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浊泽之战 - 维基百科,自由的百科全书

浊泽まえ369ねん韩国赵国联军おさむこくてきいち场战そう起源きげん于魏こく公子こうし兄弟きょうだいそうりつ为君韩懿こうあずか赵成こう发起联军,支持しじ缓,讨伐罃;きさきらい韩、赵内讧,联军解散かいさん罃杀りょう并登もと文惠ふみえおう

浊泽
にちぜん369ねん
地点ちてん
浊泽(こんぞく山西さんせい运城
结果 韩赵联军だい败魏军。ただし其后,韩懿こう赵成こう见分歧,韩赵联军各自かくじ回国かいこくやすこれ围遂かい自立じりつ为魏おう
まいり战方
韩国
赵国
こく
ゆび挥官あずか领导しゃ
韩懿こう
赵成こう
兵力へいりょく
伤亡あずか损失

简介

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ぜん371ねんたけこうざいなお指定していこく继承じんてきじょう况下逝世,国内こくない发生混乱こんらん,儿子互相そうりつ[1]

当年とうねんなながつ逃亡とうぼういた邯郸,请求赵成こう出兵しゅっぺい为他回国かいこくそうぜん369ねんこく大夫たいふおおやけ孙颀またそうこく经由赵国进入韩国会こっかい韩懿こうゆう说他,罃虽ゆうおうあいすけはさみすえうえとうただはん个魏こく而已,わかのう趁魏こく内乱ないらん际,联合赵国,ていのうじょ掉魏罃及败魏こく,实在つくえ不可ふかしつ

韩懿こう听了很高兴,就跟赵成こうごうへい一起进攻魏国。赵成こうあずか韩懿こう亲率两国军队,联兵だい举讨伐こく。联军ざい黄河こうが以北いほくしゅう结,进攻こくじょう邑葵(こん河南かなんこげづく西北せいほく),いち举攻かつ气大さい挥兵西にし进向こく都城みやこのじょうやすいま山西さんせいなつ西北せいほく)进发。すわ镇安邑,连忙派出はしゅつ军在浊泽(いま山西さんせい运城むかい战。韩赵联军势大败魏军于浊泽,进而つつみやす

此时,韩懿こう赵成こう发生りょうぶん歧,赵成こうしゅ除去じょきょ罃,あらためりつ缓,并要求ようきゅう缓割让土给两こく,这样赵、韩都とくえき。韩懿こう认为这样かい其他诸侯视为贪婪、暴虐ぼうぎゃく符合ふごう外交がいこう政策せいさく。韩懿こうはん而主张取得しゅとく土地とちきさきよう让魏罃、缓“どう时并りつ”,ふんなり“两个こく”,使つかいこくなりそうこく卫国样的弱国じゃっこく,则韩赵两こくきさきさい无魏こく患。

韩懿こう赵成こうだい吵一かた执己见,韩懿こうえつとげよるりつ领韩こく军队离去。赵成こう见赵军势不能ふのうさい战,也领军撤走。联军战自やぶやす邑之围即かい罃杀缓,自立じりつ为君[2][3]

参考さんこう文献ぶんけん

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  1. ^ 资治どおりまきいち しゅう纪第いち》:たけこう薨,立太子りったいし罃与こうちゅう缓争りつ国内こくないらん
  2. ^ ふみまきよんじゅうよん だいじゅうよん》:めぐみおう元年がんねんはつたけこうそつ也,罃与こうちゅう缓争为太おおやけ孙颀そうにゅう赵,赵入韩,谓韩懿侯曰:“罃与こうちゅう缓争为太子たいしきみまた闻之乎?こん罃得おう错,はさみじょうとうかたはんくに也。よし而除やぶ必矣,不可ふかしつ也。”懿侯说,乃与赵成こうごう军并へい以伐,战于浊泽,たかしだい败,たかしくん围。赵谓韩曰:“じょたかしくんたておおやけちゅう缓,わり而退,わが且利。”韩曰:“不可ふか。杀魏くんにん必曰暴;わり而退,にん必曰贪。如两ぶんぶん为两,つよし于宋、卫,则我终无患矣。”赵不听。韩不说,以其しょうそつよるめぐみおう所以ゆえん不死ふしくにぶんしゃいえ谋不和也かずやわか从一谋,则魏必分矣。曰“きみ终无适子,其国やぶ也”。
  3. ^ 资治どおりまきいち しゅう纪第いち》:おおやけ孙颀谓韩懿侯曰:“らん也。”懿侯乃与赵成こうごうへい,战于浊泽,大破たいはとげ围魏。なりこう曰:“杀罃,たておおやけちゅう缓,わり而退,わがこく利也としや。”懿侯曰:“不可ふか。杀魏くん,暴也;わり而退,贪也。如两ぶんぶん为两,つよし于宋、卫,则我终无患矣。”赵人听。懿侯えつ,以其へいよる。赵成こうまた。罃遂杀公ちゅう而立じりつ为惠おう

まいり

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