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建文帝 - 维基百科,自由的百科全书

けんぶんみかど

明朝みんちょうだい2皇帝こうてい

けんぶんみかどしゅまこと(1377ねん12月5にち—?)明朝みょうちょうだいにん皇帝こうていねんごうたてあや”,明太めんたいしゅもとあきらこれまごはや逝的太子たいししゅしるべてき庶长在位ざいい期間きかん進行しんこういち系列けいれつ寬政かんせいそぎはんてき改革かいかくしょうけんぶんあらためせい”。よし於燕おうしゅ發動はつどうやすしなんへんおさむ入京にゅうきょうおうてんため明成めいせいしゅまこと下落げらく不明ふめい大臣だいじんうめいんわたしおくりな其為「かみ宗孝むねたか皇帝こうてい」,ただしなりみとめしゅまこと炆為合法ごうほう皇帝こうてい而未じょう諡號しごう明朝みんちょうじんだいしょうためたてあやくん[1][2][3]ちょくいた南明なんめいとき弘光ひろみつみかどつい谥之ため“嗣天章道しょうどう诚懿渊功观文扬武克仁かつひと笃孝皇帝こうてい”,庙号“めぐみむね”,也作「明惠あきえむね」。しんだかむねいぬいたかし元年がんねんこうはじめつい谥之ためきょうめぐみ皇帝こうてい」。

けんぶんみかど
しんだい绘制てきけんぶんみかど画像がぞう
明朝みんちょうだい2にん皇帝こうてい
統治とうち1398ねん6がつ30にち-1402ねん7がつ13にち(4ねん13てんしつ
前任ぜんにん明太めんたいしゅもとあきら
つぎにん明成めいせいしゅ
たてもうかしゅぶん
明朝みょうちょうすめらぎふとしまご
統治とうち1392ねん-1398ねん
前任ぜんにん无(首位しゅい
つぎにんしゅ瞻基明成めいせいだて
出生しゅっしょう(1377-12-05)1377ねん12月5にち
ひろしたけじゅうねんじゅういちがつにち
明朝みょうちょうおうてんいま江蘇こうそ南京なんきん
逝世1402ねん7がつ13にち(1402さい—07—13)(24さいしつ蹤)
やすそう
おうきさき马氏そく弘光ひろみつみかどみこと谥的こう愍讓皇后こうごう

きょう2人ふたり
年號ねんごう
たてあや
谥号
こう皇帝こうていうめいん谥)

嗣天章道しょうどう诚懿渊功观文扬武克仁かつひと笃孝皇帝こうてい弘光ひろみつ元年がんねん谥)

きょうめぐみ皇帝こうていいぬいたかし元年がんねんつい谥)
庙号
かみはじめうめいんじょう
めぐみむね弘光ひろみつもと年上としうえ
父親ちちおや懿文太子たいししゅついみこときょうそうやすし皇帝こうてい
母親ははおや懿文太子たいし吕氏(こうみこと皇太后こうたいごう

生平おいだいら经历

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すめらぎふとしまご時期じき

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しゅまこと炆是懿文太子たいししゅだい,也是庶长生母せいぼ吕氏これ太子たいしわらわしつ)。嫡母ちゃくぼ太子たいしつね所生しょせい長子ちょうししゅつよしえいはやゆえ[4],另有いち嫡子ちゃくししゅまこと为其おとうと嫡母ちゃくぼつねざい1378ねん逝世きさき生母せいぼ吕氏为以わらわしつ身分みぶんなり为继にん太子たいしひろしたけじゅうねん(1392ねん),ちち亲朱标薨逝。祖父そふ明太めんたいしゅもとあきらとべしゅまことしゅまこと炆為嫡長まごたてすめらぎふとし。违反其编せんすめらぎあかり》。

しゅまこと炆由於自よう熟讀じゅくどく儒家じゅか經書けいしょしょちかこれじんふところ理想りそう主義しゅぎ性情せいじょういん此與其父同樣どうようぬるぶん儒雅,そくちょうみな以寬大著たいちょしょうひろしじゅうきゅうねんしゅまこと炆曾むかいふとし請求せいきゅうおさむあらため大明だいめいりつ》,參考さんこうれいけい》及歷あさ刑法けいほうおさむあらため大明だいめいりつちゅうななじゅう三條過份嚴苛的條文,ふか人心じんしん[5]

しゅまこと出生しゅっしょう时脑ぶくろ长得颇偏,しゅもとあきらようしゅ摸着说:“はん边月儿。”いちねんじょゆうあずかちち亲朱标陪どうしゅもとあきらしゅもとあきらさけべ父子ふしさくえいがつ诗,しゅまこと炆作诗曰:“谁将だまゆびかぶと,掐作天上てんじょうこんかげ江湖こうこさとみずち龙不敢吞。”しゅもとあきらきさき默然もくぜん语。[6]

つぎしょうみかど

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あきらひろしさんじゅういちねん(1398ねんうるうがつ明太めんたいしゅもとあきらぜん密命みつめい驸马うめいん辅佐しんくんしゅまこと炆在同月どうげつ(6がつ30にち即位そくいねん21さい定次さだつぎねんしたがえ1399ねん2がつ6にち开始)ためけんぶん元年がんねんけんぶんみかどざいろくがつすすむよう齊泰なりやすため兵部ひょうぶ尚書しょうしょきよしためふとつねてらきょうなながつほうたかしため翰林院かんりんいん侍講じこうざい國事こくじじょう倚重さんにん[7]けんぶんみかどてき年號ねんごうけんぶんゆうべつ於其祖父そふてきひろしたけそう仿效祖父そふ以嚴けいたかし法治國ほうちこく即位そくい改行かいぎょう寬政かんせい[8]しゅうはん人數にんずうげんいたりひろしたけ時期じきてきさんなり左右さゆう[9]

けんぶんみかどのう虚心きょしん纳谏。一次他因病上朝晚了,监察いん昌隆まさたか对此提出ていしゅつ批评,左右さゆうけん议他说出自己じこしみびょうけんぶんみかど却认为这样的谏言难得,ただしぼっゆう辩,还表扬了いん昌隆まさたかおおやけ开了てきそう疏。

そぎはんあらためせい

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明太めんたいため鞏固きょうこ皇室こうしつだいふう宗室そうしつためはんおうかくよう私人しじん護衛ごえい軍隊ぐんたいたいけんぶんみかどらいせつしょはんおうだいため其叔やから,且在封地ほうち掌握しょうあく兵權へいけん心中しんちゅうのよし不安ふあんけんぶんみかどためすめらぎふとしまご曾問きよし曰:「諸王しょおう尊屬そんぞくようじゅうへい不法ふほう奈何いかん?」きよし回答かいとうせつ諸王しょおうぐん力不足ちからぶそく以抗衡朝廷ちょうていけんぶんみかど即位そくいしたれいかく王國おうこくてき地方ちほう文武ぶんぶ官員かんいん朝廷ちょうてい節制せっせい採取さいしゅそぎはん政策せいさく先後せんご废黜しゅうおう[10]湘王齐王だいおう[11]岷王[12]ざい部署ぶしょたいづけ年齡ねんれい最長さいちょう軍功ぐんこう最多さいた武力ぶりょく最强さいきょうだいてきつばめおうしゅときゆかり於建ぶんみかど身邊しんぺんてきはかりごと士多した缺乏けつぼう實際じっさいてき政治せいじ經驗けいけん,以致くさおどろきへび,引發りょうつばめおう先發せんぱつせい人的じんてき念頭ねんとう[13]しゅ棣在權衡けんこう利害りがいこれ,於建ぶん元年がんねん(1399ねんなながつざい封地ほうち北平きたひらおこりへいはん[14]以“やすしためめいこう京師けいし進軍しんぐん

けんぶん元年がんねんけんぶんみかどみことのり討伐とうばつつばめぐんいのちすぐるだか耿瓛もりいさおはんただし楊松顧成じょともちんあきら平安へいあんぶんみち併進へいしん,并在河北かわきたじょう設立せつりつひらつばめぬのせい使兵部ひょうぶ尚書しょうしょ暴昭てのひらごと[15]ずい耿炳ぶんりつ大軍たいぐん抵達,あずかつばめぐん交戰こうせんきさきしつ退すさもりあかりけんぶんみかど臨時りんじかわはた,撤換耿炳ぶんゆかりけいたかし代替だいたい[16]ずいしゅ獲得かくとくやすしおうしゅけん朵顏さんまもる實力じつりょくだいぞう。而李けいたかしざいりつぐんかこえこま北平きたひらきさき,仍然無法むほうやぶしろ,并在ていむら壩潰はいつばめおういん此向明惠あきえみかど上書うわがき明惠あきえみかどとく罷免ひめん齊泰なりやすきよし[17]

けんぶんねんつばめぐんあずか中央ちゅうおうぐんざいしろみぞかわ大戰たいせんけいたかしさいつぎつぶせはい逃亡とうぼうずみみなみずいさいざいすみみなみつぶせはいしか而,しゅ棣卻無法むほうおさむやぶ山東さんとう參政さんせいてつみやこただしもりいさおまとずみ南城なんじょうとく撤軍[18]明惠あきえみかどずいふうしょうてつ鉉、もりいさおただし卻不誅殺ちゅうさつけいたかし同年どうねんふゆつばめぐんさいつぎしんはんずみやすしもりいさおげきはい斬殺ざんさつつばめすすむちょうたま,并接れんかち[19]けんぶんさんねんりょうぐんざい河北かほく山東さんとう一帶いったい屢次交戰こうせん,并互ゆう勝負しょうぶ最後さいごつばめぐんおさむにゅうじょう[20]

けんぶんよんねんなにぶく平安へいあんりつりょうてき中央ちゅうおうぐんざい小河おがわ大勝たいしょうつばめぐん,并斬其將ちんあや;而じょあきらまたざいひとし眉山びざん獲得かくとく大捷たいしょうつばめぐん恐懼きょうくきさきけい劃北。恰逢けんぶんみかどあやま以為つばめぐんやめけいきた撤,召徐てるはん,致使なんぶく孤軍こぐん奮戰ふんせんずいれい璧之戰中せんちゅうつばめぐん大勝たいしょうちんあきら平安へいあんちん性善せいぜん彭與あきらもりいさおぐんまたざい淮河戰中せんちゅうつぶせはいつばめぐんとげわた淮河,抵達ろくごうけんぶんみかどとくしたみことのり要求ようきゅう各地かくち勤王きんのう,并遣使わりやめへい[21]同年どうねんろくがつもりいさおざい浦子うらこくちあずかつばめぐん交戰こうせん不利ふりとく僉事ちんりつ水軍すいぐんつばめずいしゅ棣率つばめぐん渡江とのえ最終さいしゅう逼近南京なんきんおうてんたにおうしゅあずかけいたかしひらく金川かながわもん變節へんせつ,致使つばめぐん進入しんにゅう都城みやこのじょう宮中きゅうちゅうおこりけんぶんみかど不知ふち下落げらくねん25さい[22]

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つばめおうしゅ入京にゅうきょう应天きさきけんぶんみかどざい宫中举火,皇后こうごう焚死,けんぶんみかど本人ほんにん及其太子たいししゅぶん不知ふちしょ踪,いたりこん下落げらく仍是定論ていろんてき历史谜。ゆうしょう其從地道じみち逃亡とうぼう[23]也有やゆうべつしょう其離宮後みやうしろ出家しゅっけためそう[24]

しゅ入京にゅうきょうさきころせ齊泰なりやすきよしほうたかし及大批忠于建ぶんみかどてき官員かんいんぽうたたえ皇帝こうていため明成めいせい當時とうじ駙馬じょううめいんざいぐんちゅうしたがえ彥清これためけんぶんみかどはつおくりなこう皇帝こうてい」,びょうごうかみはじめ[25]ただしなり承認しょうにん

雖然しゅ棣宣たたえざい宮中きゅうちゅう找到けんぶんみかどてき屍體したいなみため舉行葬禮そうれいただししゅ棣對けんぶんみかどてき傳言でんごん敢掉以輕しん。吕太きさき复称为懿ぶん太子たいしけんぶんみかどねん仅2岁的幼子おさなごしゅぶんけい废为庶人,并囚きん凤阳广安宫。けんぶんみかどてき三个弟弟原本封为亲王,なお就藩,しゅ棣将们降为郡おうねん长的しゅまことしゅまことさきふういたり福建ふっけん漳州和江わえ西にしたてあきら,旋被召回きょう师(南京なんきん),以“不能ふのう匡正きょうせいけんぶんみかど”为由废为庶人,并囚きん于凤阳,ただとめねんようてきしゅまこと给朱标奉祀ほうし[26],而不久之ひさゆききさきしゅまこと熙也于永乐よんねん于火灾。

溥洽けんぶんみかどぬしろくそう當時とうじ傳聞でんぶん知道ともみちけんぶんみかど逃的ごとしゅ棣遂以其罪名ざいめいしゅうきん溥洽ちょうたちじゅうねんちょくいた姚廣こうやまい危時請求せいきゅうしゅ釋放しゃくほう溥洽,溥洽ざいしゃく[27]

明成めいせい即位そくいきさき不承ふしょう认建ぶんみかどてきせい统性,したれい销毁けんぶんあさ史料しりょう,并先きさき三次修改明太祖实录。なり还下れいさく奉天ほうてんやすし难记》,对懿ぶん太子たいし及建ぶんみかど貶低[28][29][30]

正統せいとうねんゆうそう雲南うんなんいたり廣西ひろせ,詭稱けんぶん皇帝こうていずい逮捕たいほ調ちょう查,乃是ひとししゅうじん楊行さちずい下獄げごく而死。同行どうこうじゅう僧侶そうりょみな戍遼ひがしずい雲南うんなんしゅう、四川等地均相傳有帝為僧時往來跡。正德しょうとくまんれきたかしただし年間ねんかんしょ大臣だいじん請求せいきゅうぞく封建ほうけんぶんみかど,及加びょうおくりなひとし成行しげゆきただしまんじゅうさんねんきゅうがつしもむね恢复けんぶん年号ねんごう在官ざいかん修史しゅうし书里てき书写[31]。虽然《ふとしそう实录》(なり祖原そはらびょうごうふとしむね),しょうけんぶんみかどしゅ棣以天子てんしれいそうただしたかし祯帝在位ざいい时却亲口承こうしょう认建ぶん并无陵墓りょうぼたかしただしじゅうななねん(1644ねんがつ南明なんめいてき弘光ひろみつみかどざい南京なんきん即位そくい,於同年どうねん七月為建文帝君臣平反,じょう庙号「めぐみむね」,谥号为「嗣天章道しょうどう诚懿渊功观文扬武克仁かつひと笃孝皇帝こうてい」。清朝せいちょういぬいたかし元年がんねんいぬいたかしみかどみことのり廷臣ていしんしゅうついおくりな曰「きょうめぐみ皇帝こうてい」,後世こうせい也稱けんぶんみかどため明惠あきえみかど[32]

けんぶんみかどてき最終さいしゅう下落げらくいたりこん仍是かいなぞ,一说建文帝藏身于湖南省ながしゅう新田にった[33]

为政举措

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ぞくしん

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あかりけんぶんみかどざいのぼりはじめきさきひさそくじゅうしん選拔せんばつろく官員かんいん,其中大量たいりょうかん员在やすしなんやくちゅう死亡しぼうざい战事中陣なかじんほろび拒絕きょぜつあずかつばめおうしゅ合作がっさく自殺じさつある不屈ふくつ而亡,其中包括ほうかつれい尚書しょうしょちん兵部ひょうぶ尚書しょうしょ齊泰なりやすてつ刑部おさかべ尚書しょうしょ暴昭ほうやすしひだりけいきよしみぎねりやすし翰林院かんりんいんほうたかしひとし

在位ざいい年号ねんごう

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年號ねんごう 吏部尚書しょうしょ 戶部とべ尚書しょうしょ れい尚書しょうしょ 兵部ひょうぶ尚書しょうしょ 刑部おさかべ尚書しょうしょ こう尚書しょうしょ
たてあや元年がんねんおのれ
(1399ねん
ちょう いくしん
おうどん
ちんすすむ 齊泰なりやす
茹瑺[34]
ほうやすし
暴昭[35]
ていたまもの
いむしんただし
けいきよしひだり[36]
ねりやすしみぎ[37]
たてあやねんかのえたつ

(1400ねん

ちょう いくしん
おうどん
ちんすすむ 茹瑺
てつ[38]
ほうやすし
暴昭
ていたまもの
いむしんただし
けいきよしひだり
ねりやすしみぎ
たてあやさんねんからし

(1401ねん

ちょう いくしん
おうどん
ちんすすむ 齊泰なりやす[39]
茹瑺
てつ
ほうやすし
暴昭
ていたまもの
いむしんただし
けいきよしひだり
ねりやすしみぎ
たてあやよんねんみずのえうま

(1402ねん

ちょう[40] いくしん[41]
おうどん[42]
ちんすすむ[43] 齊泰なりやす[44]
茹瑺[45]
てつ[46]
ほうやすし[44]
暴昭[47]
ていたまもの[48]
いむしんただし[49]
けいきよしひだり[50]
ねりやすしみぎ[51]

家族かぞくなり

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けんぶんみかど家族かぞく
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
高祖父こうそふついみこと)熙祖ひろし皇帝こうていしゅはついち
 
 
 
 
 
 
 
曾祖父そうそふついみことひとしじゅん皇帝こうていしゅめずらし
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
高祖母こうそぼついみことひろし皇后こうごうおう
 
 
 
 
 
 
 
祖父そふふとしだか皇帝こうていしゅもとあきら
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
そと高祖父こうそふついふう杨王陈公
 
 
 
 
 
 
 
曾祖母そうそぼついみことじゅん皇后こうごう陈氏
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
そと高祖母こうそぼついふう)杨王夫人ふじん
 
 
 
 
 
 
 
ちちついみこと)兴宗やすし皇帝こうていしゅ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
そと曾祖父そうそふついふうじょおう马公
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
祖母そぼこう慈高皇后こうごう马氏
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
そと曾祖母そうそぼついふうじょおう夫人ふじん郑媪
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
めぐみそう皇帝こうていしゅまこと
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
外祖父がいそふふとつねきょう吕本
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
はは懿文太子たいし皇太后こうたいごう)吕氏
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
家庭かていなり 姓名せいめい 备注
ちち 懿文皇太子こうたいししゅ[註 1]
はは 吕氏
皇后こうごう こう愍溫さだあきら睿肅れつじょうてん弼聖ゆずる皇后こうごう马氏
兄弟きょうだい しゅつよしえいおそれ怀王しゅまことおうしゅまこと衡王しゅまこと𤐤じょおう
姊妹 こうみやこ公主こうしゅむべりんぐんぬし南平なべらぐんぬし
しゅぶんかず太子たいし[52]しゅぶんけい润怀おう[53] しゅぶんしゅぶんけいひとしためはは皇后こうごう马氏所生しょせい

艺术形象けいしょう

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电视剧

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以下いかれつ曾飾えんじけんぶんみかどてきえんじいん,以及げきちゅう演出えんしゅつけんぶんみかどてき电视剧:

えんじいん とし かげ作品さくひん 備註
1987ねん 大明だいめいぐんえい 香港ほんこんでんげき
黃河こうが 1993ねん しゅもとあきら
黃海こうかい 1997ねん 永樂えいらく大帝たいてい
邱心こころざし
陈磊
2000ねん 帝王ていおうたび 邱心こころざし饰演成年せいねんけんぶんみかど
陈磊饰演わらわねんけんぶんみかど
杨凡 2001ねん すめらぎあさふとし
たけ跃利 2001ねん さんしょう爷的剑
じょ 2002ねん 穿ほじえつ时空てき爱恋 中国ちゅうごくだいてきだい一部いちぶ穿ほじえつ
2002ねん 大醉たいすい たけげんじょう
唐国からくにきょう 2002ねん えい英雄えいゆう儿女 历史功夫いさおへん
もう 2004ねん めい扬花
孙霆 2005ねん 大明だいめい奇才きさい
高虎たかとら 2005ねん だい明天子めいてんし
しゅう俊豪しゅんごう 2006ねん しゅもとあきら
きょう泰郎やすお 2006ねん 傳奇でんき皇帝こうていしゅもとあきら
たかししょう 2006ねん くつがえあめこぼしうん 香港ほんこん綫電げき原著げんちょため香港ほんこん知名ちなげんまぼろしたけ小說しょうせつえき
黄海こうかい 2007ねん 铁血おとこ またえい大帝たいてい》,しん电视剧。
蔺达诺 2009ねん 郑和西洋せいよう 纪念郑和した西洋せいよう600周年しゅうねん
2009ねん つつみさんしゅうとがい そう轻喜剧
陈山聪 2011ねん ひろしさんじゅう
芮伟こう 2011ねん ひろしたけまさるあん
张津赫 2011ねん 大武おおたけとう
张赫 2015ねん にしきころも夜行やこう
张睿 2016ねん 英雄えいゆう
たんがくあきら 2019ねん 大明だいめい风华
陈奕すすむ 2022ねん 山河さんが月明げつめい

ちゅう

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  1. ^ 明惠あきえそうつい尊父そんぷ亲为孝康たかやす皇帝こうてい,庙号兴宗,明成めいせいおいくだあに长为皇太子こうたいし,其在世ざいせいきさき裔尽废为庶人,いたり南明なんめいやすむね弘光ひろみつみかどざいつい复朱标一ささえてき地位ちい

延伸えんしん阅读

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[]

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 あかりまきよん》,出自しゅつじあかり

参考さんこう文献ぶんけん

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引用いんよう

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  1. ^ こん历年ひゃく,历世じゅうかのう朝野あさの不知ふちゆうたてあやくんしゃ,其实よう掩也。《けんぶん朝野ちょうや汇编.まき20》
  2. ^ たてあやくんせいひろしじゅうねん,距正統せいとうねんとうろくじゅうよんさいなんとくきゅうじゅうさいあきら史紀ふみのりごと本末ほんまつ.まき17》
  3. ^ いつわりうんたてあやくんじつ不死ふし,此即故主こしゅらい。《まんれきへん.補遺ほい卷一けんいち
  4. ^ ていなんじ璧(1546—1607)《すめらぎあかりみかどきさきりゃく》,《ちょうれいあげ教授きょうじゅじょう庠講がくじゅう周年しゅうねんねんろん文集ぶんしゅう》P158
  5. ^ あかり》(まき4):“きょう閔惠皇帝こうていいみなまこと炆。ふとしまご,懿文太子たいしだい也。ははりょみかどせい潁慧好學こうがくせい至孝しこうとしじゅうよんまち懿文太子たいしやまし晝夜ちゅうや暫離。さらねん太子たいし薨,きょ毀瘠。ふとしなで曰:「而誠純孝すみたか,顧不念ぶねんわが乎。」ひろしじゅうねんきゅうがつたてためすめらぎふとしまごじゅうきゅうねん重定しげさだ諸王しょおう東宮とうぐうせい朝見ちょうけん於內殿どのぎょう家人かじんれい,以諸おうみな尊屬そんぞく也。はつふとしいのち太子たいししょうけつあきらかなで太子たいしせいひとしあつし,於刑ごくしょげんしょういたり以命ふとしまごふとしまごまたふく以寬だい。嘗請於太へんこうれいけいさん歷朝れきちょう刑法けいほう改定かいていひろしたけりつ》畸重しゃななじゅうさんじょう天下てんか莫不頌德焉。”
  6. ^ そうえんじゅとし鈔卷2
  7. ^ あかり》(まき4):“さんじゅういちねんうるうがつふとしくずしからしそく皇帝こうていふとし赦天,以明ねんためけんぶん元年がんねんそうだか皇帝こうてい於孝りょうみことのりぎょうさんねん群臣ぐんしん請以えきがつみかど曰:「ちんこう古人こじんあきらかげ不言ふげん也。ちょうそくあさ冕裳,退すさのりひとしおとろえつえ絰,しょくそく饘粥,郊社宗廟そうびょう如常れい。」とげいのちてい以進。へいさるみことのりぶんしん五品以上及州縣官各舉所知,其人しゃすわこれ六月ろくがつしょう并州けんかわ冗員じょういん兵部ひょうぶさむらいろう齊泰なりやすため本部ほんぶ尚書しょうしょ翰林院かんりんいんおさむせんきよしためふとつねきょうどうさんぐん國事こくじあきなながつ,召漢中府なかぶ教授きょうじゅかたこう孺為翰林院かんりんいん侍講じこうみことのりゆき寬政かんせい,赦有ざい,蠲逋。”
  8. ^ あかり》(まき4):“これがつたまもの天下でんか明年みょうねん田租でんそはんしゃく黥軍及囚徒しゅうとかえ鄉里きょうり。”
  9. ^ あかり·刑法けいほう》:「元年がんねん刑部おさかべほうしゅうげんふとしじゅうさん矣」。
  10. ^ あかり》(まき4):“はちがつしゅうおう橚有ざいはいため庶人,徙雲みなみみことのりおきしゅう、營州、開平かいへいしょまもるぐんぜんいえざいしゃめんいちにん天下てんかまもるしょぐんたんひのとしゃためみん。”
  11. ^ あかり》(まき4):“なつよんがつ,湘王かしわ焚死。ひとしおう榑、だいおうかつら有罪ゆうざいはいため庶人。”
  12. ^ あかり》(まき4):“ろくがつ,岷王楩有ざいはいため庶人,徙漳しゅう。”
  13. ^ あかり》(まき4):“ふゆじゅういちがつこうさむらいろうちょう昺為北平きたひらぬのせい使しゃとうとちょうしんてのひら北平きたひら指揮しき使,察燕かげごと。”
  14. ^ あかり》(まき4):“ろくがつ,岷王楩有ざいはいため庶人,徙漳しゅうおのれとりつばめさん護衛ごえい百主戶倪諒上變,つばめはたこう于諒とうふく誅。みことのりゆずるつばめおう棣,逮王官僚かんりょう北平きたひら指揮しきちょうしん叛附於燕。あきなながつみずのととりつばめおう棣舉へいはんころせぬのせい使ちょう昺、しゃとうとちょうかずらまこと指揮しき教授きょうじゅあまり逢辰參政さんせいかく副使ふくしすみ麟、僉事りょふるえとうくだ於燕。指揮しきせんはしあざみしゅう,僉瑱走きょいさおそうただし趨北ひらめ,聞變退すさふところらいとおりしゅう、遵化、密雲みつうんしょうまましくだつばめへいつばめへいおちいあざみしゅううま宣戰せんせんおのれつばめへいおちいきょいさおせきかぶとさるおちいふところらいそうただし、俞瑱指揮しき彭聚、まごたい力戰りきせんえいひら指揮しき使かくあきらとう叛降つばめみずのえたつたにおう橞自せん奔京ちょうきょうこう耿炳ぶんためせいとりこ大將軍だいしょうぐん,駙馬じょうけんとく甯忠ためひだりみぎふく將軍しょうぐんそち討燕。まつりつげ天地てんち宗廟そうびょう社稷しゃしょくそぎつばめぞくせき。”
  15. ^ あかり》(まき4):“みことのり曰:「邦家ほうかみやつこ骨肉こつにくしゅうおや屢謀僭逆。去年きょねんしゅう庶人橚僭ため不軌ふきれんつばめひとし、湘三おうちん以親おやとめせい橚罪。今年ことしひとしおう榑謀ぎゃくまたあずか棣、かしわどうはかりごとかしわふくざい焚死,榑已はいため庶人。ちん以棣於親最近さいきんにんきゅう其事。こん乃稱へい構亂,危宗しゃざい天地てんち祖宗そそうよし容赦ようしゃよう簡發大兵だいひょう,往致厥罰。咨爾中外ちゅうがい臣民しんみんぐんかくふところちゅう守義もりよし與國よこく同心どうしん,掃茲ぎゃく氛,永安えいあんいたり。」ひろいのちやすりくこうすぐるこうかげこうくれだかとく耿瓛,指揮しきもりいさおはんただし、楊松、顧成、じょ凱、ともちんあきら平安へいあんふんどう併進へいしんおけひらつばめぬのせい使於真じょう尚書しょうしょ暴昭てのひらごと。”
  16. ^ あかり》(まき4):“はちがつおのれとり,耿炳ぶん兵次へいじじょうじょ凱屯河間こうまはんただし、楊松たむろ鄚州。みずのえつばめへいおちいおんどりけんはんただし、楊松せん於月漾橋,。鄚州おちいみずのえいぬ,耿炳ぶん及燕へいせん於滹沱河きたはい績,けん、甯忠、顧成,炳文退すさじょうつばめへいおさむかつ引去ひきさ。召遼おうしょくやすし王權おうけん歸京ききょうけんいたりみことのりそぎ護衛ごえいちょうしげる,曹國こうけいたかしためせいとりこ大將軍だいしょうぐんだい耿炳ぶん九月くがつつちのえたつくれだか、耿瓛、楊文そち遼東りゃおとんへいかこえながたいらつちのえとらけいりゅう兵次へいじ河間こうまつばめへい援永ひらめくれだか退すさ山海さんかいせき。”
  17. ^ あかり》(まき4):“ふゆじゅうがつつばめへいりゅうこう間道かんどうかさねおちいだいやすし守將しゅしょうしゅ鑒死そうへいかんりゅうしんみやこただしちんとおる援大やすしとおる叛降つばめつばめ以寧王權おうけん及朵がおさんまもるそつかえり北平きたひらからしけいたかし重圍じゅうい北平きたひらつばめへいかえすくい十一月じゅういちがつつらけいたかし及燕へいせん於鄭むら壩,はい績,奔德しゅうしょぐんつきつぶせつばめおう棣再上書うわがき於朝。みかどためやめ齊泰なりやすきよしかん,仍留京師けいし。”
  18. ^ あかり》(まき4):“なつよんがつおのれけいたかし及燕へいせん於白みぞかわはい明日あしたふくせんはい績,とく瞿能、えつ巂侯俞淵、指揮しき滕聚とうみな戰死せんしけいたかし奔德しゅう五月ごがつつら,奔濟みなみつばめへいおちいとくしゅうとげおさむずみみなみかのえたつけいたかしはい績於城下じょうかみなみはし參政さんせいてつ鉉、みやこただしもりいさお悉力これ六月ろくがつおのれとりなおたからすすむとくなりさとしつばめやめへい。”
  19. ^ あかり》(まき4):“あきはちがつ癸巳きしうけたまわてんもんわざわいみことのりもとめ直言ちょくげんつちのえさるもりいさおてつ鉉擊はいつばめへいすみみなみかこえかいふくとくしゅう九月くがつみことのりろくひろし武中たけなか功臣こうしんざいはいしゃからしふうもりいさおれきしろこう,擢鐵鉉山東さんとうぬのせい使まいりさん軍務ぐんむひろすすむ兵部ひょうぶ尚書しょうしょ。以庸為平ためひらつばめ將軍しょうぐんみやこただしちんあきら平安へいあんふくこれいさおたむろとくしゅう平安へいあん及吳すぐるたむろじょうしゅうじょ凱屯滄州。ふゆじゅうがつ,召李けいたかしかえ,赦不誅。庚申こうしんつばめへいかさね滄州,じょ凱被十二月じゅうにがつかぶとうまつばめへいはんずみやすしうすあずまあきらおつもりいさおげきはい其將ちょうたまへいたつふくせんまたはいつばめへいはしかんすえいさお軍勢ぐんぜいだいげきしょたむろぐんごうげきつばめぜっ其歸。”
  20. ^ あかり》(まき4):“三年春正月辛酉朔,しこりいのち神寶しんぽうなりつげ天地てんち宗廟そうびょう奉天ほうてん殿でん朝賀ちょうがおつうしすぐる平安へいあん邀擊ようげきつばめへい於深しゅう不利ふりからしだいまつ天地てんち南郊なんこうちょううしとおるふとしびょうつげあずまあきらとしふく齊泰なりやすきよしかん三月さんがつからしもりいさおはいつばめへい於夾かわ其將たんふち再戰さいせん不利ふり指揮しきそうすわえさとしとう力戰りきせんみずのえうまふくせんはい績,いさおはしとくしゅうちょうとくなんぶく援德しゅう癸巳きし,貶齊たいきよしさとしつばめやめへい閏月じゅんげつおのれすぐる平安へいあん及燕せん於藁じょうはい績,かえじょうつばめへいかすめじょう順德じゅんとく廣平ひろへい大名だいみょう。棣上書うわがき召還しょうかんしょしょういきへいだいしょうきょう薛岩ほうこれがつ,《れいせいなり,頒行天下でんかなつがつきのえとらもりいさお以兵扼燕餉道,かつ。棣復使つかい上書うわがきしも其使於獄。六月ろくがつみずのえさるつばめすすむとお寇沛けん,焚糧そうみずのえうまとく袁宇邀擊ようげきはい績。あきなながつおのれうしつばめへいかすめあきらとくちょうとり平安へいあんしんていおさむ北平きたひらみずのえとら大同だいどう守將しゅしょうぼうあきらそちへいよしむらさき荊關趨保じょうちゅうえきしゅう西水にしみず寨。九月くがつかぶとたつ平安へいあん及燕はたりゅうこうせん於北ひらめはい績,かえじょうふゆじゅうがつちょうじょうしょはたへい援房あきら,及燕おうせん於齊おさい眉山びざんはい績。十一月じゅういちがつみずのえたつ遼東りゃおとんそうへいかん楊文おさむひさしひらめ,及劉せん於昌はじむはい績。おのれ平安へいあんはいつばめすすむあきら於楊むら十二月じゅうにがつみずのとつばめへい焚真じょうぐんもうかみことのりちゅうかんたてまつ使つかいおかせ暴吏みんしゃ所在しょざい有司ゆうしけいこれがつ,駙馬じょううめいん鎮淮やす。《ふとし實錄じつろくなり。”
  21. ^ あかり》(まき4):“なつよんがつちょうしげるなにぶく平安へいあんはいつばめへい於小かわ其將ひねぶんかぶといぬじょあきらとうはいつばめへい於齊おさい眉山びざん其將あきらつばめへい懼,はかりごときたかいみかど聞訛ごといいつばめへいやめきた,召輝かえなにぶくぐんまたかのえたつしょしょう及燕へい大戰たいせん於靈璧,はい績,ちんあきら平安へいあんれいさむらいろうひね性善せいぜんだいてらきょう彭與あかりみな五月ごがつみずのと,楊文そち遼東りゃおとんへい赴濟みなみつぶせ於直沾。おのれうしもりいさおぐんつぶせ於淮じょうつばめへいわたり淮,趨揚しゅう指揮しきおうれいとう叛降つばめおうあきら指揮しきたかしつよしからしうしつばめへいいたりろくごうしょぐんむかえせんはい績。みずのえとらみことのり天下でんか勤王きんのう大夫たいふねりやすしさむらいろうかんおさむせんおう叔英ぶんどう徵兵ちょうへい。召齊たいきよしかえ蘇州そしゅう姚善、やすしなみおう璡、徽州ひね彥回、樂平よしひらけんちょう彥方かくおこりへいにゅうまもるかぶとたつけいなるぐんぬし如燕わりやめへい。”
  22. ^ あかり》(まき4):“ろくがつみずのとうしもりいさおそちふねはいつばめへい於浦こうふくせん不利ふりとく僉事ひね瑄以ふね叛附於燕。おつつばめへい渡江とのえもりいさおせん於高こうはい績。つちのえうま,鎮江守將しゅしょうわらわしゅん叛降つばめ庚申こうしんつばめへいいたりりゅう潭。からしとりいのち諸王しょおうぶんもり都城みやこのじょうけいたかし及兵尚書しょうしょ茹瑺、とく王佐おうさ如燕ぐんさる前約ぜんやくみずのえいぬふくたにおう橞、安王やすおう楹往。みな聽。甲子きのえね使つかいひとし蠟書よん,促勤おうへいおつうしつばめへいはん金川かながわもんひだりとくじょぞうことぶきはかりごと內應,ふく誅。たにおう橞及けいたかし叛,おさめつばめへい都城みやこのじょうおちい宮中きゅうちゅうおこりみかど不知ふちしょおわりつばめおうちゅう使つかいみかどかばね於火ちゅうえつ八日ようかみずのえさるそう。”
  23. ^ あかり》(まき4):“あるうんみかどよし地道じみちほろび。”
  24. ^ たにおうやすしあきら史紀ふみのりごと本末ほんまつ》:“けんぶんよんねんなつろくがつおつうしみかど金川かながわもんしつもりちょう吁,東西とうざいはしよく自殺じさつ翰林院かんりんいん編修へんしゅうほどすみ曰:“如出ほろび。”しょうかんおう鉞跪しん曰:“むかしだかみかどます遐時,ゆうのこ篋,曰:‘臨大なんとうはつ。’謹收藏しゅうぞうたてまつさき殿どのひだり。”群臣ぐんしんひとしげん:“きゅう﹗”にわか而舁いちべに篋至,四圍俱固以鐵,くさりまた灌鐵。みかど而大慟,きゅういのち舉火焚大內,皇后こうごう赴火ほどずみ碎篋,得度とくど牒三ちょういちめいおうぶんいちめいおうのういちめいおうけん袈裟けさぼう、鞋、剃刀かみそり俱備,白金はっきんじゅうじょう朱書しゅしょ篋內:“おうぶんしたがえ鬼門きもんしたがえすいせきみぞ而行,薄暮はくぼかい於神樂觀らっかん西にしぼう。”みかど曰:“數也かずや!”ほどずみためみかどしゅくかみくれおう教授きょうじゅ楊應のうねがいしゅくかみずいほろびかん察御まれけん毅然きぜん曰:“しんめいけんおうけんうたぐ。”またしゅくかみかくえきころも披牒。ざい殿しんがり凡五ろくじゅうにん痛哭つうこく仆地,俱矢ずいほろびみかど曰:“じん不能ふのうなま得失とくしつゆうとうにんごと著名ちょめいいきおい必窮つめゆうとう妻子さいし在任ざいにんこころ必縈繫,むべかくしたがえ便びん。”曾鳳韶曰:“ねがいそく以死ほう陛下へいか!”みかど麾諸しんだい慟,引去ひきさ若干じゃっかんじん。九人從帝至鬼門,而一ぶね艤岸,ためしん樂觀らっかん道士どうしおうのぼるみかど叩頭こうとうしょうまんさい,曰:“しんかた陛下へいか也。疇昔だか皇帝こうていゆめれいしんいたり此耳!”乃乘ぶねいたり太平たいへいもんのぼりしるべいたりかんやめ薄暮はくぼ矣。にわか而楊おうのうまれけんとうじゅうさんにんどういたり。”
  25. ^ 查继あかりしょこころざしまきななれいこころざしおくりなてんゆずるすめらぎくずれ,駙馬じょううめいんざいぐんちゅうしたがえ彥清ためはつはるかおくりなこう愍,びょうごうかみむねみずのえうまこれおくりなくだり弘光ひろみつちゅう,以顯すめらぎ帝廟ていびょうごうふくついみことあらためめぐみそういんおくりなさかえ
  26. ^ 《续文献ぶんけんどおりこう》:えいねんはるさんがつあらためじきめぐみおうまこと熙为瓯宁おうくだ广泽おうまこと熥、怀恩おうまこと熞为庶人,以二王不能谏正建文也。诏曰:“帝王ていおうみちたて爱惟亲,为子祗,及于ちちちん皇考こうこうすめらぎ妣咸ゆういちとくかつとおる天心てんしん,创业たれ统,传之まんせいちん长兄懿文皇太子こうたいしくだなまどるひさし,裔子まこと炆,よう冲嗣,昏愚自暴じぼう,颠覆成章せいしょうたかししん奸邪,戕害骨肉こつにく天下てんか荡然,社稷しゃしょく几坠。ちんおもんみ祖宗そそう积德つとむちちすめらぎ母后ぼこう创业艰,とくやめおこりへい,赖天たすくうち廓清かくせいまこと炆罪恶贯みつる,阖宫赴火。诸臣民しんみんどう词劝进,ちん以宗しゃ为重,つとむ徇舆じょうきみ临大たから。长兄诸王まこと熥、まこと熞乃袭王ふう不意ふいまこと熥允熞弗しょう躬,自生じせいうたぐ怼。ちん以长けい至情しじょうにん谴责,めん为庶じん,以保全ほぜんちん痛切つうせつ于心,长存念ぞんねん虑。长兄ゆううけたまわ嗣,其第四子允熙生有四年矣,兹特ふう瓯宁おうせいもり懿文太子たいし嗣。呜呼!协和みちむつみぞく为先。あつしじょひとし,继祖为大。ようてんどう气之じょう,庶续亲亲义。”
  27. ^ あかり·姚廣こうつて》:「はつみかどいれ南京なんきんゆうげんけんぶんみかどためそう遁去,溥洽じょうあるげん匿溥あまねところみかど乃以他事たじきん溥洽。而命きゅうごとちゅうえびすとうへん物色ぶっしょくけんぶんみかど久之ひさゆき不可ふかとく。溥洽すわじゅうねん。」
  28. ^ 奉天ほうてんやすし难记》卷一けんいち:“懿文太子たいししょ为多しつどう,忤太ふとし尝督过之,退すさ辄有怨言えんげんつね于宫ちゅうぎょうのろい诅,ゆるがせゆうごえふるえ响,とう烛尽灭,りゃく无所惧”
  29. ^ 奉天ほうてんやすし难记》卷一けんいち:“さんじゅういちねんがつおつとりふとします遐,よるそく敛,ななにち而葬……まこと炆矫遗诏嗣位,忘哀さく乐,ようみこ觋以もも茢祓じょ宫禁,以硫磺水徧洒殿どのかべ,烧诸秽物以辟鬼神きじんあずさ宫发引,あずかおとうとまこと熥各仗剑りつ宫门,ゆび斥梓宫曰:「こん复能げん?复能とく责我?」げん讫皆わらいりゃく无戚よう
  30. ^ 奉天ほうてんやすし难记》卷一けんいち:“时诸おうすわ废,まこと炆日えき骄纵,焚太だか皇帝こうていこう慈高皇后こうごうよう,拆毁きさき宫,しゃくだい土木どぼく怨嗟えんさみつる淫佚いんいつ放恣ほうし,靡所为。宦者よん,选择女子じょしたかし满后宫,つうゆう饮食,剧戏歌舞かぶ,嬖幸しゃにん其所需,谓羊こえ,辄杀すうひつじ以厌いち妇之ほっまたさくわざいんたくみこびえつ妇人,穷奢极侈,暴殄天物てんぶつ,甚至亵衣みな饰以珠玉しゅぎょく锦绣。かくおう宫人有色ゆうしょくしゃみな选留あずかどおりつねふくいん药,药燥せい发,狂乱きょうらんすうろう不足ふそくさら缚牝ひつじははいのししあずか交。あら眈酒しょく昼夜ちゅうや无度。及临あさ精神せいしん昏暗,俯首もたれあん唯唯いいすうごと而已。宫中おこりだい觉殿,于内おけ轮藏。公主こうしゅあずかあま为徒,敬礼けいれいくわ门,狎侮むね庙。尝置一女子于盒以为戏,谓为时物,舁入たてまつせん殿しんがり荐新,盒开聚观,だいわらい而散。倚信阉竖,あずか大事だいじ,凡进退大臣だいじんまいりてのひらへい马,みなとく专之。陵辱りょうじょく衣冠いかんどくしいたげぜんみな棰挞。纪纲坏乱,构成だい祸。灾异迭见,恬不自省じせい夜宴やえん张灯荧煌,ゆるがせ见人。宫初なり,见男子だんしひさげいちにん头,血色けっしょく模糊もこ直入なおいり宫内,ずいさくさび所有しょゆう狐狸こり满室,变怪まんじょう,徧置鹰犬,また不能ふのうどめ如日あか无光,星辰せいしん无度,彗扫军门,荧惑もりしんはん,飞煌蔽天,山崩やまくずれ地震じしんみずひでり疫疠,连年いき,锦衣卫火,たけ库自焚,ぶん华殿毁,うけたまわてん门灾,虽变异多はし,而酗乐自如。 ”
  31. ^ 明神みょうじんむね皇帝こうてい实录》,まんじゅうさんねんきゅうがつじゅうろく,「(れいかん范谦とう奏上そうじょう,诏以けん文事ぶんじ迹附ふとしだか皇帝こうていすえ而存其年ごう。」
  32. ^ あかり》(まき4):“正統せいとうねんゆうそう雲南うんなんいたり廣西ひろせ,詭稱けんぶん皇帝こうていおもえおん岑瑛聞於あさ。按問,乃鈞しゅうじん楊行さちねんやめきゅうじゅうあまり下獄げごく,閱よんがつどうはかりごとそうじゅうにんみな戍遼ひがし,滇、黔、ともえしょくあいだ相傳そうでんゆうみかどためそう往來おうらいあと正德しょうとくまんれきたかしただしあいだしょしん請續ふうみかど,及加びょうおくりなみな下部かぶはてぎょうだいきよしいぬいたかし元年がんねんみことのり廷臣ていしんしゅうついおくりな曰恭閔惠皇帝こうてい。”
  33. ^ けんぶんみかど踪迹“ながしゅう说”しん. [2016-05-10]. (原始げんし内容ないようそん于2021-09-04). 
  34. ^ あかり》(まき111):“茹瑺じゅういちがつふくにん。”
  35. ^ あかり》(まき111):“あきら七月出掌平燕布政司事。”
  36. ^ あかり》(まき111):“けいきよがつにんひだり。”
  37. ^ あかり》(まき111):“ねりやすしがつにんみぎ。”
  38. ^ あかり》(まき111):“十二月じゅうにがつにんとくぐん。”
  39. ^ あかり》(まき111):“齊泰なりやす正月しょうがつふくうるうさんがつまた謫。”
  40. ^ あかり》(まき111):“紞なながつけい。”
  41. ^ あかり》(まき111):“しんろくがつかえり,仍任。”
  42. ^ あかり》(まき111):“どんろくがつかえり七月しちがつ致仕ちし。”
  43. ^ あかり》(まき111):“すすむろくがつ殉難じゅんなん。”
  44. ^ 44.0 44.1 あかり》(まき111):“たいろくがつ殉難じゅんなん。”
  45. ^ あかり》(まき111):“瑺ろくがつむかえ九月くがつふう忠誠ちゅうせいはく,仍任。”
  46. ^ あかり》(まき111):“鉉はちがつなん。”
  47. ^ あかり》(まき111):“あきらろくがつ殉難じゅんなん。”
  48. ^ あかり》(まき111):“たまものろくがつかえりなながつあらため刑部おさかべ。”
  49. ^ あかり》(まき111):“ふるえちょくろくがつかえり。七月同致仕戶部尚書王鈍巡視中原。きゅうがつそつ。”
  50. ^ あかり》(まき111):“きよしろくがつ殉難じゅんなん。”
  51. ^ あかり》(まき111):“やすしろくがつ殉難じゅんなん。”
  52. ^ 南明なんめいまきなな こころざしだい れいちゅうあきら紹宗(りゅうたけしみかどてきついふくさく太子たいし,《南明なんめいまきなな こころざしだい れいちゅうあきらあんはじめ弘光ひろみつみかどてきついふくさくきょう愍太
  53. ^ おもえぶんだいまきよん及《南明なんめいまきなな こころざしだい れいちゅうあきら紹宗(りゅうたけしみかどてきついふくさくじゅんふところおう,《南明なんめいまきなな こころざしだい れいちゅうあきらあんはじめ弘光ひろみつみかどてきついふく作原さくはら怀王。

らいみなもと

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けんぶんみかど
出生しゅっしょう于:1377ねん12月5にち
統治とうちしゃあたま
前任ぜんにん
祖父そふ明太めんたいしゅもとあきら
中国ちゅうごく皇帝こうてい つぎにん
よん明太めんたいむねしゅ
明朝みょうちょう皇帝こうてい
1398ねん-1402ねん