう 《明 あかり 儒學 じゅがく 案 あん 》、《宋 そう 元學 もとがく 案 あん 》,是 ぜ 中國 ちゅうごく 學術 がくじゅつ 史 し 之 の 祖 そ 。他 た 保護 ほご 陽明學 ようめいがく ,排斥 はいせき 宋 そう 明 あきら 理學 りがく ,力 ちから 主 ぬし 誠意 せいい 慎 まき 獨 どく 之 これ 說 せつ ,蔚為浙東學派 がくは 。王 おう 夫 おっと 之 の 強調 きょうちょう 實際 じっさい 行動 こうどう 是 ぜ 知識 ちしき 的 てき 基礎 きそ ,認 みとめ 為 ため 歷史 れきし 發展 はってん 具有 ぐゆう 規律 きりつ 性 せい ,是 ぜ 「理 り 勢 いきおい 相成 あいな 」。其思想 しそう 發展 はってん 成 なり 船山 ふなやま 學 まなぶ ,後人 こうじん 編 へん 為 ため 《船山 ふなやま 遺書 いしょ 》[ 10] :147-153 。
以民為 ため 天下 でんか 之 の 主 おも 的 てき 思想 しそう 於明末清 すえきよ 初 はつ 亦 また 有 ゆう 所 しょ 流行 りゅうこう ,例 れい 如生活 せいかつ 在 ざい 明 あかり 末 まつ 又 また 经历清 きよし 初 はつ 时期的 てき 黃 き 宗 むね 羲和 わ 顧炎武 たけし 、王 おう 夫 おっと 之 の 提 ひさげ 倡民權 みんけん ,所 ところ 著 ちょ 的 てき 《明 あかり 夷 えびす 待 まち 訪 おとずれ 錄 ろく 》攻擊 こうげき 君主 くんしゅ 專制 せんせい 體制 たいせい ,提 つつみ 倡天下 か 為 ため 主 ぬし ,君 きみ 為 ため 客 きゃく 的 てき 觀點 かんてん [ o] ,倍 ばい 受清末 まつ 革命 かくめい 黨 とう 的 てき 推崇。部分 ぶぶん 學者 がくしゃ 認 みとめ 爲 ため 黃 き 宗 むね 羲的思想 しそう 是 ぜ 近代 きんだい 民主 みんしゅ 主義 しゅぎ 的 てき 思想 しそう ,有 ゆう 西方 せいほう 學者 がくしゃ 稱 しょう 黃 き 宗 むね 羲為「中國 ちゅうごく 自由 じゆう 主義 しゅぎ 的 てき 先驅 せんく 」[ 10] :147-153 。
明代 あきよ 前期 ぜんき 官 かん 修史 しゅうし 籍 せき 多 た ,後 ご 其私纂史籍 せき 較多。官 かん 修史 しゅうし 籍 せき 方面 ほうめん ,正史 せいし 類 るい 有 ゆう 宋 そう 濂主編 へん 的 てき 《元 もと 史 し 》二 に 百 ひゃく 十 じゅう 一 いち 卷 かん ,修 おさむ 纂時間 あいだ 較短,是 ぜ 二 に 十 じゅう 四史最為草率的一部,保留 ほりゅう 了 りょう 元 もと 代 だい 歷史 れきし 的 てき 重要 じゅうよう 資料 しりょう ,在 ざい 中國 ちゅうごく 史學 しがく 上 じょう 價 あたい 值巨大 だい 。《明 あかり 實錄 じつろく 》和 かず 建 けん 文 ぶん 、景 けい 泰 たい 二帝的附錄雖多有曲諱,但 ただし 引用 いんよう 了 りょう 大量 たいりょう 奏 そう 章 あきら 、邸 やしき 報 ほう 等 とう 材料 ざいりょう ,保留 ほりゅう 了 りょう 差 さ 不 ふ 多 た 整 せい 個 こ 明朝 みょうちょう 的 てき 歷史 れきし 。會 かい 典 てん 類 るい 有正 ありまさ 德 とく 《大明 だいめい 會 かい 典 てん 》和 わ 萬 まん 曆 れき 《大明 だいめい 會 かい 典 てん 》。[ 57] :242-244
在 ざい 明 あかり 中期 ちゅうき 以後 いご ,統治 とうち 者 しゃ 怠 だる 政 せい ,管理 かんり 不 ふ 嚴 げん ,私 わたし 修史 しゅうし 籍 せき 在 ざい 正德 しょうとく 時期 じき 成 なり 為 ため 一 いち 時 じ 風氣 かざけ ,至 いたり 萬 まん 曆 れき 形成 けいせい 高潮 こうちょう 。明代 あきよ 私撰 しせん 書籍 しょせき 多 た 集中 しゅうちゅう 於本朝 ほんちょう 史 し 。纪传体 たい 有 ゆう 郑晓 《吾 われ 学 がく 编 》、何 なに 乔远 《名山 めいざん 藏 ぞう 》、邓元锡 《皇 すめらぎ 明 あかり 书 》、李 り 贽 《续藏书 》和 わ 尹 いん 守 まもる 衡 《明 あかり 史 し 窃 》等 とう ;编年体 たい 有 ゆう 薛应旂 《宪章录 》、黄 き 光 こう 昇 のぼる 《昭代 しょうだい 典 てん 则 》、陈建 《皇 すめらぎ 明 あかり 从信录 》和 かず 《皇 すめらぎ 明通 あけどおり 纪辑要 よう 》、谈迁 《国 くに 榷 》;纪事本末 ほんまつ 体 たい 有 ゆう 高岱 たかだい 《宏 ひろし 猷录 》;杂史类有王 おう 世 よ 贞 《弇山堂 どう 别集 》、朱 しゅ 国 こく 桢 《皇 すめらぎ 明 あかり 史 し 概 がい 》;典 てん 制 せい 类有徐 じょ 学 まなぶ 聚 《国 くに 朝 あさ 典 てん 汇 》、孙承泽 《春明 しゅんめい 梦余录 》;笔记类的有 ゆう 叶 かのう 盛 もり 《水 みず 东日记 》、王 おう 锜《寓 ぐう 圃杂记 》、何 なに 良 りょう 俊 しゅん 《四友斋丛说 》、谢肇淛 《五 ご 杂俎 》、沈德符 ふ 《万 まん 历野获编 》等 とう 。對 たい 古代 こだい 史 し 也有 やゆう 成就 じょうじゅ ,如张溥 对《通 つう 鉴纪事 ごと 本末 ほんまつ 》的 てき 论评,王 おう 夫 おっと 之 の 的 てき 《读通鉴论 》,冯琦 和 わ 陈邦瞻 的 てき 《宋 そう 史 し 纪事本末 ほんまつ 》,陈邦瞻的《元 もと 史 し 纪事本末 ほんまつ 》等 とう 。[ 57] :244-247
明代 あきよ 一共修成各類方志計2892種 しゅ ,為 ため 宋 そう 、元方 もとかた 志 こころざし 總和 そうわ 之 の 五 ご 倍 ばい ,「天下 てんか 藩 はん 郡 こおり 州 しゅう 邑莫不 ふ 有志 ゆうし 」[ p] 。明代 あきよ 方 かた 志 こころざし 的 てき 類型 るいけい 廣 こう 泛,有 ゆう 反映 はんえい 全國 ぜんこく 面貌 めんぼう 的 てき 「一統 いっとう 志 こころざし 」,反映 はんえい 各省 かくしょう 發展 はってん 沿革 えんかく 的 てき 「總 そう 志 こころざし 」、「通 つう 志 こころざし 」,各 かく 行政 ぎょうせい 區劃 くかく 的 てき 「府 ふ 志 こころざし 」、「州 しゅう 志 こころざし 」乃至 ないし 「里志 さとし 」等 とう 等 とう 。總 そう 志 こころざし 有 ゆう 《寰宇通 どおり 志 こころざし 》和 かず 《大明 だいめい 一統 いっとう 志 こころざし 》,記述 きじゅつ 了 りょう 明朝 みんちょう 疆域全貌 ぜんぼう 。[ 57] :247-249
地理 ちり 學 がく 方面 ほうめん ,羅 ら 洪 ひろし 先 さき 《廣 こう 輿 こし 圖 ず 》以元朝 あさ 朱 しゅ 思 おもえ 本 ほん 《輿地 よち 圖 ず 》為 ため 底本 ていほん ,制 せい 成 なり 十 じゅう 三 さん 布 ぬの 政司 せいじ 圖 ず 、九邊圖和漕運圖等。利 り 馬 ば 竇在北京 ぺきん 編成 へんせい 中國 ちゅうごく 地圖 ちず 若干 じゃっかん 和 わ 《坤 ひつじさる 輿 こし 萬國 ばんこく 全 ぜん 圖 ず 》。顧祖禹 《讀史 どくし 方 かた 輿 こし 紀要 きよう 》重視 じゅうし 在 ざい 古今 ここん 用兵 ようへい 戰 せん 守 もり 攻 おさむ 取 と 之 これ 宜 むべ ,考證 こうしょう 翔 しょう 實 み 。徐 じょ 弘 ひろし 祖 そ 周遊 しゅうゆう 全國 ぜんこく ,有 ゆう 《徐 じょ 霞 かすみ 客 きゃく 游 ゆう 記 き 》,詳細 しょうさい 記錄 きろく 了 りょう 雲 くも 、貴 たか 、川 かわ 等 とう 十 じゅう 餘 あまり 省 しょう 的 てき 地理 ちり 狀況 じょうきょう 。[ 7]
明朝 みょうちょう 詩文 しぶん 。明朝 みんちょう 初期 しょき ,吳 ご 中 ちゅう 四 よん 杰 (高 こう 啟 あきら 、楊基 、張 ちょう 羽 はね 、徐 じょ 賁 )的 てき 詩歌 しか 都 と 較好,劉 りゅう 基 はじめ 、宋 そう 濂都 と 以散文行 ふみゆき 世 よ 。永樂 えいらく 年間 ねんかん ,「頌聖德 せいとく ,歌 うた 太平 たいへい 」的 てき 台閣 たいかく 體 たい 成 なり 為 ため 文學 ぶんがく 主流 しゅりゅう ,缺乏 けつぼう 活力 かつりょく 。[ 58] :53-63 正統 せいとう 年間 ねんかん ,李 り 東陽 とうよう 、前 ぜん 七子文人提倡文學復古,主張 しゅちょう 「文 ぶん 必秦漢 かん ,詩 し 比 ひ 盛 もり 唐 とう 」,反對 はんたい 台閣 たいかく 體 たい 。嘉 よしみ 靖 やすし 中年 ちゅうねん ,後 ご 七子接過復古大旗,在 ざい 復古 ふっこ 問題 もんだい 上 じょう 更 さら 加 か 講究 こうきゅう 法度 はっと 格調 かくちょう 。同時 どうじ ,王 おう 慎 まこと 中 ちゅう 、歸 かえり 有光 ありみつ 等 とう 唐 から 宋 そう 派 は 則 のり 反對 はんたい 前後 ぜんこう 七 なな 子 し 的 てき 主張 しゅちょう ,認 みとめ 為 ため 應 おう 該取法 ほう 唐 から 宋 そう 古文 こぶん 八 はち 大家 たいか 的 てき 作品 さくひん ,主張 しゅちょう 文 ぶん 以明道 どう 。[ 58] :68-82 萬 まん 曆 れき 時期 じき ,公安 こうあん 派 は 的 てき 袁宗道 どう 等 とう 人 じん 反對 はんたい 前後 ぜんこう 七 なな 子 し 的 てき 仿古蹈襲 とうしゅう ,主張 しゅちょう 「獨 どく 抒性靈 れい ,不 ふ 拘 かかわ 格 かく 套」(性 せい 靈 れい 說 せつ ),反對 はんたい 人為 じんい 約束 やくそく 。公安 こうあん 派 は 後 ご ,鍾惺 、譚 たん 元春 もとはる 為 ため 代表 だいひょう 的 てき 竟陵派 は 主張 しゅちょう 重 じゅう 「真 ま 詩 し 」,重 じゅう 「性 せい 靈 れい 」。竟陵派 は 可 か 謂 いい 是 ぜ 公安 こうあん 派 は 的 てき 延 のべ 續 つづけ ,但 ただし 竟陵派 は 和 わ 公安 こうあん 派 は 不同 ふどう ,竟陵派 は 着 ぎ 重 じゅう 向 こう 古人 こじん 學習 がくしゅう 。[ 58] :177-181
明朝 みょうちょう 小說 しょうせつ 。明代 あきよ 最 さい 為 ため 著名 ちょめい 的 てき 小說 しょうせつ 是 ぜ 《三國志 さんごくし 演義 えんぎ 》、《水 みず 滸傳》、《西 にし 游 ゆう 記 き 》、《金瓶 かなかめ 梅 うめ 》、「三 さん 言 こと 兩 りょう 拍 はく 」。羅 ら 貫中 かんちゅう 的 てき 《三國志 さんごくし 演義 えんぎ 》是 ぜ 中國 ちゅうごく 第 だい 一 いち 部長 ぶちょう 編章 へんしょう 回 かい 小說 しょうせつ ,描述了 りょう 魏 ぎ 蜀 しょく 吳 くれ 三 さん 國 こく 的 てき 軍事 ぐんじ 和 わ 政治 せいじ 衝突 しょうとつ 、塑造了 りょう 形象 けいしょう 鮮明 せんめい 的 てき 政治 せいじ 家 か 、軍事 ぐんじ 家 か 、外交 がいこう 家 か 形象 けいしょう 。[ 58] :21-37 施 ほどこせ 耐 たい 庵 あん 的 てき 《水 みず 滸傳 》以宋元 もと 以來 いらい 宋 そう 江 え 三 さん 十 じゅう 六人的話本和雜劇為題材,塑造性格 せいかく 各 かく 異 い 而「忠義 ちゅうぎ 仗義」的 てき 人物 じんぶつ ,對 たい 中國 ちゅうごく 英雄 えいゆう 傳奇 でんき 創作 そうさく 起 おこり 了 りょう 重大 じゅうだい 的 てき 影響 えいきょう 。[ 58] :38-52 吳 ご 承 うけたまわ 恩 おん 的 てき 《西遊 せいゆう 記 き 》記述 きじゅつ 了 りょう 唐 から 三藏 さんぞう 、孫 まご 悟空 ごくう 、豬八戒 はっかい 、沙悟淨 さごじょう 四人前往西天取經的故事,創造 そうぞう 光 こう 怪 かい 陸離 りくり 、神 かみ 異 い 奇 き 幻 まぼろし 的 てき 世界 せかい 。[ 58] :129-138 蘭 らん 陵 りょう 笑 わらい 笑 わらい 生 せい 的 てき 《金瓶 かなかめ 梅 うめ 》借 か 記述 きじゅつ 潘 はん 金 きむ 蓮 れん 、李 り 瓶 びん 兒 じ 、龐春梅 うめ 三 さん 人 にん 的 てき 故事 こじ ,批判 ひはん 了 りょう 明神 みょうじん 宗 むね 的 てき 貪 むさぼ 淫 いん 作樂 さくら 。書中 しょちゅう 雖有多 た 艷 つや 情 じょう 描寫 びょうしゃ ,亦 また 無 む 損 そん 其文學 ぶんがく 價 か 值,受國內外的 てき 重視 じゅうし 。[ 58] :146-156
明朝 みょうちょう 戲曲 ぎきょく 。元 もと 末明 ほのか 初 はつ ,雜劇 ざつげき 逐漸衰 おとろえ 落,南 みなみ 戲 おどけ 混合 こんごう 了 りょう 北 きた 曲 きょく 聲 ごえ 腔和元 もと 雜劇 ざつげき ,形成 けいせい 傳奇 でんき 。在 ざい 嘉 よしみ 靖 やすし 後期 こうき 到 いた 萬曆初期出現三部優秀的傳奇作品,即 そく 《寶劍 ほうけん 記 き 》、《浣紗記 き 》及《鳴 な 鳳 おおとり 記 き 》。[ 58] :94-99 明代 あきよ 戲 おどけ 劇 げき 的 てき 集大成 しゅうたいせい 者 しゃ 是 ぜ 湯 ゆ 顯 あらわ 祖 そ 。他 た 的 てき 代表 だいひょう 作 さく 是 ぜ 臨川 りんせん 四 よん 夢 ゆめ (即 そく 《南 みなみ 柯記 》、《邯鄲 かんたん 夢 ゆめ 》、《紫 むらさき 釵記 》及《牡丹 ぼたん 亭 てい 》)。[ 58] :110-128 弘治 こうじ 、嘉 よしみ 靖 やすし 年間 ねんかん ,雜劇 ざつげき 創作 そうさく 出現 しゅつげん 轉機 てんき ,題材 だいざい 拓 ひらけ 寬 ひろし ,思想 しそう 開始 かいし 深入 ふかいり ,徐 じょ 渭的 てき 雜劇 ざつげき 「活 かつ 潑暢快 かい ,汪洋 おうよう 恣 ほしいまま 肆」,有 ゆう 《四聲 しせい 猿 ざる 》、《歌代 うたしろ 嘯 》等 とう 。[ 58] :83-93
明朝 みょうちょう 書法 しょほう 。洪 ひろし 武 たけ 至 いたる 成 なり 化 か 年代 ねんだい ,以沈度 為 ため 代表 だいひょう 的 てき 台閣 たいかく 體 たい 書法 しょほう 家 か 群 ぐん 人數 にんずう 雖多,但 ただし 書風 しょふう 大 だい 多平 たへい 庸 いさお 無味 むみ 。弘治 こうじ 至 いたり 隆 りゅう 慶一 けいいち 朝 あさ ,吳 ご 門派 もんぱ 的 てき 祝 ほうり 允 まこと 明 あきら 、文 ぶん 徵 しるし 明 あきら 等 とう 人 ひと 主張 しゅちょう 復古 ふっこ ,一 いち 改 あらため 前 ぜん 朝 あさ 惡習 あくしゅう ,此時的 てき 著名 ちょめい 刻 こく 帖 じょう 有 ゆう 文 ぶん 徵 ちょう 明 あかり 《停 とま 雲 くも 館 かん 帖 じょう 》、華 はな 夏 なつ 《真 しん 賞 しょう 齋 とき 帖 じょう 》等 とう 、吳 ご 廷《餘 よ 清 せい 齋 ひとし 帖 じょう 》等 とう 。萬曆崇禎年間,泰 たい 州 しゅう 學派 がくは 和 わ 李 り 贄 にえ 的 てき 思想 しそう 影響 えいきょう 了 りょう 當時 とうじ 的 てき 書法 しょほう ,書法 しょほう 自 じ 元 もと 以來 いらい 再 さい 一 いち 次 じ 創 そう 新 しん 。董 ただし 其昌的 てき 書法 しょほう 追求 ついきゅう 簡淡空 そら 靈 れい ,獨 どく 開門 かいもん 戶 ど ,在 ざい 明 あかり 末清 すえきよ 初 はつ 成 なり 為 ため 了 りょう 正統 せいとう 一派 いっぱ 。王 おう 鐸的 てき 行 ぎょう 草 そう 恣 ほしいまま 肆縱橫 よこ 、粗服 そふく 亂 らん 頭 あたま ,其風格 ふうかく 影響 えいきょう 了 りょう 入 にゅう 明後 みょうご 的 てき 明 あかり 遺 のこ 民 みん 書法 しょほう 家 か 。[ 59]
明朝 みょうちょう 繪畫 かいが 。洪 ひろし 武 たけ 永樂 えいらく 二朝的繪畫大多沿習元代。宣 せん 德 とく 至 いたり 弘治 こうじ 一朝 いっちょう ,浙江 せっこう 與 あずか 福建 ふっけん 兩 りょう 地 ち 繼承 けいしょう 南 みなみ 宋 そう 院 いん 風 ふう 的 てき 畫家 がか 相 しょう 繼 ままし 入 にゅう 宮 みや ,此時的 てき 宮 みや 庭 にわ 話 ばなし 大 だい 多 た 取 と 法 ほう 南 みなみ 宋 そう 院 いん 體 からだ 畫 が 。人物 じんぶつ 畫 が 有 ゆう 商 しょう 喜 き 《明 あかり 宣 せん 宗 むね 行樂 こうらく 圖 ず 》、謝 しゃ 環 たまき 《權 けん 園 えん 雅 みやび 集 しゅう 圖 ず 》等 とう 、山水 さんすい 畫 が 有 ゆう 李 り 在 ざい 《琴 きん 高 だか 乘 じょう 鯉 こい 圖 ず 》、王 おう 諤 《江 こう 閣 かく 遠 どお 眺 ながめ 圖 ず 》等 とう 。正德 しょうとく 年 ねん 起 おこり ,蘇州 そしゅう 地區 ちく 出現 しゅつげん 了 りょう 以沈周 、文 ぶん 徵 しるし 明 あきら 的 まと 吳 くれ 門派 もんぱ ,以山水 さんすい 畫 が 見長 みなが ,作品 さくひん 多 た 描寫 びょうしゃ 江南 こうなん 風景 ふうけい 和文 わぶん 人 じん 生活 せいかつ 。吳 ご 門派 もんぱ 在 ざい 當時 とうじ 影響 えいきょう 巨人 きょじん ,多 た 有人 ゆうじん 從 したがえ 學 がく 。萬曆崇禎二朝,繪畫 かいが 多 た 有 ゆう 創 そう 新 しん 。徐 じょ 渭完善 ぜん 了 りょう 大 だい 寫 うつし 意 い 花鳥 かちょう 畫 が 畫 が 法 ほう 。陳 ちん 洪 ひろし 綬等開 ひらき 創 そう 變形 へんけい 人 じん 畫 が 法 ほう 。董 ただし 其昌重視 じゅうし 畫 が 論 ろん 上 じょう 主 ぬし 「士氣 しき 」,倡「南北 なんぼく 宗 むね 」之 これ 說 せつ ,創立 そうりつ 了 りょう 松江 まつえ 派 は ,取 と 代 だい 了 りょう 吳 ご 門派 もんぱ 地位 ちい 。[ 60]
明朝 みょうちょう 建築 けんちく 。明代 あきよ 的 てき 建築 けんちく 工藝 こうげい 創 そう 下新 したしん 成就 じょうじゅ 。南京 なんきん 和 わ 北京 ぺきん 城 じょう 池 ち 都 みやこ 是 ただし 偉大 いだい 的 てき 建築 けんちく 作品 さくひん 。应天府 ふ 京 きょう 城 じょう 城 じょう 墙營建 けん 於洪武 ぶ 二 に 年 ねん ,完成 かんせい 於洪武 ぶ 十 じゅう 九 きゅう 年 ねん ,城 しろ 牆周長 ちょう 達 たち 66里 さと ,一 いち 般寬10-18米 めーとる ,高 こう 12-15米 めーとる ,是 ぜ 世界 せかい 上 じょう 最長 さいちょう 的 てき 城 しろ 牆。南京 なんきん 城 じょう 突破 とっぱ 方正 ほうせい 的 てき 格 かく 局 きょく ,而是按照地理 ちり 形勢 けいせい 修 おさむ 建 けん 。皇 すめらぎ 城 じょう 位 い 於東 おひがし 部 ぶ ,市 し 肆和居 きょ 民 みん 區 く 位 い 於南部 ぶ ,西北 せいほく 則 そく 是 ぜ 軍營 ぐんえい 。洪 ひろし 武 ぶ 二 に 十 じゅう 三 さん 年 ねん 起 おこり ,明 あきら 政府 せいふ 開始 かいし 修 おさむ 建 たて 京 きょう 师外郭 がいかく 城 じょう (即 そく 南京 なんきん 外城 とじょう ),周圍 しゅうい 120里 り ,開 ひらけ 十 じゅう 六 ろく 門 もん ,將 はた 雨 あめ 花台 かだい 和 わ 鍾山 都 と 包 つつみ 入 にゅう 其中。而北京 ぺきん 城 じょう 池 いけ 則 そく 較為方正 ほうせい ,體現 たいげん 皇 すめらぎ 權 けん 至上 しじょう 的 てき 思想 しそう 。明朝 みんちょう 的 てき 宮殿 きゅうでん 建築 けんちく 也十 じゅう 分 ふん 宏 ひろし 偉 えら ,故 こ 宮 みや 即 そく 為 ため 例證 れいしょう 。明朝 みんちょう 各種 かくしゅ 歷 れき 制 せい 建築 けんちく 也十 じゅう 分 ふん 嚴 いむ 謹工整 せい 。天壇 てんだん 、太 ふとし 廟 びょう 、社稷 しゃしょく 壇 だん 、孔 あな 廟 びょう 都 と 是 ぜ 十分巍峨莊嚴的建築。明代 あきよ 帝 みかど 陵 りょう 工程 こうてい 浩 ひろし 大 だい ,可 か 謂 いい 歷代 れきだい 之 の 最 さい 。而在明代 あきよ 被 ひ 重 じゅう 建 けん 的 てき 萬里 ばんり 長城 ちょうじょう (明 あかり 長城 ちょうじょう )更 さら 是 ぜ 舉世無雙 むそう 的 てき 巨 きょ 作 さく ,保衛 やすえ 明朝 みんちょう 的 てき 邊疆 へんきょう ,至 いたり 今 いま 依然 いぜん 聳立 しょうりつ 。[ 10] :119-126
明朝 みょうちょう 赏灯 。始 はじめ 于永乐七 なな 年 ねん (1409),这年正月 しょうがつ 初 はつ 十 じゅう ,永 えい 乐皇帝 こうてい 下 か 诏,上 うえ 元 もと 节“听军民 みん 张灯饮酒为乐,五城兵马驰夜禁,著 ちょ 为令。”(《明太 めんたい 宗 むね 实录》卷 まき 87)。始 はじめ 于天顺八 はち 年 ねん (1464)前 ぜん 后 きさき 的 てき 泮村灯 とう 会 かい 由 よし 邝健斋拜见明大儒 たいじゅ 陈白沙 すな 起 おこり ,泮村的 てき 乡亲父老 ふろう 按照建 けん 议于正月 しょうがつ 十 じゅう 三当天举行了首届舞灯,此举便 びん 一直延续至今(《中 ちゅう 华人民 じんみん 共和 きょうわ 国 こく 国家 こっか 级非物 ぶつ 质文化 ぶんか 遗产》第 だい 二 に 批)。
元朝 がんちょう 在 ざい 統一 とういつ 中國 ちゅうごく 之 これ 後 ご ,變更 へんこう 中原 ちゅうげん 的 てき 衣冠 いかん 舊制 きゅうせい ,髮 かみ 式 しき 上 じょう 辮髮 べんぱつ 椎 しい 髻 たぶさ ,衣服 いふく 則 そく 袴 はかま 褶窄袖 そで ,還 かえ 有 ゆう 辮綫腰 こし 褶。婦女 ふじょ 的 てき 衣服 いふく 則 そく 為 ため 窄袖短 たん 衣 ころも ,下 した 穿 ほじ 裙裳。洪 ひろし 武 たけ 元年 がんねん (1368年 ねん ),朱 しゅ 元 もと 璋 あきら 下 か 令 れい 恢復 かいふく 唐 から 朝 あさ 的 てき 衣冠 いかん 制度 せいど ,令 れい 士 し 紳 しん 在 ざい 頭頂 とうちょう 束髮 そくはつ ,朝廷 ちょうてい 官員 かんいん 則 そく 頭 あたま 戴烏 がらす 紗 しゃ 帽 ぼう ,穿 ほじ 圓 えん 領 りょう 袍 ほう ,束帶 そくたい ,着 ちゃく 黑 くろ 靴 くつ ,盡 つき 去 ざ 元朝 がんちょう 制度 せいど 。在 ざい 其詔令 れい 中 ちゅう ,他 た 從 したがえ 面 めん 料 りょう 、樣式 ようしき 、尺寸 しゃくすん 、顏色 かおいろ 四 よん 個 こ 方面 ほうめん ,規定 きてい 了 りょう 具體 ぐたい 的 てき 服飾 ふくしょく 制度 せいど ,制度 せいど 中 ちゅう 貴 とうと 、賤的服飾 ふくしょく 都 と 有 ゆう 別 べつ ,不 ふ 得 とく 僭越 せんえつ 。[ 61] :191-192
在 ざい 明朝 みんちょう 初期 しょき ,衣冠 いかん 制度 せいど 得 え 到 いた 嚴格 げんかく 的 てき 執行 しっこう 。如英宗 むね 朝 あさ ,有人 ゆうじん 穿 ほじ 皮 かわ 靴 くつ 進入 しんにゅう 皇宮 こうぐう 禁 きん 地 ち ,英 えい 宗 むね 遂 とげ 命 いのち 錦 にしき 衣 ころも 衛 まもる 「潛 せん 捕 と 於路,一 いち 日 にち 得 え 數 すう 百 ひゃく 人 にん ,皆 みな 下獄 げごく 」,重 じゅう 申 さる 禁止 きんし 平民 へいみん 穿 ほじ 皮 かわ 靴 くつ 的 てき 禁令 きんれい 。[ 61] :197-198 成 なり 化 か 、弘治 こうじ 年間 ねんかん ,隨 ずい 社會 しゃかい 經濟 けいざい 的 てき 發展 はってん ,紡織 ぼうしょく 技術 ぎじゅつ 的 てき 改良 かいりょう ,加 か 上 うえ 明 あきら 政府 せいふ 管理 かんり 不 ふ 嚴 げん ,明代 あきよ 服飾 ふくしょく 開始 かいし 出現 しゅつげん 變化 へんか ,服飾 ふくしょく 式 しき 樣 さま 出現 しゅつげん 翻 こぼし 新 しん ,面 めん 料 りょう 漸 やや 漸 やや 奢 おご 華 はな ,官 かん 方 かた 的 てき 法令 ほうれい 沒 ぼつ 有人 ゆうじん 遵守 じゅんしゅ 。明朝 みんちょう 中 ちゅう 後期 こうき 的 てき 服 ふく 式 しき 打破 だは 了 りょう 明 あかり 初 はつ 所 しょ 定立 ていりつ 的 てき 衣冠 いかん 制度 せいど ,如明代品 だいひん 官 かん 服飾 ふくしょく 本 ほん 無 む 蟒衣,但 ただし 成 なり 化 か 、弘治 こうじ 之 これ 後 ご ,內外官員 かんいん 都 と 以穿蟒服 為 ため 榮 さかえ 。蟒理應 おう 無 む 角 かく 無 む 足 あし ,但 ただし 當時 とうじ 所 しょ 官員 かんいん 所 しょ 穿 ほじ 大 だい 多 た 為 ため 龍 りゅう 形 がた ,實 じつ 為 ため 龍 りゅう 衣 ころも 。明人 あきと 張 ちょう 瀚指 ゆび :「今 こん 男子 だんし 服 ふく 錦 にしき 綺 あやぎぬ ,女子 じょし 飾 かざり 金 きん 珠 たま ,是 ぜ 皆 みな 僭越 せんえつ 無涯 むがい ,逾國家 こっか 之 の 禁 きん 者 しゃ 也」。此外,晚 ばん 明 あきら 服飾 ふくしょく 追求 ついきゅう 華美 かび ,城市 じょうし 服飾 ふくしょく 樣式 ようしき 經常 けいじょう 更 さら 換 かわ 。當時 とうじ ,出現 しゅつげん 了 りょう 很多怪異 かいい 的 てき 服裝 ふくそう ,時人 じじん 視 し 為 ため 「服 ふく 妖」,「昨日 きのう 到 いた 城郭 じょうかく ,歸來 きらい 淚 なみだ 滿 まん 巾 はば ;遍 へん 身 み 女 おんな 衣 ころも 者 しゃ ,盡 つき 是 ぜ 讀書 どくしょ 人 じん 」。[ 62] [ 61] :198-207
明朝 みょうちょう 天文學 てんもんがく 。朱 しゅ 元 もと 璋 あきら 個人 こじん 對 たい 於天文 てんもん 歷 れき 法相 ほうしょう 當 とう 重視 じゅうし ,其作位 い 其間興 きょう 建 たて 了 りょう 多 た 處 しょ 觀 かん 象 ぞう 台 だい ,制 せい 造 づくり 了 りょう 諸多 しょた 天文 てんもん 儀 ぎ 器 き ,編 へん 寫 うつし 了 りょう 大量 たいりょう 天文 てんもん 和 わ 星 ぼし 占 うらない 書籍 しょせき (《選擇 せんたく 歷 れき 書 しょ 》、《大明 だいめい 清 きよし 類 るい 天文 てんもん 分野 ぶんや 》等 とう )。[ 63] :14-16 洪 ひろし 武 ぶ 十 じゅう 七 なな 年 ねん ,他 た 以元統 すべ 為 ため 監 かん 正 ただし ,編修 へんしゅう 《大 だい 統 すべ 歷 れき 法 ほう 通 どおり 軌 》。《大 だい 統 すべ 歷 れき 法 ほう 通 どおり 軌》以《授時歷 れき 經 けい 》為 ため 基礎 きそ ,在 ざい 交食算法 さんぽう 上 じょう 有 ゆう 提 ひさげ 高 だか 。[ 63] :17-20 至 いたり 隆 たかし 慶 けい 三 さん 年 ねん (1569年 ねん ),周 しゅう 相 しょう 重 じゅう 印 しるし 《大 だい 明大 めいだい 統 みつる 歷 れき 法 ほう 》時 じ ,大 だい 統 すべ 歷 れき 的 てき 誤差 ごさ 逐漸擴大 かくだい 。民間 みんかん 學者 がくしゃ 多 た 有 ゆう 批評 ひひょう ,並 なみ 提出 ていしゅつ 自己 じこ 的 てき 改 あらため 進 しん 方案 ほうあん 。《回 かい 回 かい 歷 れき 法 ほう 》也是明朝 みんちょう 官 かん 方 かた 的 てき 歷 れき 法 ほう ,當時 とうじ 學者 がくしゃ 雖然試 ためし 圖 ず 將 はた 兩者 りょうしゃ 整合 せいごう ,編 へん 寫 うつし 更 さら 好 このみ 的 てき 曆法 れきほう ,未 み 果 はて 。[ 63] :22
明朝 みょうちょう 數學 すうがく 。此時候 じこう 傳統 でんとう 數學 すうがく 開始 かいし 沒落 ぼつらく ,無人 むじん 通曉 つうぎょう 宋 そう 元 もと 時期 じき 的 てき 數學 すうがく 成果 せいか ,前代 ぜんだい 的 てき 數學 すうがく 著作 ちょさく 亦 また 相 あい 繼 つぎ 失 しつ 傳 でん 。在 ざい 明 あかり 末 まつ 《幾何 きか 原本 げんぽん 》被 ひ 翻譯 ほんやく 之 の 前 まえ ,有明 ありあけ 一 いち 代 だい 大約 たいやく 有數 ゆうすう 學 がく 著作 ちょさく 70多種 たしゅ 。珠算 しゅざん 在 ざい 明代 あきよ 開始 かいし 普及 ふきゅう ,取 と 代 だい 了 りょう 籌算的 てき 地位 ちい ,[ 63] :65-66 著作 ちょさく 有 ゆう 吳 ご 敬 たかし 《九章詳注比類算法大全 》、王 おう 文 ぶん 素 もと 《古今 ここん 算 さん 學 がく 寶鑑 ほうかん 》、徐 じょ 心 こころ 魯 《盤 ばん 珠算 しゅざん 法 ほう 》、柯尚遷 《數學 すうがく 通 どおり 軌 》等 とう 。[ 63] :60-75 明 あかり 末 まつ ,利 り 馬 ば 竇先後 せんご 譯出 やくしゅつ 《幾何 きか 原本 げんぽん 》(徐 じょ 光 ひかり 啟 けい 合 ごう 譯 やく )、《同文 どうぶん 算 さん 指 ゆび 》(李 り 之 の 藻 も 合 ごう 譯 やく ),影響 えいきょう 深遠 しんえん 。[ 63] :85-88
明朝 みょうちょう 農學 のうがく 。在 ざい 明代 あきよ ,農業 のうぎょう 生產 せいさん 工具 こうぐ 得 え 到 いた 改善 かいぜん ,代 だい 耕 こう 架 か 得 え 到 いた 應用 おうよう 。農業 のうぎょう 思想 しそう 得 え 到 いた 發展 はってん ,形成 けいせい 「三 さん 宜 むべ 」(因 いん 時制 じせい 宜 よろし 、因 いん 地 ち 制 せい 宜 むべ 、因 いん 物 ぶつ 制 せい 宜 むべ )原則 げんそく 。施肥 せひ 、改良 かいりょう 土壤 どじょう 技術 ぎじゅつ 得 え 到 いた 發展 はってん 。[ 63] :110-113 書籍 しょせき 方面 ほうめん ,徐 じょ 光 ひかり 啟 けい 《農政 のうせい 全書 ぜんしょ 》論述 ろんじゅつ 了 りょう 屯 たむろ 塈、口 くち 利 り 、備荒 びこう 的 てき 方法 ほうほう ,總 そう 結 ゆい 了 りょう 過去 かこ 的 てき 農學 のうがく 成果 せいか 。[ 63] :97-99 喻氏兄弟 きょうだい 《元 げん 亨 とおる 療馬牛 うし 駝經全集 ぜんしゅう 》論 ろん 孰了馬 ば 、牛 うし 、駝的飼養 しよう 方式 ほうしき ,獸醫 じゅうい 學 がく 有 ゆう 所 しょ 發展 はってん 。[ 63] :99-100
明朝 みょうちょう 醫學 いがく 。李 り 時 じ 珍 めずらし 的 てき 《本草 ほんぞう 綱目 こうもく 》最 さい 為 ため 著名 ちょめい ,總 そう 結 ゆい 了 りょう 16世紀 せいき 以前 いぜん 的 てき 藥物 やくぶつ 學 がく ,新 しん 增 ぞう 藥物 やくぶつ 374種 しゅ 。吳 ご 有性 ゆうせい 的 てき 《瘟疫論 ろん 》發展 はってん 了 りょう 「戾 もど 氣 き 說 せつ 」,在 ざい 病因 びょういん 、症候 しょうこう 、診斷 しんだん 、治療 ちりょう 上 じょう 有 ゆう 突破 とっぱ 。人 ひと 痘接種 せっしゅ 術 じゅつ 在 ざい 明代 あきよ 得 え 到 いた 普遍 ふへん 使用 しよう 。[ 63] :145-146
^ 明代 あきよ 的 てき 国号 こくごう 出典 しゅってん 有 ゆう 三 さん 说:
出 で 于明教 きょう 。吴晗提出 ていしゅつ 此说,在中 ざいちゅう 外史 がいし 学界 がっかい 影 かげ 响很大 だい 。吴晗认为前代 ぜんだい 国 こく 号 ごう 「或 ある 以起之 の 地名 ちめい ,或 ある 因 いん 所 しょ 封 ふう 之 の 爵邑,或 ある 追 おい 溯 さかのぼ 其所自 じ 始 はじめ ,要 よう 皆 みな 各 かく 有 ゆう 其特殊 とくしゅ 之 の 意義 いぎ 」,但 ただし 其出典 しゅってん 《明 あきら 實錄 じつろく 》、《明 あかり 史 し 》諸 しょ 書 しょ 語 ご 焉不詳 しょう ,明 あきら 清 しん 學者 がくしゃ 亦 また 從 したがえ 未 み 涉 わたる 及」。他 た 認 みとめ 為 ため 明代 あきよ 國號 こくごう 應 おう 該和韓 かん 山 さん 父子 ふし 的 てき 「明王 みょうおう 」稱號 しょうごう 相關 そうかん ,因 いん 為 ため 他 た 們信奉 しんぽう 和明 かずあき 教 きょう 所 しょ 混合 こんごう 的 てき 白蓮 びゃくれん 教 きょう ,「明王 みょうおう 」的 てき 出典 しゅってん 是 ぜ 明 あかり 教 きょう 的 てき 經典 きょうてん 《大小 だいしょう 明王 みょうおう 出世 しゅっせ 經 けい 》(吳 ご 晗. 明 あかり 教 きょう 與 あずか 大明 だいめい 帝國 ていこく . 北京 ぺきん 市 し 历史学会 がっかい (编). 吳 ご 晗史學 がく 論 ろん 著 ちょ 選集 せんしゅう . 人民 じんみん 出版 しゅっぱん 社 しゃ . : 382-418. 。另外,朱 しゅ 元 もと 璋 あきら 的 てき 將領 しょうりょう 也是明 あかり 教徒 きょうと ,他 た 選擇 せんたく 明 あかり 教 きょう 經典 きょうてん 作為 さくい 國號 こくごう ,是 ぜ 為 ため 了 りょう 證明 しょうめい 「新 しん 政權 せいけん 是 ぜ 繼承 けいしょう 小 しょう 明王 みょうおう 的 てき ,所 ところ 有明 ありあけ 教徒 きょうと 都 と 是 ぜ 一 いち 家人 かじん 」。(吴晗. 朱 しゅ 元 もと 璋 あきら 传. 生活 せいかつ ·读书·新知 しんち 三 さん 联书店 てん . 1965: 142. )
標 しめぎ 志 こころざし 「光明 こうみょう 世界 せかい 」的 てき 到來 とうらい ,楊訥主 ぬし 此說。1983年 ねん ,楊訥在 ざい 《元 もと 代 だい 的 てき 白蓮 びゃくれん 教 きょう 》(《元 もと 史論 しろん 叢 くさむら 》第 だい 2輯,1993年 ねん ,第 だい 213-214頁 ぺーじ )中 ちゅう 批評 ひひょう 吳 ご 晗因為 ため 白蓮 びゃくれん 教 きょう 、白雲 しらくも 宗 むね 與 あずか 明 あきら 教 きょう 具有 ぐゆう 共同 きょうどう 特 とく 點 てん 而斷言 だんげん 三派混合是不妥的,因 いん 此「只 ただ 要 よう 明 あかり 教 きょう 还信奉 しんぽう 摩 ま 尼 あま 佛 ふつ ,它就不 ふ 会同 かいどう 崇 たかし 奉 たてまつ 阿弥陀 あみだ 佛 ふつ 的 てき 白 しろ 莲教混合 こんごう 」,「明王 みょうおう 」亦 また 與 あずか 明 あかり 教 きょう 無關 むせき 。他 た 認 みとめ 為 ため 「明王 みょうおう 出世 しゅっせ 」的 てき 口 くち 號 ごう 出自 しゅつじ 於白蓮 びゃくれん 教 きょう 經典 きょうてん 《大 だい 阿彌陀 あみだ 經 けい 》,「弥 わたる 陀佛光明 こうみょう ,明 あきら 丽快甚」,「其光明 こうみょう 所 しょ 照 あきら 」,「天下 てんか 幽冥 ゆうめい 之 の 处皆常 つね 大明 だいめい 」,「明王 みょうおう 」即 そく 是 ぜ 阿彌陀 あみだ 佛 ぼとけ 。
出自 しゅつじ 《易 えき 經 けい ·乾 いぬい 卦 け 》“大明 だいめい 終始 しゅうし ”,杜 もり 洪 ひろし 濤主此說。他 た 認 みとめ 為 ため 據 よりどころ 《易 えき 經 けい ·乾 いぬい 卦 け 》:「大 だい 哉乾元 もと ,萬物 ばんぶつ 資始 すけはる ,乃統天 てん 。雲 くも 行 ぎょう 雨 う 施 ほどこせ ,品物 しなもの 流 りゅう 形 がた 。大明 だいめい 終始 しゅうし ,六 ろく 位 い 時成 ときなり ,時 じ 乘 じょう 六 ろく 龍 りゅう 以御天 てん 」,元朝 がんちょう 的 てき 「大元 おおもと 」國號 こくごう 來 き 自 じ 於「大 だい 哉乾元 もと 」,而国号 ごう 定 てい 为「大明 だいめい 」有 ゆう 顺承天意 てんい 、终结元朝 がんちょう 的 てき 含义。[ 6]
^ 賦役 ふえき 黃 き 冊 さつ 就是戶籍 こせき 登記 とうき 簿 ぼ 冊 さつ ,魚鱗 ぎょりん 圖 ず 冊 さつ 就是耕地 こうち 登記 とうき 簿 ぼ 冊 さつ [ 11] :32-35 。
^ 洪 ひろし 武 ぶ 十 じゅう 五年初制时有华盖殿大学士(嘉 よしみ 靖 やすし 随 ずい 殿 どの 易 えき 名 めい 中 ちゅう 极殿大 だい 学士 がくし )、文 ぶん 华殿大 だい 学士 がくし 、武英 たけひで 殿 どの 大 だい 学士 がくし 、文 ぶん 渊阁大 だい 学士 がくし 、东阁大 だい 学士 がくし ,永 えい 乐时增 ぞう 谨身殿 どの 大学 だいがく 士 し (嘉 よしみ 靖 やすし 随 ずい 殿 どの 易 えき 名 めい 建 けん 极殿大 だい 学士 がくし )。
^ 對 たい 於明朝 あさ 具體 ぐたい 的 てき 領域 りょういき 有 ゆう 多大 ただい ,學者 がくしゃ 有 ゆう 所 しょ 爭議 そうぎ :
譚 たん 其驤. 中國 ちゅうごく 歷史 れきし 地圖 ちず 集 しゅう 第 だい 七 なな 冊 さつ (元明 もとあき 時期 じき ). 地圖 ちず 出版 しゅっぱん 社 しゃ . 1982. 「明 あきら 時期 じき 全 ぜん 圖 ず 一 いち 」宣 せん 德 とく 八 はち 年 ねん (1433年 ねん )圖 ず :有 ゆう 俄 にわか 力 りょく 思 おもえ 軍民 ぐんみん 元帥 げんすい 府 ふ ,烏 がらす 思 おもえ 藏 ぞう 宣 せん 慰司、朵甘思 おもえ 宣 せん 慰司在 ざい 明朝 みんちょう 疆域之 の 內。奴 やつ 兒 じ 干 ひ 都 と 司 し 亦 また 在 ざい 明朝 みんちょう 疆域之 の 內。「三 さん 宣 せん 六 ろく 慰」中 ちゅう ,孟 はじめ 養 やしなえ 司 し 、木 き 邦 くに 司 つかさ 在 ざい 明朝 みんちょう 領域 りょういき 之 の 內,其他都 と 不在 ふざい 明朝 みんちょう 領域 りょういき 之 の 內。無 む 舊港 きゅうみなと 宣 せん 慰司。
「明 あきら 時期 じき 全 ぜん 圖 ず 二 に 」萬 まん 歷 れき 十 じゅう 年 ねん (1582年 ねん )圖 ず :烏 がらす 思 おもえ 藏 ぞう 宣 せん 慰司、朵甘思 おもえ 宣 せん 慰司在 ざい 明朝 みんちょう 疆域之 の 內。奴 やつ 兒 じ 干 ひ 都 と 司 し 亦 また 在 ざい 明朝 みんちょう 疆域之 の 內。「三 さん 宣 せん 六 ろく 慰」都 と 不在 ふざい 明朝 みんちょう 疆域內。
郭沫若 かくまつじゃく . 中國 ちゅうごく 史 し 稿 こう 地圖 ちず 集 しゅう 下 か . 中國 ちゅうごく 地圖 ちず 出版 しゅっぱん 社 しゃ . 1982: 71-72. 「明代 あきよ 前期 ぜんき 形勢 けいせい 」1435年 ねん (宣 せん 德 とく 十 じゅう 年 ねん )圖 ず :有 ゆう 俄 にわか 力 りょく 思 おもえ 軍民 ぐんみん 元帥 げんすい 府 ふ ,烏 がらす 思 おもえ 藏 ぞう 宣 せん 慰司、朵甘思 おもえ 宣 せん 慰司在 ざい 明朝 みんちょう 疆域之 の 內。奴 やつ 兒 じ 干 ひ 都 と 司 し 亦 また 在 ざい 明朝 みんちょう 疆域之 の 內。「三 さん 宣 せん 六 ろく 慰」中 ちゅう ,孟 はじめ 養 やしなえ 司 し 、木 き 邦 くに 司 つかさ 在 ざい 明朝 みんちょう 領域 りょういき 之 の 內,其他都 と 不在 ふざい 明朝 みんちょう 領域 りょういき 之 の 內。無 む 舊港 きゅうみなと 宣 せん 慰司。《中國 ちゅうごく 史 し 稿 こう 地圖 ちず 集 しゅう 》另有(1582年 ねん )萬 まん 歷 れき 十 じゅう 年 ねん 圖 ず ,略 りゃく 。
Timothy Brook. The Troubled Empire : China in the Yuan and Ming Dynasties . Harvard university press. 2010: 41. (即 そく 卜 ぼく 正 せい 民 みん 《挣扎的 てき 帝国 ていこく :元 もと 与 あずか 明 あきら 》,「哈佛中国 ちゅうごく 史 し 」書 しょ 系 けい ,中 ちゅう 譯本 やくほん 沒 ぼつ 有 ゆう 此圖)圖 ず :孟 はじめ 養 やしなえ 司 し 、木 き 邦 くに 司 つかさ 在 ざい 明朝 みんちょう 領域 りょういき 之 の 內。烏 がらす 思 おもえ 藏 ぞう 宣 せん 慰司、朵甘思 おもえ 宣 せん 慰司、奴 やつ 兒 じ 干 ひ 都 と 司 し 不在 ふざい 明朝 みんちょう 疆域之 の 內。沒 ぼつ 有給 ゆうきゅう 出 で 年 ねん 份。
Frederick W. Mote. The Cambridge History of China The Ming Dynasty, 1368–1644, Part 1 . Cambridge. 1988: xxiv. (即 そく 牟复禮 れい 《劍 けん 橋 きょう 中國 ちゅうごく 明代 あきよ 史 し 1368-1644 上卷 じょうかん 》,「劍 けん 橋 きょう 中國 ちゅうごく 史 し 」書 しょ 系 けい ,中 ちゅう 譯本 やくほん 沒 ぼつ 有 ゆう 此圖):孟 はじめ 養 やしなえ 司 し 、木 き 邦 くに 司 つかさ 在 ざい 明朝 みんちょう 領域 りょういき 之 の 內,但 ただし 同時 どうじ 說明 せつめい 西南 せいなん 一帶的邊界是不準確的。烏 がらす 思 おもえ 藏 ぞう 宣 せん 慰司、朵甘思 おもえ 宣 せん 慰司、奴 やつ 兒 じ 干 ひ 都 と 司 し 不在 ふざい 明朝 みんちょう 疆域之 の 內。沒 ぼつ 有給 ゆうきゅう 出 で 年 ねん 份。
^ 《中國 ちゅうごく 行政 ぎょうせい 規 ぶんまわし 劃通史 し (明代 あきよ 卷 まき )》原注 げんちゅう :「《明 あかり 史 し ·地理 ちり 志 こころざし 》所 しょ 記載 きさい 的 てき 各 かく 布 ぬの 政司 せいじ 府 ふ 州 しゅう 縣 けん 的 てき 詳細 しょうさい 變遷 へんせん 基本 きほん 是 ぜ 以該布 ぬの 政 せい 司政 しせい 區 く 在 ざい 明代 あきよ 的 てき 最後 さいご 變化 へんか 為 ため 斷 だん 限 げん 的 てき ,而在整 せい 個 こ 地理 ちり 志 こころざし 的 てき 卷首 かんしゅ 所 しょ 記 き 『為 ため 直 ちょく 隸者二 に ,曰京師 し ,曰南京 なんきん ,為 ため 布 ぬの 政 せい 使 し 司 し 者 しゃ 十 じゅう 三 さん ……其分統 すべ 之 これ 府 ふ 百 ひゃく 有 ゆう 四 よん 十 じゅう ,州 しゅう 百 ひゃく 九 きゅう 十 じゅう 有 ゆう 三 さん ,縣 けん 千 せん 一 いち 百 ひゃく 三 さん 十 じゅう 有 ゆう 八 はち ,羈縻之 の 府 ふ 十 じゅう 有 ゆう 九 きゅう ,州 しゅう 四 よん 十 じゅう 有 ゆう 七 なな ,縣 けん 六 ろく ,與 あずか 其後詳細 しょうさい 記載 きさい 中 ちゅう 的 てき 府 ふ 州 しゅう 縣 けん 數 すう 目 もく 並 なみ 不 ふ 相等 そうとう 。』本 ほん 篇 へん 這裏之 の 所以 ゆえん 用 よう 崇 たかし 禎 ただし 十 じゅう 三 さん 年 ねん 後 ご 的 てき 數字 すうじ ,是 ぜ 因 よし 為本 ためもと 編 へん 最 さい 遲 おそ 斷 だん 限 げん 標 しるべ 准 じゅん 為 ため 崇 たかし 禎 ただし 十 じゅう 三 さん 年 ねん 的 てき 雲南 うんなん 布 ぬの 政司 せいじ 」。 另外作為 さくい 參考 さんこう ,《大明 だいめい 會 かい 典 てん 》中 ちゅう 記載 きさい ,萬 まん 曆 れき 初年 しょねん 有 ゆう 137府 ふ 、13軍民 ぐんみん 府 ふ 、199州 しゅう 、1149縣 けん 、8土 ど 府 ふ 、46土 ど 州 しゅう 、7土 ど 縣 けん 及8宣 せん 尉 じょう 司 し 、5宣撫 せんぶ 司 し 、7安 やす 撫 なで 司 し 、116長官 ちょうかん 司 し 、1衛 まもる 軍民 ぐんみん 指揮 しき 使 し 。[ 37]
^ 「勘合 かんごう 」是 ぜ 明 あかり 廷發給 きゅう 外國 がいこく 來 らい 中國 ちゅうごく 朝貢 ちょうこう 的 てき 憑證。[ 47] :73
^ 《哈佛中國 ちゅうごく 史 し 》原 はら 譯注 やくちゅう :「該畫中 ちゅう 文題 ぶんだい 注 ちゅう 為 ため 『涉 わたる 水 すい 返 かえし 家 か 圖 ず 』。該畫只 ただ 題 だい 有 ゆう 『錢 ぜに 唐 から 戴文道 どう 寫 うつし 』,大 だい 都會 とかい 美術館 びじゅつかん 判斷 はんだん 為 ため 雪景 せっけい 圖 ず ,故 こ 作 さく 『Returning home through the snow』。」