黎はじむ來らい(越えつ南みなみ语:Lê Lai/黎はじむ來らい,?—1418年ねん4月がつ29日にち),越こし南みなみ屬ぞく明あかり時期じき人物じんぶつ。他た曾參加さんか黎はじむ利り領りょう導しるべ的てき藍あい山起やまおこし義よし,為ため黎はじむ利とぎ起おこり兵へい初期しょき的てき重要じゅうよう將領しょうりょう之の一いち。
黎はじむ來らい,越えつ南みなみ芒すすき族ぞく人じん,出生しゅっしょう在ざい今日きょう清きよし化か省しょう境さかい內,父ちち名めい黎はじむ喬たかし,有ゆう一兄長名黎爛。1416年ねん,當地とうち豪族ごうぞく黎はじむ利とぎ舉行隴崖會かい誓ちかい(越えつ南みなみ语:Hội thề Lũng Nhai),黎はじむ來らい與あずか黎はじむ慎まき、黎はじむ文ぶん安やす、黎はじむ文ぶん零れい、鄭てい可か、張ちょう雷かみなり、黎はじむ柳やなぎ、裴國興きょう、黎はじむ寧やすし、黎はじむ獫、武威ぶい、阮廌、丁ちょう列れつ、劉りゅう仁ひとし澍、黎はじむ涪、阮理、張ちょう斕等とう十じゅう八はち人にん一起かずき,與あずか黎はじむ利とぎ一同いちどう祭さい拜はい東ひがし王公おうこう,發動はつどう藍あい山起やまおこし義ぎ以反抗こう明朝みんちょう的てき統治とうち。
藍あい山起やまおこし義軍ぎぐん遭到明あかり軍ぐん的てき圍かこえ攻おさむ,雖曾一いち度ど擊退げきたい明あかり軍ぐん,但ただし軍勢ぐんぜい薄弱はくじゃく,被ひ迫せり退すさ守もり至いたり靈山れいざん。1418年ねん,明あかり軍ぐん圍かこえ攻おさむ至いたり靈山れいざん,形勢けいせい極ごく為ため危急ききゅう。黎はじむ來らい自じ願ねがい假かり扮ふん黎はじむ利とぎ以赴國難こくなん,穿ほじ上うえ黎はじむ利り的てき王おう袍ほう,騎き著ちょ戰せん象ぞう出陣しゅつじん交戰こうせん。明あかり軍ぐん誤あやま以為他た是ぜ黎はじむ利り,對たい其圍攻おさむ,將はた他た擒とりこ獲え斬首ざんしゅ,隨ずい後退こうたい兵へい,黎はじむ利り因いん而倖免めん於難。
黎はじむ利り建立こんりゅう後こう黎はじむ朝あさ之これ後ご,追つい封ふう他た為ため太ふとし傅でん、俠郡公こう。越えつ南みなみ民間みんかん將はた他稱たしょう為ため民族みんぞく英雄えいゆう,黎はじむ來らい救すくい主ぬし的てき故事こじ在ざい越えつ南みなみ民間みんかん廣こう泛流傳りゅうでん著ちょ。越えつ南みなみ人じん將はた其故事こじ與あずか中國ちゅうごく的てき紀きの信しん救すくい漢かん高祖こうそ的てき事蹟じせき相しょう提つつみ並なみ論ろん。