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黎阳之战 - 维基百科,自由的百科全书

はじむ阳之战

はじむ阳之战これ东汉すえねん202-203ねん军阀曹操そうそう针对やめ对手袁绍之子ゆきこ袁尚袁谭兄弟きょうだいてきいちいれおかせ尝试。袁绍きさきよん个月てき202ねん农历きゅうがつ双方そうほう发生りょうだいいち场战ごと。虽然此战以曹みさお撤军つげ终,却使袁氏兄弟きょうだい矛盾むじゅん激化げきか曹操そうそう暂退きさき为哥哥的袁谭へい变反对弟おとうと袁尚。

はじむ阳之战
东汉まつねん群雄ぐんゆうわりすえ战事てきいち部分ぶぶん
にち202ねんきゅうがつ - 203ねんがつ
地点ちてん
结果 曹操そうそう主力しゅりょく撤退てったい;袁谭へい
领土变更 曹操そうそうざいはじむ建立こんりゅう桥头堡
まいり战方
曹操そうそう 袁尚
ゆび挥官あずか领导しゃ
曹操そうそう 袁尚
袁谭

背景はいけい

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ただしたく讨伐战しつ败后经过すうねんてきない战,ざい众诸こうちゅう形成けいせいりょう两大けい:一派以控制冀、あお、并、かそけ四州的袁绍为首;一派以袁绍原先的朋友和下属曹操为首,ただしひかえせいりょう兖、じょさんしゅう,还掌握しょうあくりょう朝廷ちょうていひかえせいりょう汉献みかど。两派ざい200ねんてきかんわたりちゅう交锋,曹操そうそうだい胜。袁绍虽败,じゅうせい军队,趁其战败而反叛者也迅そく镇压。202ねん6がつ,袁绍いんへい败而忧愤びょうほろびはたもと业留给了儿子们。

袁绍きさきゆうさん:长子袁谭,次子じし袁熙幼子おさなご袁尚。按惯れい应由长子继业,袁绍却偏爱貌美的びてき袁尚,曾安はい袁谭自己じこてき哥哥そく袁谭てき伯父おじ袁基よし袁绍从未正式せいしき确立继承じんきさき具体ぐたい继承ほう仍然确,其阵营分为两。袁绍てき谋士ちゅうからしかく支持しじ袁谭,逄纪审配ちからてい袁尚。つきかん通常つうじょう认为袁谭はた继承ちち业,支持しじ袁尚てきじん担心职位袁谭おもしんやすはい,伪造遗嘱,宣布せんぷ袁尚继业。[1]こころ怀不满的袁谭りつ本部ほんぶ离开经黄河こうがぜんはじむいま河南かなんしょう浚县西北せいほくぜん线对こう曹操そうそう。袁尚逄纪りつ小股こまた军马援助えんじょあるとげさがせ)袁谭,ただしとう袁谭要求ようきゅう进一步增援时拒绝了。袁谭怒杀逄纪。

曹操そうそう在官ざいかんわたり获胜きさき曾转うつり对袁てき注意ちゅういただしざい202ねんはるまたかえしかいかん渡前わたまえ线。谋士荀彧曾提醒他不要ふようゆるがせ视新败的敌军,以防其残じゅうけん袭后。[2]袁绍きさきよん个月,曹操そうそうりつ军渡黄河こうがおさむ其残于黎阳。

战役

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曹操そうそう渡河とか时,とめのりほど负责补给。补给よう走水はしりみずただし袁尚部下ぶかぐん太守たいしゅこうしげるたむろへい河上かわかみだん绝了补给线。曹操そうそうおこりはつ提出ていしゅつあらため从陆运输,ただしのり指出さしでだかしげる军缺しょう战甲,对水战无备,曹操そうそうとげまこと典和のりかずほど昱攻击高しげる。这次おさむ成功せいこうりょう水路すいろ补给线得以畅どおり[3]

曹操そうそう渡河とかきさきてきこと史料しりょう记载ゆうぶん歧。《三国志さんごくし·书·みかど纪》たたえ曹操そうそう渡河とかきさき六个月赢得后续战争,はた袁氏兄弟きょうだい逐出はじむ阳,ただし突然とつぜん解除かいじょ对袁大本おおもと邺城てきつつみ围,还军许昌ただし三国志さんごくし·ろく·ただし袁刘传》、《きさき汉书·袁绍传》かずどう时代てき其他参考さんこう文献ぶんけん如《きさき师表とうあずか曹魏方面ほうめんてき记载しょう冲突,しょう其实此战耗时很久,そく不可能ふかのう如《たけみかど纪》しょ说一风顺。さら可能かのう曹魏方面ほうめん隐去りょう曹操そうそうざい地区ちく战败てき记录。综上,とく可能かのうてき战况如下。[4]

いん军力及曹みさお,袁谭难以もりじゅうはじむ阳,じんもとめ援。袁尚とめ审配もり邺城,亲率援军すくいはじむ阳。[5]两军ざいはじむ阳西、南郊なんこう交战,交战とう时防工事こうじてき遗迹ざいとうあさ仍然存在そんざい[6]203ねんさんがつ,袁氏兄弟きょうだい从城ちゅう杀出,ただし曹操そうそうじん势众,はた们逼かいじょう墙内。袁军大将たいしょう严敬乐进斩杀。趁曹操そうそう及围おさむはじむ阳,袁氏兄弟きょうだい趁夜撤到はじむ以北いほくいちひゃくよんじゅうさとてき邺城。

次月しづき曹操そうそう沿袁撤退てったい线追いた邺城。ただし消耗しょうもう过度,袁尚ざいしろがい反攻はんこう击退。此次受挫使曹操そうそうしょう注意ちゅういりょくじゅうしん从袁大本おおもと营转うつり开,东进猛攻もうこう阴安ざいこん河南かなんしょうきよし丰县),收集しゅうしゅうぐん南部なんぶたに仓的たにぶつ五月ごがつ曹操そうそう做好じゅん备再おさむ邺城。谋士かくよしみ却反对,けん利用りよう袁氏兄弟きょうだいただしざいしげる长的矛盾むじゅん:“袁绍爱这两个儿子,却未りつ继承じんゆうかく图、逄纪做他们的谋臣,肯定こうてい互相そう,互相离间。きゅうおさむ们就かいしょう,缓攻们,以后们将せいしょうそうしん如向みなみ荆州そうさく征伐せいばつ刘表とうこう们生变;とうせい变了さいおさむ击他们,以一举而じょう。”[7]

曹操そうそう接受せつじゅけん议回师,とめ贾信まもりはじむ阳的滩头堡,はた不能ふのうもりじゅうてき阴安とめ给敌军。[8]平等びょうどう袁尚部将ぶしょう吕旷吕翔ところうらない

とう曹操そうそう撤军わたり过黄かわ时,袁谭要求ようきゅう袁尚提供ていきょうしんてき军备さら军队以半わたり截击曹操そうそう。袁尚怀疑哥哥てき实企图,ぼつこたえ应。袁谭谋士かく图和からし评火じょう浇油,しょう审配唆使袁绍はた袁谭继袁もとてき。袁谭愤怒,かい军攻袁尚、审配于邺じょう。袁谭战败,奔みなみがわどう时,曹操そうそう顺利かえしかい许昌。[9]

间,袁尚自己じこしょにんてきかわ太守たいしゅかく、并州刺史ししこうみき及匈やつ单于りつ众攻ひら阳,并派使者ししゃ关中联合马腾韩遂とう军阀。つかさ隶校じょう钟繇しん丰令张既说服马腾とうこうちゅう曹操そうそう。马腾遣马超さき庞德りつへい万余人与钟繇会合大破高幹、かく援,庞德亲手斩郭援首级,こうみき及单于都投降とうこう

きさきはて

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曹操そうそうつきかん初期しょき取得しゅとくりょういち些胜,也遭遇そうぐう挫折ざせつ,战斗きゅう个月,仅能ざいはじむ阳留一座いちざ滩头堡。此后三个月他一直待在许昌,可能かのう为了稳固自己じこてき权位ぼう备可能因のういん一直在外引发的混乱。此间,两次发布公告こうこく,处罚贬谪しょう职的はた领,认为军阶赏赐应给はいうえてきじん[10]

かくよしみしょりょう袁氏兄弟きょうだいてき自己じこ瓦解がかいりょう。袁氏兄弟きょうだいない战,袁尚うらないりょうじょう风。袁谭逐出みなみがわとう平原ひらはら围,もとめじょ于曹みさお。荆州まき刘表为袁绍旧友きゅうゆう,让著名文めいぶんじんおうつばら给袁谭、袁尚ぶん别写しんじあつし促他们抵こう共同きょうどうてき敌人曹操そうそう不要ふようない。给袁谭的しん为袁兄弟きょうだいざい邺城战胜きょう敌而致贺,并严厉反对袁谭依曹操そうそう[11]ただし刘表てき忠告ちゅうこく袁氏兄弟きょうだいしょ无视。

とう袁谭てき使者ししゃからしらい见曹みさお时,曹操そうそう正和しょうわ刘表ざい双方そうほう边境交战。からし毗已对主こう失望しつぼうけん议曹みさお趁袁なお、袁谭ひさし和好かずよしごうへいつくえはた俩同时击溃。此前荀彧やめひさげ过类けん议。曹操そうそうさい纳了,そうさくあずか袁谭结盟。204ねん曹操そうそう从黎阳发おこり进攻,だい败来邺城てき袁尚军,为袁谭解围,袁尚とう袁熙。同年どうねん曹操そうそう以袁谭心怀不轨取消とりけし联盟,围攻みなみがわ。袁谭阵亡。袁氏对华きたてきてのひらひかえ就此くずし溃,虽然们仍ざい坚持ちょくいたり207ねん彻底溃灭。

ちゅう

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  1. ^ de Crespigny (2010), p. 208
  2. ^ de Crespigny (1996), p. 303
  3. ^ de Crespigny (2007), pp. 409-410
  4. ^ de Crespigny (2010), pp. 209-210
  5. ^ de Crespigny (1996), p. 304
  6. ^ de Crespigny (2010), p. 210 note 11
  7. ^ de Crespigny (2010), p. 213; 原文げんぶん: 袁紹あい,莫適りつ也。ゆうくるわ、逢紀為之ためゆきはかりごとしん,必交鬥其あいだかえあいはなれ也。きゅうのりしょうなるこれ而後そうしんせい如南こう荊州,わかせいりゅうひょうしゃ,以待其變;變成へんせい而後げきいち舉定也。
  8. ^ de Crespigny (2010), p.210
  9. ^ de Crespigny (1996), p.317
  10. ^ de Crespigny (2010), p. 212
  11. ^ de Crespigny (1996), p. 318 and de Crespigny (2010), p. 210

参考さんこう文献ぶんけん

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  • de Crespigny, Rafe. To establish peace : being the chronicle of Later Han for the years 189 to 220 AD as recorded in chapters 59 to 69 of the Zizhi tongjian of Sima Guang. Canberra, Australia: Faculty of Asian Studies, Australian National University. 1996. ISBN 0-7315-2526-4. 
  • de Crespigny, Rafe. A biographical dictionary of Later Han to the Three Kingdoms (23–220 AD). Brill. 2007. ISBN 978-90-04-15605-0. 
  • de Crespigny, Rafe. Imperial warlord : a biography of Cao Cao 155-220 AD. Leiden Boston: Brill. 2010. ISBN 978-90-04-18522-7.