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靖难之役 - 维基百科,自由的百科全书

やすし难之やく

けんぶんみかどあずかつばめおうしゅ棣為爭奪そうだつ帝位ていい爆發ばくはつてき內戰
重定しげさだこうやすしなん

やすしなんやくまたたたえやすしなんへん明朝みょうちょう初年しょねんけんぶんみかど在位ざいい时发せいてきいち场因そぎはん政策せいさく及争夺皇引發てき内戰ないせんたてあや元年がんねんなながつはつ(1399ねん8がつ6にち[註 1]),明太めんたいだい四子燕王朱棣與明太祖第十七子宁王朱權(實則さねつねよしつばめおうさく最高さいこうりょうみちびけ,而寧おうただしせり加入かにゅうためくびてきはんおう共同きょうどうはん叛侄儿建ぶんみかどしゅまこと,战争持續じぞくきんさんねんけんぶんみかど缺乏けつぼう謀略ぼうりゃく任用にんようぬしそち不當ふとう,致使主力しゅりょく不斷ふだん殲。つばめおう雖初兵力へいりょく中央ちゅうおうぐんただしつばめきょういま北京ぺきんため基地きち適時てきじ出擊しゅつげきれいかつ運用うんよう策略さくりゃくけいいく大戰たいせん消滅しょうめつ朝廷ちょうてい军队主力しゅりょく最後さいごじょうかち進軍しんぐん,於建ぶんよんねんろくがつじゅうさん(1402ねん7がつ13にち[註 2]おさむ帝都ていとおうてんいま江蘇こうそ南京なんきん[1]けんぶんみかどしつ蹤后下落げらく不明ふめいしゅ棣登もとため永樂えいらくみかど。綜觀中國ちゅうごく歷史れきし皇室こうしつ內戰及藩おうへいへん雖為すうしょう(如西にしかんななこくみだれ西にしすすむはちおうみだれ明朝みんちょう中期ちゅうきやすしおうみだれ廣義こうぎまた包括ほうかつからあさ中期ちゅうきやすみだれ清朝せいちょうさんはんみだれひとし),ただしやすしなんやくとうちゅう少數しょうすう以藩おう透過とうか軍事ぐんじ行動こうどうおさむおちい首都しゅと江山えやまえきぬし結束けっそくてきれいわかただ計算けいさんだい統一とういつすめらぎあさのり歷史れきしじょうゆう同類どうるい成功せいこうれい

やすしなんやく

やすしなんこれやくしめせ意圖いと
にち1399ねん8がつ6にち-1402ねん7がつ13にち
地点ちてん
中國ちゅうごく華北かほくはなひがし地區ちく
结果 つばめぐんおさむおうてん奪取だっしゅ明朝みんちょう政權せいけん
けんぶんみかどしつ
しゅ即位そくい明成めいせい
まいり战方
大明だいめい朝廷ちょうてい つばめおう
やすしおう
ゆび挥官あずか领导しゃ
けんぶんみかどしゅまことしつ蹤)
せいとりこ大將軍だいしょうぐんちょうきょうこう耿炳ぶん
せいとりこ大將軍だいしょうぐん、曹國こうけいたかし 投降
ほうたかし 處決
齊泰なりやす 處決
きよし 處決
もりいさお 投降
つばめおうしゅ
つばめおう世子せいししゅだかおき
こうおうしゅだか
つばめ王子おうじしゅだかひうち
ちょうたま 
しゅのう
姚廣こう
ていかず
やすしおうしゅけん
朵顏さんまもる
兵力へいりょく
耿炳ぶん:30まん
けいたかし:50いたり60まん
もりいさお不定ふていいち20まん
かさねだいやすしまえやく4まん
かさねだいやすしきさきやく12まん
伤亡あずか损失
すうじゅうまん 不明ふめい

背景はいけい

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明朝みょうちょう建立こんりゅう明太めんたいしゅもとあきらためりょう鞏固きょうこ自己じこ子孫しそんてき統治とうち便びんだいふう宗室そうしつじゅうにんためはんおうちゅうもり全國ぜんこく各地かくち。這些はんおう雖然ぼつゆう封地ほうちてきかんけんただしようゆう護衛ごえい軍隊ぐんたいしょうしゃゆうさんせんにんしゃいたりいちまんきゅうせんにん[註 3]ちゅうもり北方ほっぽう邊境へんきょうてききゅうあたりおうりょうやすしつばめたにだいすすむはたけいぐんけんさらだい,如寧おうおびかぶとはちまんかわしゃろくせん[2]

过,ざい继承じん问题じょうしゅもとあきらしょ立太子りったいししゅしるべ逝。すめらぎふとしまごしゅまこと諸王しょおうめいかんじいたなん以制やくかく叔父おじ們的勢力せいりょくじょう諸王しょおうようゆうぐんけんたい構成こうせい潛在せんざいおびえ便びんゆうそぎはんこれひろしたけさんじゅういちねん(1398ねんうるうがつはつじゅう明太めんたいしゅもとあきらしゅまこと作為さくいすめらぎふとしまごつぎためめぐみみかどけんぶんみかど)。めぐみみかどはつ布太ふだのこみことのりれい諸王しょおうとめ於封不要ふよう赴都[3];甚至つばめおうしゅ棣已けいぜんらい奔喪,卻被めぐみみかど命令めいれいかえしかいしるべ致諸おう不滿ふまんめぐみみかど於是あずか齊泰なりやすきよし商量しょうりょう開始かいしそぎはん[4]

けんぶんみかどそぎはん

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明惠あきえみかどしゅまこと炆(1398ねん-1402ねん在位ざいい

しゅまこと炆於ひろしさんじゅういちねんねんうるうがつつぎたてそく開始かいしそぎはんざいそぎはん順序じゅんじょじょう齊泰なりやすみとめためおうさきそぎ實力じつりょく最強さいきょうてきつばめおう戶部とべさむらいろうたくけいまたうえ疏請あらためつばめおう封地ほうち於南あきら[5]ただしきよし反對はんたいみとめためつばめおう有功ゆうこうためりょうそう輿論よろん支持しじおう該先找有問題もんだいてき親王しんのう下手へためぐみみかど支持しじきよしとげ先後せんご廢除はいじょ親王しんのう

ひろしさんじゅういちねんなながつそぎしゅうおういんしゅうおうつばめおう同母どうぼ兄弟きょうだい,而朱まこと炆怕あずかつばめおうしかなる一氣いっき,於是決定けっていさきはいしゅうおうときしゅうおうじゅうはちさいてき次子じししゅゆう告發こくはつ父親ちちおや謀反むほん,於是曹國こうけいたかし以備めい經過けいか開封かいふうはたしゅうおうぜんいえ押回南京なんきんはいため庶人,遷往雲南うんなんこうむしゅう[6]いま雲南うんなんたかしさん)。

たてあや元年がんねん(1399ねんよんがつそぎひとしだいさん親王しんのうはいため庶人。湘王不堪ふかん受辱,ため名節めいせつ舉家焚;ひとしおう軟禁なんきんざい南京なんきんだいおう軟禁なんきんざい封地ほうち大同だいどう[7]兩個りゃんこがつそぎ岷王はいため庶人,徙漳しゅう[8]

よし於惠みかどそぎはん激化げきか矛盾むじゅんはんあずか中央ちゅうおう開始かいし決裂けつれつ,此時實力じつりょく最強さいきょうてきつばめおう就成りょう真正しんせいてき諸王しょおうくび。而皇帝こうていあずかしゅ棣之あいだてきはく弈亦逐漸はしむかいあきらしょへんどくさら激烈げきれつ

しゅまこと炆執政之まさゆきはつてき政策せいさく問題もんだい

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めぐみみかどしゅまこと炆的そぎはん思想しそう本身ほんみ並無ならびな妥,後來こうらい永樂えいらくみかどせんとくみかどまた持續じぞくあつはんおう勢力せいりょくただしよし缺乏けつぼう政治せいじ經驗けいけんめぐみみかどかい更改こうかいかく方面ほうめん政策せいさく使つかいとく各種かくしゅ不良ふりょう影響えいきょう相互そうご作用さようしるべ致其最終さいしゅう失敗しっぱい

ざいそぎ藩中はんちゅう存在そんざいてき主要しゅよう問題もんだいゆう

  1. そぎはんすんでけい劃(一月之內連削三王),また缺乏けつぼう妥善てき善後ぜんご處理しょりめぐみみかど本人ほんにんつよしつよしのぼりはじめそぎはん速度そくどかいしるべ致人しん浮動ふどう
  2. ふう捉影,しるべ地方ちほう有人ゆうじんつげへん邀功(如湘おうひと誣告ぶこく謀反ぼうほん自明じめいとげ焚)。
  3. 於急躁,そぎはい并進,激化げきか矛盾むじゅん西にしかんななこくみだれ西にしすすむはちおうみだれひとしいんおけはん本身ほんみ引起變亂へんらん,而是中央ちゅうおうてきそぎはん政策せいさく引發既得きとく利益りえきしゃ抗爭こうそうそく使ななこくみだれかんたけみかど也不直接ちょくせつはいはん,而是頒佈《推恩れいらい逐步削減さくげんめぐみみかどとうもとまえ,曾对明太めんたい叔父おじ们如はて不服ふふくしょうさき德化とっかなりさい用兵ようへいとくいたふとてき认可。ただしめぐみみかどのぼりはじめきさきため迅速じんそくそぎじゃくはんおう實力じつりょくはた五位親王全部直接廢除爵位,并加以迫害はくがいながれある軟禁なんきん)。はいはん激化げきか矛盾むじゅん使つかい其他はんおうためりょう而與中央ちゅうおう對立たいりつざい戰爭せんそう爆發ばくはつ袖手しゅうしゅつくりかん,甚至暗中あんちゅう援助えんじょつばめおう
  4. 掩耳ぬすめすずかえつばめはんさんしゅ棣的さん當時とうじけんぶん元年がんねんがつざい南京なんきんほん作為さくい人質ひとじちきよし卻說如放かい北平きたひら,以麻痹朱棣[9][10]ただし當時とうじやめはつよんはんおう實際じっさいじょう毫無欺敵もちいいい掩耳ぬすめすず

此外,ざい內政方略ほうりゃくちゅうまた存在そんざい嚴重げんじゅう缺陷けっかん直接ちょくせつある間接かんせつしるべ致其後來こうらいてき軍事ぐんじしつ

  1. 重用じゅうよう文官ぶんかん並行へいこうあらためせいふとし晚年ばんねんだいころせほろびもと功臣こうしんうえめぐみみかど重文じゅうぶんそもそもたけしるべ致其倚重しゃひとしため文官ぶんかん儒生じゅせいそぎはんてき同時どうじめぐみみかど進行しんこうあらためせい大幅おおはばひさげます文官ぶんかん地位ちい;這使とくめぐみみかどざいたい施政しせいちゅうなん獲得かくとく全面ぜんめん支持しじ對外たいがい作戰さくせんかえよう顧慮こりょ武將ぶしょうてき忠誠ちゅうせい造成ぞうせい極大きょくだいてき不良ふりょう影響えいきょう
  2. 輕視けいし武將ぶしょう,罔顧軍事ぐんじめぐみみかど本人ほんにん毫無作戰さくせん經驗けいけんまた倚重文官ぶんかん決定けってい軍事ぐんじ政策せいさく(如至せき重要じゅうようてき統帥とうすい任命にんめい),使つかい武將ぶしょう無法むほう發揮はっきおうゆうてき作用さよう。此外,ふとしてき國策こくさくそくため親王しんのうもりあたり防止ぼうしこうむ南侵なんしんざいぼつゆうあいてきてきがえだいしゃ唐突とうとつそぎはんなみ治國ちこく良策りょうさく武将ぶしょう担心かいじゅうかえし宋朝そうちょう重文じゅうぶんそもそもてき国策こくさくしるべ国家こっかせきじゃく後來こうらいてき事實じじつ證明しょうめい如此,ほうたかしとう大臣だいじんかくまもる國之くにゆき作戰さくせん能力のうりょく
  3. 無視むし宦官かんがんへんせいひじわきよし於太てき影響えいきょうめぐみみかどたい宦官かんがんじゅうふんいむ厲,しるべ致宮じん怨聲みち,甚至とう奔敵かたせきかぎ情報じょうほうきゅうつばめおう

つばめぐん防禦ぼうぎょ階段かいだん

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しゅ棣起へい奪取だっしゅかそけつばめ

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明成めいせいしゅ棣(在位ざいい:1402ねん-1424ねん

ひろしさんじゅういちねん十二月じゅうにがつためりょうつつみぼうつばめおう謀反むほんしゅまこと炆派こうさむらいろうちょうため北平きたひらぬのせい使指揮しき使しゃとうとちょうしんため北平きたひら指揮しき使ずいまたいのちみやこただしそうただしたむろへいちゅう開平かいへい,并調はしきた平原へいげんぞくつばめおう管轄かんかつてき軍隊ぐんたい

つばめおうしゅ棣見いたいく親王しんのう先後せんごそぎはんある貶或明白めいはく如此必定ひつじょう無法むほう逃過此劫,とげ一邊爭取時間一邊做戰爭準備。ためりょうそう時間じかんたてあや元年がんねんしゅ棣先そうびょう使つかいめぐみみかどさんかい北平きたひらこうよし於屬朝廷ちょうていしょとげ藉機そうさく精神せいしんしつつねただしよし於王ちょうふみかずらまこと叛變,密奏みっそう朝廷ちょうていつばめおう無病むびょう」,しゅ棣裝瘋被發覺はっかく[11]

どきつばめおう使つかいいれ京師けいしきむりょうそうごと使者ししゃ齊泰なりやすとうしん訊,せり供出きょうしゅつつばめおうてき異狀いじょう,於是朝廷ちょうていみつむねれいちょう昺、しゃ逮捕たいほつばめおう幕府ばくふまとかんぞくちょうしん逮捕たいほつばめおう本人ほんにんただしちょうしんあずか母親ははおや討論とうろんこれはた此事告知こくちしゅ[12]。於是しゅ棣和そうじん姚道衍とうはかりごと劃舉へいれいちょうたましゅのうはたはちひゃく勇士ゆうしたい入府にゅうふちゅう潛伏せんぷく,以待へんゆえ[13]

ちょう昺、しゃとうといたしゅまこと炆密みことのりきさき,七月初四帶兵包圍了燕王府。しゅ棣假將官しょうかんぞく全部ぜんぶ捆縛,請にんすすむ查驗。二人ふたりすすむしゅ棣派出府しゅっぷはた其擒,并連同府どうふ內叛へんてきかずらまこと一同いちどう處決しょけつ[14]當日とうじつよるうらしゅ棣攻北平きたひらきゅうもんとげひかえせいきた平城ひらじろ[15]

つばめおうしゅおこりへい造反ぞうはん援引えんいんすめらぎあかりくん[16]ごうしょうきよしくんがわゆびくにくん身邊しんぺんてき齊泰なりやすきよしため奸臣かんしんはかりごとがい皇室こうしつ親族しんぞく),需要じゅよう鏟除,しょう自己じこてき舉動為國ためくにやすしなん」(ため平定へいてい國難こくなん」,「やすしためせい異體いたい),并上書うわがき於惠みかどしゅまこと炆。

つばめぐんひかえせい北平きたひらきさきなながつはつろくとおりしゅう主動しゅどうなながつはつはちおさむやぶあざみしゅう遵化密雲みつうんかえりなながつじゅういちおさむやぶきょいさおせきなながつじゅうろくおさむやぶふところらいとりこころせそうただしとうなながつじゅうはちえいたいらいま河北かわきたりゅうけんぞく秦皇島しんのうとうなながつじゅうななため防止ぼうしだいやすし軍隊ぐんたいしたがえまつていせき偷襲北平きたひらもちいはんあいだけい使つかいまつていせき內訌,守將しゅしょうぼくまん下獄げごくいたり此,北平きたひら周圍しゅうい全部ぜんぶ掃清。つばめぐん兵力へいりょくぞういたりすうまん[17]

つばめぐんおさむやぶふところらいゆかり於領地相ちそう距太きんなながつじゅうよんにちたにおうしゅ橞逃はなれ封地ほうちせんこんぞくちょうこう,距北京ぺきんやく150公里くり,距懷らいやく60公里くり),奔きむりょう[18]はちがつ齊泰なりやすとう顧慮こりょりょうおうやすしおう幫助つばめおう建議けんぎ召還しょうかん京師けいしりょうおうしたがえ海路かいろかえしきょう,而寧おうしたがえとげそぎやすしおう護衛ごえい[19][20]

そうただし失敗しっぱい部將ぶしょうちんただし退すさもり大同だいどうだいおうほんよくおこりへい呼應こおうしゅ棣,ひねしつしょひかえせいはて[21]

げきはい耿炳ぶん

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なながつしゅ棣反しょいたりしゅまこと炆祭つげふとしびょうそぎしゅ宗室そうしつぞくせきはいため庶人決定けっていおこりへい討燕[22][23]ざいじょうこん河北かほくせいじょう設置せっちひらつばめぬの政司せいじ[24]


けんぶんみかどそぎつばめぞくせき

元年がんねんはちがつみかど乃祭つげ天地あまちはじめ社稷しゃしょく及江淮旗纛之しん,书谕诸王そぎつばめぞくせきいのちれいさむらいちゅう观草诏。诏曰:ちんたてまつせん皇帝こうてい遗诏,纂承だい统,よいころも旰食,おもえ善政ぜんせい,以安兆民ちょうみん。岂意国家こっか不幸ふこう骨肉こつにく亲屡谋僭ぎゃく去年きょねんしゅう庶人橚,せん为不轨,连燕、齐、湘三おうみなあずかどう谋。ちん以亲亲之にん暴扬其恶,とめ橚罪,おけ问。今年ことし齐王榑谋ぎゃくこと觉,推问はんしゃまたげんあずかつばめおう棣、湘王かしわどう谋大ぎゃくかしわざい恶难逃,焚死,榑已废为庶人。ちん以燕おう棣于亲最近さいきんにん穷治其事。こん棣乃忘祖ぎゃくてんしょうへい构逆,意欲いよくはん阙,危宗しゃもとぎゃく如此,孰不骇闻?むかしさき皇帝こうてい时,棣包藏ほうぞう祸心,为日やめひさししるしづくり伪钞,阴结人心じんしん朝命ちょうめい穷极,藏匿ぞうとく罪人ざいにん先帝せんていふるえいかとげ以成やましいたり于升遐,海内かいだい闻知,莫不つう忿。こん悔过,またみやつこ滔天とうてん恶,虽欲赦之,而获ざいむねしゃ天地あまちようやめつげふとし庙废为庶じん长兴こう耿炳ぶんとうりつへいさんじゅうまん往讨其罪。咨尔中外ちゅうがい臣民しんみん军士,かくむべ怀忠もり义,たてまつ职平つばめ与国よこく同心どうしん永安えいあんいたり布告ふこく天下でんか,咸使闻知。[25]

よし於朱もとあきら晚年ばんねん誅殺ちゅうさつりょうしょうりょうはたしるべ致惠みかど手下てした缺乏けつぼうはたざい可用かよう[26]朝廷ちょうていただとく任命にんめい65さいろうしょう耿炳ぶんりつへい北上ほくじょう討伐とうばつごうたたえさんじゅうまんにん實際じっさい先行せんこうりつりょうじゅうさんまんにん出兵しゅっぺいざい臨行しゅまこと炆親つげ誡:「毋使ちんゆうころせ叔父おじめい。」[27]

耿炳ぶんりつぐんざいはちがつじゅうさんにち到達とうたつじょう[28],并分へい河間こうま鄚州河北かわきたにんおかきた约30さと)、おんどりけんため犄角いきおいざい經過けいか觀察かんさつはちがつじゅうにちつばめぐん中秋ちゅうしゅうよるてきぐん不備ふび,偷襲おんどりけん成功せいこうまた利用りようふくげきげきはいりょう鄚州てき援兵えんぺいとげおさむかつ鄚州,おさむへん剩餘じょうよてき部隊ぶたい[29]

耿炳文部もんぶはたちょうたもつ告知こくちしゅ棣耿炳文てき部隊ぶたいぶんちゅう滹沱かわりょうきし,於是しゅ棣讓かい告訴こくそ耿炳ぶんおんどりけん、鄚州大敗たいはいつばめへいはたいたり」,以打げき其士,并使耿炳ぶんごうへいいちしょ便びん於一舉擊つぶせ。耿炳ぶん果然かぜんはた南岸なんがんてきへい調ちょうかわ[30]

はちがつじゅうよんにちつばめぐん到達とうたつきょくけんしたがえきこりおっと中央ちゅうおうぐん俘士へいしょ得知とくち敵情てきじょう,於是つばめぐん發動はつどう決戰けっせん[31]

じゅうにちつばめぐん趁耿炳文おく使臣ししん出城でしろ偷襲中央ちゅうおうぐん,炳文逃回にげまわ城中じょうちゅうきさきいか而迎せんざいつばめぐん主力しゅりょくあずか耿炳ぶんぐんしょうしゅ棣親りつぐん襲擊しゅうげき其側つばさ,耿炳ぶん大敗たいはいつぶせ逃;しゅのうたいさん十餘騎沖入中央軍陣中,しょこう披靡,中央ちゅうおうぐん投降とうこうさんせんじん[32]中央ちゅうおうぐん狼狽ろうばい逃回にげまわ城中じょうちゅうしろてんしつもり部將ぶしょうけんやすしただし顧成ひとし俘;へいころせ俘數まんにんきさきかえ[33]

耿炳ぶんりつ殘部ざんぶいたじゅう萬人在真定堅守不出,つばめぐんおさむじょうさんてんかつ八月はちがつじゅうきゅうにちつばめぐんかえしかい北平きたひら[34]。顧成くだつばめこれとめざい北平きたひらきょうじょつばめ世子せいししゅだかおきもりじょう[35]

一说耿炳文当时即战死沙场(详见本人ほんにん条目じょうもく)。

大勝たいしょうけいたかし

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耿炳ぶん戰敗せんぱいてき消息しょうそくでんいた南京なんきんしゅまこと開始かいし擔憂せんごと考慮こうりょかわはたきよしせつ曹國こうけいたかし名將めいしょう文忠ふみただ之子ゆきこ建議けんぎせっにん齊泰なりやす反對はんたいただしめぐみみかど[36]八月はちがつさんじゅうにちはいけいたかしため大將軍だいしょうぐんちかい出征しゅっせい,并召かい耿炳ぶんけいたかしとくしゅうため大本營だいほんえい調しらべしゅうかくみち兵馬へいば包括ほうかつ耿炳ぶんはいへい增兵ぞうへいいたりじゅうまんにんきゅうがつじゅういちにちすすむいたり河間こうま[37]

しゅ棣聽せつあさ廷以五十萬傾國之兵交付李景隆,大喜だいぎもちせつちょうくくこれしつ必然ひつぜんじゅうえんじつばめぐん必勝ひっしょう[38]。并提出ていしゅつけい隆之たかゆきはい[39]

いちためはた政令せいれいおさむ紀律きりつ不整ふせい上下じょうげしん死生しせいはなれこころざし

今北いまきたはやさむみなみそつ裘褐きゅうかつ不足ふそく,披冒霜雪そうせつ手足てあしひび瘃,甚者墮指,また贏糧,うま無宿むしゅくけやき

さんりょうけんえき深入ふかいり趨利。

よんむさぼ不治ふち智信とものぶ不足ふそくみつる而愎,ひとしいさむ俱無,威令いれいくだり三軍さんぐんやすたわわ

きょく喧嘩けんかきむふしこう諛喜佞,專任せんにん小人こども

 
けんぶんねんよんがつ以前いぜんてきかたち

まもり北平きたひらかさねだいやすし

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九月初一江陰侯吳高率遼東りゃおとんへいおさむえいたいら[40]しゅ棣趁けいたかし躊躇ちゅうちょけつさいきゅうがつじゅうきゅうにちまえ救援きゅうえん九月くがつ廿にじゅうげきはいくれだか決定けってい趁勢偷襲だいやすしいま內蒙いにしえやすしじょう)以獲得かくとく精銳せいえい部隊ぶたい;另一方面ほうめん而誘はた中央ちゅうおうぐん引至「空城そらじょう北平きたひら九月くがつ廿にじゅうはち出師すいしでんしんきゅうつばめ世子せいししゅだかおきれい堅守けんしゅ[41]

じゅうがつはつろくつばめぐんけい小路こうじ到達とうたつだいやすし城下じょうか。《あかり》《明通あけどおり鉴》载:しゅ單騎たんき入城にゅうじょうやすしおうしゅけん,哭訴自己じこみちはしこうしゅけんもとめすくえ希望きぼうのうこう朝廷ちょうてい上書うわがき謝罪しゃざいめんしゅけんしょうしん并收とめりょうざいきょだいやすし期間きかんしゅ棣令手下てした吏士入城にゅうじょうゆい交并賄賂わいろだいやすしてきぐん官等かんとうじゅうがつじゅうさんしゅ提出ていしゅつつげやめしゅけんざい郊外こうがいおくくだりただししゅけんらいいた郊外こうがいきさき伏兵ふくへいつきおこりだいやすしぐん紛紛ふんぷん叛變,かえりしゅ棣,守將しゅしょうしゅあきら不能ふのう抵挡,力戰りきせん而死,やすしちょうせきせん不屈ふくつ而死。於是しゅけんあずか王妃おうひ世子せいしとう一同隨朱棣前往北平,而大やすしてき全部ぜんぶ軍隊ぐんたい包括ほうかつ騎兵きへい精銳せいえい朵顏さんまもるしゅ棣收へんだいやすしなりため空城そらじょうしゅ棣實りょく大增おおます[42]。而《あきら实录》载,宁王しゅ权因こういのちかいあさそぎ夺护卫囚きんしゅ棣突袭大宁,まもり军仓促关门守しろ墙崩塌,しゅ棣指挥勇先登せんとうやぶしろ,俘获指揮しきぼうひろし,这才すくいりょうしゅうきんてきしゅ权;そぎ夺但仍留ざい城中じょうちゅうてき宁王护卫这时こう也都归附,しゅ棣把们都还给宁王[43]

聽說つばめおうしゅ棣率精銳せいえいちょうだいやすしけいたかし引軍おさむ北平きたひら中央ちゅうおうぐんざいていむら壩(いまだいきょう以東いとうじゅうさと)紮營,ちくるいどうおさむ北平きたひらきゅうもんつばめおう世子せいししゅだかおき堅守けんしゅしゅだかおきひと夜間やかん偷襲中央ちゅうおうぐんだい營,獲得かくとくりょう一定いっていてき喘息ぜんそく時間じかん中央ちゅうおうぐんおさむじょうきゅう城中じょうちゅう婦女ふじょ也上城頭じょうとうこうした投擲とうてき瓦石がせき[44]

中央ちゅうおうぐん唯一ゆいいつ一次獲勝的機會是都督瞿能おさむちょうわきもん一說いっせつあきらもんよりどころほう輿こし紀要きよう》,あきらもんそく西にし直門じきもん存疑そんぎ[45]いく乎要おさむいんけいたかししょただとく停止ていしこうはいたれなりのうれきじゅうがつ北平きたひら甚寒ひえ,於是つばめぐんもりじょう部隊ぶたいよるうら汲水きゅうすい澆于じょう牆上,じょう牆結冰,無法むほうよじとう[46]中央ちゅうおうぐんいんてんかんこおせん鬥力驟降,攻勢こうせい此受阻[47]

ていむら壩之せん

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じゅうがつじゅうきゅうつばめぐんざいかいしゅうせいへん分立ぶんりつぐん中前ちゅうぜん左右さゆう)。じゅうがつ廿にじゅういちにゅうまつていせき[48]

十一月じゅういちがつはつわたり白河しらかわときやめゆい冰,渡河とかしょざいこん北京ぺきんじゅんよしひがし),并打はいけいたかしてき哨探ちんあきら部隊ぶたいまん餘人よにん[49]とうてんあずかけいたかし大軍たいぐんざいていむら會戰かいせんつばめぐん左右さゆう衝擊しょうげき連破れんぱなな營,けいたかし大敗たいはい[50][51]當夜とうやけい隆見たかみせんごと不利ふりれいていむら所有しょゆう軍隊ぐんたい輕裝けいそう撤退てったいかずじゅう萬人的輜重全部留給了燕軍[52]ただしけいたかしはし匆忙,ぼつゆう通知つうちかこえおさむきた平城ひらじろてき軍隊ぐんたい,於是つばめぐん輕易けいいげきつぶせ城下じょうかてきてきぐん獲得かくとく物資ぶっし[53]けいたかしりつぐん撤回てっかいとくしゅうていむら壩之せん結束けっそく[54]。此戰中央ちゅうおうぐんじゅうあまりまん[55]

十一月じゅういちがつはつきゅうしゅ棣回いたきた平城ひらじろいんためまえなながつ上書うわがきぼつゆうかいしんじさいつぎ上書うわがき朝廷ちょうてい陳述ちんじゅつひとし構陷むねはんしゅまこと炆不おう[56]十二月じゅうにがつしゅ棣用反間はんかんけいれい遼東りゃおとん守將しゅしょうだかそぎ爵貶黜,しょうじょ東北とうほく方向ほうこうてき後顧こうこ[57]

よし於李けいたかし準備じゅんびとう來年らいねんひらけはるさい北上きたかみおさむつばめしゅ決定けっていおさむ大同だいどう,以使中央ちゅうおうぐんつかれ於奔いのち十二月じゅうにがつじゅうきゅうにち出師すいしおさむ大同だいどう十二月じゅうにがつ廿にじゅうよん,抵達こうあきら守將しゅしょう楊宗投降とうこう[58]けんぶんねん(1400ねん正月しょうがつはついちつばめぐん抵達蔚州,守將しゅしょうおうただしとお投降とうこう[59]がつはつつばめぐんおさむ大同だいどうよし於大おだいどうだいおう封地ほうち軍事ぐんじ地位ちいごく重要じゅうようけいたかしとく救援きゅうえんまちけいたかし走出はしりでむらさき荊關きさきつばめぐんしたがえきょいさおせきかえしかい北平きたひら中央ちゅうおうぐんざい冰天ゆき地中ちちゅうしろ跑一趟,兵力へいりょく裝備そうび大量たいりょう損失そんしつ士氣しき受到じゅうそう[60]

がつ廿にじゅうはちけいたかしきゅうしゅ棣寫しんじ請求せいきゅう暫時ざんじ停戰ていせんつばめおうかいしんじさくよう齊泰なりやすきよしとう。一說李景隆自此有貳心[61]

じょりょう使中央ちゅうおうぐんしろ跑了いち個月かげつがいつばめぐんざいほん大同だいどう意外いがいぐういたりょうしたがえこうむ古來こらいくだてき軍隊ぐんたいおさむへん[62]。此外,定府じょうふ於建ぶんねんがつくだつばめ[63]

しろみぞかわたたかえ

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けんぶんねんよんがつけいたかししたがえとくしゅうかくすぐるすぐるとうしたがえていちかいきた目標もくひょうしろみぞかわきたこばめかわ)。兵力へいりょくぞういたりろくじゅうまんつばめぐんまただしよんがつじゅうにちつばめぐんわたりたまかわちゅう於蘇きょう[64]よんがつ廿にじゅうよんあずか中央ちゅうおうぐん會戰かいせん戰場せんじょうざい河北かほくしょうだかいしぶみてん新城しんじょうけんみなみさんじゅうさと)。

中央ちゅうおうぐんけいたかし先鋒せんぽう平安へいあんこれぜん曾跟ずいしゅ棣出ふさがじゅく悉朱棣戰ほうしつらえ伏兵ふくへいつばめぐんいたり平安へいあん伏兵ふくへいおこりていほこ衝鋒;瞿能父子ふし一同いちどうあいげきつばめぐんせん鬥失とき中央ちゅうおうぐんかくえい)也來いた戰場せんじょうかくすぐるざいつばめぐん撤退てったいてき必經路上ろじょううめ地雷じらいつばめぐん撤退てったい損失そんしつむごおもしゅ棣親りつぐん殿どのただし夜間やかん迷失りょう道路どうろしゅ下馬げば趴在地上ちじょう辨別べんべつかわりゅうてき方向ほうこうさいぶんきよし方向ほうこうかいいただい營。れいぐんひさげまえよう餐,準備じゅんび決戰けっせん[65][66]

よんがつ廿にじゅうさいつぎ合戰かっせん。瞿能、平安へいあんにょういたりつばめぐん後方こうほうおさむ其後ぐん得手えて[67]しゅ棣見じょうこのみおやおかせせきれいおかぶく衝擊しょうげきけいたかしちゅうぐん成功せいこうしゅ棣率ぐんおさむ雙方そうほう混戰こんせん如雨。しゅ棣先かわりょうさんひき射光しゃこうりょうさんつつ寶劍ほうけん也砍だんてん平安へいあん、瞿能しょきず奈之しゅ棣來いたかわ堤上つつみのうえ,舉起むち假裝かそう招呼援兵えんぺいけい隆見たかみじょう果然かぜんなまうたぐ攻勢こうせいげんなるしゅだか煦此來援らいえんすくいせんごと暫時ざんじ緩和かんわ[68][69]

ひさ,瞿能さいつぎ引眾搏戰,大呼たいこめつつばめ」,形勢けいせいさいつぎたいつばめぐん不利ふり。就在せんごと危急ききゅういちまた旋風せんぷう刮起,刮斷りょうけいたかしてきそち中央ちゅうおうぐんひたぶる大亂たいらんしゅ棣抓じゅう機會きかいにょういたけいたかし後方こうほう放火ほうか中央ちゅうおうぐん大敗たいはい,瞿能父子ふししゅだか煦陣[70]かくえいとうこう西にし撤退てったいけいたかしこうみなみ撤退てったい輜重しちょう全部ぜんぶ扔下,投降とうこうじゅうまん餘人よにんけいたかし撤回てっかいとくしゅう[71][72][73]

よんがつ廿にじゅうななつばめぐん進攻しんこうとくしゅう五月ごがつはつななけいたかし逃往ずみみなみはつきゅうつばめぐん進入しんにゅうとくしゅう獲得かくとく大量たいりょう糧食りょうしょくもうか備。五月ごがつじゅうつばめぐんおさむずみみなみけいたかし殘存ざんそん十餘萬兵毫無戰鬥力,大敗たいはいけいたかし逃走とうそうつばめぐんとげかこえずみみなみ[74]

じゅうがつ朝廷ちょうてい召李けいたかしかい南京なんきんけいたかし五十萬大軍幾乎賠的乾淨,きよしねりやすしまれけんとう上書うわがき請求せいきゅうりつこれしゅまこと炆不聽。たい推薦すいせんりょうけいたかしきよしかんいた十分じゅうぶん後悔こうかい[75]

あい階段かいだん

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ていむら壩之せん和白わじろみぞかわ戰後せんごけいりゅうすすむ朝廷ちょうていてき五十萬兵馬賠得一塌糊塗,中央ちゅうおうぐんあずかつばめぐん攻守こうしゅ形勢けいせい逆轉ぎゃくてん

すみみなみたたかえ

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济南大明だいめいみずうみおおやけ园铁こうほこら

けいたかし敗退はいたいきさきつばめぐんかこえずみみなみみぎ參政さんせいてつもりいさお堅守けんしゅしゅ棣射しん入城にゅうじょう招降,はて[76]

五月ごがつじゅうななつばめぐんひらきかわつつみ放水ほうすい灌城[77]てつ鉉見ぜいみょう決定けっていせんにんいつわりくださそえしゅ棣進じょう[78]つぎしゅ棣前往濟みなみはしいた城門じょうもんこう城門じょうもんあずかしつらえてき鐵板てっぱん落下らっかただしほぼかいりょう些,ただ打中うちなかりょう其所乘馬じょうばてきあたましゅ棣大おどろきかわうま跑回。よし於事意外いがいだん其後とう工作こうさくぼつのう成功せいこうしゅ棣逃かいだいいかかこえじょうおさむさん個月かげつ[79]

よし於濟みなみてき軍事ぐんじ地位ちいごく重要じゅうようわか取得しゅとくずみみなみしん南下なんかおさむ退すさ疆自もりつばめぐんじょうあたらし勝之かつゆき銳氣えいきこころざしざい必得。りょうおさむじょう不利ふりしゅ憤怒ふんぬしも決定けってい使用しよう大砲たいほうおさむじょう城中じょうちゅうささえてつ鉉見じょうざい一些木板上寫了「こう皇帝こうていかみぱいさま并掛ざい城頭じょうとうつばめぐんただとく停止ていし砲擊ほうげき[80]

ろくがつしゅまこと炆見ずみみなみ危急ききゅう使つかいもとめしゅ棣不聽[81]なながつ平安へいあん進軍しんぐんかわあいだ擾亂じょうらんつばめぐん糧道りょうどう[82]しゅ進退しんたいとくはちがつじゅうろく撤兵てっぺいかい北平きたひらもりいさおてつ鉉追げき大敗たいはいつばめぐんおさむふくとくしゅう[83]すみみなみたたかえ結束けっそく

きゅうがつはつじゅうしゅまこと炆升てつ鉉為山東さんとうぬのせい使まいりさん軍務ぐんむひさきさきます兵部ひょうぶ尚書しょうしょふうもりいさおためれきしろこうひらつばめ將軍しょうぐん,撤換けいたかしみやこただしちんあきら平安へいあんためふくしょく中央ちゅうおうぐんじゅう新進しんしんいたとくしゅうていしゅう今保いまぼうじょうあずかいしそうあいだ)、滄州こん河北かほく滄州)[84]

あずま昌之まさゆきせん

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けんぶん二年五月至建文三年正月形势

けんぶんねんじゅうがつしゅ棣聞ほう中央ちゅうおうぐん北上ほくじょう決定けっていざいてきぐん落腳穩時,かさね滄州,再度さいど南下なんか。於是あかりれいせい遼東りゃおとん暗中あんちゅうじんざいちょく沽(いま天津てんしん中心ちゅうしんおさむけん浮橋うきはしじゅうがつ廿にじゅうしたがえどおりしゅうおりこうみなみ晝夜ちゅうや兼行けんこうじゅうがつ廿にじゅうなな到達とうたつ滄州,守將しゅしょうじょ凱尚ざい築城ちくじょうちゅうつばめぐん僅用りょうてん就攻滄州,じょ凱等投降とうこう[85][86]つばめぐんちょうあし渡河とか[87]十一月じゅういちがつはつよん到達とうたつとくしゅうしゅ棣招降もりいさおはてとげ南下なんかもりいさお襲擊しゅうげきつばめぐんぐん失敗しっぱい[88]十一月じゅういちがつつばめぐん到達とうたつ臨清;しゅ決定けってい擾亂じょうらん中央ちゅうおうぐんてき糧道りょうどうけい至大しだいめい,焚其かてせんつばめぐんしたがえかんすえ渡河とかまもる運河うんがきょうくい運河うんがてきいち部分ぶぶん當時とうじ黃河こうがだつ入海いりうみ),先後せんご到達とうたつひがしおもね東平とうへいおびえ南方なんぽうさこ使つかいもりいさお南下なんか[89]もりいさおはたけい就計,決定けっていざいあずまあきらいま山東さんとう聊城決戰けっせんなみざい陣中じんちゅう擺了大量たいりょうやりどくいしゆみ[90]

十二月じゅうにがつ廿にじゅうつばめぐんいたりあずまあきら[91]しゅ棣仍しかおやりつぐん衝鋒,さき衝擊しょうげき左翼さよく不動ふどうしかまた衝擊しょうげき中堅ちゅうけんもりいさおひらきじんはたしゅ棣誘いれしかこうごうかこえしゅ棣被重重じゅうじゅう包圍ほういつばめぐんちょうたましゅのう(一說還有朱高煦[92]分別ふんべつ引兵らいすくえしゅ棣死せんおわり於和しゅのう會合かいごう,逃離戰場せんじょう大量たいりょうつばめぐん火器かきしょきずちょうたま中央ちゅうおうぐん包圍ほうい戰死せんし平安へいあんまたりつへい趕來,あずかもりいさおごうへい作戰さくせんつぎつばめぐんさいつぎ戰敗せんぱいとげきたかえ[93]ざい擊退げきたい中央ちゅうおうぐんてき阻截けんぶんさんねん正月しょうがつじゅうろくつばめぐんかえしかい北平きたひら[94]ちょうたま戰死せんししゅじゅうふん悲傷ひしょう[95][96]

あずま昌之まさゆきせんしゅ棣多ひん臨險さかいただしよし於朱まこと炆有「毋使ちんゆうころせ叔父おじめいむね中央ちゅうおうぐん將士しょうし懼怕戰後せんご反攻はんこうたおせさんすんで傷害しょうがいしゅ棣,またなん以活捉,ただとく放任ほうにん自由じゆうしゅ棣也恃此特權とっけん單騎たんき殿どの中央ちゅうおうぐん奈何いかん[97]

あずま昌之まさゆきせんやすしなん以來いらい中央ちゅうおうぐんてきだい一場いちじょう大捷たいしょうめぐみみかどしゅまことじゅうふんだかきょうけんぶんさんねん(1401ねん正月しょうがつ恢復かいふくりょう齊泰なりやすきよしてき官職かんしょくけんぶん元年がんねんじゅういちがつ兩人りょうにん罷免ひめんただし作為さくいさとし囊留よう[98]いたり恢復かいふくひとしてき兵部ひょうぶ尚書しょうしょてきふとつねてらきょう職務しょくむ[99]なみ以東いとうあきら大捷たいしょうつげふとしびょう[100][101]もりいさお軍勢ぐんぜいだいつばめぐんけい此敗,以後いごさい南下なんかみなゆかりじょ沛,さいはし山東さんとう[102]

夾河-藳城たたかえ

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しゅ棣以あずま昌之まさゆきはいためはじあずか姚道衍商議しょうぎみち強烈きょうれつ支持しじさいつぎ出兵しゅっぺい[103]。於是於建ぶんさんねんがつはつきゅうさいじんほろび將士しょうししゅ棣脫ほうしょう掉,激勵げきれいぐんがつじゅうろくさいつぎ出師すいし[104]ときもりいさお駐兵ちゅうへいじゅうまん於德しゅうすぐる平安へいあんざいじょうしゅ決定けってい趁其りょうぐんぶんへだたさきやぶもりいさお[105]三月さんがつじゅうにちつばめぐん探知たんちもりいさおざい夾河(いま河北かほくしょう衡水たけ邑縣附近ふきん,漳河支流しりゅうちゅう紮,於是ちゅう紮在距對かたよんじゅうさとてき地方ちほう[106]

さんがつ廿にじゅうつばめぐんしんへい夾河。もりいさお仍結堅陣けんじん,備大量たいりょうやり強弩きょうどしゅ利用りようけんぶんてききんころせむねおやりついくけい騎兵きへいかすめ敵陣てきじん偵查。もりいさお敢開やりただとく派出はしゅつ自己じこてき騎兵きへいつい趕,りょうりょうこれ[107][108]。偵查きさきしゅ棣率りょう一萬騎兵和五千步兵攻擊盛庸軍左翼,不能ふのういれ。此時つばめすすむたんふち望見ぼうけんやめけい開戰かいせん,於是主動しゅどう出兵しゅっぺいおさむもりいさお部將ぶしょうそうとくたたかえ會合かいごうもりいさおぐん斬殺ざんさつたんふちしゅ棣、しゅのうとうそく趁南ぐん調ちょう動產どうさんせいてき混亂こんらん,趁暮しょくこうみなみぐん後方こうほう猛攻もうこう斬殺ざんさつそうとく[109]もりいさお穩住りょうじん腳,てんしょくやめばん雙方そうほうやめへい。此戰殺傷さっしょう相當そうとうただしつばめぐん損失そんしつりょう大將たいしょうたんふち[110]

當夜とうやしゅ棣率りょう十餘人在盛庸營地附近露宿;さんがつ廿にじゅう三清さんきょう晨,發現はつげん中央ちゅうおうぐん包圍ほういしゅ棣再利用りようきんころせむね,引馬かく穿ほじてきぐんあげちょう而去。中央ちゅうおうぐん愕然がくぜん敢射[111]

しゅ棣回いた營中,つづみ勵眾はたりょうぐん相當そうとうはた勇者ゆうしゃかち[112],於是つばめぐんざい東北とうほく方向ほうこうもりいさおぐんざい西南せいなん方向ほうこうさいつぎ會戰かいせんつばめぐん左右さゆう衝擊しょうげきもりいさお堅守けんしゅ雙方そうほう互有勝負しょうぶせん鬥打りょうさんよんたつきさき突然とつぜん刮起りょう強烈きょうれつてき東北とうほくふう塵埃じんあい蔽天。中央ちゅうおうぐんいただきちょふうすな根本こんぽんぼつほう作戰さくせんつばめぐんそくじょうふう大呼たいこたて左右さゆうつばさよこげきもりいさお大敗たいはい損失そんしつりょうすうまんにんきさき退すさかいとくしゅう[113][114]すぐる平安へいあん引兵準備じゅんび會合かいごうもりいさお,聞庸やめはい退すさまわじょう[115]。夾河たたかえ結束けっそく

夾河たたかえじゅうしん確立かくりつりょうつばめぐんてき優勢ゆうせいうるうさんがつはつよんしゅまこと炆因夾河はいさいつぎ罷免ひめん齊泰なりやすきよし,謫出きょうじょう暗中あんちゅうれい募兵ぼへい[116]

げきはいもりいさおきさきしゅ棣進ぐんじょう考慮こうりょいたおさむじょう較困なん決定けっていさそえてきせん。於是れいぐんちゅうよんかて,而用間諜かんちょうこうすぐるとうとおる此事。すぐるとうじょう決定けってい襲擊しゅうげき[117]うるうさんがつはつきゅうりょうぐんかい於藳じょうとげ交戰こうせん中央ちゅうおうぐんれつ方陣ほうじんしゅ棣則りつ精銳せいえいおさむ其東北角きとずみ以破じんつばめすすむ薛祿よし於馬しつあしとりこただしだつてきがたなすうにんきさきだつうま逃走とうそう。此戰大量たいりょうつばめぐん中央ちゅうおうぐんてきやりかずゆみいしゆみしょきずしゅ棣的そちはたとくぞうとげ猬一さまただしゆかり於朱まこと炆的きんころせむねしゅ棣本じんはん而沒ごと[118]

つぎふくせんざいせん鬥中突然とつぜんまた刮起りょう猛烈もうれつてき大風おおかぜ中央ちゅうおうぐん不能ふのうささえ大敗たいはい而去。つばめぐんよんめんかこえおさむ斬首ざんしゅろくまんあまりきゅうすぐる平安へいあんとう逃回にげまわじょう堅守けんしゅ不出ふしゅつ[119]しゅ棣將しゃなりとげ猬的軍旗ぐんきおくかい北平きたひられい世子せいししゅだかおき妥善保存ほぞん,以警しめせ後人こうじん[120]

したがえしろみぞかわ、夾河いた藳城,つばめぐん三次得大風相助而勝,しゅ棣認ため這是天命てんめい所在しょざい人力じんりきしょのうため[121]

 
けんぶん三年夹河之战形势

夾河-藳城戰後せんごてき間接かんせつ作戰さくせん

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夾藳たたかえさいつぎ使みなみぐん損失そんしつむごおも正面しょうめん戰場せんじょうせんごとやや緩和かんわ中央ちゅうおうぐんあらためため通過つうか談判だんぱんはんあいだ襲擊しゅうげき後方こうほうとう方式ほうしき間接かんせつ作戰さくせん

げきはい平安へいあんつばめぐん南下なんか先後せんご經過けいか順德じゅんとく廣平ひろへい大名だいみょう,并駐紮於大名だいみょうしょぐんけんもちふう而降[122]

しゅ棣聽せつひとし貶,上書うわがき和談わだん表示ひょうじ「聽說奸臣かんしん雖然貶了,しん打算ださん退すさへいかいつばめこくただしすぐる平安へいあんもりいさお眾,かえ聚在わが國境こっきょううえ,這是們的けいさくかえざい實行じっこうしん敢奉むね撤兵てっぺい[123]しゅまこと炆得しょあずかかたこう孺討ろんほうたかし表示ひょうじ以借此機かい使つかい回報かいほう,拖延時間じかん,并懈怠けたい其軍しん同時どうじれい遼東りゃおとんとう軍隊ぐんたいおさむ其後かた,以備夾攻。於是(よんがつめぐみみかどれいだいてらしょうきょう薛嵓去しゅ棣,つてみことのり秘密ひみつざいぐんちゅう相關そうかん消息しょうそく[124]。薛嵓しゅ棣,せつ:「朝廷ちょうていせつ殿下でんかはやじょうだっりょう盔甲,しもうま就退へい。」しゅ表示ひょうじ這種謊言,れん三尺小兒也騙不過。薛嵓がい怕,無言むごん以對[125]五月ごがつはついちもりいさおすぐる平安へいあん等分とうぶんへい騷擾そうじょうつばめぐん餉道[126]しゅ棣遣使者ししゃしんきょう表示ひょうじもりいさおとう肯罷へい,必有ぬし使めぐみみかど聽從ちょうじゅうかたこう孺的意見いけん將來しょうらい使つかい下獄げごく一說いっせつ誅殺ちゅうさつ[127][128]和談わだん破裂はれつ

しゅ棣見和談わだん破裂はれつ決定けってい襲擊しゅうげき中央ちゅうおうぐん餉道,以使とくしゅうみなみぐんおちいにゅうこまさかいとげれい指揮しきすももとおりつへいろくせんかわ穿ほじ中央ちゅうおうぐんかぶと胄,したがえずみやすし南下なんかろくがつじゅう,瞞過中央ちゅうおうぐん到達とうたつ沛縣,成功せいこう焚燒大量たいりょう中央ちゅうおうぐんかてせん河中かわなかさかな鱉盡中央ちゅうおうぐん損失そんしつ糧食りょうしょくすうひゃくまんせき京師けいし大震たいしんとくしゅうおちいにゅう窘境[129]

なながつつばめぐん進攻しんこうあきらとくはやしけん投降とうこう[130]なながつはつじゅう平安へいあんしんてい趁虛おさむ北平きたひら,擾其こうまきしゅだかおき固守こしゅしゅ棣分へいかい援;(きゅうがつじゅうはち平安へいあんあずかせん不利ふり退すさまわじょう[131]

よし於河きたせんごと不利ふりほうたかし孺想りょうはんあいだけい利用りようしゅだかおき長子ちょうしかずしゅだか煦(次子じしてき矛盾むじゅんさきうつし一封信給守北平的高熾,れい歸順きじゅん朝廷ちょうていもと以燕おうくらいしかこうじん告訴こくそしゅ棣和だか煦(ずいぐん世子せいし密通みっつう朝廷ちょうてい,以使つばめぐんきたかえただししゅだかおきいたしん根本こんぽんぼつゆう拆開,はた朝廷ちょうてい使者ししゃれんじんたいしんじ一起送往朱棣處。反間はんかんけい失敗しっぱい[132]

なながつじゅうもりいさおれい大同だいどう守將しゅしょうぼうあきらにゅうむらさき荊關おびえじょうよりどころえきしゅう西水にしみず寨以窺北たいらしゅ棣見じょうただとくかいへい救援きゅうえん[133]しゅ棣分へいもりじょう,并包圍ほういぼうあきらてきやま寨。じゅうがつはつつばめぐんあずかてい援兵えんぺいぼうあきらぐん決戰けっせんしゅ棣令勇士ゆうし悄悄しょうしょう登山とざんざいてきだいちょう旗幟きし中央ちゅうおうぐんやま寨見じょう大亂たいらんあずかてい援兵えんぺい一齊いっせい崩潰ほうかいぼうあきら退すさかい大同だいどう[134]

じゅうがつ廿にじゅうよんつばめぐんかいいた北平きたひらこれまたげきはいりょうかさねながたいらてき遼東りゃおとんてきぐん[135]

いたり此,つばめぐんやすしなんやめゆう兩年りょうねん。雖然屢戰屢勝,ただしよし兵力へいりょく不足ふそく無法むほう鞏固きょうこなみ擴張かくちょう勝利しょうり往往おうおう放棄ほうきしんこれ;僅能よりどころゆう北平きたひらじょうえいひらさんぐん[136]

つばめぐん進攻しんこう階段かいだん

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けんぶんさんねんふゆしゅ決定けってい直接ちょくせつりつへい南下なんかちょくなぐ南京なんきん,臨江一決いっけつみち衍亦支持しじさいあずかもりいさお平安へいあんとう糾纏,ちょく趨京[137][138]

長驅ちょうく南下なんか

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十二月じゅうにがつはつつばめふく十二月じゅうにがつじゅう到達とうたつ蠡縣(やくざいじょう以南いなん50公里くり)。けんぶんよんねん(1402ねん正月しょうがつ先後せんごげきはいとくしゅうてき一支分隊和平安的部隊,於是つばめぐん南下なんか路線ろせんだい致位於現きょう九鐵路和京廣鐵路之間)いたりかんすえ渡河とかすすむ山東さんとう),并長驅ちょうく直入なおいり正月しょうがつじゅうかんすえ渡河とか正月しょうがつじゅうよんおちいひがしおもね正月しょうがつじゅうおちい東平とうへい正月しょうがつじゅうななおちい汶上;正月しょうがつ廿にじゅうななおちい沛縣(すすむ江蘇ちぁんすー);正月しょうがつさんじゅう到達とうたつじょしゅう[139]

めぐみみかどつばめぐんさいつぎ出動しゅつどうさんねんじゅうがつれい駙馬じょううめいんめぐみみかどてきしゅうとちち,顧命大臣だいじんにんそうへいかん,鎮淮やす[140]けんぶんよんねん正月しょうがつはついちはた遷往蒙てきしゅ橚(はいしゅうおう)召回南京なんきんいのちこくおおやけじょあきらりつへい援山ひがし[141]

がつはついちなんぶく平安へいあんちんあきらしんへいずみやすしもりいさおしんへい淮上。しゅ派兵はへい襲擊しゅうげき中央ちゅうおうぐん餉道がつ廿にじゅういちげきはいじょしゅうてきだしせん軍隊ぐんたいじょしゅう此閉じょう死守ししゅ[142]

れい璧之せん

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じょしゅう堅守けんしゅ不出ふしゅつしゅ棣遂さい理會りかい繼續けいぞく南下なんかさんがつはついちつばめぐんしん宿やどしゅうさんがつはつきゅう,抵達うずかわこん安徽あんき蚌埠ふところどおけん以北いほく[143]平安へいあんいたつばめぐん一路いちろ南下なんかおびへいらいついただしさんがつじゅう四日在淝河中了朱棣所設的伏兵,ただ退ずさかい宿やどしゅう[144]三月さんがつ廿にじゅうさんしゅ棣遣はただんじょしゅう餉道,てつとうりつへいかこえおさむ,互有勝負しょうぶ[145]よんがつじゅうよんつばめぐん進達しんたつ睢水小河おがわ,搭浮きょうつぎ平安へいあんなにぶくりょうぐんだつはし雙方そうほうへだたかわ僵持。數日すうじつ中央ちゅうおうぐんかてつきしゅ決定けってい偷襲。半夜はんや渡河とかにょういたりてきただしじょあきら援兵えんぺいただしこう趕到,よんがつ廿にじゅう雙方そうほうせん於齊おさい眉山びざんれい璧縣西南せいなんさんじゅうさと),中央ちゅうおうぐん大勝たいしょうつばめすすむあきら[146]

中央ちゅうおうぐんさいつぎ獲得かくとく勝利しょうりさいじょう暑熱しょねつつばめぐんおちいにゅう窘境。よんがつ廿にじゅうさんつばめぐん眾將要求ようきゅうきたかえしきゅうせいしゅ棣不同意どういせつよく渡河とかしゃひだりよくしゃみぎ。」大部おおぶ份人站於左側ひだりがわしゅ棣怒。しゅのう這時強力きょうりょく支持しじしゅ棣,表示ひょうじかん高祖こうそじゅうせんきゅうかちそつゆう天下てんか」,けんていりょうつばめぐん堅持けんじてき決心けっしん[147]

這時,朝廷ちょうてい訛傳かでんつばめぐんやめへいはい京師けいし不可ふかりょうはたとげ召回じょあきら[148]よんがつ廿にじゅう考慮こうりょいたざい河邊かわべ不易ふえきぼうもりなにぶくうつり營,與平よへい安在あんざいれい璧深みぞだかるいさくちょうとおこれけいよし於糧どうつばめぐん阻礙,平安へいあんおやりつへいろくまん護衛ごえいかてそうよんがつ廿にじゅうななしゅ棣率精銳せいえい襲擊しゅうげき平安へいあんはたいちふんためなんぶくぜんぐん出動しゅつどう救援きゅうえんしゅだか煦也りつ伏兵ふくへい出現しゅつげんなにぶく敗走はいそう[149]

中央ちゅうおうぐんかけかてなに福與ふくよ平安へいあん決定けってい廿にじゅうきゅう)突圍而出,ざい淮河取得しゅとく給養きゅうよう號令ごうれいためさんこえ炮響;つばめぐんおさむれい璧墻るい進攻しんこう信號しんごうせいたくみ也是さんこえ炮響。於是中央ちゅうおうぐん以為おのれかたごう炮,紛紛ふんぷんだつみち而逃;つばめぐん趁勢進攻しんこう中央ちゅうおうぐんぜんぐん覆沒ふくぼつれい璧之せん就此意外いがい結束けっそく。此戰つばめぐんせいとりこりょうちんあきら平安へいあんうま溥、じょしんまごなりとうさんじゅうなないんてきはたよんめい內官(宦官かんがん),いちひゃくじゅういん朝廷ちょうてい大臣だいじんまんひきくだしゃけい其數。ただゆうなんぶく單騎たんき逃走とうそう[150][151][152]

れい璧之せん徹底てっていげきつぶせりょう中央ちゅうおうぐん主力しゅりょく,此後つばめぐんざい長江ながえ以北いほくさい也沒ゆうぐういたぞうさまてき抵抗ていこう。一千六百年前決定楚漢之爭勝敗的垓下たたかえ發生はっせいざいれい附近ふきんいい歷史れきしてきたくみごう

按照ひとしてきさく劃,曾令遼東りゃおとん派兵はへい南下なんかほしあずかてつ鉉會ずみみなみただし五月初一在直沽被燕軍擊潰。

わたりこうすすむきょう

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けんぶんさんねんろくがつ以后がた势,つばめ军直捣京じょう

れい璧之戰後せんごつばめぐん向東むかいひがしみなみ方向ほうこう直線ちょくせん前進ぜんしん五月ごがつはつなな泗州しゅ棣到りょうまつり[153]もりいさおざい淮河しつらえぼうせん阻礙つばめぐん渡河とかしゅ棣在嘗試みち淮安、おおとりよう受阻[154]しゅのうおかぶくりつへいすうひゃくにんにょう道上みちがみゆうじょう漁船ぎょせん渡河とか,五月初九從後方突襲盛庸,もりいさお敗走はいそうつばめぐんとげかつ盱眙[155]

五月ごがつじゅういちつばめぐんむこうあげしゅう方向ほうこう前進ぜんしん五月ごがつじゅうなな到達とうたつてんちょうあげしゅう西北せいほく50公里くり)。まもりあげしゅうてきかん察御おうあきらほんそう抵抗ていこうただしぞくじょまさしちょうまさるはん叛,趁其沐浴もくよく綁縛五月ごがつじゅうはちあげしゅう不戰ふせん而降[156]ずいこうくだ[157]同月どうげつ,镇守泗州てきゆび挥周けいはつ投降とうこうつばめ军,とう时在泗州てきげん辽王てんたからかく杀殉こく

あげしゅう失陷しっかんきむりょう震動しんどうしゅまこと炆驚慌不やめあずかほうたかし商議しょうぎ先後せんごじょう如下いく救急きゅうきゅう方法ほうほうしたつみおのれみことのりごう天下てんか勤王きんのうねりやすしかんおう叔英とう外出がいしゅつ募兵ぼへい;召回貶黜てき齊泰なりやすきよしひともと以割もとめ,拖延時間じかん[158]ほうたかし孺的いく辦法ちゅうただゆう兩個りゃんこおこりいたりょう效果こうかひとし召回(外出がいしゅつ募兵ぼへいすすむきょう),蘇州そしゅうやすしなみ徽州等地とうち先後せんごりつへいすすむ京師けいし[159]

五月ごがつ廿にじゅうしゅまこと炆遣けいなるぐんぬししゅもとあきらてき侄女、しゅ棣的どうあねあずかしゅ談判だんぱん表示ひょうじ願意がんいわりしゅ棣說:「這是奸臣かんしん打算ださん暫時ざんじのべなるわがすすむへいようとう遠方えんぽうてきすくいへい而已。」ぐんぬし無言むごん以對,とげがえ[160][161]

ろくがつはついちつばめぐん準備じゅんびしたがえ浦子うらこくち渡江とのえただしぐういたりょうもりいさお最後さいごてき抵抗ていこうつばめぐんせん不利ふりしゅ打算ださんきたかえ。此時しゅだか煦引へい來援らいえんしゅ非常ひじょうだかきょう,拿著ふしはくちょてきせつ:「努力どりょくやめ世子せいし常常つねづねせいびょう啊。」暗示あんじしゅだか煦有機會きかい取得しゅとくもうかきみたから,於是しゅだか煦大受鼓まいりつ眾殊たたかえげきはいもりいさお[162]ずい中央ちゅうおうぐんてき一支水軍部隊降燕[163]つばめぐんとげ於六月初三自瓜洲渡江,并再げき敗退はいたいもり此地てきもりいさお六月ろくがつはつろくつばめぐんいたり鎮江守將しゅしょうりつじょう投降とうこう[164]

ろくがつはつはちつばめぐんちゅう紮於りゅう(距京師けいしきむりょうひがしやく30公里くり),朝廷ちょうてい大震たいしんしゅまこと徘徊はいかい殿でんあいだ,召方こう孺問けい有人ゆうじん提議ていぎ逃往內地以圖きょうふくほうたかし表示ひょうじじょうちゅうなおゆうじゅう萬兵まんひょうおう堅守けんしゅまち援;そく使戰敗せんぱいくにくんため社稷しゃしょく而死,しょおうとうてき以再大臣だいじん在京ざいきょう諸王しょおうぜん談判だんぱん以拖延時のぶときあいだ。於是ろくがつはつきゅうけいたかし茹瑺とうしゅ棣,さいつぎ談判だんぱんしゅ表示ひょうじわり無名むめいただよう奸臣かんしん六月ろくがつはつじゅうたにおうしゅ橞(けんぶん元年がんねん逃回にげまわきょうじょう)、安王やすおうしゅひとしだいさんまえ談判だんぱんはて[165]

六月ろくがつじゅう外出がいしゅつ募兵ぼへいてき大臣だいじん們仍かえしかいしゅまこと炆只とく在京ざいきょう諸王しょおうかず武臣たけおみ守衛しゅえいかくもんときひだりとくじょぞうことぶきじょいたるじょあきらおとうとはかりごと內應,いちぐん文官ぶんかんかこえなぐ[166]六月ろくがつじゅうさん(1402ねん7がつ13にち),つばめぐんきむりょうじょぞうことぶきさく內應,ことはいしゅまこと炆親誅殺ちゅうさつ於左じゅんもん守衛しゅえい金川かながわもん南京なんきん城西じょうさい北面ほくめんてきしゅけいたかし望見ぼうけんしゅ棣麾ぶた開門かいもんむかえため金川かながわもんへん[167][168][169]

つばめぐんおさむ入金にゅうきんりょう江山えやまえきぬしやすしなんやく結束けっそくけんぶんよんねんひろしさんじゅうねんろくがつじゅうななにちしゅ棣登もとそく皇帝こうていため明太めんたいむねこうあらためなり)。

波及はきゅう後事こうじ

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めぐみみかどしつ

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つばめぐんすすむ南京なんきんしゅまこと見事みごと不可ふかためとげざい皇宮こうぐう放火ほうかうま皇后こうごう於大おだいしゅまこと炆本じん太子たいししゅぶん不知ふちしょおわり;此後其下落成らくせいためなぞだん[171]

しゅ入城にゅうじょうじん出馬しゅつば皇后こうごうてき屍體したいゆびみとめ其為しゅまこと炆,并執其手哭「傻小なに如此」[172]ずい六月廿日以天子禮葬之,造成ぞうせいしゅまこと炆已てき假象かしょう[173][174]

しゅ棣稱みかど

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南京なんきん陷落かんらくしゅ入城にゅうじょう,就要しんみやのぼりはじめ翰林院かんりんいん編修へんしゅう楊榮むかい馬首うまくびせつ:「殿下でんかさき拜謁はいえつこうりょうかえさき即位そくい?」てん醒朱棣,おう該對明太めんたい表示ひょうじ孝道たかみち[175]つぎけんぶんよんねんろくがつじゅうよんおこり諸王しょおう文武ぶんぶ群臣ぐんしんつぎ上表じょうひょう勸進かんじんしゅ棣不まこと[176]數日すうじつろくがつじゅうなな),しゅ棣謁こうりょう,并於當日とうじつそく皇帝こうてい[177]ため明太めんたいむねこうあらためためなり)。じゅうけんたてまつさき殿どのきゅう殿しんがりためしゅまこと炆所焚),こくだま[178]同年どうねんじゅういちがつじゅうさんにちふう王妃おうひじょため皇后こうごう[179]

しゅ棣不承認しょうにんけんぶん年號ねんごうなながつはついち一說いっせつろくがつじゅうはち),はたけんぶんもとさんよんねんあらためためひろしたけさんじゅういたりさんじゅうねん[180][181]ねんあらため为永らく元年がんねん。凡建ぶん年間ねんかん貶斥てき官員かんいん一律いちりつ恢復かいふく職務しょくむ(如靖なん初期しょきいん離間りかん貶的こうかげこうくれだかさいつぎ起用きようまもり大同だいどう);けんぶん年間ねんかんてき各項かくこう改革かいかく一律いちりつ取消とりけし[182][183]けんぶん年間ねんかん制定せいていてき各項かくこう法律ほうりつ規定きてい,凡與太よたしょうもとてき一律いちりつ廢除はいじょただし一些有利於民生的規定也被廢除,如建ぶん二年下令減輕洪武年間浙西一帶的極重的田賦,いたり此又へんじゅう[184]

誅殺ちゅうさつふうしょう

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方正ほうせいがく先生せんせいへりくだこころざしときしゅうこれほうたかしぞう

しゅ棣在やすしなんやく結束けっそくきさきむこうきむりょう軍民ぐんみん發布はっぷ公告こうこくしょう:「さとし在京ざいきょう軍民ぐんみんわがほんよく永遠えいえん守衛しゅえいてきはんふうじ,卻因奸臣かんしんろうけんさくさくぶくしるべ致皇骨肉こつにく殘害ざんがいとくおこりへい誅殺ちゅうさつ目的もくてき扶持ふち社稷しゃしょくかず保全ほぜん親藩しんぱん現在げんざい平定へいてい京師けいし有罪ゆうざいてき奸臣かんしん赦免しゃめん無罪むざいしゃ也不敢濫ころせ;如有小人こども藉機報復ほうふく,擅自綁縛、放縱ほうしょう掠奪りゃくだつとう而禍及無辜むこ非我ひが本意ほんい。」[185]

けんぶんよんねんろくがつ廿にじゅうしゅ誅殺ちゅうさつ齊泰なりやすきよしほうたかしめつ其族[186]。其中かたこう孺據でん誅十ぞく九族きゅうぞく朋友ほうゆう門生もんせい[187]いんかたこう孺而受牽れん而死者共ものども873にんたかしぐんとうざいしゃせん餘人よにん[188]よしきよし受牽れんてきゆう345にん[189]けいきよしくだのち密謀みつぼうぎょうとげことはいはちがつじゅうころせめつ九族きゅうぞくほふ其家きょういいふりづるしょう[190][191]

此外,眾多けんぶん舊臣きゅうしんたくけい暴昭ねりやすしもうやすしかくつとむしょく戴德つねおうりょうおう叔英おう敬止けいししゃますちょう志方しかたあまただしちんすすむひねまましこれかんひさしぶくりゅうはしりゅうてつほうやすしかん廖昇しゅうただしおさむかおはくかやだいかおるひとしとう也都處決しょけつある自盡じじんしょう:「ちゅう憤激ふんげきはつがたなのこかなえ鑊甘わかあめひゃくせい而下,凜凜なお有生ゆうせい。」[192]們的ぞく和親わしんじん也被牽連,死者ししゃ甚眾。ながれ、逼作妓女ぎじょ及被其它方式ほうしき懲罰ちょうばつてきじん也不すくな[193]明仁あきひとむね即位そくい大部おおぶ份人はじめ赦免しゃめん,而餘てき人的じんてき後代こうだい卻遲いたり明神みょうじんむねどきはじめ赦免しゃめん[194]けんぶんへりくだくらい朝野あさの為之ためゆき盡忠じんちゅうふししゃ甚眾,及備載。

ざいだい誅殺ちゅうさつそと當月とうげつしゅ棣將こくおおやけじょあきら禁錮きんこ釋放しゃくほう并削其爵位しゃくいてる死後しご,其子嗣魏こく公爵こうしゃく[195]かんしゅ棣所嫉恨,其狀もとてき份被かわ明代あきよ保持ほじ連中れんちゅうさんげん,受記ろくてきただゆうしょう一人ひとりもりいさお平安へいあんれい璧之たたかえ)、なにぶく駙馬うめいんとう先後せんご投降とうこうしゅ棣的ひだりちんあきらまた迫害はくがいけんぶん舊臣きゅうしん及其眷。

やすしなんこれやく文武ぶんぶ眾臣出力しゅつりょく甚多,しゅ棣稱みかど先後せんご進行しんこうりょうふうしょうきょうしろ陷落かんらく六月ろくがつじゅうきゅうついふうじょぞうことぶきためたけようこうおくりなちゅう湣,後進こうしんため定國さだくにこう世襲せしゅう[196]やすしなん將士しょうしかくゆうふうしょう

きゅうがつはつよん論功行賞ろんこうこうしょうだいふう眾將[197][198]

ふうこう2人ふたりついふう2にん省略しょうりゃくじょふう爵外てき其他ふうしょうしもどう):

  • おかぶく:淇國こう子孫しそん世世よようけたまわかさね以下いか簡稱世襲せしゅう
  • しゅのうなりこくおおやけ世襲せしゅう
  • ついふうちょうたまさかえこくおおやけおくりな忠顯ただあき
  • ついふうちんとおる:涇國こうおくりなじょうさとし

ふうこう(13にんついふう2にん):

  • ちょうたけしなるこう世襲せしゅう
  • ちんけいたいやすしこう世襲せしゅう
  • ていとおる武安たけやすこう世襲せしゅう
  • はじめぜんじょうこう世襲せしゅう
  • しんどうやすこう世襲せしゅう
  • 顧成:鎮遠こう世襲せしゅう
  • おうただしやすしやすこう世襲せしゅう
  • おうさとしたけしろこう世襲せしゅう
  • じょただしえいやすしこう世襲せしゅう
  • ちょうしん隆平りゅうへいこう子孫しそん世襲せしゅう隆平りゅうへいはく
  • とお安平あびらこう子孫しそん世襲せしゅう安平あびらはく
  • かくあきら成安なりやすこう子孫しそん世襲せしゅう成安なりやすはく
  • ぼうひろしおもえおんこう子孫しそん世襲せしゅう指揮しき使
  • ついふうたんふちたかしやすこうおくりなたけしぶし
  • ついふうじょぞうことぶきたけようこうおくりなちゅう

ふうはく(11にん):

  • じょさちきょうやすはく世襲せしゅう
  • じょさとしたけやすしはく世襲せしゅう
  • 浚:じょうじょうはく世襲せしゅう
  • ちょう輔:しんやすはく世襲せしゅう
  • からくもあたらしあきらはく子孫しそん世襲せしゅう指揮しき使
  • たんちゅうたん淵子ふちこ):あたらしやすしはく世襲せしゅう
  • まごがんおうじょうはく世襲せしゅう
  • ぼうしょうとみあきらはく子孫しそん世襲せしゅう指揮しき使
  • ちょうつね:忻城はく世襲せしゅう
  • ちんあさひくもはく世襲せしゅう
  • りゅうざいこうおんはく子孫しそん世襲せしゅう指揮しきどう

かえり出力しゅつりょくてきけんぶん舊臣きゅうしんふう爵:

  • けいたかし:仍為曹國こうぞう祿ろく世襲せしゅう
  • おうやすしえいはるこう世襲せしゅう
  • 茹瑺:忠誠ちゅうせいはく世襲せしゅう
  • 王佐おうさじゅんあきらはく子孫しそん世襲せしゅう指揮しき使
  • ちん瑄:平江ひらえはく子孫しそん世襲せしゅう指揮しき使

かくたまものかんむりふくきゅうけん

其他影響えいきょう

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明朝みょうちょう宗室そうしつてき待遇たいぐう變化へんか

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しゅ棣稱みかど六月ろくがつじゅうはち恢復かいふくりょうしゅうおうしゅ橚、ひとしおうしゅ榑的爵位しゃくい[199]ずい恢復かいふくだいおうしゅかつら、岷王しゅ楩的爵位しゃくい永樂えいらく元年がんねん正月しょうがつれいしゅうひとしだい、岷四おうはん[200]

ろくがつ廿にじゅうろくしゅ取消とりけししゅ標的ひょうてきあかりきょう宗廟そうびょうごうじゅうしんしょう懿文太子たいし,吕太きさき复称懿文太子たいし[201][202]なながつじゅうはたしゅまこと炆的三個弟弟由親王降為郡王[203]じゅう一月以不能匡正建文帝为由將朱允熥、しゅまこと熞廢ため庶人软禁凤阳,しゅまこと熙不ひさ暴卒[204][205]しゅまこと次子じししゅぶんけいまた废为“けん庶人”,软禁凤阳广安宫,55ねんきさきざいしゅまこと熥后じん一同いちどうあきらえいむね释放。しゅ标子孙再无任何人なんにんざい生前せいぜん获得にんなん宗室そうしつふう爵。

しゅ棣因ため反對はんたいけんぶんみかどそぎはん而起へいためりょうそう諸王しょおうよう戴,即位そくいきさきりつそく恢復かいふくりょうそぎてきはんおう,并加以賞賜しょうし,甚至改變かいへんせいきゅう宗室そうしつさらだかてきしなきゅう。如按あきらひろしたけ年間ねんかん規定きてい鎮國將軍しょうぐんぐんおう之子ゆきこためさんひん輔國將軍しょうぐんよんひんたてまつくに將軍しょうぐんひん鎮國中尉ちゅういろくひん輔國中尉ちゅういななひんたてまつくに中尉ちゅういはちひん。而成とげ鎮國將軍しょうぐんしたがえいちひん,輔國將軍しょうぐんしたがえひんたてまつくに將軍しょうぐんしたがえさんひん,鎮國中尉ちゅういしたがえよんひん,輔國中尉ちゅういしたがえひんたてまつくに中尉ちゅういしたがえろくひん[206]

しか而由於朱棣自己じこ武裝ぶそうだつけんてきためりょう保證ほしょう中央ちゅうおう政權せいけん穩固,即位そくいきさきさきはたしょあたりふさがおうあらためふう于內しかこう逐漸解除かいじょ諸王しょおうてき兵權へいけん永樂えいらく元年がんねんそぎだいおう護衛ごえい及官ぞく永樂えいらくよんねんそぎひとしおう護衛ごえい及官ぞくひさはいため庶人永樂えいらくろくねんそぎ岷王護衛ごえい及官ぞく永樂えいらくじゅうねんそぎりょうおう護衛ごえい永樂えいらくじゅうねんはいたにおうため庶人;永樂えいらくじゅうきゅうねんしゅうおうぜいみょう主動しゅどうけんじかえ護衛ごえいひろしたけちょうたいへいてきじゅうさん親王しんのう永樂えいらくちょうそぎりょうろく護衛ごえいあずか此同だいふうやすしなん功臣こうしんはただい批有經驗けいけんてき武臣ぶしん保留ほりゅうらいきょう中央ちゅうおう政權せいけんしたがえ根本こんぽんじょう改變かいへんりょう中央ちゅうおうしょはんてき軍事ぐんじ力量りきりょう對比たいひ[207]

雖然しゅ實現じつげんりょうしゅまこと炆當ねんてき目的もくてきただしただ解決かいけつりょう眼前がんぜんてき問題もんだいなみぼつゆう改變かいへんせい;其子かんおうしゅだかかずちょうおうしゅだかひうち仍然設立せつりつりょうさん護衛ごえいせんとく元年がんねんこう煦之らんさいつぎ證明しょうめい親王しんのうすべへい辦法。あかりせんむねおやせいひららん利用りよう其威もちさこ使絕大ぜつだい份藩おう交出りょう護衛ごえい,并從各個かっこ方面ほうめんたい宗室そうしつ以控せい。此後,宗室そうしつあずか中央ちゅうおうてき矛盾むじゅん逐漸よし軍事ぐんじじょうたい政權せいけんてきおびえ轉變てんぺんため大量たいりょう增加ぞうかてき俸祿たい中央ちゅうおう財政ざいせいてき壓力あつりょく[207]れい如弘ねん,曾有地方ちほう官員かんいん上奏じょうそう朝廷ちょうていゆび一名宗室有九十多個子女,最後さいご朝廷ちょうていげんせいぐんおう以下いか正妃せいひがいわらわてき數量すうりょう[208]明朝みんちょうまつとしみんへんよんおこりたんぶくおうしゅつねまことてき財產ざいさん,就已けいなりりょうなりてき軍隊ぐんたいざい此之いくねんてき軍費ぐんぴてきらいげん

遷都せんと北京ぺきん內遷だいやすし

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よしひろしたけ年間ねんかん北方ほっぽうてきぼうつとむよしいくあたりおう(如朱棣、しゅけんせめ,而靖なんしゅ棣徙しょあたりおう內地しるべ華北かほくぼうつとむ空虛くうきょまたよし於有からあさこれもりがいきょ內、宋朝そうちょうこれもり內虛外的がいてき教訓きょうくんざい軍事ぐんじじょうていきんりょう南京なんきん)、はるかひかえ將領しょうりょう守衛しゅえいかいてきふうけん很大;“天子てんしもりこくもんのり解決かいけつ這一問題もんだい。另一方面ほうめんゆかり南京なんきんてきけんぶんみかど勢力せいりょく影響えいきょう較大(很多けんぶん遗臣はじめ终不顺服しゅ統治とうち),于在政治せいじじょう考慮こうりょ作為さくいしゅ大本營だいほんえいてき北平きたひらさら適合てきごう作為さくいきょうさいじょうこうむてき軍事ぐんじおびえ考慮こうりょ各種かくしゅいんもときさきしゅ決定けってい遷都せんと北京ぺきん

永樂えいらく元年がんねん(1403ねんふゆがつしゅ棣改北平きたひらため北京ぺきんめいじゅんてん[209]ずい遷徙各地かくち富民とみん北京ぺきん[210]たたえ北京ぺきんためくだりざい永樂えいらく年間ねんかん遷都せんと北京ぺきんてき準備じゅんびいちちょくざい進行しんこう,如建北京ぺきんじょうたてみや殿どの疏通そつうこげうんとうちょくいた永樂えいらくじゅうはちねん(1420ねん),北京ぺきんすめらぎ宫和北京ぺきんじょうたてしげるとげれい遷都せんと以南いなんきょう作為さくいとめ[211]此,じょ1928ねんいたり1949ねん期間きかん國民こくみん政府せいふじょう南京なんきんがい北京ぺきんいちちょく中國ちゅうごくてき首都しゅと政治せいじ中心ちゅうしん从此北移きたうつし

しゅ棣在やすしなんはつはじめ曾將だいやすしてき全部ぜんぶぐんりょく包括ほうかつ朵顏さんまもる納入のうにゅう麾下きか,朵顏三衛在後續作戰中起到了重要作用;しゅしょうみかどはたやすしおうふうみなみあきら。对于だい地区ちくゆう两种说法,其一认为朱棣在永樂元年三月把大寧封賞給朵顏三衛作酬勞[212][213]

だいやすしくらい於今りょうこうむ三省みつよし交界しょ遼東りゃおとん-あざみしゅう-せん弓形きゅうけいてき中心ちゅうしん軍事ぐんじ地位ちい相當そうとう重要じゅうようひろしじゅうさんねん(1380ねんおさむふく,并建立こんりゅうまもるしょいたり此廢じょ[214]だいやすし作為さくい遼東りゃおとんあざみしゅうせん等地とうちてき防衛ぼうえい前哨ぜんしょう,并影響えいきょう防衛ぼうえい效果こうかしつだいやすししたがえせき內到遼東りゃおとん就只のうはし山海さんかいせきにしきしゅう。此後(ゆう其是土木どぼくへんこう),あざみりょうてきせんごと不斷ふだんゆう其是正統せいとう土木どぼくへんあずかよしみやすしかのえいぬへんこうむ古人こじんしたがえだいやすし入寇にゅうこうわりだいやすしこれごとため後人こうじんしょ詬病[215]

其二そのじ认为しゅ棣虽しかうち迁了だい宁,えい乐元ねん(1403ねんさんがつはつにち,“(北平きたひらあるきゆび挥使为大宁都ゆび挥使,隶后军都とく,设保ていひだりみぎなかまえきさき卫,俱隶だい宁都。调营しゅうひだりたむろ卫于顺义,みぎたむろ卫于苏州,ちゅうたむろ卫于ひら峪,ぜんたむろ卫于香河かごきさきたむろ卫于さんかわ,卫设ひだりみぎなかまえきさきしょ,仍隶だい宁都[216]ただししゅ棣并しょうだい地区ちく给予兀良哈作为酬劳,而仅仅是给予其更だかてき自治じち权,且不なぞらえ们南下大しもおお地区ちく放牧ほうぼく,“こん仍旧せい,设泰宁、ぶくあまり、朵颜さん卫,俾尔とう统属军民,镇守边境;きゅう尝授かんしゃれつめい以闻,咸复わか头目じんとうぜん授官,于今とう授者,まただい其名らい闻,ちんそく授之,俾世きょ本土ほんどやす其生业”[217]明成めいせい还于ながよんねん(1406ねん和永かずえじゅうねん(1422ねん)对兀りょう哈蒙进行镇压,以维这一地区ちくてき稳定[218]

而大宁地区ちくざいなが乐年间始终作为朱棣“こん灭此ざん虏,おもんみもり开平、兴和、宁夏、あま肃、だい宁、辽东,则边さかいなが无事矣”[219]边防体系たいけいてきいち部分ぶぶん发挥作用さようちょくいたけい泰之やすゆききさきずい明朝みょうちょう边防政策せいさく转向保守ほしゅだい地区ちくざいさい终为兀良哈さん卫占すえ[220][221][222]

設立せつりつ內閣、特務とくむ統治とうち重用じゅうよう宦官かんがん

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ためりょうさら有效ゆうこうりつ處理しょり國務こくむひろしさんじゅうねん(1402ねんはちがつはついちしゅ棣令かいにゅう直文なおふみふちかくあずかつとむずい擴充かくじゅう內閣いたりななにんしたがえ此內かく開始かいしざい明朝みんちょう政治せいじちゅう發揮はっき越來ごえくえつ重要じゅうようてき作用さよう[223],甚至清朝せいちょう仍沿よう制度せいど

另一方面ほうめんゆかり於朱棣是造反ぞうはんしょうみかどてきたい大臣だいじんゆうしょ猜忌さいき恢復かいふくりょうひろしたけ年間ねんかん廢除はいじょてきにしきころもまもるじゅうしん開始かいし實施じっし明朝みんちょうてき特務とくむ統治とうち指揮しき使紀綱きこうなりため永樂えいらく朝一あさいち大權たいけん奸。ずい永樂えいらくじゅうはちねんしゅ棣又設立せつりつりょうひがししょうれいおや信太しだかんてのひらけんきょう特務とくむ統治とうちてき同時どうじひさげだかりょう宦官かんがんてき地位ちい有明ありあけいちだい特務とくむ統治とうちいく乎貫穿ほじ始終しじゅうなりためいちだいとくてん

よし於靖なんこれやくしゅ棣得いたりょう很多宦官かんがんてき幫助,其即改變かいへんりょうふとし禁止きんし宦官かんがんせいてき政策せいさく開始かいし重用じゅうよう宦官かんがん[224]一方いっぽうめん明朝みんちょう出現しゅつげんりょうていかずひとし著名ちょめいてき優秀ゆうしゅう宦官かんがんしも西洋せいようひらきてん國際こくさい交流こうりゅう;另一方面ほうめんゆかり於司れいかんひがししょうとう宦官かんがんてのひらけんてき部門ぶもん地位ちいひさげだか,且地方ちほう鎮守ちんじゅ監督かんとく辦等重要じゅうよう工作こうさくみなよし宦官かんがん擔任たんにん不全ふぜんためしゅ設置せっち),うめりょう宦官かんがんこくてき種子しゅし

たい地方ちほう經濟けいざいてき影響えいきょう

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やすしなんこれやくわたる及整華北かほくはなひがし地區ちく反復はんぷくてきひしげのこせん使とく淮河以北いほくてき經濟けいざい遭到破壞はかい[225]しゅ棣登もと減免げんめんりょう河北かほく河南かなん山東さんとうひとし曾為戰場せんじょうてきしょう份及其它しょう份的ぜい,以休養きゅうよう生息せいそく[226]

文化ぶんか

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明成めいせいじょりょう誅殺ちゅうさつちかいこうただしけんぶんみかどてき大臣だいじんがいかえしたれいたい殉難じゅんなんしょしん以及一切與建文帝有關的文字著作一概交出燒毀,わたし收藏しゅうぞうしゃころせやき毀的著作ちょさく包括ほうかつ如方こう孺所ちょてきしゅうあやこう》、《だいえきえだ》、《帝王ていおうもといのちろく》、《ぶんみつるとう[227]

軼事いつじ

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明太めんたい於眾親王しんのう分別ふんべつなずらえていじゅう作為さくいかくささえ親王しんのう子孫しそん命名めいめいてきやからつばめおうしゅやからそくため:“こう瞻祁ゆうあつ翊常よし。”有人ゆうじんせつ:“こう瞻,おおせほうてん也;あつ,俯察也,てん高地たかちあつし氣象きしょう甚大じんだいまこといい天子てんし矣。”しゅ棣聽かん欣喜きんきわかきょうじんかえせつ:“おのれめいざい,必有天下でんかもちしゃ。”またせつ:“つばめゆう天子てんし。”此事みとめためしゅ棣謀劃起へい叛變てき前兆ぜんちょう[228]

まいり

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註釋ちゅうしゃく

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  1. ^ 本文ほんぶんちゅう,凡漢字かんじなつれきのうれき),凡阿ひしげはく數字すうじ儒略れきおおやけれき),したどう
  2. ^ ちゅう西曆せいれき對比たいひ:(なつれき明惠あきえみかどけんぶんよんねんろくがつじゅうさんにちそく(儒略れきおおやけもと1402ねん7がつ13にち
  3. ^ まい親王しんのうゆうさん護衛ごえいあかりせいごとまもるやくろくせんにん合計ごうけい超過ちょうかいちまんきゅうせん

参考さんこう文献ぶんけん

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引用いんよう

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  1. ^ 中国ちゅうごくだい百科ひゃっかぜん书》2009ねんだいはんだい12かん175ぺーじえい译Jingnan Campaign
  2. ^ あかりまきななやすしけんじ王權おうけんふとしだいじゅうななひろしじゅうよんねんふう。逾ねん,就藩だいやすしだいやすしざいほう口外こうがいいにしえかいしゅうひがしれんりょうひだり西にしせっせんためきょ鎮。おびかぶとはちまんかわしゃろくせん所屬しょぞく朵顏三衛騎兵皆驍勇善戰。けんすうかい諸王しょおうふさが,以善はかりごとしょう
  3. ^ あかりまきさんのこみことのり曰:「ちん膺天いのちさんじゅうゆういちねんゆう危積しん日勤にっきんだるつとむ有益ゆうえき於民。奈起かんほろ古人こじんはくこう善惡ぜんあくあく及遠矣。こんとく萬物ばんぶつ自然しぜん,其奚あいねんゆうすめらぎふとしまごまこと仁明にんみょう孝友たかとも天下てんか歸心きしんむべとうだい。內外ぶん武臣ぶしん僚同こころ輔政,以安われみん祭儀さいぎぶつ,毋用金玉きんぎょくこうりょう山川やまかわいん其故,毋改作かいさく天下てんか臣民しんみん,哭臨さんにちみなしゃくふく,毋妨よめめと諸王しょおう臨國ちゅう,毋至京師けいししょ不在ふざいれいちゅうしゃ,推此れい從事じゅうじ。」
  4. ^ 明通あけどおりかんまき十一といちいたりつばめおう北平きたひら奔喪,援遺みことのりどめ,於是諸王しょおうみなえつ流言りゅうげん煽動せんどう,聞于朝廷ちょうていいいきよし曰:「先生せんせい憶昔ひがしかくもんげん乎?」たい曰:「敢忘。」於是はじめあずかたいけんそぎはんこれ
  5. ^ あきらかん綱目こうもく卷一けんいち:(ひろしさんじゅういちねんろくがつ戶部とべさむらいろうたくあかり請徙ふうつばめおう棣於みなみあきら聽。
  6. ^ あきらかん綱目こうもく卷一けんいち:乃命曹國こうけいたかし以備ためめい,猝至開封かいふうかこえ王宮おうきゅうこれ以歸。……乃廢橚為庶人,竄蒙諸子しょしみなべつ徙。
  7. ^ あきらかん綱目こうもくまき:(けんぶん元年がんねんなつよんがつ,湘王かしわ焚死,ひとしおう榑、だいおうかつら有罪ゆうざいはいため庶人。かしわ膂力りょりょくひとにぎかたな弓矢ゆみやはせわかいたりゆうつげ其反しゃみかど使つかいそく訊,かしわ焚其宮室きゅうしつ,彎弓おどうまとう火中かちゅう。榑累れきふさがじょう,以武こうあずかつばめどおりため府中ふちゅうじんしょつげかいだいぐんまたうえへん,乃廢二王におうため庶人,錮榑京師けいしかそけかつら大同だいどう
  8. ^ あきらかん綱目こうもくまき:(けんぶん元年がんねんろくがつ,岷王楩有ざいはいため庶人:西平にしだいらこう沐晟そう楩不ほうはいため庶人,徙漳しゅう
  9. ^ 明太めんたいむね實錄じつろく卷一けんいち時世じせいぐんおうだか煦、さんぐんおうだかひうちみな在京ざいきょう齊泰なりやす曰:さんにんざい此,むべさきおさむこれきよし曰:不可ふかことさとしそくかれ先發せんぱつ有名ゆうめい,且得ため備;莫若使つかいひろしふところうたぐ也。とげひろ悔,ひとおい及。
  10. ^ 明通あけどおりかんまきじゅうふとしくずし也,諸王しょおう世子せいし及郡おうみな在京ざいきょう遺命いめい三年喪畢遣還,つばめ世子せいし及高煦、こうひうちあずか焉。ときつばめおうかたしょうやましのこみことのりいたりひと扶掖哭臨。またすうがつ,乃上書うわがき乞遣さんやまし齊泰なりやすすすむじょう勿許,且請おさむこれきよし曰:「わか聼之以示うたぐ,乃可かさね而取也。」じょうしたがえきよしげん,竟遣かえ
    つばめ世子せいし兄弟きょうだいこくおおやけじょあきらおい也。てるまたすすむじょうとめ,且密奏みっそう曰:「さんおいちゅうこう煦尤いさむ無賴ぶらいただし不忠ふちゅう,且叛ちち他日たじつ必為大患たいかん。」じょう以問てるおとうとぞうことぶき及駙おうやすしみなりょくひさし,乃悉遣歸國きこくこう煦陰にゅうてる廄取其馬以行,てる使じんおい及。いたりそくつばめおう大喜だいぎ曰:「われ父子ふしふくとくしょう聚,てんさんわが也。」於是はんこころざしえきけつ
  11. ^ 明通あけどおりかんまきじゅう:(ろくがつおのれとりつばめさんひゃく倪亮じょうへんつげつばめかんこう於諒、しゅう鐸等かげごとみことのり逮至京師けいしみな戮之。ふくみことのりせめつばめおうおうとげたたえやましあつし佯狂ようきょうはしよびちゅうだつ酒食しゅしょく妄亂,ある土壤どじょうわたるよみがえちょう昺、しゃとうとにゅうといやましおう盛夏せいかかこえ播顫曰:「かん甚。」宮中きゅうちゅうまたつえ而行。昺等やや信之のぶゆきちょうふみかずらまことみつ曰:「おうほん恙,おおやけとう勿懈。」
  12. ^ 明通あけどおりかんまきじゅうはつちょう信之のぶゆきいたりつばめ也,あずか昺等どう受密むねゆう不知ふち所出しょしゅつ。以告ははははだいおどろき曰:「われ聞燕ゆうおうおう當爲とうい天子てんしなんじまき勿妄舉,あかぞく也。」いたりまたみつ敕信,使つかいおうしん見事みごときゅう三造みつぞうつばめてい,乃乘婦人ふじんしゃみちいたりもんかた請之。おう召入,しんはいゆかみつ以情輸王。おうなお佯為ふうやまし不能ふのうごとしん曰:「殿下でんか毋爾也。しんいまたてまつみことのり禽王,おうはてとう就執,如有意ゆういこう勿誨しん。」おう察其まことしもはい曰:「なまわが一家いっかしゃ也!」於是召僧どう衍謀舉兵。
  13. ^ 明通あけどおりかんまきじゅうかい昺等部署ぶしょまもるそつ屯田とんでんぐんぬのれつじょうちゅういちめんあきら奏聞そうもんぬの政司せいじゆうちょく竊其そうけんじ府中ふちゅうつばめおう亟呼護衛ごえいちょうたましゅのうとうりつ壯士そうしはちひゃくにんいれまもる
  14. ^ 明通あけどおりかんまきじゅうあきなながつみことのりいたり,「逮燕かんぞく」,於是ちょう昺、しゃとうととうりつしょ衛士えじ以兵かこえだい,……みずのえさるおうしょうやましいよいよ東殿ひがしとのふく壯士そうし左右さゆう及端れいもん內,ひと召昺、たかいたりふくちゅう使つかいしめせ以所逮姓めい乃至ないし。……一時いちじ伏兵ふくへいつきおこりぜん禽昺、たか,捽葛まこと下殿しもとのおう擲杖おこり曰:「わがなにびょうため若輩じゃくはい奸臣かんしんしょ逼耳。」昺、及誠とう不屈ふくつみなこれ
  15. ^ 明太めんたいむね實錄じつろくまきよる,(ちょうたまとうおさむきゅうもん黎明れいめいやめかつ其八,おもんみ西にし直門じきもんしたうえれい指揮しきからくもかいかぶと騎馬きばしるべしたがえ如平西にし直門じきもんたたかえしゃしかこれ曰:「なんじ眾喧閧,よくなんためしゃだれれいしかため不義ふぎころせみみ。」眾聞くもごとみな,乃盡かつきゅうもんとげれいやすしゅう城中じょうちゅう人民じんみん安堵あんどしょつかさ官吏かんりこと如故。北平きたひら指揮しき使俞填はしきょいさおせきうま瑄走あざみしゅうそうただしりつへいいたりきょいさおせき知事ちじひとし退すさふところらいとめ俞填もりきょいさお
  16. ^ すめらぎあかりくん·法律ほうりつ》:如朝正臣まさおみうちゆう奸惡かんあくのり親王しんのうくんへい待命たいめい天子てんしみつみことのり諸王しょおうみつるりょう鎮兵討平
  17. ^ 明太めんたいむね實錄じつろくまききのえいぬとおりしゅうまもる指揮しきぼうかちとうりつ眾以じょうらい
    へいうませんざいあざみしゅうはかりごとおこりへいらいおさむうえ指揮しきしゅのうとうおさむ拔其じょうとげなまとりこせん。遵化まもる指揮しき蔣玉、密雲みつうんまもる指揮しきかくとおるかく以城らい
    おのれいのち指揮しきじょやすししょうさち、千戶徐祥等討填,やすとうおさむやぶ其城(きょいさおせき),はまはしふところらいそうただし
    きのえさるいたりふところらい。……そうただしあまり眾蒼れつじん未成みせいうえ麾師渡河とかつづみ噪直おき其陣,そうただし大敗たいはい,奔入城にゅうじょう。……指揮しきそうとく單騎たんき遁走とんそう眾悉降,そくかえりはらまもる
    へいいぬえいひら守將しゅしょうちょうつねかくあきら以城らい
    乙未おとみ,……乃作詒卜まんしょもりしょう獎萬而極毀詆亨,緘識ろうみつ,召一そついんさけ,且厚賚之,而置しょ其衣ちゅう,俾歸あずかまん。其同これそつ竊窺もんもりしゃ曰:「かれなにためしゃ?」もりしゃ曰:「どおりとくあつ賚。」そつ跪曰:「つげもりしゃのうためわが請得偕行,おもんみいのちしたがえ敢望賚。」もりしゃ如所げんため請,とげ俱遣而不あずか賚,とく賚者おわり不平ふへいいたり即發そくはつ其事。りゅうしんちんとおるさがせそつころもとくあずかぼくまんしょとげうたぐばん下獄げごくせき其家。
  18. ^ 明通あけどおりかんまきじゅうみずのえたつたにおう橞聞つばめへいやぶふところらいせん奔京
  19. ^ あきらかん綱目こうもくまきつばめへいおこりあさ廷慮(しゅけんあずかつばめあい,召權及遼おううえ歸京ききょううえ泛海かえけんいたりすわそぎ護衛ごえい
  20. ^ 明太めんたいむね實錄じつろくまきさん齊泰なりやすとうおもんばかりょうおうしょくやすし王權おうけんため上之うえのすけ建議けんぎ召還しょうかんきょうおもんみうえいたりとげ敕削けん護衛ごえい
  21. ^ 明通あけどおりかんまき十三じゅうざちんただししゃけんぶん元年がんねんそう忠之ただゆきはいしつ以參はた退すさもり大同だいどうだいおうよく舉兵おうつばめしつとくはつ
  22. ^ あきらかん綱目こうもくまき:棣反しょ聞。みかどつげふとしびょうそぎ棣屬せきはいため庶人。みことのりしめせ天下でんか。以(耿)炳文ふとし宿將しゅくしょうはいせいとりこ大將軍だいしょうぐん
  23. ^ 明通あけどおりかんまきじゅうこれがつつばめおうはんしょ聞。齊泰なりやす請削つばめぞくせきこえざい致討。あるなんたい曰:「あきら其為ぞくてき乃可かつ。」とげていつばめ布告ふこく天下でんか
  24. ^ あかりまきいちひゃくよんじゅう:暴昭,潞州じん。……つばめへいおこりしつらえひらつばめぬの政司せいじ於真じょうあきら以尚しょてのひらごとあずかてつ鉉輩悉心けい
  25. ^ 吕毖《明朝みんちょう小史しょうしまきさん·けんぶん
  26. ^ よりどころあかり功臣こうしん年表ねんぴょうひろしたけ年間ねんかんふうてきおおやけほう伯爵はくしゃく60余人よにんじょりょうついふうてき),いたけんぶん元年がんねん35にん(其中,繼承けいしょうてき二代勛臣中又有8にんころせ),しゅもとあきらころせ26にんれんどうだい勛臣ども34にん超過ちょうか一半いっぱん;34にんちゅう包括ほうかつえびすおもんみいさおとう11にんあいたまとう13にん),ただゆうちょうきょうこう耿炳ぶんたけじょうこうかくすぐるえつ巂侯俞淵3にんなおざい
  27. ^ 明通あけどおりかんまきじゅう:炳文とうひんぎょううえ戒之曰:「むかししょう繹舉へい入京にゅうきょう,而令其下曰:『一門いちもん內,きょくへい不祥ふしょう甚。』こんなんじ將士しょうしあずかつばめおうたいるいつとむからだ此意,毋使ちんゆうころせ叔父おじめい。」
  28. ^ 明通あけどおりかんまきじゅうはちがつおのれとり,耿炳ぶんじょう
  29. ^ 明通あけどおりかんまきじゅうみずのえ,……,夜半やはんいたりおんどりけんかさね其城。(はんちゅう援兵えんぺいいたりぜんほこさき麾下きかきゅうせんにんみな戰沒せんぼつ。……いのち護衛ごえい千戶譚淵率壯士千餘,ふくがつ漾橋水中すいちゅう,……,俟忠とう援軍えんぐんやめそくよりどころきょうおうへいぎゃくげきちゅうはい
    明太めんたいむね實錄じつろくまきさんうえといちゅうとう:“莫州軍馬ぐんば幾何きか?”ちゅうくも:“なおゆう戰士せんしまんあまりうまきゅうせんひきこん聞臣はい必走,きゅうとく也。”うえりつ精銳せいえいひゃくあまりためぜんほこさき,趨鄚しゅうみちうす其營,悉降つき其人輜重しちょう
  30. ^ 明通あけどおりかんまきじゅうかい炳文部將ぶしょうちょうたもつげん「炳文へいさんじゅうまんさきいたりしゃじゅうさんまんふん營滹沱河南北なんぼく。」おうあつしなでたもて使つかいいつわりごとぬげ,且具陳雄のぶお、鄚敗じょうつばめへい旦夕たんせきいたり。」……炳文聞保ごとはてうつりみなみ營過かわ
  31. ^ 明太めんたいむね實錄じつろくまきさんみずのえいぬいたりじょうじゅううらさいきこりしゃ,詢知炳文ぐんおもんみ備西きた,其東南無なむ備。うえりつさんさきいたり東門ひがしもん突入とつにゅう其運かてしゃちゅうとりこにんとい,其南がん營果うつり於北がんゆかり西門にしもん而營,ちょく抵西やま
  32. ^ 明通あけどおりかんまきじゅう:炳文出城でしろぎゃくせんちょうたまたんふちしゅのうとうりつ眾奮げきおう以奇へい其背,循城夾攻,よこ衝其じん,炳文大敗たいはい,奔還。しゅのうあずか敢死さんじゅうつい奔至滹沱河東かとう。炳文眾尚すうまんふくれつじんこうのうのう奮勇大呼たいこ,衝入炳文じんみなみぐん披靡,蹂藉死者ししゃ甚眾,棄甲くだしゃさんせん餘人よにん
  33. ^ 明太めんたいむね實錄じつろくまきさんうえすすむけいすうじゅうにょう城西じょうさいさきやぶ其二そのじ營。てき炳文おく使つかいきゃくさとし奔還,……炳文出城でしろむかえせんちょうたまたんふちしゅのううまくもとうりつ眾奮げきうえ以奇へい其背,循城夾擊きょうげきよことおる敵陣てきじん,炳文大敗たいはいきゅう入城にゅうじょうぐんそうもんもんふさがとくいれそう蹈藉死者ししゃ甚眾,乃自しょう斮,しかにゅう而闔もんもりおかぶくとうころせ入子いれこじょうもん閉乃退。其左ふく將軍しょうぐん駙馬じょうけんりょう接戰せっせんわが騎士きし薛祿引槊とげけん墜馬,揮刀斫之。けん大呼たいこ曰:「わが駙馬也,勿殺。」祿ろくせいとりこ,其右ふく將軍しょうぐんとく甯忠、ひだりぐんとく顧成、指揮しきりゅうとげ俱被とりこ斬首ざんしゅさんまんきゅうせきかばねふさがしろごう溺死できし滹沱かわしゃさんまんひき,俘降すうまんつきこれゆうせんにんねがいとめ不歸ふきうえしたがえこれ
  34. ^ 明太めんたいむね實錄じつろくまきさんへいとらおさむじょうにちしたうえ曰:「おさむ城下じょうかさく曠時どん士氣しき。」とげいのちはん
  35. ^ 明通あけどおりかんまきじゅう:(顧)なりとげおうひとおく北平きたひら,輔世子せいしきょもり
  36. ^ 明通あけどおりかんまきじゅう上聞じょうぶん定之さだゆきはいはじめゆう憂色ゆうしょくいいきよし曰:「柰何!」たい曰:「勝敗しょうはい兵家へいかつねあしおもんばか。」いんこも曹國こうけいたかし大任たいにん齊泰なりやす極言きょくげん不可ふか,竟用
  37. ^ 明太めんたいむね實錄じつろくまきよん:(きゅうがつつちのえとら諜報ちょうほう曹國こうじょうでん至德しとくしゅう收集しゅうしゅう耿炳ぶん敗亡はいぼう將卒しょうそつ并調かくしょ軍馬ぐんばじゅうまんしん營河あいだ
  38. ^ 明太めんたいむね實錄じつろくまきよんうえしょしょう曰:「きゅうこうけいたかし小名しょうみょう),豢養之子ゆきこ,寡謀而驕矜,しょく厲而ちゅう餒,こく而自ようきょう嘗習へい戰陣せんじん而輙以五じゅうまんづけあな矣。かん高祖こうそ大度たいど知人ちじんぜんにん使英雄えいゆうためようのうしょうじゅうまん,九江何等才而能將五十萬?ちょうくくこれはいまち矣。」
  39. ^ 明太めんたいむね實錄じつろくまきよんうええみ曰:「兵法ひょうほうゆうはいけいたかしみな蹈之。ためはた政令せいれいおさむ紀律きりつ不整ふせい上下じょうげしん死生しせいはなれこころざし一也かずや今北いまきたはやさむみなみそつ裘褐きゅうかつ不足ふそく,披冒霜雪そうせつ手足てあしひび瘃,甚者墮指,また贏糧,うま無宿むしゅくけやき也;りょうけんえき深入ふかいり趨利,三也みつやむさぼ不治ふち智信とものぶ不足ふそくみつる而愎,ひとしいさむ俱無,威令いれいくだり三軍さんぐんやすたわわよん也;きょく喧嘩けんかきむふしこう諛喜佞,專任せんにん小人こども也。きゅうはい悉備,無能むのうためしかわれざい此,必不敢至,今須います往援ながたいらかれわが,必來おさむじょうかいげきけんじょうざいまえ大軍たいぐんざい必成ひっせいとりこ矣。」
  40. ^ 明太めんたいむね實錄じつろくまきよんきゅうがつつちのえたつついたちえいひら守將しゅしょうかくあきらはせほうこうかげこうくれだかとく耿瓛とう以遼ひがしへいかこえじょう
  41. ^ 明太めんたいむね實錄じつろくまきよんへいいぬうえりつ援永ひらめしょしょう請曰:「必守盧溝橋ろこうきょう,扼李けい隆之たかゆきおき使つかいとくみちいたり城下じょうか。」じょう曰:「てんかん冰涸,隨處ずいしょまもりいちきょうなんそくこばめてきしゃもり,以驕てきしん使つかい深入ふかいり受困於堅じょうした,此兵ほう所謂いわゆる而誘これしゃ也。」みずのえたつ高等こうとう聞上いたり倉卒そうそつつき輜重しちょうはし山海さんかいうえけいおい斬首ざんしゅすうせんきゅう,俘降またすうせんにんつきこれうえおさむだいやすし,……乙未おとみもろゆき上諭じょうゆ世子せいしげん守備しゅびてきいたりまき毋與せん
  42. ^ 明通あけどおりかんまきじゅうみずのえとらつばめ至大しだいやすしおう單騎たんき入城にゅうじょう,詭言きゅう蹙求すくえやすし王手おうてだい慟。やすしおう信之のぶゆきためくさひょうしゃ,請赦其死。きょ數日すうじつじょうこう甚洽。どき北平きたひらするどそつふくじょうがい,吏士どくやややや入城にゅうじょうかげゆい三衛部長及戍卒。おのれとりつばめおう辭去じきょやすしおう郊外こうがい伏兵ふくへいおこりようやすしおうこう,三衛彍騎及諸戍卒一呼畢集。守將しゅしょうしゅあきら不能ふのう禦,力戰りきせんやすしちょうせきせん不屈ふくつみずのえつばめみなみかえやすしおう同行どうこうやすし世子せいしみなしたがえ,悉以さんまもるはいきたぐんだいやすしじょう為之ためゆきいちそら
  43. ^ 明太めんたいむね實錄じつろくまきよんみずのえとら抵大やすし城中じょうちゅうおそれぐん驟至,倉卒そうそつ關門かんもんこばめもりうえ引數ひきすう循繞其城,てきいたり西南せいなんすみ而城くずれうえ麾勇先登せんとう,眾蟻而上,とげ克之かつゆき指揮しきぼうひろしなで綏其眾,ごろこく而定,城中じょうちゅう肅然しゅくぜん擾。ちんとおるやつなみ城中じょうちゅう將士しょうしぞくほうとおるりゅうしんとう引軍來援らいえんぐん聞家ぞく恙,みなかいかぶとときやすし王權おうけん三護衛為朝廷削奪者尚留城中,いたりみなうえ悉以還やすしおう
  44. ^ 明太めんたいむね實錄じつろくまきよんけいたかし聞上せいだいやすしはて引軍盧溝橋ろこうきょう意氣いきおごみつるゆう輕視けいしこころざし,以鞭げき韂曰:「まもり盧溝橋ろこうきょうわれ無能むのうため矣。」ちょくうす城下じょうかちく櫐九もんべつしょうおさむとおりしゅう時世じせい嚴肅げんしゅく部署ぶしょせいさかな守備しゅび城中じょうちゅう晏然,すうじょう勇士ゆうしすがしろよる斫景たかし營,殺傷さっしょう甚眾,營中おどろき擾,ゆうあい蹂踐而者。けいりゅうおさむうらら正門せいもんきゅう城中じょうちゅう婦女ふじょみなじょうじょう擲瓦せきげき,其勢えき沮。
  45. ^ よん全書ぜんしょほんあかりまきいちひゃくよんじゅう考證こうしょう:瞿能でんあずか其子そちせい千餘攻張掖門」,しんかた煒按:《あかりしょうん:「のうしたがえけいりゅうおさむ北平きたひら力戰りきせんいきおい甚銳,あずか其子どくそちせい千餘人殺入彰義門。」あきらもん金之かねゆき西門にしもんもと所謂いわゆる南城なんじょう也,いまこうやすしもんじんなおよびためあきら外城とじょう雖建於嘉やすし金城きんじょうゆえざいあかりはつなおそん使つかいさくちょうわきおとてんなまりみみうたぐそくあきらしょただししょう,謹識闕疑。
  46. ^ あきらかん綱目こうもくまきつばめ世子せいしだかおき堅守けんしゅよる勇士ゆうしすがじょういずる斫營,營中おどろき擾,驟退。とく瞿能おさむちょうわきもんたれかつけいたかしのうこうれいとめつばめじんよる汲水きゅうすい沃城,明日あした冰凝,とくじょう
  47. ^ 明通あけどおりかんまきじゅうけいたかし日夕にっせき戒嚴かいげん恤士そつみなうえ戟立せつちゅう凍死とうししゃしょうかかと。於是北平きたひらもりえきけん
  48. ^ 明太めんたいむね實錄じつろくまきよんおつわがぐんいたりかいしゅういのちちょう玉將ぎょくしょうちゅうぐんていとおるなにことぶきたかしちゅうぐんひだりみぎ副將ふくしょうしゅのうはたひだりぐんしゅさかえ浚充ひだりぐんひだりみぎ副將ふくしょうあきらはたみぎぐんじょさとしはじめぜんたかしみぎぐんひだりみぎ副將ふくしょうじょただしはたまえぐんちんあやいたるたかしぜんぐんひだりみぎ副將ふくしょうぼうひろししょうぐんかずまことちゅうもうせいたかしぐんひだりみぎ副將ふくしょう;以大やすし眾分隸各ぐんちょうにゅうまつていせき
  49. ^ 明太めんたいむね實錄じつろくまき庚午こうごいたりさん,訊知けいたかしぐんていむら壩。わが邏騎いたり白河しらかわかえげん河水こうすいりゅう澌,へい不可ふかまた聞景たかしれつじん于白河西かさい大雪おおゆきはつ霽。うえだま禱曰:「天若あまわかじょのりかわ冰合。」よるおこり營。いたるあけぼのしろかわ冰已あい。於是かい畢度。しょしょうしん曰:「どう光武みつたけ滹沱みず上天じょうてん祐助ゆうすけちょう也。」じょう曰:「成敗せいばいまたおもんみ聽於てんみみ。」けいたかしみやこただしちんあきらりょう萬餘來哨而行道相左,あきら探知たんちわがぐんかわしたがえつい躡,其眾かたうえりつせいかえげき斬首ざんしゅさんあきらあまり眾奔かわ冰忽かい溺死できし甚眾,じゅうひきあきら僅以めん
  50. ^ 明太めんたいむね實錄じつろくまき諜報ちょうほうけいたかし馭軍げんこく士卒しそつ躡履戟,つき夜立よだちせつちゅうとくいき凍死とうし及墮ゆびしゃ甚眾,臨戰りんせんりつ不能ふのうへいうえ曰:「たがえてん以自敝,不勞ふろう而勝。」乃率しょぐんれつじん而進,はるかのぞむてきぐん讙動。うえ曰:「かれらん而囂,げき也。」以精先進せんしん連破れんぱなな營,しょぐんつぎ交戰こうせんうまいたりとりうええきちょうへい左右さゆう衝擊しょうげき大敗たいはいけいたかしへい斬首ざんしゅすうまんきゅうくだしゃすうまん,悉縱これ
  51. ^ 明通あけどおりかんまきじゅうからしせん於鄭むら壩,連破れんぱなな營,とげ逼景たかしつばめすすむちょうたまとうれつじん而進,じょうかち抵城城中じょうちゅうへいまた噪而,內外夾攻,けいたかしつぶせよい遁。
  52. ^ 明太めんたいむね實錄じつろくまきよるけいたかしつき棄其輜重しちょう,拔眾みなみ遁,とげまんひきしょしょう請追うえ歎曰:「殺傷さっしょう矣,くだみなしゃく,遁者須追也。きょう天氣てんき冱寒,ひだるこお而死しゃまたしょうむべ抑止よくしほこさきするど,勿過きずせい。」しょしょう乃止。
  53. ^ 明太めんたいむね實錄じつろくまきときてきへいたがえ九門者尚未知景隆遁,なお固守こしゅ退すさみずのととりうえりつへいおさむやぶ其四營,其餘もちふう奔遁,しょへい不可ふかかちけい
  54. ^ 明通あけどおりかんまきじゅう翌日よくじつきゅうるいなお固守こしゅつばめ兵次へいじだいやぶよんるい眾聞けいたかしやめはしとげ兵糧ひょうろう,晨夜みなみ奔。けいたかし退すさかえとくしゅう
  55. ^ あきらかん綱目こうもくまき:……內外夾攻,しょぐんみなつぶせ士卒しそつじゅうあまりまん
  56. ^ 明通あけどおりかんまきじゅうおつつばめおうさい上書うわがきいい朝廷ちょうていしょゆびため不軌ふきこと凡八,みな齊泰なりやすきよしとう奸臣かんしんしょ枉,請誅以告天下でんか。」ほう
  57. ^ 明太めんたいむね實錄じつろくまきさきうえ左右さゆう曰:「遼東りゃおとん雖隔山海さんかい而數擾永ひらめとうおもえ所以ゆえん靖之やすゆきくれだか雖怯而行事ぎょうじみつ,楊文無謀むぼうくれだかのり楊文不足ふそくおもんばか矣。しかようさとし不能ふのうこれ。」とげひと齎書さとし二人ふたりあずか文書ぶんしょそくもり毀辱あずかくれだかしょそくもりたたえほまれ,而故えき其函,わかあやまおけしゃ。於是にんみな以聞於朝,朝廷ちょうていはてうたぐくれだかそぎ其爵,徙廣西にしどくいのち楊文もり遼東りゃおとんよしへい紀律きりつにん懷疑かいぎ敢數矣。
  58. ^ 明太めんたいむね實錄じつろくまき庚申こうしん,师至广昌,まもり备汤胜等举城くだ
  59. ^ 明太めんたいむね實錄じつろくまきろくねん正月しょうがつへいとらついたちうえいたる蔚州,……城中じょうちゅう恟惧,はたおうただし远等じょう举降。
  60. ^ 明太めんたいむね實錄じつろくまきろくわがおさむ大同だいどうけいたかしはて來援らいえん,引軍むらさき荊關。うえりつよしきょいさおせきかいけいたかしぐんこお餒死しゃ甚眾,墮指しゃさん,棄鎧ふく於道,不可ふかかちけい
  61. ^ 明通あけどおりかんまきじゅうみずのとけいたかしのこつばめおうしょ,請息へいおうこたえしょさく齊泰なりやすきよしとうまた以「ぜん兩次りょうじ上書うわがき悉不たまものこたえ,此必奸臣かんしんおもんばかおのれ,匿不以聞,こん備錄おくかん。」けいたかしとくしょとげゆうしん
  62. ^ 明太めんたいむね實錄じつろくまきろく丁未ていみがつじゅう),韃靼だったんこくおおやけちょうだつれつみきつかさちょうはい鄰帖つかさりゅう哈剌じょう沙漠さばくりつ眾來たまもの賚有
  63. ^ 明通あけどおりかんまきじゅうこれがつてい雒僉叛降於燕。
  64. ^ 明通あけどおりかんまきじゅうおつつばめわたりだまかわ,營於きょう
  65. ^ 明通あけどおりかんまきじゅうおのれぐうたいらやすへい於河がわやすふく精兵せいびょうまん邀擊ようげきつばめおう曰:「平安へいあん豎子じゅしみみ往歲おうさいしたがえふさが,識我用兵ようへいこんとうさきやぶこれ。」及戰,やすもとしょう驍勇,奮矛直前ちょくぜんとく瞿能父子ふしつぎしょこう披靡,つばめとげ卻。かいせんはな聚、百戶谷允陷陣而入,斬首ざんしゅななきゅうまたわがみなみぐん指揮しきなんきよしにちしょくやめ暝,とげおさむぐんやく也,定之さだゆきまたいたりごうへいろくじゅうまん陣列じんれつ河上かわかみかくえいとうあずかぞう火器かき於地ちゅうつばめおうしたがえさん殿どのよる,迷失どう下馬伏しもまぶしかわりゅうやきややわきまえ東西とうざいはじめ所在しょざいくら渡河とか而北。おうかえ營,れいしょぐん蓐食。
  66. ^ 明太めんたいむね實錄じつろくまきろくてきぞう火器かき於地,其所謂いわゆるいち窠蜂」、「揣馬しゃしるにゅううまみな穿ほじ,而我ぐん俱無しょふくときよるふかかくおさむぐんかえ營,うえちかし殿どのきさき從者じゅうしゃおもんみさん,迷所營處。上下じょうげかわりゅうべん東西とうざい,營在上流じょうりゅうとげかわややぞういたりななよる,營白みぞ河北かほくれいぐんまぐさ蓐食,俟旦畢度。
  67. ^ あきらかん綱目こうもくまき明日あした再戰さいせんのう及安擣燕はたぼうひろしじんはい
  68. ^ 明太めんたいむね實錄じつろくまきろく:乃令指揮しきおかぶくとう以萬餘騎沖其中堅不動,じょう精銳せいえいすうじゅう突入とつにゅうてきぐんひだりわき殺傷さっしょう甚眾,……於是ふくしんせんやめてき眾飛如注,上所かみところ乘馬じょうばさんえきさんそうしょさんふくみなつき,乃提けん左右さゆう奮擊,けんほこさきかけおり不堪ふかんげき,乃稍卻。てきらい逼而げんつつみうえふくはせ馬越うまごえつつみぎゃく,佯以むち招後,てきうたぐゆうふく敢越つつみ而止,とげしょう
  69. ^ 明通あけどおりかんまきじゅうつばめおう見事みごときゅうおやおかせせきまたれい大將たいしょうおかぶく衝其中堅ちゅうけんとくいれおう盪其ひだり,突景たかしへいにょうおうちゅうおうさんそう,凡さんえきしょさんふくみなつき,乃提けんけんほこさきふくおりうま阻於つつみいくため瞿能、平安へいあんしょ及。おう亟走とうつつみ,佯舉むち招後けいたかしうたぐゆうふく敢進,かいだか煦救いたり,乃得めん
  70. ^ あかりまきいちひゃくじゅうはちしろみぞかわたたかえなりいくため瞿能しょ及,こう煦帥せいすうせん直前ちょくぜん決戰けっせんのう父子ふし于陣。
  71. ^ 明通あけどおりかんまきじゅうにち晡,瞿能ふく引眾搏戰,大呼たいこめつつばめくびすうひゃくえつ雋侯俞通ふちりくすずかまもる指揮しき滕聚,引眾赴之。かい旋風せんぷうおこりおり大將たいしょうみなみ軍陣ぐんじんどうおう乃以勁騎にょう其後,じょうふうたてのう父子ふし及通ふち、聚皆やすあずかしゅのうまたはい官軍かんぐん大亂たいらん,奔聲如雷。かくえいとうつぶせ而西,けいたかしつぶせ而南,棄其器械きかい輜重しちょう殆盡。つばめついいたりがつさまきょうくだじゅうあまりまんにんけいたかしはしとくしゅう
  72. ^ 明太めんたいむね實錄じつろくまきろくかい旋風せんぷうおり大將たいしょう旗幟きし,眾大みだれわがぐんじょうふうたて,燔其營,けむり焰漲てんかくえいとうつぶせ而西,けいたかしとうつぶせ而南,棄輜重しちょう器械きかい、孳畜不可ふかかちけいしょたまもの斧鉞ふえつみなどく斬首ざんしゅすうまんきゅう溺死できしじゅうあまりまんついいたりおんどりけんがつさまきょうころせおぼれ蹂躪死者ししゃ複數ふくすうまんよこかばねひゃくあまりうらくだしゃじゅうあまりまん,悉放これけいたかし單騎たんきはしとくしゅう
  73. ^ あきらかん綱目こうもくまき:……かい旋風せんぷうおこりおりけいたかし大將たいしょうはたじんどう。棣以勁騎にょう其後,じょうふうたてけむり焰漲てんのう父子ふし及通ふち、聚皆やすあずかしゅのうせんまたはい官軍かんぐん大亂たいらん,奔聲如雷。かくすぐるつぶせ而西,けいたかしつぶせ而南。つき棄其しょたまもの璽書斧鉞ふえつはしとくしゅう
  74. ^ 明太めんたいむね實錄じつろくまきろくみずのえいぬわがぐんじょうかち進取しんしゅとくしゅうからしけいたかし聞我ぐん且至,拔德しゅう眾宵遁。みずのととりいのちちんとおるちょうしんにゅうとくしゅうせき吏民,おさむとくかてもうかひゃくあまりまん。……けいたかし奔濟みなみ。(かのえたつつめだんいたりずみみなみけいたかし眾十あまりまん倉卒そうそつ佈陣未定みてい,……,とげ進擊しんげき大敗たいはいけいたかし斬首ざんしゅまんきゅうまんななせんひきけいたかし單騎たんき遁。
  75. ^ あきらかん綱目こうもくまきふゆじゅうがつみことのりけいたかしかえ。赦不誅。大夫たいふねりやすし宗人むねと經歷けいれきそうちょうまれけんなみげんけいたかししつりつふところ貳心ふたごころむべ誅。きよしまた請正其罪以謝天下でんかみな聽。きよし拊膺曰:「大事だいじ矣!こもけいたかしあやまくに萬死ばんし不足ふそく贖罪しょくざい!」
  76. ^ 明通あけどおりかんまきじゅうつばめとげかこえずみみなみ,鉉與いさおとうじょうじょうもり禦。おうとも不可ふか驟克,れいしょ城中じょうちゅうおもむきくだ
  77. ^ 明太めんたいむね實錄じつろくまきろくからし,隄水灌濟南城なんじょう
  78. ^ 明通あけどおりかんまきじゅう:鉉乃佯令もり陴(牆頭)しゃみな哭,撤守せんにん出城でしろいつわりくだおう大喜だいぎぐんちゅう懽呼。鉉設計せっけいあずか懸鐵かんかねいた城門じょうもんじょうふく壯士そうし闉堵(じょうちゅうこうつばめおういれ下板しもいたげきまたしつらえふくだんじょうがいきょう以遏
  79. ^ 明通あけどおりかんまきじゅうおう入門にゅうもんちゅうにんよびせんさい鐵板てっぱんややきゅうきずつばめおう馬首うまくびおうおどろきさとしえき而馳。ふくはつきょうくら不可ふかだんおうむちはしはぐれいきどお甚,ふくしつらえちょうかこえおさむこれ。鉉隨よろしもり禦,つばめ持久じきゅうひたすら城下じょうかしゃさん閱月,そつ不能ふのう
  80. ^ 明通あけどおりかんまきじゅうはつつばめおうおさむてい也,三日みっかしたそくかいへいおもんみ以得ずみみなみあし以斷みなみ北道ほくどうそくしたきんりょうかく疆自もりまたあし以徐こう、淮,じょう大破たいはけい隆之たかゆきするど盡力じんりょくおさむ於必拔。不意ふい鉉等屢挫其鋒,またれいもり陴者詈燕,つばめおうえきいきどお,乃以だい炮攻じょう城中じょうちゅうささえ,鉉書だか皇帝こうていしんぱいかかこれじょうじょうつばめ敢擊。
  81. ^ 明通あけどおりかんまきじゅう六月ろくがつ上聞じょうぶんずみみなみ危急ききゅうよう齊泰なりやすきよしけい使つかい赦燕ざい以緩其師。おのれとりいのちなおたからすすむとくなりまいつばめさとしおうやめへいおう聽,とめとくなりとげ於燕。
  82. ^ 明通あけどおりかんまきじゅうあきなながつとく平安へいあん將兵しょうへいじゅうまんしん河間こうまたんいえきょうはかりごと出御しゅつぎょかわだんつばめ餉道。
  83. ^ 明通あけどおりかんまきじゅう:(はちがつつちのえさるつばめかいかこえもりいさおてつ鉉追げきはいかねへいとくしゅうつばめ守將しゅしょうちんあさひ遁,とげふくとくしゅう
  84. ^ 明通あけどおりかんまきじゅうきゅうがつからし,擢鐵鉉山東さんとうぬのせい使まいりさん軍務ぐんむひろすすむ兵部ひょうぶ尚書しょうしょふうもりいさおためれきしろこう,授平つばめ將軍しょうぐん,以代けいたかしみやこただしちんあきら平安へいあんふくこれみことのりいさおたむろとくしゅう平安へいあん及吳すぐるたむろじょうしゅうじょ凱屯滄州,そうため犄角以困北平きたひら
  85. ^ 明太めんたいむね實錄じつろくまきなな丙午ひのえうましたれいせい遼東りゃおとん。……みずのえみつれいじょさとしちんあさひとうしゅまいちょく沽,みやつこ浮橋うきはしずみへいたつうつりかえとおりしゅう,循河而南。……つちのえうまわがぐんちょく沽。うえしょしょう曰:「じょ凱等しょ設備せつびおもんみあおけんちょう而已,塼垛、灶兒坡數ほどみな無水むすいみな不備ふび,趨此みちいたり滄州じょう?」よるさら啟行ひろゆき晝夜ちゅうやさんひゃくてきりょうはつ哨騎みなあいぐうあきらだんいたりかんくらぐうてき哨騎すうひゃくつきとりこしょくいたり滄州,てきなおさとしとくぐん築城ちくじょうわがぐんすんでいたり城下じょうかはじめあおぶんもりじょう垛眾みなまたぐり及擐かぶとわがぐん四面しめんきゅうおさむうえ麾壯よしじょう東北とうほくかくとう,逾時拔其じょう。而先やめひとだんてき歸路きろとげ斬首ざんしゅまんきゅうきゅうじゅうひき,而生とりことくじょほど指揮しき俞琪ちょうえびすばらすぐるちょうすぐるなみ指揮しき以下いかひゃく餘人よにんあまり眾悉降,咸給牒遣。
  86. ^ 明通あけどおりかんまきじゅうへいたつとおりしゅう循河而南,わたりただし沽,晝夜ちゅうや兼行けんこうつちのえうまいたり滄州城下じょうか,凱等かたよん伐木ばつぼく晝夜ちゅうや築城ちくじょうくら猝收筑具せんつばめよんめんおさむちょうたまりつ壯士そうしよし城東北じょうとうきたすみ肉薄にくはく而登,庚申こうしん,拔之。
  87. ^ あかりかん綱目こうもくまき:棣自ちょうあし渡河とか至德しとくしゅう
  88. ^ 明太めんたいむね實錄じつろくまきなな:(じゅういちがつ甲子きのえね。……うえおもんばかとくしゅうもりいさお眾要,乃率しょぐんちょうあしかわ,循河而南いたりけいしゅうとげ至德しとくしゅうひと於城招盛いさおいさおけんかべ不出ふしゅつときわがぐんみなやめうえどくりつすうじゅう殿どのいさお覘知すうひゃく來襲らいしゅううえかえしへいげきころせひゃく餘人よにんなまとりこせん瓛,あまり悉降。
  89. ^ 明太めんたいむね實錄じつろくまきななみずのえさるちゅうぐん臨清。うえしょしょう曰:「もりいさお聚眾とくしゅう,而仰きゅう禦河うんかてわか邀其かてかれとぼしくえ,必不とく而出,必虛ごえ躡我これ,其實ほしこうみなみ就食。こん覘伺其出,かえぐんげき,蔑不破ふわ矣。」きのえいぬうつりぐんかんすえけい哨至大名だいみょうつき其糧ぶねとげ其糧,焚其ぶねわがぐんいたりかんすえ渡河とかいたりかんむりけん莘縣,とげ向東むかいひがしおもね東平とうへい,以誘てき眾。
  90. ^ 明通あけどおりかんまきじゅうおつつばめ抵東あきらいさおじょう而陣,列火れっかどくいしゆみ以待。
  91. ^ 明太めんたいむね實錄じつろくまきななおつわがいたりあずまあきらもりいさおじょう而出。
  92. ^ あかりまきいちひゃくいちじゅうはち:及成东昌败,张玉战死,なりただはし,适高煦引师至,击退中央ちゅうおう军。
  93. ^ 明通あけどおりかんまきじゅうつばめおう直前ちょくぜんうすきいさおぐん左翼さよく不動ふどうふく中堅ちゅうけんいさおひらきじんたておういれかこえすうじゅうつばめすすむしゅ能率のうりつばんらいすくえおうじょうあいだ突圍。而燕ぐんため火器かきしょきず甚眾,大將たいしょうちょうたま於陣。かい平安へいあんいたりあずかいさおごうへいへいたつまたたたかえふく大敗たいはい前後ぜんごくびすうまんにんつばめとげきた奔,いさおとうおもむきへいおいふくげきころせさん
  94. ^ 明太めんたいむね實錄じつろくまきななちょういたりかんすえときもりいさおはせむくいじょう,於是てき眾四,以要わが。……(さんねん正月しょうがつへいいたり北平きたひら
  95. ^ 明通あけどおりかんまきじゅうおう聞張だまはいぼつ痛哭つうこく曰:「勝負しょうぶつねこと不足ふそくおもんばか艱難かんなんさいしつ此良はたこと悲恨!」
  96. ^ 明太めんたいむね實錄じつろくまきななうえふく曰:「勝負しょうぶかた兵家へいかつねことこん勝負しょうぶまた相當そうとう至大しだいしつしょ恨者しつちょうたまみみ艱難かんなんさい良輔りょうすけわれいたりいまじょうせきしょくしたえん也。」
  97. ^ 明通あけどおりかんまきじゅうやく也,つばめおうひん於危しゃすう矣,しょしょう以奉じょうみことのり,莫敢おうまたかげ自恃じじどくいち殿どのおいしゃすうひゃくにん敢逼。てきだか煦領指揮しきはな聚等いたり擊退げきたいいさおへい部將ぶしょうすうにん而去。
  98. ^ あきらかん綱目こうもくまき:(けんぶん元年がんねんじゅういちがつやめ兵部ひょうぶ尚書しょうしょ齊泰なりやすふとしつねてらきょうきよし:棣以まえしょ上書うわがきむくいさい上書うわがき,請去たいきよしみかどためやめにん以謝つばめかげとめ京師けいし,仍參密議みつぎ
  99. ^ あきらかん綱目こうもくまきからしさんねんはる正月しょうがつふく齊泰なりやすきよしかん
  100. ^ 明通あけどおりかんまきじゅうちょううし正月しょうがつはつなな),とおるふとしびょうつげあずまあきらとし
  101. ^ 明朝みょうちょう些事さじだいいちかんしゅまこと炆大もち決定けってい祭祀さいしふとしびょうそうらい祭祀さいし內容告訴こくそてきじいじいしゅもとあきら,你的孫子まごこしゅまこと炆戰かつりょう你的しゅ棣。不知ふち如朱もとあきら在天ざいてんゆうれいかいさくなん感想かんそう
  102. ^ あきらかん綱目こうもくまきいさお軍勢ぐんぜいだいつばめじんはんじゅんてん鬭兩ねんたてまつするど甚。いたりしつ大將たいしょうつばめぐんだつ。其後じょうけい南下なんかみなゆかりじょ沛,敢復どう山東さんとう
  103. ^ あきらかん綱目こうもくまき:棣恥あずま昌之まさゆきはい殆欲ややきゅうみち衍力おもむきいい棣曰:しん前言ぜんげんぎょう必克,ただし兩日りょうじつ兩日りょうじつしゃあきら也,全勝ぜんしょう矣。
  104. ^ 明太めんたいむね實錄じつろくまきなながつかのえとらついたちつちのえいぬいのちそうおさむときこもじんほろび將士しょうしうえおやためぶんさいまつり畢,上流じょうりゅう涕言曰:「奸惡かんあくよこ毒害どくがい於我,なんじとう憫我無辜むこ,奮力戰りきせん鬥,ためわが而死,含無きゅう冤於地下ちかまいねん及之,痛切つうせつ於心。」とげだっしょふくほう,焚于まえしょしょう趨進,亟止。……おつうえりつ南出みなみで
  105. ^ 明通あけどおりかんまきじゅうおつつばめふく南下なんかおのれとりじょうもりいさおごうしょぐんじゅうまんちゅうとくしゅうすぐる平安へいあんじょうつばめおうあずかしょしょうしょむこうおかぶくとう請攻じょうしゅうおう曰:「野戰やせんえきおさむしろなんこんもりいさおざいとくしゅうすぐる平安へいあんざいじょうわがわかひたぶるへい城下じょうかかれ必合ぜい來援らいえんけんじょうざいまえ強敵きょうてきざい,此危道也みちやこんしんてい距德しゅうひゃくあまりさとちゅうていそくせきそう附近ふきんはなれとくしゅうやくよんひゃくおう記載きさいゆうあやま),わがぐんかい其中,てき出迎でむかえせん其一ぐんきもやぶ。」しょしょう曰:「腹背ふくはい受敵,奈何いかん?」おう曰:「ひゃくそといきおいあい及,りょうぐんしょううす勝敗しょうはいざい呼吸こきゅうあいだ,雖ひゃく不能ふのうしょうすくえきょうひゃくさと哉!」明日あしたとげうつりぐん東出とうで
  106. ^ 明太めんたいむね實錄じつろくまきなな:(さんがつおのれ,偵知もりいさお軍營ぐんえい夾河,とげすすむせりかのえたつ,距敵營てきえいよんじゅううら駐兵ちゅうへい
  107. ^ あきらかん綱目こうもくまき:棣將けいらい覘,かすめじんいさおせんおい
  108. ^ 明朝みんちょう些事さじ儿》だいいちかんしか而朱棣並接近せっきん自己じこしょ佈陣がた,而是したがえつくりかすめ,很明あらわてき目的もくてき偵察ていさつしか而此もりいさおおわり發現はつげん自己じこなみ不能ふのうしゅ棣怎麼樣!たいづけ這種偵察ていさつ騎兵きへいさいこのみてき方法ほうほう就是きゅういちやり下馬げばらいしか皇帝こうてい陛下へいかてき教導きょうどう始終しじゅう縈繞ざいみみあたり無論むろん如何いか不能ふのうひらけやりあるものてきいんためかいゆずる仁慈じんじてき皇帝こうてい陛下へいか擔負殺害さつがい叔叔てき罪名ざいめい。……ただのう派出はしゅつ自己じこてき騎兵きへい追擊ついげきたいかた結果けっか當然とうぜんりょうりょうこれ
  109. ^ 明通あけどおりかんまきじゅうからしいさおぐん及燕へいぐう於夾かわいさおゆいじん甚堅,じんつくりしゃするどいしゆみひとしれつつばめおう以輕かすめじんいさおつい卻之,乃復以步おさむ其左わき不能ふのういれつばめすすむたんふちしたがえちゅうぐん望見ぼうけんちりおこり,遽出兵しゅっぺいぎゃくげき指揮しきそうりつ眾殊たたかえとげあいいさおぐんふち及其部下ぶかただし真保しんぼ於陣。つばめおうあずかしゅのうちょうたけしとうふく以勁にょう中央ちゅうおうぐんじょうくれ掩擊,そうおちいじんまたころせすわえさとしちょう皂旗。
  110. ^ 明通あけどおりかんまきじゅうせんたけなわ殺傷さっしょうみな相當そうとう
  111. ^ あきらかん綱目こうもくまき:棣以十餘騎偪庸營野宿,及明おこりやめざいかこえちゅう。乃從容しょうよう引馬かく穿ほじ營而去。いさおしょしょうみな以帝ゆうみことのり「毋使ちんまけころせ叔父おじめい」,倉卒そうそつしょう顧,愕眙敢發一矢いっし
  112. ^ 明通あけどおりかんまきじゅうすんでかえ營,ふくげんじんやくせんいいしょしょう曰:「昨日きのうたんふちぎゃくげきふとはや不能ふのう成功せいこう。……,りょうじん相當そうとうはた勇者ゆうしゃしょう,此光武之たけゆきしょ以破おうひろ也。」
  113. ^ 明通あけどおりかんまきじゅうみずのえうまふくせんいさおぐん西南せいなんつばめぐん東北とうほくつばめおう臨陣,ちょうへい左右さゆう衝擊しょうげきたついたりりょうぐん互有勝負しょうぶかい東北とうほくふう大起だいき塵埃じんあいみなぎてんりょうぐん咫尺しせきあいきたぐんじょうふう大呼たいこたて左右さゆうつばさげきいさおぐん大敗たいはい,棄兵はしつばめついいたり滹沱かわ,踐溺死者ししゃ甚眾,其降しゃおう悉縱これいさおとげ退ずさ保德やすのりしゅう
  114. ^ あきらかん綱目こうもくまきゆるがせ大風おおかぜ東北とうほくおこりほこり蔽天,いさおぐんめんむかえすなつぶて咫尺しせき不辨ふべんぶつ。棣兵たて左右さゆうつばさよこげき斬首ざんしゅすうまんいさお大敗たいはいはしとくしゅう
  115. ^ 明太めんたいむね實錄じつろくまきななさきすぐるとう引軍あずかもりいさおごういたりはちじゅう,聞庸はいふくかえじょう
  116. ^ 明通あけどおりかんまきじゅう閏月じゅんげつ癸巳きしうえ以夾かわはいやめ齊泰なりやすきよし,謫於がいぶた使募兵ぼへい也。
  117. ^ 明太めんたいむね實錄じつろくまきななぐんよんかてまたれいこうじょう荷擔かたんだき嬰兒えいじ偽作ぎさく避兵しゃ,奔入じょうじょう揚言ようげんきたぐんみなかて,營中備。すぐるとう聞而信之のぶゆきとげぐんかさね
  118. ^ 明通あけどおりかんまきじゅう:(うるうさんがつつちのえいぬぐうつばめ於藳じょうすぐるとうれつ方陣ほうじん西南せいなんつばめおういいしょしょう曰:「方陣ほうじんよんめん受敵,あに能取のとろかちわが以精へいおさむ其一すみ,一隅敗則其餘自潰矣。」乃以ぐん縻其さんめん,而自りつ精銳せいえいおさむ東北とうほくすみつばめすすむ薛祿,出入でいり敵陣てきじんうまためみなみぐんしょだつてきがたなすうにんふくとべ而免。おうふくりつ驍騎循滹沱河出陣しゅつじんすぐるやすとうあずかぞう火器かきはつだいいしゆみしゃおうしゅうおうしょけんいきおい如猬つばめちゅう火器かき及弩,死傷ししょう甚眾,竟不及王。
  119. ^ 明通あけどおりかんまきじゅうかい大風おおふうおこりはつ拔樹,つばめぐんじょうすぐるとうだいつぶせつばめおう麾兵よんこう蹙之,斬首ざんしゅろくまんあまりきゅうつい奔至てい城下じょうかすぐるとう走入はしりじょう
  120. ^ 明太めんたいむね實錄じつろくまきなな:翊日,ひとおくはたかい北平きたひらさとし世子せいし謹藏,以示後世こうせい子孫しそん使つかい今日きょうぐうなんとく顧成はた而泣,いい世子せいし曰:「しんしょう從軍じゅうぐんこんろう矣,歷戰れきせん鬥,嘗見わか此也。」
  121. ^ 明通あけどおりかんまきじゅうつばめ自白じはくみぞかわいたり藳城,凡三としみなどくふうすけおう以為此天授てんじゅ非人ひにん力也りきや
  122. ^ 明通あけどおりかんまきじゅうおのれとりつばめかすめ順德じゅんとくからしかすめ廣平ひろへいみずのとうし大名だいみょうしょぐんけんみなもちふうくだつばめ
  123. ^ 明通あけどおりかんまきじゅうおう聞罷ひとし以為なるへいけいふく上書うわがき曰:「奸臣かんしん竄逐,しんまたはたきゅうへい就藩。而吳すぐる平安へいあんもりいさお眾,なお聚境じょう奸臣かんしん雖出而其けい實行じっこうしん敢奉みことのり。」
  124. ^ 明太めんたいむね實錄じつろくまきはちしょいたりたてあやくん以示かたこう孺。こう孺觀畢,曰:「わがほうはただるこれ,此奏ただしよろしこんかくしょへいやめしゅうどく雲南うんなんへいらいいたりつばめぐんひさしちゅう大名だいみょうあつため沴,不戰ふせんはたこまいま調ちょう遼東りゃおとんへいおさむひさしひらめとくしゅう擾北ひらめ根本ねもと受敵,かれ必歸援,わが大軍たいぐん躡其ゆう必擒いきおい矣。こん辜遣じんほう往復おうふくいちがつわれ必集矣。」たてあやくんぜん其策,とげいのちこう孺草みことのり宣言せんげんよくやめへい。……とげれいだいしょうきょう薛嵓齎至ぐんちゅうみつこれ,以懈わが將士しょうししん
  125. ^ 明通あけどおりかんまきじゅう:嵓至つばめおうおうとい:「上意じょういうんなに?」嵓曰:「朝廷ちょうていげん殿下でんかだんしゃくかぶとくれそく旋師。」おう曰:「此不可ふか紿さんしゃく」。嵓惶懼不能ふのうたい
  126. ^ 明太めんたいむね實錄じつろくまきはち五月ごがつおのれうしついたちすぐる平安へいあんもりいさお俱發へい擾我餉道。
  127. ^ 明通あけどおりかんまきじゅうおのれうしつばめおうふく使指揮しき武勝むしょうまい京師けいし上書うわがきいい:「朝廷ちょうていやめもとやめへい,而庸とうおさむきたぜっわがかて餉,あずかみことのりむね相違そうい,此必ゆうぬしこれしゃ。」じょうとくしょよく竟罷こう孺曰:「へい一罷不可復聚,わか使つかいかれ長驅ちょうくはん闕,なに以禦?」じょうしたがえ其言,乃下武勝むしょう於獄。
  128. ^ あきらかん綱目こうもくまきみかど乃誅勝以かつもちぜっつばめ
  129. ^ 明太めんたいむね實錄じつろくまきはちからしとり其諜しゃげん武勝むしょうとうやめ下獄げごくうえいいしょしょう曰:「わがちゅうぐん於此さんがつ,以俟いきへいいのち武勝むしょうすんでのり其志不可ふかうたて矣,わがあにのうかたまりしかすわ此,ためじんしょとりこ哉?かれぐん萃德しゅうかてみなどおりじょ、沛來,ただし調しらべけいすうせん邀而毀之,とくしゅうしょおおせきゅう,必困,たて欲求よっきゅうせんわがげんまち,以逸げきろう,以飽げきかつえゆう必勝ひっしょうみち勝之かつゆき而後もとめいきへいある冀能したがえ。」しょしょうみな曰:「ぜん。」とげとおとうりつ騎兵きへいろくせん擾其餉道,うえれいとおぐんみなやすかれかぶと胄,使つかいはるかうたぐまたおそれ臨戰りんせんしょうざつなんべんれいかく插柳えだ一握於背為識。……みずのえさるとおとう如上じょじょうむねいたりずみ甯穀ていすなかわ,沛縣てきもちみな不覺ふかくわがぐん焚其かてぶねすうひゃくそうかてすうひゃくまんせき軍資ぐんし器械きかい不可ふかかちけい河水こうすいつきねつさかな鱉皆浮死,其運かてぐんつきはし京師けいし大震たいしん,而德州兵しゅうへいややさく矣。
  130. ^ 明通あけどおりかんまきじゅうあきなながつおのれうしつばめかすめあきらとく。……へいさるつばめおちいはやしけん
  131. ^ 明通あけどおりかんまきじゅうちょうとり平安へいあんじょうじょうきょおさむ北平きたひら,營於たいらむらはなれじょうじゅう,擾其こうまきつばめ世子せいしとく固守こしゅひとまいつばめつげきゅうどきおうざい大名だいみょうはたりゅうこうりつへい往援。……きゅうがつきのえたつつばめすすむりゅうこう與平よへいやすせん於北ひらめはいやす退ずさたもてじょう
  132. ^ 明太めんたいむね實錄じつろくまきはちつちのえいぬほうたかし孺言於朝曰:「こんかわろうこう,而德しゅう餉道またぜっことぜいゆうこう以罷へいせつさそえこれすんで不能ふのうぎょうのり當別とうべつ一策いっさくやす坐視ざししんゆう一策いっさく。」たてあやくん曰:「ためしごと。」たい曰:「つばめ世子せいしこう謹仁あつとくこく人心じんしんつばめおう最愛さいあい,而其おとうとだかひうちずる譎,もと其寵,屢讒于父不信ふしんいまただしもちいけい離間りかん世子せいしかれすんでうたぐ世子せいしのり必趣かえり北平きたひらそくわれとくしゅう餉道どおり矣,餉道どおりそくへい氣振けぶり進取しんしゅ也。」……とげれいこう孺草しょ世子せいしれいちち歸朝きちょうもと以燕おうくらい,而令にしきころもまもる千戶張安齎詣世子,世子せいしとくしょけいふうじなみやすひとおくぐんまえどきちゅうかんげん奸險,ため世子せいししょあく,而高ひうちふかゆいためおのれ。及安しょいたりげんやめ先遣せんけんじんはせほうじょう曰:「あさ廷與世子せいしやめどおり密謀みつぼう。」じょう不信ふしんこう煦時さむらいじょうまたがえげんげん謬,じょうまた不信ふしんかたり竟,世子せいししょひと以書及張やすみないたり上覽じょうらんしょ,歎曰:「甚矣,奸人けんいつわりわれ父子ふしいたり親愛しんあいなお離間りかんきょう君臣くんしん哉?」
  133. ^ 明太めんたいむね實錄じつろくまきはちみずのえとら諜報ちょうほう大同だいどうてきはたぼうあきら引兵にゅうむらさき荊關,侵掠しんりゃくていぞくけん,……ぼうあきらよりどころえきしゅう西水にしみず寨,寨在まん山中さんちゅう四面しめんきょくけわしおもんみいちみち扳緣じょうぼうあきらよくまもる此為持久じきゅうけい,以窺伺北たいらうえ曰:「じょう北平きたひら股肱ここうぐんあに援?」とげはん
  134. ^ 明通あけどおりかんまきじゅうはちがつちょうついたちつばめわたり滹沱かわとめ其將はじめぜん鎮保じょう,而自りつへいかこえすい西にし寨。……ふゆじゅうがつちょうてい援兵えんぺいいたりつばめじょうしゅうはせかえごうかこえ寨之へい邀擊ようげき於峨嵋山(ざいえきしゅう西南せいなんひゃくさとしたれい勇士ゆうしまき登山とざんせん出陣しゅつじんちょう旗幟きし,寨中望見ぼうけんだい駭,あずかじょうへい俱潰。斬首ざんしゅまんきゅう援將はなえいてい琦等,ぼうあきら、韋諒はしめん
  135. ^ 明通あけどおりかんまきじゅうおのれつばめかえ北平きたひら。……(じゅういちがつみずのえたつ,(りゅうこう及(楊)ぶんせん於昌はじむはい
  136. ^ 明通あけどおりかんまきじゅうとうおうしょうへいやめさんねん矣,おや戰陣せんじんおかせせきため士卒しそつさきつねじょうかち逐北,しかまた屢瀕於危。ところかつじょう邑,へい旋復ため朝廷ちょうていもりしょよりどころ僅北ひらめじょうえい平三へいぞうぐん而已。
  137. ^ あきらかん綱目こうもくまきゆう以中かんたてまつ使つかいおかせ暴為げんしゃみことのり所在しょざい有司ゆうし繫治,於是ちゅうかんみつひと赴燕,げん京師けいし空虛くうきょじょう
  138. ^ あきらかん綱目こうもくまきかいみことのり有司ゆうし繫治ちゅうかんたてまつ使つかい不法ふほうしゃ先後せんご奔燕,げん京師けいし空虛くうきょじょうおう慨然がいぜん曰:「しきとし用兵ようへいなんやめ乎?ようとう臨江一決いっけつふくはん顧矣!」みち衍亦りょくすすむつばめおう:「毋下城げじょう邑,やまし趨京,此批亢擣むなしこれさく也。」とげていけい
  139. ^ 明太めんたいむね實錄じつろくまきはち:(じゅうがつおつついたち
    へいとらうえりつみなみせい
    みずのえうまちゅう蠡縣。
    よんねん正月しょうがつかぶとさるついたち
    乙未おとみよしかんすえかわ
    ちょううしいたりひがしおもねきゅうけんおさむじょうした力戰りきせん拔之,斬首ざんしゅさんせんきゅうなまとりこ守將しゅしょう
    つちのえいぬおさむ拔東ひらめとりこ指揮しき詹璟。
    かのえおさむ拔汶じょうとりこ指揮しき薛鵬。
    かのえいぬいたり沛縣,守將しゅしょう以城くだけんがおはくえらためわがぐんしょころせ
    みずのとうしいたりじょしゅう
  140. ^ あきらかん綱目こうもくまきふゆじゅうがつみことのり駙馬じょううめいん鎮淮やす
  141. ^ 明通あけどおりかんまき十三じゅうざたてぶんよんねんはる正月しょうがつきのえさる,召故しゅうおう橚於蒙きょ京師けいしいのちこくおおやけじょあきらりつきょうぐん往援山東さんとう
  142. ^ 明通あけどおりかんまき十三じゅうざがつきのえとらなにぶく平安へいあんちんあきらぐんずみやすしもりいさおぐん淮上。つばめはかりごとだん餉道,ばん款台りつじゅうまえ覘,いたり鄒縣,ぐうみなみうたて餉卒さんせんにん,款台大呼たいこはせにゅう其陣,曰:「つばめおう大軍たいぐんいたり矣。」てん餉卒おどろきつぶせかぶといぬつばめおさむじょしゅう城中じょうちゅうへいせんはい績,閉城而守。
  143. ^ 明通あけどおりかんまき十三じゅうざさんがつきのえさるつばめ趨宿しゅうみずのえたつうずかわ
  144. ^ 明通あけどおりかんまき十三じゅうざちょうとり平安へいあんりつよんまん躡燕ぐんつばめおうしつらえふく於淝かわいのち指揮しきおうしんあずかはくよしりゅうこうかくりつひゃくぎゃくえんしつらえふくやすへいはたいたりさそえこれせんたばくさおけ囊中如束帛狀,ぐうやすぐん,擲而えさやすぐんきそえ囊。つばめふくはつ真率しんそつ壯士そうし直前ちょくぜんくびさんこうぐんつぎやすぐんかこえこれすう匝,とげしん夙稱驍將ぎょうしょうじゅうそうなおかくころせすうじゅうにんつばめおう嘗曰:「しょしょう奮勇如王しん何事なにごとなり!」聞其りつへいむかえせん安部あべすすむ和爾わにみみはいてい大呼たいこ直前ちょくぜんとげおううまゆるがせためつばめしょ禽。やすぐん乃卻,退すさたむろ宿やどしゅう
  145. ^ 明通あけどおりかんまき十三じゅうざ丙午ひのえうまつばめおうはたたんしんりつへいだんじょしゅう餉道,以平いたいらやすちゅう宿やどしゅうため持久じきゅうけいだん其糧餉,おさむ而自つぶせ也。せいいたるじょしゅうげきてん餉兵,大破たいはかえ至大しだいてんため中央ちゅうおうぐんしょかこえつばめぐん望見ぼうけん旗幟きし,亟馳赴援,てつ鉉擊卻之。和爾わに和之かずゆき禽也,つばめおうれいにゅう宿衛しゅくえいいたりしたがえおうよくりついさお贖,乃以つばさおうころせみなみぐんすうじゅうにんかこえかい,遁去。
  146. ^ 明通あけどおりかんまき十三じゅうざなつよんがつへいとらつばめ於睢すい小河おがわつばめおうれいひねぶん扼要しょためきょう以濟。ちょうしげる平安へいあんれつじんそうきょうかいなんぶくぐんまたいたりちょう左右さゆうつばさえんかわ而東,げきはいつばめぐんとげひねぶん於陣。やす轉戰てんせんいたり北坂きたさかよこ槊刺おういく及之,つばめばんはたおう琪,おど馬入ばにゅうじんわきつばめおうとくだっみなみぐんだつはし而北,勇氣ゆうきひゃくばいつばめすすむちょうたけしりつ勇敢ゆうかん林間りんかん突出とっしゅつあずかおうあいげき卻之。於是みなみぐんちゅうきょうみなみきたぐんちゅうきょうきたあいしゃ數日すうじつみなみぐんかてつきつばめおう曰:「さらまちいちにちみなみぐん饟稍しゅうえきおさむ也。」乃留へいせんあまり守橋もりはし,而潛うつりしょぐん輜重しちょうみなみさんじゅう夜半やはん渡河とかにょうみなみぐんあんひとしだいおどろき。而徐てる援兵えんぺいてきいたりきのえいぬあずかつばめへい大戰たいせん於齊おさい眉山びざんうまいたりとりみなみぐん輒勝,つばめ驍將ぎょうしょうあきら
  147. ^ 明通あけどおりかんまき十三じゅうざ:維時王師おうしさいとしつばめじん兇懼。かい淮土あつしめかおるふけきたぐんやまし疫,おつつばめしょしょう渡河とか休息きゅうそく,俟釁而動。つばめおう曰:「兵事へいじゆうしん退すさ。」乃下れい:「よく渡河とかしゃひだりよくしゃみぎ。」しょしょう趨左,おういか曰:「にんおおやけとう為之ためゆき!」しゅのう曰:「しょぐんつとむ旃!かんだかじゅうせん而九かちそつゆう天下でんかきょうてきやめひだるつかれ,邀其餉道,以坐こまやめざいあにゆう退すさこころ!」しょしょう乃不ふくごと
  148. ^ あきらかん綱目こうもくまき:而帝聞訛ごといいつばめへいやめきた,召輝かえぶくぐんとげ
  149. ^ 明通あけどおりかんまき十三じゅうざちょううしなにぶくうつり營,與平よへいやすごうぐんれい璧,ふか塹高るいため持久じきゅうけい,而糧うんためつばめへいしょ阻,とくたちとき南中なんちゅう餽餉まんやすりつろくまんまもるこれおのれつばめおうりつ精銳せいえいよこげき,截其ぐんためぶくそらかべ來援らいえんころせつばめへいすうせん,卻之。かいだか煦伏へい突出とっしゅつつばめおうかえぐんふくせんぶくとげ敗走はいそう
  150. ^ 明太めんたいむね實錄じつろくまききゅうじょうかのえたつなにぶくとうさきあずかわがぐん相對そうたい深溝ふかみぞだかるいよくうんかてじつ其中,ため持久じきゅうけいいたりぐんはいかてとぼし,眾心はなれ,乃下れいあきらだん聞炮さんふるえそく出走しゅっそうやく聚淮かわ就糧。からしうえいのちしょぐんおさむ敵營てきえいるい,而躬りつしょしょう先登せんとうぐんあり而上。わがぐんさんふるえ炮,てき眾誤ためおのれ炮,きゅう趨門はしもんふさがとく,營中紛擾ふんじょう人馬じんば墜濠塹皆滿まんやぶ其營,なまとりこてきはたひだりふくそうひょうとくちんあきらみぎふくそうひょうとく平安へいあんみぎさんしょうとく溥、みやこただしじょしん指揮しきまごなりとうさんじゅうなないん、內官よんいんれいさむらいろうひね性善せいぜんだいてらすすむ彭典あきら、欽天かんふくりゅうはくかん指揮しきおうたかとういちひゃくじゅういんまんひきくだしゃさん,悉縱歡聲かんせいどう曰:「われぞく此獲やす矣。」なにぶく單騎たんき脫走だっそう
  151. ^ 明通あけどおりかんまき十三じゅうざ:於是みなみぐんかてとぼし,乃下れい以明聞礮ごえさんそく突圍,就糧於淮かわからしつばめおさむれい璧壘,はつさん礮,れいぐんあり而登。ぶくぐんあやま以為おのれごうそうもんはしつばめじょう人馬じんば擾亂じょうらんとげだいつぶせ指揮しきそう瑄,力戰りきせんぶく單騎たんきはしまぬかれやす及陳あきらうま溥、じょしんまごなりとうさんじゅうななにんみな
  152. ^ あきらかん綱目こうもくまきしょしょう請移ちゅう淮河就糧,よるれいぐんちゅうさん礮即はし翌日よくじつつばめへい猝薄るいまたはつ礮三。ぶくぐん以為おのれ礮也,そう門出かどでつばめへいじょうとげ大亂たいらん人馬じんば墜壕塹俱滿まんぶく單騎たんきはしやす及都とくちんあきらさむらいろうひね性善せいぜんとうさんじゅうななにんみな
  153. ^ 明通あけどおりかんまき十三じゅうざおのれうしつばめ泗州。おう謁祖りょうたまもの父老ふろううししゅ
  154. ^ あきらかん綱目こうもくまきもりいさお獨軍どくぐん而南,以兵すうまん戰艦せんかんすうせんれつ淮南ワイナンがん,棣兵とくわたり使つかいいたり淮安,かりみち於駙うまじょううめいんいん劓其使,曰:「とめなんじこうかえため而王げん君臣くんしん大義たいぎ。」棣氣沮。おおとりようもりじょやすしまたおり浮橋うきはしぜっぶねかじ以遏つばめ
  155. ^ 明太めんたいむね實錄じつろくまききゅうじょうからしてきはたもりいさおりょう步兵ほへいすうまん戰艦せんかんすうせんそうれつ淮之南岸なんがんわがぐんれつ北岸ほくがん相對そうたいうえいのち將士しょうし艤舟へんいかだあげ旗鼓きこ噪,ゆび麾若しょうかわしゃてきもちゆうまきしょくうえべつおかぶくしゅのうとうはた驍勇すうひゃくにん西行さいぎょうじゅう,以小ぶねせんずみ漸近ぜんきん敵營てきえい舉炮,てき驚愕きょうがくぶくとう突沖敵陣てきじんてき眾棄ほこかぶと而走,もりいさおまたせん不能ふのう上馬かみうま,其下わきとうぶねとげたんはやぶね脫走だっそうわがつき其戰かんとげずみ淮,ちゅう南岸なんがんかつ盱眙。
  156. ^ 明通あけどおりかんまき十三じゅうざ癸巳きしつばめ趨揚しゅうおのれいたりてんちょう使つかい招諭あげしゅう守將しゅしょうおうれいさきれい聞燕いたりはかりごと以城くだかん察御おうあきらじゅんこう淮治あげしゅうあずか指揮しきたかしつよし嬰城堅守けんしゅ晝夜ちゅうやかいかぶとれいゆうはかりごとこれあずか其黨俱繫ごく有力ゆうりょくのうせんきんあきらつね以自したがえれいおとうとたかししゃあつまいない力士りきしははよび其子かいあきらかいかぶと而浴,ためせんじょまさしちょうまさるしょばくとげれい於獄,開門かいもんくだあきらあずかつよしみな不屈ふくつかのえつばめかつあげしゅう
  157. ^ 明太めんたいむね實錄じつろくまききゅうじょうみずのえとらこう郵等まもる指揮しきおうすぐるとうりつ眾詣軍門ぐんもんくだ
  158. ^ あきらかん綱目こうもくまきちょう天下でんかへい勤王きんのう。……したざいおのれみことのりけいなるぐんおもまいつばめぐん
  159. ^ 明通あけどおりかんまき十三じゅうざみずのえとらみことのり天下でんか勤王きんのう大夫たいふねりやすしみぎさむらいちゅうかんおさむせんおう叔英等分とうぶんどう徵兵ちょうへい,召齊たいきよしかえ。於是蘇州そしゅう姚善、やすしなみおう璡、徽州ひね彥回、樂平よしひらけんちょう彥方、ぜんえいきよしてんしゅう縉等,先後せんごにゅうまもる
  160. ^ 明太めんたいむね實錄じつろくまききゅうじょうこう孺言:「乃事きゅう矣,むべ以計ややなるこれ。」たてあやくん曰:「なんけい?」曰:「曷遣じんもと以割,稽延數日すうじつ東南とうなん召募しょうぼ壯丁そうていとう畢集てん塹之けわしきたぐんちょう於舟かじそうあずか決戰けっせん江上こうじょう勝敗しょうはい未知みち。」たてあやくんぜん其言,乃遣けいじょうぐんぬしこういたる軍門ぐんもんしろ其事。ぐんぬしうえしたがえ姊也。……(しゅ棣)また曰:「此奸臣かんしんよくしゅうとなるわが,以俟遠方えんぽうへいみみわがあにため其所欺哉?」ぐんぬし默然もくぜんとげ
  161. ^ おう贞《弇山どう别集》まきはちじゅうはち·诏令杂考よんつばめおうやすし难,师至城下じょうか头射书,谕亲おう公主こうしゅ:「あに致书众兄弟きょうだい亲王、众妹いもうと公主こうしゅあい别数载,てん伦之じょう,梦寐忘。五月ごがつじゅうにちゆうろうあねあね公主こうしゅいた,说众兄弟きょうだいいもうといもうとごと,请老あねあね公主こうしゅらいしょう劝我,说这さんよんねん动军马,运粮てき百姓ひゃくしょう、厮杀てき军,てきりょうこと一家いっかてきこと,军马不要ふよう过江,かい天下てんか太平たいへいりょう,却不こう说?わがあずか你众兄弟きょうだい亲王、众妹いもうと公主こうしゅ知道ともみちわがこれ兴兵,别无他事たじ,为报ちちすめらぎ雠,诛讨奸恶,扶持ふちむねしゃ,以安天下でんか军民,使つかいちちすめらぎもと业传孙,以永まんせいわが岂有他心たしん哉?わが自己じこねん兴兵,いまやめよんねんちちすめらぎ雠,なおのう报,奸恶ひさし诛灭。わがそうしゅうおう无罪,奸臣かんしん诬枉,やぶ其家,灭其こくずいそくざいだいおうかかわしゅう大同だいどう其宫じん,悉配于军。いたり于湘おう,无罪逼令阖宫焚死。齐王无罪くだ为庶じんしゅうつなぎ在京ざいきょう。及乎岷王,奸臣かんしん以金帛赏其左右さゆう使つかい其诬吿岷おうりゅう于漳しゅうけむり瘴地めんいたりじゅうおとうと则焚其躯,じつ其骨,沈于。此等奸恶小人こどもみなわがちちすめらぎ不尽ふじんとうがいわがちち皇子おうじ孙,图我ちちすめらぎ天下でんか,报其わたし雠,かい其心こころざしちちすめらぎのうゆう几多孙受かれがいのうしょう几日而尽兴?げんいたり此,痛心つうしん如裂。累年るいねん以来いらい奸臣かんしん矫诏,だい发天军马らい北平きたひら杀我,わが为保せいいのちとくやめ亲帅将兵しょうへいあずか贼兵交战。おおせ天地てんち祖宗そそう神明しんめいゆう灵,れいわが忠孝ちゅうこうしん冥加みょうがたすく护,诸将効力こうりょくのうるい战而るい胜。こん大兵だいひょう渡江とのえ,众兄弟妹ていまいいもうと却来劝我かい北平きたひら?况孝りょうなお祭祀さいしちちすめらぎ雠尚のう报,奸恶ひさしのう获。以尔弟妹ていまいしん孝子こうしこころはて安在あんざい哉?如朝廷知わが忠孝ちゅうこうしん能行よしゆきなりおう故事こじわがとう如周こう辅佐,以安天下でんか苍生。如其しか,尔众兄弟きょうだい亲王、众妹いもうと公主こうしゅ及多亲戚,とうそく眷属けんぞくうつりきょ守孝もりたかりょうしろやぶこれにち,庶免惊恐。おもんみ兄弟きょうだい亲王、众妹いもうと公主こうしゅ,审之、详之。」
  162. ^ 明通あけどおりかんまき十三じゅうざ六月ろくがつみずのとうしついたちつばめはた渡江とのえもりいさお扼之於浦こうはいつばめおうよく且議きたかえてきだか煦引へいいたりおう仗鉞拊其曰:「つとむこれ世子せいしおおやまし。」於是煦率眾殊たたかえいさおへいしつ退すさたむろだかこう
  163. ^ 明通あけどおりかんまき十三じゅうざかいあさ廷遣とく僉事ひね瑄率ふね往援,瑄叛降つばめ
  164. ^ 明通あけどおりかんまき十三じゅうざきのえとらつばめおうさい大江おおえおつつばめふりしゅう渡江とのえもりいさおむかえせん於高こうはい績。しょしょう請徑うすきょうじょうつばめおう曰:「鎮江のどふえさき往來おうらい不便ふべん。」つちのえうまいたり鎮江,守將しゅしょうわらわしゅん以城くだ
  165. ^ 明通あけどおりかんまき十三じゅうざ庚申こうしんつばめ營於りゅう潭,京師けいし大震たいしんうえ徘徊はいかい殿でん廷間,召方こう孺問けいとき廷臣ていしんすすむうえみゆき浙或、湘以きょうふくこう孺曰:「城中じょうちゅうなおゆうきんへいじゅうまんただ有力ゆうりょくもり以待援兵えんぺい即事そくじすみくにくん社稷しゃしょく正也まさややめ,且遣大臣だいじん諸王しょおうとうさいまいつばめ以緩。」からしとりうえけいたかし及兵尚書しょうしょ茹瑺、とく王佐おうさふくいたりつばめぐんさるぜん請,つばめおう曰:「皇考こうこうやめ分封ぶんぽうこんわりなんめいおおやけとう奏上そうじょうただし奸臣かんしんいたりわがそくかいかぶと謝罪しゃざい退すさ謁孝りょうたてまつきたはん。」けいりゅうひとし惶懼不能ふのうたい,遽還。みずのえいぬうえふくたにおう橞、安王やすおう楹等往,おうそつたてまつみことのりただあずか諸王しょおうしょう勞苦ろうくうたげやめ
  166. ^ 明通あけどおりかんまき十三じゅうざ甲子きのえねうえひとせん齎蠟まるよん促援へいみなためつばめゆうしょおう叔英募兵ぼへい於廣とく齊泰なりやす奔往したがえ;姚善おこりへい於蘇しゅうきよし往從;而練やすし募兵ぼへい於杭しゅうかん募兵ぼへい於上ゆうみなくら猝不とくいたりうえただあずかかたこう孺執しゅ流涕りゅうていいのちじょあきら等分とうぶんどう出御しゅつぎょたにおう橞,けいりゅうひとしもり金川かながわもんときひだりとくじょぞうことぶきひさ蓄異こころざしいたり首謀しゅぼう內應。冕、だいすすむ鄒瑾りつどうかんなぐこれ,請速誅,じょうなお聽。
  167. ^ 明太めんたいむね實錄じつろくまききゅうおつうしうえいたる金川かながわもんとき諸王しょおうぶんもりきょう城門じょうもんたにおう橞守金川かながわもん,橞登城望じょうぼううえとげ按兵而入,城中じょうちゅう軍民ぐんみんみな香花こうばな夾道むかえはい將士しょうし入城にゅうじょう肅然しゅくぜん秋毫しゅうごうおかせ不易ふえき肆,みんみな按堵。
  168. ^ 明通あけどおりかんまき十三じゅうざおつうしつばめうす金川かながわもんどき北兵きたへいちゅうりゅう潭,おうおもんばか京師けいしかんつくろえ勤王きんのうよんしゅう,乃遣りゅうたもつはな聚等りょう十餘哨至朝陽門,覘知備,かえほうつばめおうとげりつ大隊だいたいせいへい前進ぜんしんいたりそくぞうことぶきはてはかりごと內應,上乃うえの於左じゅんもん。而是たにおう橞、けいたかしやめ開門かいもんおさめつばめてるとう力戰りきせんはい績。
  169. ^ あきらかん綱目こうもくまき:棣尋しんへいたむろ金川かながわもんひだりとくじょぞうことぶきはかりごと內應,みかどしゅけんこれ。橞、けいりゅうまもる金川かながわもん登城とじょう望見ぼうけん棣麾ぶた開門かいもんむかえれん楹叩よくとげ棣,ころせ都城みやこのじょうおちい
  170. ^ 170.0 170.1 りょ毖《明朝みんちょう小史しょうしまきよん永樂えいらくおさむ
  171. ^ 明通あけどおりかんまき十三じゅうざうえ知事ちじ不可ふかためたて焚宮,うまきさき傳言でんごんみかど地道じみち翰林院かんりんいん編修へんしゅうほどすみまれけんとう凡四じゅうにんしたがえ。」
  172. ^ 明通あけどおりかんまき十三じゅうざおうすんでいれちゅう使つかい出馬しゅつばきさきかばね於火,詭言みかどかばね泣,曰:「なにいたり!」
  173. ^ 明通あけどおりかんまき十三じゅうざみずのえさるそうけんぶん皇帝こうていぶたきさき也。うえ葬禮そうれい詢之おうけいたい曰:「とう以天れいそう。」したがえこれ
  174. ^ あきらかん綱目こうもくまき宮中きゅうちゅうおこりみかど不知ふちしょおわり。棣遣ちゅう使つかいきさきかばね於火,詭云みかどかばねえつ八日ようかよう學士がくしおうけいごと,備禮そうしかそう所在しょざい聞焉。ある曰帝よし地道じみちほろび,其後滇黔ともえしょくあいだ皆傳かいでんゆうみかどためそう往來おうらいあとせいとげ以帝ためへりくだくにうん
  175. ^ 明通あけどおりかんまき十三じゅうざかたつばめおう入城にゅうじょう也,楊榮むかえ謁,請曰:「殿下でんかさき谒陵乎?さき即位そくい乎?」おう乃悟。
  176. ^ 明太めんたいむね實錄じつろくまききゅうへいとら諸王しょおう文武ぶんぶ群臣ぐんしん請上せいてん。……うえもと
    ちょうしげるしょしょう上表じょうひょう勸進かんじん……聽。
    つちのえたつ諸王しょおう上表じょうひょう勸進かんじん……うえまこと
    文武ぶんぶ群臣ぐんしんふく上表じょうひょう勸進かんじん。……うえ固辭こじまこと
  177. ^ 明太めんたいむね實錄じつろくまききゅうおのれうえ謁孝りょう,欷歔かん慕,悲不能ふのうどめれい畢,攬轡かい營,諸王しょおう文武ぶんぶ群臣ぐんしん備法たてまつたから璽,むかいうえ於道,さえぎ上馬かみうまとくぎょううえかたこばめさいげん諸王しょおう文武ぶんぶ群臣ぐんしんようじょうとう輦,軍民ぐんみん耆老,まん眾夾どう,俯歡呼かんこれんたたえまんさいうえとくやめます輦,曰:「諸王しょおう群臣ぐんしん以為わがたてまつ宗廟そうびょうよろし,莫如宗廟そうびょうごとじゅう不足ふそくこんため眾心所載しょさいどるつよ循眾こころざししかよろしきょうこころ輔予逮。」とげまい奉天ほうてん殿でんそく皇帝こうてい諸王しょおう文武ぶんぶ群臣ぐんしん上表じょうひょうしょう
  178. ^ だい明太めんたいむねぶん皇帝こうてい实录》まききゅうひろしさんじゅうねんなつろくがつちょううし……新作しんさくたてまつさき殿どの。盖旧殿どの为建ぶんしょ焚,いたり改作かいさく于奉たかし殿どの西にしせい皇帝こうてい奉天ほうてんたからせい诰之たから、敕命たから
  179. ^ 明通あけどおりかんまき十三じゅうざ十一月じゅういちがつみずのえたつだてじょため皇后こうごう
  180. ^ 明太めんたいむね實錄じつろくまききゅうひろしさんじゅうねんなつろくがつ庚午こうごいのち、六部一應建文中所改易洪武政令格條,悉復舊制きゅうせいとげ仍以ひろしたけ紀年きねん今年ことしたたえひろしさんじゅうねん
  181. ^ あきらかん綱目こうもくまきあきなながつみずのえうまついたちだいまつ南郊なんこう,以太はい。赦天みことのり:「自今じこんねん六月後仍稱洪武三十五年,以明ねんため永樂えいらく元年がんねん。」……こう當時とうじなりよくようめぐみみかど年號ねんごうまたよく季夏きか改元かいげん即位そくいはつ,仍以ひろしさんじゅうねんためせつしゃとげいいとめあらためねん不知ふちみことのり內所うんとめ就現ざい而計,とげ舉是としろくにちためれい,以便遵循;實則さねつねぜん三年皆已並從改革,當時とうじ欽天かんしょしんれき直書じきしょひろしさんじゅうねんいたりさんじゅうねん
  182. ^ 明通あけどおりかんまき十三じゅうざ:凡建ぶんあさはい斥者,つきかえかんかぶとさるみことのりけんぶんしょあらため官制かんせい一切いっさいふく
  183. ^ きのえいぬ上諭じょうゆ群臣ぐんしん曰:「わが皇考こうこうはじめづくりおおとりぎょうたれほうまんねんため子孫しそんけい思慮しりょいたりしゅうしゃたて文信ふみのぶにん奸回,悉更舊制きゅうせい使つかい天下でんか臣民しんみんしょ遵法じゅんぽう天地てんち考妣こうひゆう繼承けいしょうてん,凡皇考こうこう法制ほうせい為所しどころ更改こうかいしゃ,悉複其舊。しか群臣ぐんしんなお竭乃心力しんりょく,弼予於治。凡人ぼんじん才識さいしき不同ふどうちょう於此,たん于彼,苟事ゆう過誤かごそく明言めいげんなんじせめわかかくれ不言ふげんにちひささとしじょうどう欺罔,法則ほうそくなんようおっとまきおわり必先謹始,おのれざいそんまこと始終しじゅう靡愆,とがめなんよしいたりはじめわか謹,曷克有終ゆうしゅうねん君臣くんしんいちたい披露ひろう赤心せきしん丁寧ていねいつげ戒,なんじとう其欽承。」
  184. ^ 明通あけどおりかんまきじゅうこれがつけんぶんねん正月しょうがつ),みことのりひとしこう浙田はつふとし屢蠲まつよしみみずうみごく重田しげたうねいたりふくさとし戶部とべ減免げんめんうねとくいち。迨革じょきさき,浙西ふくじゅううん
  185. ^ くに榷》:谕在京ざいきょう军民じんとうしゃ固守こしゅもちはんふうじ,以左はん奸臣かんしん,窃弄ぶく骨肉こつにく残害ざんがいおこりへい诛之,盖扶持ふち社稷しゃしょく保安ほあん亲藩也。こん拟定きょうじょう奸臣かんしん有罪ゆうざいしゃ敢赦;无罪しゃ敢杀。ある小人こども报仇,擅绑缚却りゃく祸及ほろび辜,本意ほんい
  186. ^ 明通あけどおりかんまき十三じゅうざちょううしころせ兵部ひょうぶ尚書しょうしょ齊泰なりやすふとしつねてらきょうきよし文學ぶんがく博士はかせかたこう孺,みなえびす其族。
  187. ^ 誅十族的記載見於《あきら熹宗實錄じつろくまきじゅう、《くに榷》まきじゅうめぐみそうけんぶんよんねん
  188. ^ 明通あけどおりかんまき十三じゅうざすわ死者ししゃはちひゃくななじゅうさんにんそとおやそと親族しんぞくつきすうしょうぼつはつたかしぐんすわ死者ししゃふくせん餘人よにん
  189. ^ 明通あけどおりかんまき十三じゅうざ:其次ふとつねすわるい死者ししゃぞくろくじゅうにん外戚がいせきひゃくはちじゅうにん
  190. ^ 明通あけどおりかんまき十三じゅうざ:及京もりせいともけんぶんほろび也,密謀みつぼうきょうふく,乃詣闕自うえ曰:「われ故人こじん也。」いのち仍故かんへびはん行者ぎょうじゃ久之ひさゆき早朝そうちょうきよしころもふところ而入。さきしゃそうほし赤色あかいろはんみかどきゅう。」じょううたぐきよし。及朝,せいどくちょいのちさがせこれとく所藏しょぞう詰責きっせききよし奮起ふんき曰:「よくため故主こしゅほうかたきみみ!」じょういかいのちはりつけ於市,きよしののしぜっこう而死。いちにちうえ晝寢ひるねゆめきよしにょう殿どのおいうえ曰:「きよしなおのうため厲耶!」乃夷其九ぞくつき其先じん冢墓。またせき其鄉,てんしょうよじしみいいふりづるしょう」,村里むらざとため墟。
  191. ^ くに榷》まきじゅうめぐみそうけんぶんよんねん
  192. ^ あかりまきいちひゃくよんじゅういちさん曰:帝王ていおうなりごとぶたよし天授てんじゅなり天下でんか人力じんりきしょのう禦也。ひとしかたねり儔,だきはかりごとこくちゅう,而乏制勝せいしょうこれさくしか其忠憤激ふんげきはつがたなのこかなえ鑊甘わかあめひゃくせい而下,凜凜なお有生ゆうせいあに泄然國事こくじ而以一死自謝者所可同日道哉!よしかんかた成敗せいばい常見つねみろん也。
  193. ^ 奉天ほうてんけいしょうろく·きょうぼうろく》:「永樂えいらくじゅういちねん正月しょうがつじゅういちにちほん鄧誠とう于右じゅんもん里口さとぐちそうゆう奸惡かんあく齊泰なりやすてきあねなみ兩個りゃんこがいおい媳婦,またゆうきよしいもうとよん婦人ふじんまいいちにち一夜いちやじゅうじょうかん子守こもりちょねんしょうてきふところゆう孕,じょゆうせいりょうしょう龜子かめこまたゆういちさんさいてき女兒じょじたてまつ欽(むね):『しょうてきちょういただい便びんゆらぜにじゅ。』」
  194. ^ あかりまきいちひゃくよんじゅういちじんむね即位そくい,谕礼:「けんぶん诸臣,やめこうむ显戮。いえぞくせき在官ざいかんしゃ,悉宥为民,还其田土たど。其外亲戍边者,とめいちにん戍所,还。」まんじゅうさんねんさんがつ,释坐こう孺谪戍者きさき裔,浙江せっこう江西えにし福建ふっけん四川しせん、广东凡千さんひゃく余人よにん。而孝孺绝无后,おもんみかつつとむおとうとかつ有子ゆうこ曰孝复。ひろしじゅうねん尝上书阙,请减しんこくおおやけ汤和しょ宁海赋,谪戍庆远卫,以军せき获免。こう复子琬,きさきまたとく释为みんむね时,松江まつえじん俞斌自称じしょうこう孺后,いち时士大夫たいふ信之のぶゆき,为纂《归宗录》。すんで而方察其伪,げん于官,乃已。かみはじめはつゆう诏褒录建ぶん忠臣ちゅうしんけんひょうちゅうほこら南京なんきんしゅじょ辉祖,こう孺云。
  195. ^ あかりまきいちひゃくじゅう:及燕へい渡江とのえてるなお引兵力戰りきせんなり入京にゅうきょうてるどくもりちちほこらどるむかえ。於是吏命きょう罪狀ざいじょうおもんみしょ其父開國かいこくくん及券ちゅうめん死語しごなりだいいかそぎ爵幽わたしだい永樂えいらくねんそつ。萬曆中錄建文忠臣,廟祀びょうし南都なんと,以輝きょくびこう追贈ついぞうふとしおくりなちゅうさだ
  196. ^ 明太めんたいむね實錄じつろくまききゅうついふうみぎぐんとくひだりとくじょぞうことぶきためたけようこうたまものおくりなちゅう湣,敕有つかさおさむそうぞうことぶき中山なかやまたけやすしおうだいさんははしゃなま眉宇びう秀朗ひでおしょう嘗侍ちちいれふとしだか皇帝こうてい其機警,たまものめいぞうことぶきちょう勇敢ゆうかんぜん騎射きしゃせんためくんまもる帶刀たいとう侍從じじゅう,謹實寡過,しょうみぎぐんとくひだりとく。嘗奉いのちしたがえじょうせいえびす寇乃はなあずかゆうろう績,雖生長せいちょうもり,而所きょいちしつ左右さゆう圖書としょおおやけ退すさのべけん,其中こうろん古今ここん成敗せいばい得失とくしつ,斖斖忘倦。上之うえの舉義,ぞうことぶきさいこうつとむまことゆうはつ其事於朝,とげしゅううえ入金にゅうきんかわもんたてあやくんはた焚,いのち捽至ころせこれくんじゅんもん廡下。うえ即位そくいふか悼之,しゅ褒封いのち永樂えいらくねんがつおく欽承ちちぎょう推誠守正もりまさ武臣ぶしん特進とくしんさかえ祿ろく大夫たいふみぎばしらこくしん爵為定國さだくにこう
  197. ^ 明通あけどおりかんまき十三じゅうざきゅうがつきのえさるろんやすしなんこうふう邱福淇國こうしゅ能成よしなりこくおおやけちょうたけしとうこうしゃじゅうさんにんじょさち等伯とうはくしゃじゅういちにん。……また追贈ついぞうちょうたまさかえこくおおやけたんふちきんさとこう。而大やすしくだはたちんとおる,……,いたり追贈ついぞう涇國こうあずかたまとうみなたまものおくりなろん款附こうおくけいたかし祿ろくふう駙馬じょうおうやすしためこう,茹瑺、ちん瑄及とくどう王佐おうさみなためはく
  198. ^ 明太めんたいむね實錄じつろくまきじゅう:(きゅうがつきのえさるますしょう奉天ほうてんやすしなんしょしょうふうとく僉事おかぶくため奉天ほうてんやすしなん推誠せんりょく武臣ぶしん特進とくしんさかえ祿ろく大夫たいふみぎばしらこくちゅうぐんとくひだりとく、淇國こうしょく祿ろくせんひゃくせき子孫しそん世世よようけたまわかさねしょうぎんよんひゃくりょうあやぬさよんじゅうひょううら、鈔四せんかんとく僉事しゅのうため奉天ほうてんやすしなん推誠せんりょく武臣ぶしん特進とくしんさかえ祿ろく大夫たいふみぎばしらこくひだりぐんとくひだりとくなりこくおおやけしょく祿ろくせんひゃくせき子孫しそん世世よようけたまわかさねしょうぎんよんひゃくりょうあやぬさよんじゅうひょううら、鈔四せんかん;……(下略げりゃく
  199. ^ 明通あけどおりかんまき十三じゅうざ庚午こうごふくしゅうおう橚、ひとしおう榑爵。
  200. ^ あきらかん綱目こうもくまきみずのと永樂えいらくもと年春としはる正月しょうがつふくしゅうひとしだい岷四王國おうこく
  201. ^ 明通あけどおりかんまき十三じゅうざひろ遷興そう孝康たかやす皇帝こうていぬし於陵えん,仍稱懿文太子たいし
  202. ^ つちのえとら安王やすおう楹祭つげ懿文太子たいし,遷其ぬし於陵えんぶたけんぶんはつみことおくりな懿文ため孝康たかやす皇帝こうていびょうごうきょうむねますさい於太びょう。致是,れいかんげん:「こう古典こてん,于禮やす。」とげいのち以主おけりょうえん,仍舊諡號しごう曰:「懿文皇太子こうたいし」,さい時致ときむねさい如常
  203. ^ 明通あけどおりかんまき十三じゅうざ癸巳きしあらためふうおうまこと廣澤ひろさわおう,衡王まこと熞懷おんおうじょおうまこと熙敷めぐみおうずいりょふとしきさききょ懿文太子たいしりょうえん
  204. ^ よん全書ぜんしょほんあかりまきいちひゃくじゅうはち考證こうしょう:「あずかまこと熥俱召還しょうかん,錮鳳。」しんげんぶく按:ていあきら同姓どうせい諸王しょおうでん》:「まこと熥、まこと熞之はい也,みかど以其不能ふのう諫正めぐみみかどざい。」
  205. ^ あきらかん綱目こうもくまきひろはいまこと熥、まこと熞為庶人,錮鳳まこと熙奉太子たいしまついく暴卒。
  206. ^ せんそうふくやすしおうしょ》,おうさだおおとりしゅう筆記ひっき》。
  207. ^ 207.0 207.1 顧誠《明代あきよてき宗室そうしつ》,《あきら清史きよしこく际学术讨论会论文しゅう》,天津てんしん人民じんみん出版しゅっぱんしゃ1982ねん7がつだい1はん
  208. ^ 大明だいめいこうそうたかし皇帝こうてい實錄じつろくまきろくじゅうろく》:じゅんなで山西さんせい楊澄とう以晉けいなり王子おうじおんないたり九十四人恐其中有收養異姓之弊且為鎮國將軍奇水□おどけとうぞうねんおかせささえ祿ろくまい乞下れいしょなみ乞限かくぐんおう以下いかわらわ媵之すうれい查勘くつがえそういい王子おうじおんな俱王夫人ふじんなみかんじんしつおんなしょ生別せいべつたがえ礙其おかせささえ祿ろくまいほうむべ追徵ついちょうかえかん じょう曰王子女しじょすんでたがえ礙其おけ勿論もちろんおかせささえ祿ろくまい追徵ついちょうじゅんさく以後いごねんぶん該支すうほうげんそうゆうもと濫收子女しじょ事例じれい仍行かくおうかいぐんおう以下いかわらわ多少たしょうすう再會さいかいかんてい以聞れいふく會議かいぎくつがえそういいぐんおう正妃せいひがいわらわ媵不とく四人各將軍不得過三人中尉不得過二人從之著為令
  209. ^ あきらかん綱目こうもくまきがつ以北いほくひらたため北京ぺきんしつらえ北京ぺきん留守るすぎょうぐんとく行部ゆくべ國子くにこかんあらため北平きたひら曰順てん
  210. ^ あきらかん綱目こうもくまきあきはちがつ,徙富民とみんじつ北京ぺきんどきはつ流罪るざい以下いか北京田きたきょうでんまた徙直隸、蘇州そしゅうとうじゅうぐん浙江せっこうとう九省富民實之。
  211. ^ あかりまきろくきゅうがつちょう,诏自明年みょうねんあらためきょう师为南京なんきん北京ぺきん为京师。
  212. ^ あかりまきひゃくじゅうろくなるしたがえつばめおこりやすしなん,患寧おう躡其えいたいらおさむだいやすしいれはかりごとおびえやすしおうよしあつまいないさんまもるせつなりぎょうやすしおうはなむけしょ郊,さんまもるしたがえいちよびみなおこりとげようやすしおう西入にしいりせきなりふくせんさんせん人為じんいへいしたがえせん天下てんか既定きてい,徙寧おうみなみあきら,徙行つかさ於保じょうとげつきわりだいやすし畀三まもる,以償ぜんろう
  213. ^ あきらかん綱目こうもくまきさんがつはじめ以大やすし畀烏やなかいちゅうそく兀良哈)。あらためきた平行へいこうつかさためだいやすしつかさ,徙保じょう。以大やすし畀烏やなかい北邊ほくへんしついち重鎮じゅうちん。(北平きたひらへいおこりみかどすんでさそえやすし王權おうけん,乃選がらすやなかいさんせん人為じんいへいしたがえせんすう有功ゆうこう。及天既定きていとげわりだいやすし畀之,以償ぜんろうよしひろし武中たけなかしょちくしょしろつきはいこういたりてんじゅんまつだいやすしとげつきためがらすやなかい所有しょゆう遼東りゃおとんせん聲援せいえんいん隔絕かくぜつ。)
  214. ^ 讀史どくしかた輿こし紀要きようまきじゅうはちあきらひろしじゅうさんねんおさむふくじゅうねんたてだいやすしまもるまたおけきた平行へいこう永樂えいらくはつはい
  215. ^ 讀史どくしかた輿こし紀要きようまきじゅうはちはいだいやすしまもる營州。……あきらはつふんはんおけ戍,しょ以東いとうひじ遼東りゃおとん西にしひじせん使つかいはんかき鞏固きょうこもんにわ覬覦すき也。永樂えいらくはじめ,雖徙きょう營等まもる於內しかしろもりなおそん,三衛未敢侵秩。土木どぼくへんさんまもるえきほしいままりょう河東かわとう西にし及三岔河北故地,悉為しょよりどころあざみりょうしたがえ此多ごとつめなんじえびすへい,以陟禹跡,營州おわり棄乎哉?
  216. ^ 明太めんたいむね实录》,かんじゅうはちだい320页,“えい乐元ねんさんがつみずのえうま”。
  217. ^ 明太めんたいむね实录》,かんだい454页,“えい乐元ねんじゅういちがつからし”。
  218. ^ 石山いしやまちょこうまさし宽译,《えい大帝たいてい:一个中国帝王的精神肖像》,ちゅう华书きょく,2009ねん11月,ISBN 978-7-101-06977-8だいはちしょうえい乐和こうむ古人こじんだい145-146页
  219. ^ きむようつとむ:《きたせい录》,だい297页。
  220. ^ かくみやつこきょう:《卢龙塞りゃく》,かんなな,《纪部(よん)·ひろしせんせいけい经略》记载:こんげんだい宁者,りつ谓我なり以畀兀良哈,盖未かんがえみみとう宁藩すんで袭,环卫ゆう其故种,藉为さき驱;及顺,戍卒归情みみ尝尽驱さん卫以ぎょう也。难靖来朝らいちょう,仍设卫如,诏其镇守边境,せいきょ本土ほんど,曷尝以大宁畀乎?无论なが乐壬とら师,そくせん德之のりゆき东狩,其巢あな非我ひがはんこう焉。ただし营、兴诸卫既うつり,其贡どう必由此行。わがこれ烧荒日近ひぢかい,而哨捕ひさし举,かれ逐水そうとげ渐牟而有みみわか谓以だい宁畀兀良哈,则其みなゆう分地ぶんち,岂甘へい广宁がい,岁借于朵颜哉!鸣銮镇戍谕,灭虏而守だい宁者,すんで畀而复背ほん而我守之もりゆきみみ。乃犁にわはじめ毕,而榆变作;经略遑,かたむべえい叹。ところ憾者,せんとく辅臣远弃やすみなみきん弃开ひらめとう英武ひでたけあさ不能ふのう赞成さきこころざしほう凯旋而已矣。三卫永若河套,谁之とがめ欤?
  221. ^ 杨守谦:《だい宁考》记载:だい宁之弃,なりそくしゅ棣)はつ也。えいはちねん北方ほっぽういたり鸣銮戍,语大学士がくしきんようつとむ曰:“こん灭此ざん虏,おもんみもり开平、兴和、だい宁、辽东、宁夏、あま肃,则边さかいなが无事矣。”もりだい宁、辽东而曰“えい无事”,弃大宁非なりはつ也。
  222. ^ りんくすのきちょ,《えい乐之しゅ棣传》,文化ぶんか发展出版しゅっぱんしゃ,2021ねん11月,ISBN 978-7-5142-3397-1だいしょうしんてき秩序ちつじょだい1节、新都しんと北京ぺきんきた疆体けい
  223. ^ 明通あけどおりかんまき十三じゅうざはちがつみずのえいのちさむらい讀解どっかい縉、編修へんしゅう淮入直文なおふみふちかくなみあずかつとむ。……內閣あずかつとむ此始。
  224. ^ あかりまきさんひゃくよん明太めんたい既定きていこうひだり,鑒前だいしつおけ宦者ひゃくにん。迨末ねん頒《くん》,乃定ため十有二監及各司局ややたたえ備員矣。しかじょうせいとくけんそとしん文武ぶんぶ銜,とくそとしんかんむりふくかんよんひんがつまいいちせき衣食いしょく於內にわ。嘗鐫てつぱいおけ宮門きゅうもん曰:「內臣とくあずか政事せいじあずかもの。」敕諸あずかぶんうつり往來おうらいゆうろう閹供ごとひさいちにち從容しょうよう政事せいじみかどだいいか即日そくじつ斥還きょう。嘗用もりやすどうため御用ごようかんやすどうそとしん也,以鑷こうさむらいみかどすうじゅうねん帷幄いあくけいみなあずかせい縝密泄,しょ大臣だいじんぜん一揖いちゆうけいこう而退。ふとしあいしかほろびちょう遷出ためひかり祿ろくてらきょうゆうちょうしげるしゃひろし八年以內侍使河州市馬。其後以市馬出うまだししゃまたゆうつかさあやかんけいわらわとうしかみな敢有しょみき竊。けんぶんみかど嗣位,內臣えきげんみことのり出外ではずれやや不法ふほうもと有司ゆうし械聞。及燕江北こうほく,內臣逃入其軍,朝廷ちょうてい虛實きょじつぶんすめらぎ以為ちゅう於己,而狗やからふく以軍こうとくこう即位そくいとげしょ委任いにん
  225. ^ あかり·しょく貨志》:やすしなんへいおこり,淮以北いほくきくため茂草もぐさ
  226. ^ 明太めんたいむね實錄じつろくまきじゅう山東さんとう北平きたひら河南かなんしゅう縣人けんじん民有みんゆうへい不能ふのうこうしゅしゃなみめんさんねんぜい曾被へいしゃあずかちょく隸鳳、淮安、じょしゅう、滁州、あげしゅう今年ことしあきなつぜいかてつきくだり蠲免;其餘ちょく隸府しゅう山西さんせい陝西せんせい浙江せっこう福建ふっけん江西えにしみずうみひろりょうこう四川しせん雲南うんなん,蠲免一半いっぱん;其有ひろしさんじゅう五年七月初一日以前拖欠一應錢糧、しおだんひき木植きうえあししばとうこう軍民ぐんみんしょやしなえうしひつじとうこうたおせなみかけ孳生しゃなみめんつい陪;其弓へい辦蘆しばしゃゆうめんねんいち河南かなん山東さんとう北平きたひら淮南ワイナンきたりゅううつり人民じんみんかくかえ原籍げんせきふくぎょうごうよう種子しゅしうしかんため給付きゅうふ
  227. ^ りゅう孝平たかひら明代あきよ禁書きんしょじゅつりゃく圖書館としょかん理論りろんあずか實踐じっせん-2005ねん05
  228. ^ あきらちんけん,《すめらぎあかりどおり》(まき4):“はつふとしていくん於諸王位おういかくだてじゅう,以聯子孫しそんめいつばめ王位おうい曰則曰:‘こう瞻祁ゆうあつ翊常よし。’識者しきしゃ曰:‘こう瞻,おおせほうてん也;あつ,俯察也,てん高地たかちあつし氣象きしょう甚大じんだいまこといい天子てんし矣。’つばめおう聞之甚喜,且謂:‘おのれめいざい讖,必有天下でんかもちしゃ。’ふくごと:‘つばめゆう天子てんし。’やすしなんゆかり此而おこり。”

らいみなもと

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