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徐有貞 - 维基百科,自由的百科全书

じょゆうさだ

じょゆうさだ(1407ねん—1472ねん),はつもとたまみなみただしくれけんいま江蘇こうそ蘇州そしゅうにんじゅんてんあてたいらけんせき明朝みんちょう政治せいじ人物じんぶつ奸臣かんしんせんとくねん间進出身しゅっしんけいたいまつねんざいえいむね復辟ふくへき过程中起なかおこしいた重要じゅうよう作用さようかんいたり內閣くび輔。

じょゆうさだ
大明だいめいはなぶた殿どのだい學士がくし兵部ひょうぶ尚書しょうしょ
爵位しゃくい武功ぶこうはく
せきぬきみなみただし蘇州そしゅうくれけん
じゅんてんあてたいらけんせき
ぞくかんぞく
原名げんめいじょ
ごうもとたま
出生しゅっしょう永樂えいらくねん(1407ねん
みなみただし蘇州そしゅうくれけん
逝世なりはちねん(1472ねん
みなみただし蘇州そしゅうくれけん
おやぞくほうりまことあきら外孫そとまご
出身しゅっしん
  • せんとく八年癸丑科進士出身
著作ちょさく
  • 武功ぶこうしゅう

生平おいだいら

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にゅうつかまつ

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じょゆうさだ本名ほんみょうじょ珵,少時しょうじきょ於京いま北京ぺきん),したがえゆうせいけん經世濟民けいせいさいみんこれがく喜好きよし追求ついきゅう功名こうみょう,於天文てんもん地理ちり兵法ひょうほう水利すいり陰陽いんよう方術ほうじゅつこれしょ諳究。あかりせんむねせんとくよんねん(1429ねん),以あてひらたせき舉順てんきょうためしせんとくはちねん(1433ねんなり進士しんしせん翰林院かんりんいん庶吉,授編修へんしゅう

あきらえいむね正統せいとうななねん(1442ねん),じょ珵見天下でんかうけたまわ平日へいじつひさし武備ぶび逐漸はいたゆふかかん憂慮ゆうりょとげ疏陳へいせいことえいむね雖然稱讚しょうさん,卻不採納さいのう正統せいとうじゅうねん(1447ねん),ます侍講じこう正統せいとうじゅうよんねん(1449ねんあき火星かせいいれみなみじょ珵認ため此是不祥ふしょうちょうわたしたい友人ゆうじんりゅう溥說:「わざわいどお矣!」ひさあかりぐんざい土木どぼく堡之へんちゅう大敗たいはいえいむねかわら俘虜ふりょ隨行ずいこう官員かんいん戰死せんし無數むすう京師けいし震動しんどう群臣ぐんしんたばしゅ無策むさくすめらぎおとうと郕王しゅ祁鈺かんこくいのち群臣ぐんしん商議しょうぎせんもりごとむべじょ珵稱其夜かんほしぞう天命てんめい以去,ただゆうみなみ才能さいのう避禍。兵部ひょうぶさむらいろう于谦聽後だかごえ厲喝どう:「げんみなみ遷者,也。京師けいし天下でんか根本こんぽん,一動則大事去矣,どくそうみなみわたりごと乎!」じょ珵大ため沮喪そそう敢再ごと。郕王聽後しょう留守るす策略さくりゃくはじめじょう,而徐珵因此懷恨在しん,并埋じょえいむね復辟ふくへきおちいがい于謙伏線ふくせん[1][2]

改名かいめい

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郕王つぎ為景ためかげみかどじょ珵行かん察御職權しょっけんぜんあきらとく募兵ぼへいかわら剌退へい召還しょうかん,仍任かんいんため建議けんぎみなみ遷之ごとつね朝廷ちょうてい官員かんいんはじわらい長久ながひさとくます遷。じょ珵討このみちんひろ找機かいおく其玉たいなみせつ自己じこ以星じゅつあずかいたひね循將ようだかますひさひね循果しかしょう銜,大喜だいぎいん此多推薦すいせんじょ珵。當時とうじにん事大じだいよし于定だつじょ珵拉攏于けん門人もんじん遊說ゆうぜい請求せいきゅう擔任たんにん國子くにこかんまつりしゅ。于謙果然かぜんこうけいみかど進言しんげんけいみかどしょう:「此議みなみ遷徐珵邪?ためじんかたぶけ危,はた壞諸せい心術しんじゅつ。」じょ不知ふち于謙進言しんげんことはん而以ため其阻たわわ,於是怨恨えんこんさらふかひね循則すすむじょ改名かいめいじょ珵由此更めいじょゆうさだ[3]

けいたいさんねん(1452ねん),じょゆうさだますにんみぎさとしとく當時とうじ黃河こうがざいすなわんけつこうやめゆうななねん前後ぜんごしゃひとしこう而返。朝廷ちょうていども舉徐ゆう貞治さだはる,於是拔擢ばってきためひだり僉都ぜん往治かわじょゆうさだらいいたちょうあき建議けんぎおけ水門すいもんひらけささえかわ、浚運河うんがさん個月かげつ完工かんこう。其渠ためこうすみみぞ、閘為つうげんけいたいななねん(1456ねん),山東さんとうさいつぎはつ洪水こうずいかわひさげゆう損壞そんかいただどくじょゆうさだしょ構建てきちくけんそんこれ其抵たちずみやすし,構建減水げんすい閘,おさむけん完成かんせいすい閘,みず患亦たいらずいかえあさしんひだりふく[4][5]

だつもん

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けいたいはちねん(1457ねん),けいみかどびょうじゅういしとおるちょうとうはかりごと劃迎たてえいむね,并與太よたつねてらきょうもとあきら商議しょうぎもとあきらしょうおいただし舉薦じょゆうさだ當夜とうやせきとおるそく趕往じょゆうさだいくにん商議しょうぎけいさくきさき,毀墻進入しんにゅう南城なんじょう迎接げいせつあきらえいむね最終さいしゅうおさむいれひがしはなもん。此為だつもんへん[6]

巔峰

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あきらえいむね復位ふくい即日そくじついのちじょゆうさだ兼任けんにん學士がくし,并入內閣さんあずかつとむ。此日ふう兵部ひょうぶ尚書しょうしょきさきふう武功ぶこうはくけんはなぶた殿どのだい學士がくしてのひらかん文淵ぶんえんかく祿ろくせんいちひゃくせきせいにしきころも指揮しき使きゅう誥券。ずいじょゆうさだきゅう於陷がい于謙おうあや[7]えいむね以于けんたい國家こっか有功ゆうこうにんこころころせほかじょゆうさだそうどう:「ころせ于謙,此舉ため無名むめい。」とげ以「意欲いよくはかりごとぎゃくざいしょ,其子于冕たかしぐんはつ山西さんせいりゅうもん,其妻ちょうはつ山海さんかいせき[8]

はい

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じょゆうさだとくこころざしきさきそうほう逐漸あずか吉祥きっしょういしとおるあいひだりまたほろげんにんむさぼよここれじょう當時とうじ楊瑄そう劾石とおる、曹吉祥きっしょうおかせうらない民田たみだえいむねもんじょゆうさだけん兩人りょうにんひとしたいそういしとおる、曹吉祥きっしょうだいため怨恨えんこん當時とうじえいむね常常つねづねあずかじょゆうさだわたし議事ぎじ,曹吉祥きっしょういのちぞく偷偷竊聽いた故意こいきゅうえいむねえいむねおどろきいぶか,詢問原因げんいん,曹吉祥きっしょう謊稱ためじょゆうさだ告訴こくそ,并稱がいあいだえいむねしたがえ此疏とおじょゆうさだ。恰逢ちょうほうとうよく彈劾だんがいせきとおるざいそうすりうえ,而給ごとちゅうおうきゅうせきとおる、曹吉祥きっしょう兩人りょうにん於是ざいえいむね面前めんぜん哭訴,しょう此舉ため內閣操作そうさ。於是,眾御下獄げごく,并逮捕たいほじょゆうさだけんとうじんこれえいむね悔悟かいご釋放しゃくほうじょゆうさだ,貶為廣東かんとん參政さんせい[9]じょゆうさだ雖被貶,せきとおる仍感遺憾いかん意圖いところせこれいのちじんとう匿名とくめいしょざいとくしゅう逮捕たいほ并下みことのりごくきさき恰逢承てんもん火災かさいせきとおる、曹吉祥きっしょう擔心またかい釋放しゃくほう繼續けいぞくたいえいむね讒言ざんげんしょう謀反ぼうほんえいむねいのち刑部おさかべ刑部おさかべさむらいろうりゅうひろとうそうとう棄市,きさきあらためみことのり金齒きんばまもるためみん[10]

晚年ばんねん

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ずい吉祥きっしょういしとおる謀反むほんごとはいため曹石へんえいむねたいけんおうたたえじょゆうさだいしとおるおちいがいいのち釋放しゃくほう歸鄉ききょうなり年間ねんかんふくかんむりたい閑住,これ放浪ほうろう山水さんすいあいだじゅうねん乃卒[11]

著作ちょさく

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しるゆう武功ぶこうしゅう》。

註釋ちゅうしゃく

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  1. ^ あかり》(まき171):じょゆうさだもとたまはつめい珵,くれじんせんとくはちねん進士しんしせん庶吉,授編修へんしゅうためじん短小たんしょう精悍せいかんさとしすう功名こうみょう。凡天かん地理ちり兵法ひょうほう水利すいり陰陽いんよう方術ほうじゅつこれしょ諳究。ときうけたまわひらすんでひさへん備俞惰,而西南せいなん用兵ようへいいき,珵以ため正統せいとう七年疏陳兵政五事,みかど善之よしゆき不能ふのうようじゅうねんすすむ侍講じこうじゅうよんねんあき,熒惑入南にゅうなんてい私語しご友人ゆうじんりゅう溥曰「わざわいどお矣」,亟命妻子さいしみなみかえ。及土木どぼくなんさく,郕王召廷臣ていしんといけい。珵大言たいげん曰:「けんほしぞう,稽之曆數れきすう天命てんめいやめおもんみみなみ遷可以紓なん。」ふとしかんきむすぐるしかこれえびす濙、ちん循咸執不可ふか兵部ひょうぶさむらいろう于謙曰:「げんみなみ遷者,也。」珵大沮,敢復ごと
  2. ^ あかり》(まき170):「郕王かんこくいのち群臣ぐんしんせんもり侍講じこうじょ珵言ほしぞうゆうへんとうみなみ遷。けん厲聲曰:「げんみなみ遷者,也。京師けいし天下でんか根本こんぽん,一動則大事去矣,どくそうみなみわたりごと乎!」おうただし其言,まもり乃定。」
  3. ^ あかり》(まき171):けいみかど即位そくいどうかんじゅうにん募兵ぼへい於外,ていぎょうかん察御ごと,往彰とく。寇退,召還しょうかん,仍故かん。珵急於進取しんしゅそうみなみ遷議ため內廷訕笑,ひさしとく遷。いんのこひね循玉たい,且用ほしじゅつげんおおやけたいしょうだま矣。」なに,循果しょうたもて大喜だいぎいん屢薦。而是用人ようにんけつ於少于謙。珵屬けん門下もんか遊說ゆうぜいもとめ國子くにこさいしゅけんためげん於帝,みかど曰:「此議みなみ遷徐珵邪?ためじんかたぶけ危,はた壞諸せい心術しんじゅつ。」珵不知ふち謙之けんじこも也,以為沮己,ふか怨謙。循勸てい改名かいめいいんめいゆうさだ
  4. ^ あかり》(まき171):けいたいさんねん遷右さとしとくかわけつすなわんなな前後ぜんご治者ちしゃみなこう廷臣ていしんども舉有さだ,乃擢ひだり僉都治之はるゆきいたりちょうあきそう水勢すいせいじょうじょうさんさくいちおけ水門すいもん,一開支河,いち運河うんが既定きていとくこげおう竑以こげみぞ淤淺とどこおうんそう,請急ふさがけつこうみかど敕有さだ如軏ゆうさだもり便宜べんぎげん:「臨清かわあさきゅう矣,いんけつこうふさが也。こげしんただしふさがけつこうためきゅう不知ふち秋冬あきふゆ雖塞,來春らいしゅん必復けつ徒勞とろう無益むえきしん敢邀きんこう。」みことのりしたがえ其言。ゆうさだ於是だいしゅう民夫たみお,躬親とくりつみぞけん閘,おこりちょうあき以接かわ、沁。かわりゅうつくり不順ふじゅんしゃためきゅうせきさわこれさらちく大堰おおぜき,楗以水門すいもん,閱五ひゃくじゅうにち而工なりめい其渠曰「こうすみ」,閘曰「つうげん」。かたこう未成みせい也,みかど以轉こげためきゅうこう尚書しょうしょこうふかしとう請遣中書ちゅうしょ文武ぶんぶ大臣だいじんとくきょうぐんまんにん往助やくさんがつ畢工。ゆうさだげん:「きょう軍一ぐんいちにち貲,ぐうみなぎのりたばしゅ坐視ざししょほどこせりょくこん泄口やめあいけつつつみやめけんただしよう沿河民夫たみお自足じそくしゅうごと。」とげこと竣,召還しょうかんいんごとみかどあつろうふく巡視じゅんしこげかわすみもりじゅう三州縣河夫多負官馬及他雜辦,所司しょしおもむき亟,ゆうさだためげんめんななねんあき山東さんとう大水だいすいかわつつみ壞,おもんみゆうさだしょちく如故。ゆうさだ乃修きゅうつつみけつこう臨清抵濟やすしかくおけ減水げんすい閘,みず患悉たいらかえあさみかど召見,獎勞有加ゆかしんひだりふく
  5. ^ あきら·杨循きち,《吴邑こころざし》(まきじゅう·人物じんぶつ传四):じょゆう贞,もとたませい为邑じんよう从父ふるえ以闾みぎ徙京师。せい颖出,受业さいしゅえびす俨。せんとく はちねん进士とう,预选翰林かんりん为庶きち,其数じょう视列宿やどせんむね便殿びんでん,悉召试之,擢第 いち即日そくじつ授编おさむかんせい统元ねん,预修实录,书成,しょうおさむせんきゅうねん,绩满,しょうさむらい讲。 尝奉いのちおさむだま牒、五伦君鉴等书,たかし纂修かんせいじゅうよんねんえびす入寇にゅうこうかり监察ぶん もり河南かなんあきらとくとく民兵みんぺいすうまんにん,虏退,召还复侍讲。けいたい元年がんねん,选充经筵讲官。あかり ねんますひだりはるぼうひだり谕德,仍兼さむらい讲。时河决,やま东张あき冲开つつみがんさんひゃく,饟道阻绝。 ゆう诏朝どう举能治者ちしゃゆう贞请ぎょうよんねんとくます察院ひだり佥都いのちとく军民おっとさんじゅうまん おさむ筑。いたり则作みぞおこり张秋,いたり卫沁,凡河りゅうはたしゃせき凡作ぼんさくせききゅう,长袤みないたりまん たけさわ水北すいほく归漕かわ,于是はじめ筑其かけさくすい门、大堰おおせぎにじつつみ,交相扞御,さんねんなり。以功ますひだりふくてのひらどうごとはちねん正月しょうがつじゅうななにちえいすめらぎ复辟,ゆう贞以翊戴こうますへい なお书兼翰林院かんりんいん学士がくしてのひらない阁事。がつもち节立东宫,しょうみぎばしらこくにわか进推诚宣りょくもり 正文せいぶんしんとく进光ろく大夫たいふばしら国武くにたけいさおはくしょくろくいちせんいちひゃくせき,赐劵孙世袭。ゆび挥使けん华 盖殿だい学士がくしてのひら阁事如故。ゆう贞尝举侍ろう一人ひとりどうかんごと,其人はん,结奸臣かんしん曹钦、 いしとおるとうちゅう以飞语,しも狱,寻被赦旨,为广东左参政さんせいすうにち,复以匿名とくめい书逮还, またさいした狱,讯さんにち,无实じょう,乃得编置きん齿为みんきょさんねんうええき轸念,特命とくめい户部うつり ぶん还其。宪宗践祚せんそ,覃恩复冠带。また九年为成化八年秋卒,ねんろくじゅうろくゆう贞文词 さとし赡,ぜん书,こう谈论。其学无所窥,ごうしょうはく闻。ところちょゆうふみだん》、《文集ぶんしゅう》。そうだまさえぎ 山下やました
  6. ^ あかり》(まき171):はちねん正月しょうがつけいみかどいしとおるちょう輒等はかりごとむかえ上皇じょうこう,以告ふとつねきょうもとあきらあきら曰:「此不こう也。あきらろう矣,無能むのうためじょもとたまぜん奇策きさく,盍與。」とおる即夜そくやいたりゆうさだ。聞之,大喜だいぎ,曰:「須令南城なんじょうとも此意。」軏曰:「かげたち矣。」れいふとしかん吉祥きっしょうにゅう白太しらたきさきからしよる諸人もろびとふくかいゆうさだしょゆうさだ升屋ますやらんいぬいぞう,亟下曰:「ときいたり矣,勿失。」かたゆう警,ゆうさだれい軏詭げん非常ひじょう,勒兵にゅうだい內。とおるてのひらもん鑰,よるよんひらき長安ながやすもんおさめすんでいれふく閉以遏外へいときてんしょく晦冥かいめいとおる、軏皆惶惑,いいゆうさだ曰:「こととうすみ?」ゆうさだ大言たいげん「必濟」,おもむきこれぎょうすんでうす南城なんじょうもん錮,毀墻以入。上皇じょうこう燈下とうかどくといゆうさだとう俯伏請登,乃呼しん輿こし兵士へいし惶懼不能ふのう舉,ゆうさだりつ諸人もろびとじょ挽以ぎょうほしがつゆるがせひらきろう上皇じょうこうかくとい諸人もろびと姓名せいめいいたりひがしはなもんもんしゃこばめどるおさめ上皇じょうこう曰「ちんふとしじょう皇帝こうてい也」,とげはんはし。乃升奉天ほうてんもんゆうさだとうつねふく謁賀,よび萬歲ばんざい」。
  7. ^ あかり》(まき171):けいみかどあかりとうあさ群臣ぐんしん咸待闕下。ゆるがせ聞殿ちゅうよび噪聲,ぽう驚愕きょうがくにわかしょもん畢啟,ゆうさだごう於眾曰:「ふとしじょう皇帝こうてい復位ふくい矣!」おもむきにゅう即日そくじついのちゆうさだけん學士がくしにゅう內閣,さんあずかつとむ明日加あすか兵部ひょうぶ尚書しょうしょゆうさだいいとおる曰:「ねがいとくかんむりがわ註從けい。」とおるためげん於帝,ふう武功ぶこうはくけんはなぶた殿どのだい學士がくしてのひら文淵ぶんえんかくごとたまものごう奉天ほうてん翊衛推誠せんりょくもり正文せいぶんしん」,祿ろくせんいちひゃくせきせいにしきころも指揮しき使きゅう誥券。ゆうさだとげ誣少于謙、だい學士がくしおうぶんころせこれ。內閣しょしん斥遂りゃくつきひね循素有德うとく於有さだまたどるすくい也。ことけんつきがえゆうさだ中外ちゅうがい咸側。而有さだいよいよえきはつ舒,しんみかどまたかたぶけしん委任いにん
  8. ^ あかり》(まき170):ぶんかち誣,べんやましけんわらい曰:「とおるとうみみべんなんえき?」奏上そうじょうえいそうしょう猶豫ゆうよ曰:「于謙じつ有功ゆうこう。」ゆうさだしん曰:「ころせ于謙,此舉ため無名むめい。」みかどとげぎまへいいぬ改元かいげんてんじゅんちょう棄謙せき其家,いえ戍邊。
  9. ^ あかり》(まき171):ゆうさだ既得きとくこころざしのりおもえ於曹、いし。窺帝於にん不能ふのういやしょく,乃稍ややたっ,且微げん其貪よこじょうみかどまた為之ためゆきどう楊瑄そう劾亨、吉祥きっしょうおかせうらない民田たみだみかどといゆうさだ及李けんみなたい如瑄そうゆうみことのり獎瑄。とおる吉祥きっしょうだい怨恨えんこんにちよるはかりごと構有さだみかどかた眷有さだへいじんみつ吉祥きっしょうれいしょう豎竊聽得泄之みかどみかどおどろきとい曰:「やすしょ受此?」たい曰:「受之ゆうさだぼうにちぼうこと外間ほかまどる聞。」みかど疏有さだかいちょうほうとうよく糾亨ざいうえ,而給ごとちゅうおう鉉泄とおる吉祥きっしょう二人ふたり泣訴きゅうそ於帝,いい內閣ぬしとげしょごくなみ逮繫ゆうさだ及李けんゆるがせかみなり雹交さく大風おおかぜ折木おりきみかど憾悟,じゅうたがえとおる,乃釋ゆうさだため廣東かんとん參政さんせい
  10. ^ あかり》(まき171):とおるとう憾未やめ,必欲ころせこれれいじんとう匿名とくめいしょゆび斥乘輿こしうんゆうさだ怨望,使つかい其客けんしゃ為之ためゆきとげついゆうさだ於德しゅうなみけんみことのりごく,榜治けんかいうけたまわてんもんわざわい,肆赦。とおる吉祥きっしょうおもんばかゆうさだしゃくげん於帝曰:「ゆうさだ自撰じせん武功ぶこうはくけんうん『纘禹成功せいこう』,またふう邑武こう。禹受禪じゅぜんためみかど武功ぶこうしゃ曹操そうそうはじめふう也。ゆう貞志さだし非望ひぼう。」みかど以示ほう刑部おさかべさむらいろうりゅうひろ衡等そうとう棄市。みことのり徙金ためみん
  11. ^ あかり》(まき171):とおるはいみかど從容しょうよういいけんおう翺曰:「じょゆうさだなに大罪だいざい為石ためしとおるやからしょおちいみみ。其釋でんさと。」なりはつふくかんむりたい閑住。ゆうさだすんでしゃくなお冀帝ふく召,時時ときどきおおせかん天象てんしょういい將星しょうせいざいえき自負じふつね以鐵むちずいすうおこりまい。及聞かん雍征りょうこう有功ゆうこう,乃擲むちふとしいき曰:「孺子じゅしまたおう天象てんしょうよこしま?」とげ放浪ほうろう山水さんすいあいだじゅうねん乃卒。

參考さんこう文獻ぶんけん

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  • きよしちょう廷玉ひとし,《あかり》,中華ちゅうかしょきょくてん校本こうほん
かん
前任ぜんにん
ちん
明朝みんちょうないくび
1457ねん
つぎにん
もとあきら