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史記しき/

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重定しげさだこう史記しき/まき044
 ちょうだい卌三 ふとしおおやけしょ
だい卌四
かんだい卌五 
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先祖せんぞ

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これさき,畢公髙之也。畢公髙與しゅう同姓どうせいたけおう紂,而髙ふう於畢,於是ため畢姓。其後ぜっふうじため庶人,ある在中ざいちゅうこくあるざい夷狄いてき

畢萬

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苗裔びょうえい曰畢まんことすすむけんじこうけんじこうじゅうろくねんちょう夙爲,畢まんためみぎ,以伐霍、耿、めつ。以耿ふうちょう夙,以魏ふう畢萬,ため大夫たいふぼく偃曰:『畢萬之後必大矣,まん滿まん數也かずや大名だいみょう也。以是はじめしょう天開てんかい矣,天子てんし兆民ちょうみん諸侯しょこう萬民ばんみんこんいのちだい,以從滿まんすう,其必ゆうしゅ。』はつ,畢まんぼくごとすすむぐうたむろこれからし廖占,曰:『きちたむろかたいれよし孰大焉,其必蕃昌ばんしょう。』

まんふうじゅういちねんすすむけんじおおやけそつよんそうさらりつすすむらん。而畢まんこれせいわたるだいしたがえ其國めいためたかしなま武子たけし

武子たけし

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武子たけし以魏諸子しょしごとすすむ公子こうしじゅうみみすすむけんじこう廿にじゅういちねん武子たけこしたがえじゅうみみほろびじゅうきゅうねんはんじゅうみみりつためすすむぶんこう,而令武子たけしかさねたかしのちふうじれつため大夫たいふ於魏。なま悼子。

悼子

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悼子徙治霍。なま絳。

昭子あきこ

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絳事すすむ悼公。悼公さんねんかい諸侯しょこう。悼公おとうと楊干亂行らんぎょう絳僇はずかしめ楊干。悼公いか曰:『ごう諸侯しょこう以爲さかえいまはずかしめわれおとうと!』はた誅魏絳。あるせつ悼公,悼公どめそつにん絳政,使つかいえびす、翟,えびす、翟親。悼公じゅういちねん,曰:『われよう絳,はちねんちゅうきゅうごう諸侯しょこうえびす、翟和,力也りきや。』たまものらくさんゆずるしかこう受之。徙治安ちあん邑。絳卒,おくりなため昭子あきこなま嬴。嬴生けんじ

たかしけんじ

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けんじごとすすむあきらおおやけあきらおおやけそつろくきょうつよしおおやけしつ卑。

すすむごろおおやけじゅうねんかん宣子のぶこおいたかしけんじため國政こくせいすすむ宗室そうしつ祁氏、ひつじしたしょうあくろくきょう誅之,つき其邑ためじゅうけん,六卿各令其子爲之大夫。けんじあずかちょう簡子、ちゅう行文こうぶん、范獻并爲すすむきょう

其後じゅう四歳而孔子相魯。こうよんさいちょう簡子以晉みだれ也,而與かんどもおさむ范、なかこうたかしけんじ子生こなじ侈。侈與ちょう鞅共おさむ范、なかこう

桓子

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侈之まご曰魏桓子,あずかかん康子やすこちょうじょうどもめつはくふん其地。

ぶんこう

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桓子まご曰文こうぶんこう元年がんねんはたれいこう元年がんねん也。あずかかん武子たけこちょう桓子、しゅうたけしおう同時どうじ

ろくねんじょうしょうはりじゅうさんねん使つかいげきかこえしげる、龐,其民。じゅうろくねんはた,筑臨すすむもとうら

じゅうななねん中山なかやま使つかいげき守之もりゆきちょうくらからでんげき逢文こう師田もろだ子方こかた於朝謌,引車避,しも謁。田子たごかた不爲ふためれいげきいんとい曰:『富貴ふうきしゃおごひと乎?且貧賤者おごひと乎?』子方こかた曰:『またひん賤者おごひとみみおっと諸侯しょこう而驕じんそくしつ其國,大夫たいふ而驕じんそくしつ其家。ひん賤者,ぎょうごうげん不用ふようのりこれすわえこしわかだつ屣然,柰何其同哉!』げき懌而去。西にしおさむはたいたりてい而還,筑雒かげごう

廿にじゅうねんちょうかんれつため諸侯しょこう

廿にじゅうよんねんはたわがいたりきつね

廿にじゅうねんげき生子おいご罃。

ぶんこう受子なつけいげいきゃくだん其閭,嘗不軾也。はた嘗欲ある曰:『たかしくん賢人けんじんれいくに人稱にんしょうひとし上下じょうげ和合わごう也。』ぶんほうゆかり此得ほまれ於諸こう

にん西門にしもんひょうもり鄴,而河ないしょう

ぶんこういいかつ曰:『先生せんせい嘗教寡人曰「いえひんそくおもえ良妻りょうさいくにらんそくおもえ良相りょうしょう」。いましょおけなりそく璜,二子ふたごなん如?』かつたい曰:『しん聞之,卑不はかりごとみことうとはかりごと戚。しんざい闕門そと敢當いのち。』ぶんこう曰:『先生せんせい臨事勿讓。』かつ曰:『きみ察故也。きょ其所おやとみ所與しょよたち其所舉,きゅう其所不爲ふためひん其所,五者足以定之矣,なんまち克哉かつや!』ぶんこう曰:『先生せんせい就舍,寡人あいてい矣。』かつ趨而翟璜いえ。翟璜曰:『いましゃ聞君召先生せんせい而卜しょうはてだれ爲之ためゆき?』かつ曰:『成子なるこ爲相ためすけ矣。』翟璜忿然さくしょく曰:『以耳これしょ睹記,しんなん於魏成子しげこ西河にしかわもりしんところ進也しんやくんない以鄴ためゆうしんすすむ西門にしもんひょうくんはかりごとほし中山なかやましんしんらくひつじ中山なかやま以拔,无使守之もりゆきしんしん先生せんせいくん无傅,しんしんこごめこうぶなしんなん以負於魏成子しげこ!』かつ曰:『且子げんかつ於子きみしゃあにはたしゅう以求大官たいかん哉?きみもん而置しょうなりそく璜,二子ふたごなん如」?かつたい曰:「きみ察故也。きょ其所おやとみ所與しょよたち其所舉,きゅう其所不爲ふためひん其所,五者足以定之矣,なんまち克哉かつや!」以知成子なるこ爲相ためすけ也。且子やすあずか成子なるこ乎?成子なるこ以食祿ろくせんかね,什九在外ざいがい,什一ざいない以東いとうとくぼくなつ田子たつこかただん。此さんにんしゃきみみなところすすむにんしゃきみみなしんわるあずか成子なるこ也?』翟璜逡巡しゅんじゅん再拜さいはい曰:『璜,ひなじん也,しつたいねがいそつため弟子でし。』

廿にじゅうろくねん,虢山崩やまくずれ,壅河。

ねんていしろさんなつめはいしん于注。卅ねんひとしわがじょうりょう。卅ろくねんはたおかせわがかげすすむ

はちねんしんはいわが武下たけしたとく其將識。これさいぶんこうそつげきりつためたけこう

たけこう

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たけこう元年がんねんちょうたかしこうはつだて公子こうしついたちためみだれかち,奔魏,あずかかさね邯鄲かんたんはい而去。

ねんしろやす邑、おうかき

ななねんひとしいたりくわおかきゅうねん,翟敗わが于澮。使つかいくれおこりひとしいたりれいおかひとしおうはつだて

じゅういちねんあずかかんちょうさんふんすすむめつ其後。

じゅうさんねんはたけんじこうけんくぬぎじゅうねんはいちょうきた

じゅうろくねんすわえ魯陽。たけこうそつ罃立,ためめぐみおう

めぐみおう

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めぐみおう元年がんねんはつたけこうそつ也,罃與こうちゅうなるそうため太子たいし公孫こうそん頎自そうにゅうちょうちょうにゅうかんいいかん懿侯曰:『罃與こうちゅうなるそうため太子たいしきみまた聞之乎?こん罃得おう錯,はさみじょうとうかたはんくに也。よし而除やぶ必矣,不可ふかしつ也。』懿侯せつ,乃與ちょうしげるこうごうぐん并兵以伐せん于濁さわたかし大敗たいはいたかしくんかこえちょういいかん曰:『じょたかしくんたておおやけちゅうなるわり而退,わが且利。』かん曰:『不可ふかころせたかしくんにん必曰暴;わり而退,にん必曰貪。如兩ぶんぶんためりょうつよし於宋、まもるのりわがおわり无魏患矣。』ちょう聽。かんせつ,以其しょうそつよるめぐみおう所以ゆえん不死ふしくにぶんしゃいえはかりごと和也かずやわかしたがえ一家いっかはかりごとのり必分矣。曰『きみおわり无適,其國やぶ也』。

ねんはいかん于馬りょうはいちょう于懷。さんねんひとしはいかんねんあずかかんかいたくじょうたけしためしんしょはいろくねんそうただしだいきゅうねんはいかん于澮。あずかしんせんしょうはりとりこわがはた公孫こうそん痤,龐。はたけんじおおやけそつこう公立こうりつ

じゅうねんちょうかわろう彗星すいせいじゅうねんほしひる墜,ゆうごえ

じゅうよんねんあずかちょうかい鄗。じゅうねん,魯、まもるそうていくん來朝らいちょうじゅうろくねんあずかはたたかし公會こうかい(社)しゃだんほうじんもりたいらおかせそうそうふくこれ

じゅうななねんあずかしんせんもとうらはたわがしょうはりかこえちょう邯鄲かんたんじゅうはちねん,拔邯鄲かんたんちょう請救于齊,ひとし使つかいまご臏救ちょうはいかつらりょう

じゅうきゅうねん諸侯しょこうかこえわがじょうりょう。筑長じょうふさがかた

廿にじゅうねんかえりちょう邯鄲かんたんあずかめい漳水じょう廿にじゅういちねんあずかしんかい彤。ちょうしげるこうそつ廿にじゅうはちねんひとしおうそつ中山なかやまくんしょう

卅年,たかしちょうちょうつげきゅうひとしひとしせんおうよう孫子まごこけいすくいちょうげきたかしとげだいきょう使つかい龐涓はた,而令太子たいしさるためじょう將軍しょうぐんそとそとじょいい太子たいし曰:『しんゆうひゃくせんひゃくしょうじゅつ。』太子たいし曰:『とく聞乎?』きゃく曰:『かたねがいこう。』曰:『太子たいししょうおさむひとし大勝たいしょう并莒,のりとみゆうえきためおうわかせんかちひとしのりまんせい无魏矣。此臣ひゃくせんひゃくしょうじゅつ也。』太子たいし曰:『だく,請必したがえこうげん而還矣。』きゃく曰:『太子たいし雖欲かえとく矣。かれすすむ太子たいしせんおさむほしすすしるしゃしゅ太子たいし雖欲かえこわとく矣。』太子たいしよしほしかえ,其御曰:『はた而還,與北よぎたどう。』太子たいしはてあずかひとしひとせんはい於馬りょうひとしとりこ太子たいしさるころせ將軍しょうぐん涓,ぐんとげ大破たいは

いちねんはたちょうひとしきょうわがはたすすむしょうくんいつわりわが將軍しょうぐん公子こうし卬而かさねだつ其軍,やぶこれしんようしょうくんひがしいたりかわ,而齊、ちょうすうやぶわがやす邑近しん,於是徙治だいはり。以公子こうし赫爲太子たいし

さんねんはたたかしおおやけそつしょうくんほろびはたかえりたかしいか不入ふにゅう。卅ねんあずかひとしせんおうかいたいら阿南あなん

めぐみおうすう於軍たび,卑禮あつぬさ以招賢者けんじゃ。鄒衍、あつし于髡、はじめ軻皆いたりはりりょうめぐみおう曰:『寡人佞,へいさんおり於外,太子たいしとりこうえすすむくに以空むなし,以羞先君せんくん宗廟そうびょう社稷しゃしょく,寡人甚丑,叟不とお千里せんりはずかしめさいわいいたる獘邑廷,はたなにわれこく?』はじめ軻曰:『きみ不可ふか以言わか夫君ふくんよく利則としのり大夫たいふよくとし大夫たいふよく利則としのり庶人よくとし上下じょうげそうくにそく危矣。ため人君じんくん仁義じんぎ而已矣,なに以利ため!』

ろくねんふくあずかひとしおうかい甄。これさいめぐみおうそつじょう王立おうりつ

じょうおう

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じょうおう元年がんねんあずか諸侯しょこうかいじょしゅうそうおう也。つい尊父そんぷめぐみおうためおう

ねんはたはいわがりゅう賈軍よんまんせん于雕かげかこえわがこげきょく沃。しんかわ西之にしの

ろくねんあずかしんかいおうはたわが汾陰、かわこげすわえはい陘山。ななねんたかしつきにゅう上郡かみごおり于秦。はたくだわががまはちねんはたわがこげきょく沃。

じゅうねんすわえはいわがじょうりょう諸侯しょこう執政しっせいあずかしんしょうちょうただしかいかじくわじゅうさんねんちょうただししょうゆう女子じょしため丈夫じょうぶはたわがきょく沃、たいらあまね

じゅうろくねんじょうおうそつあい王立おうりつちょうただし復歸ふっきはた

あいおう

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あいおう元年がんねん國共こっきょうおさむはたかち而去。

ねんひとしはいかんねんはた使つかいぶな里子さとごわがきょく沃,はしさいくびがんもんろくねんはたもとむ)[たて公子こうしせいため太子たいしあずかしんかい臨晉。ななねんおさむひとしあずかはたつばめ

はちねんまもる,拔列じょうまもるくん患之。如耳やくちょうちょうぶん而爲所以ゆえん亡者もうじゃためしたがえしゅ也。いままもるやめせりほろびはた西にし請事於秦。あずか其以しん醳衞,如以醳衞,まもるくん曰:『請罷へいめんなりりょうくん乎?』まもるくん曰:『先生せんせいはてのう世世せぜ以衞ごと先生せんせい。』如耳なりりょうくん曰:『むかししゃちょうだん羊腸ようちょう,拔閼與,まもるとく必終无窮。』なりりょうくん曰:『だく。』如耳おう曰:『しんゆう謁於まもるまもるしゅうしつべつ也,其稱小國しょうこくたからいまこくはさま於難而寶不出ふしゅつしゃ,其心以爲おさむまもる醳衞以王ためぬしたから雖出必不にゅう於王也。しん竊料さきげん醳衞しゃ必受まもるしゃ也。』如耳なりりょうくんいれ,以其げんおうおう聽其せつやめ其兵,めんなりりょうくん終身しゅうしん

きゅうねんあずかしんおうかい臨晉。ちょうただしあきらみな于魏。相田あいた需死,すわえがいちょうただしさいくび、薛公。すわえしょうあきらぎょいいだい曰:『需死,われこわちょうただしさいくび、薛公有こうゆういちにんしょうしゃ也。』だい曰:『しか相者そうしゃほしだれ而君便びん?』あきらぎょ曰:『われほし太子たいしあい也。』だい曰:『請爲くんきた,必相。』あきらぎょ曰:『柰何?』たい曰:『きみ其爲はりおうだい請説くん。』あきらぎょ曰:『柰何?』たい曰:『だい也從すわえらいあきらぎょ甚憂,曰:「需死,われこわちょうただしさいくび、薛公有こうゆういちにんしょうしゃ也。」だい曰:「はりおうながしゅ也,必不しょうちょうただしちょうただししょう,必右しん而左さい首相しゅしょう,必右かん而左。薛公しょう,必右ひとし而左はりおうながしゅ也,必不便びん也。」おう曰:「しかのり寡人孰相?」だい曰:「莫若太子たいしそう太子たいしそう三人者皆以太子爲非常相也,みなはたつとむ以其國事こくじ欲得よくとく丞相じょうしょう璽也。以魏つよし,而さんまんじょうくに輔之,必安矣。曰莫わか太子たいしあい也。」』とげ北見きたみはりおう,以此つげ太子たいしはてしょう

じゅうねんちょうただしじゅういちねんあずかはたたけしおうかいおうじゅうねん太子たいしちょう於秦。はたらいわがかわ拔而かいじゅうよんねんはたらいおうきさきじゅうろくねんはた拔我がまはんすすむふうりょうじゅうななねんあずかしんかい臨晉。はたわががまはんじゅうはちねんあずかはたすわえ廿にじゅういちねんあずかひとしかんきょうはいしんぐんはこだに

廿にじゅうさんねんはたふくわがかわがい及封りょうためあいおうそつあきら王立おうりつ

あきらおう

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あきらおう元年がんねんはた拔我じょうじょうねんあずかしんせんわが不利ふりさんねんかんおさむはたはたすすむしろおこりはいわがぐん闕廿よんまんろくねんしん河東かとう地方ちほうよんひゃくさとすすき以詐じゅうななねんはた拔我じょう大小だいしょうろくじゅういちはちねんはたあきらおうため西にしみかどひとし湣王ためひがしみかどがつあまりみなふくしょうおうみかどきゅうねんはた拔我新垣あらかききょくしろ

じゅうねんひとしめつそうそうおうわがぬるじゅうねんあずかはたちょうかんつばめどもひとしはいすみ西にし,湣王ほろびつばめどくにゅう臨菑。あずかしんおうかい西にししゅう

じゅうさんねんはた拔我安城あきへいいただいはりじゅうはちねんはた拔郢,すわえおう徙陳。

じゅうきゅうねんあきらおうそつ子安こやす王立おうりつ

やす釐王

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やす釐王元年がんねんはた拔我兩城りょうじょうねんまた拔我しろぐんだいはりかんらいすくえはたあつし以和。さんねんはた拔我よんしろ斬首ざんしゅよんまんよんねんはたやぶわが及韓、ちょうころせじゅうまんにんはしわがはたすすきしょうだん請予はた南陽なんよう以和。だいいいおう曰:『よく璽者だん也,よくしゃしん也。こんおう使よくしゃせい璽,使つかいよく璽者せいたかし不盡ふじんそく不知ふちやめ。且夫以地ごとしんたとえなおだきたきぎすくいたきぎ不盡ふじん不滅ふめつ。』おう曰:『是則これのりしか也。雖然,事始ことはじめやめくだり不可ふかさら矣。』たい曰:『おうどくおっと博之ひろゆき所以ゆえんふくろうしゃ便びんのりしょく不便ふべんそくとめ矣。こんおう曰「事始ことはじめやめくだり不可ふかさら」,なんおうもちいさとし如用ふくろう也?』

きゅうねんはた拔我ふところじゅうねんはた太子たいしがいしつ於魏じゅういちねんはた拔我郪丘。

はたあきらおういい左右さゆう曰:『今時いまどきかんたかしあずかはじめ孰彊?』たい曰:『如始つよし。』おう曰:『今時いまどき如耳、ひとしあずかはじめ嘗、すすき孰賢?』たい曰:『如。』おう曰:『以孟嘗、すすき卯之うのけんりつつよしかん以攻しんなお无柰寡人なん也。こん以无のう如耳、ひとし而率じゃくかん以伐しん,其无柰寡じんなにまたあきら矣。』左右さゆうみな曰:『甚然。』ちゅうはた馮琴而對曰:『おうこれりょう天下でんか矣。とうすすむろくきょうときともさいつよしめつ范、ちゅうゆきまたりつかんへい以圍ちょうじょう於晉けつすすむすい以灌すすむしろたたえしゃさんはんはく行水ぎょうずい桓子かん康子やすこためさんじょうはく曰:「われはじめ不知ふちすい以亡じんくに也,乃今知之ともゆき。」汾水以灌やす邑,絳水以灌ひら桓子ひじかん康子やすこかん康子やすこくつ桓子,ひじあしせっ於車じょう,而知ぶんこくほろびため天下でんかわらいこんしんへい雖彊,不能ふのうともかん雖弱,なおけん其在すすむしも也。此方こちら其用ひじあしとき也,ねがいおう勿易也!』於是しんおうおそれ

ひとしすわえしょうやく而攻使じんもとめすくい於秦,かんぶたしょうもち也,而秦すくいいたりじんゆうから雎者,ねんきゅうじゅうあまり矣,いいおう曰:『老臣ろうしん請西じょうざいせつしんおうれいへいさきしん。』おう再拜さいはいとげやくくるま而遣から雎到,にゅうしんおうしんおう曰:『丈人たけとすすきしか乃遠いたり此,甚苦矣!おっともとめすくいすう矣,寡人知じんちきゅうやめ。』から雎對曰:『大王だいおうやめきゅう而救不發ふはつしゃしん竊以ためようさくしん无任矣。おっといちまんじょうくに也,しか所以ゆえん西にしめん而事しんしょうひがしはん,受冠たいほこら春秋しゅんじゅうしゃ,以秦つよしあし以爲あずか也。いまひとしすわえへいやめあい於魏郊矣,而秦すくい不發ふはつまたはたよりゆき其未きゅう也。使つかいだいきゅうかれ且割而約したがえおうしょうなにすくい焉?必待其急而救しつ一東藩之魏而彊二敵之齊、すわえのりおうなん焉?』於是はたあきらおう遽爲はつへいすくいたかしふくじょう

ちょう使つかいじんいいおう曰:『ためわがころせ范痤,われ請獻ななじゅう。』おう曰:『だく。』使つかい吏捕かこえ而未ころせ。痤因上屋うわや危,いい使者ししゃ曰:『あずか其以痤市,如以せい痤市。ゆう如痤ちょう王地おうじのり王將おうしょう柰何?わかあずかせんていわりしかころせ痤。』おう曰:『ぜん。』痤因じょう書信しょしんりょうくん曰:『痤,まぬかれしょう也,ちょう以地ころせ痤而おう聽之,ゆう如彊しんまたはたかさねちょうほっのりくん且柰なに?』しんりょうくんごと於王而出

おう以秦すくいよくちかしはた而伐かん,以求。无忌いいおう曰:

はたあずかえびす翟同ぞくゆう虎狼ころうしんむさぼもどこう无信,識禮德行とっこう。茍有利ゆうり焉,親戚しんせき兄弟きょうだいわか禽獸きんじゅうみみ,此天下之したのしょ識也,ゆうしょほどこせあつせき德也とくやふとしきさきはは也,而以ゆうみのるこうしゅうと也,こう莫大ばくだい焉,而竟逐之;りょうおとうと无罪,而再だつこれこく。此於親戚しんせきわか此,而況於仇讎之こく乎?こんおうあずかしんどもかん而益きんしん患,しん甚惑。而王識則不明ふめい,羣臣莫以聞則不忠ふちゅう

こんかん以一女子奉一弱主,ないゆう大亂たいらん外交がいこうつよしはたたかしこれへいおう以爲ほろび乎?かんほろびはたゆうていあずかだいはり鄴,おう以爲安乎あいがおう欲得よくとくこんまけつよししんおやおう以爲乎?

はた无事くに也,かんほろびこれ必將さらごとさらごと必就えきあずか,就易あずかとぎ必不すわえあずかちょう矣。なん也?おっと越山こしやま踰河,ぜっかんじょうとう而攻つよしちょうふく閼與ことはた不爲ふため也。わか道河内どうがわうちばい鄴、あさ謌,ぜっ漳滏すいあずかちょうへいけつ邯鄲かんたん郊,はくわざわい也,はたまた敢。すわえみちわたるたにぎょうさん千里せんり。而攻めい阸之ふさが所行しょぎょう甚遠,ところおさむ甚難,はたまた不爲ふため也。わかみちかわがい倍大ばいだいはりみぎ(蔡左)[うえ蔡]、召陵,あずかすわえへいけつ於陳郊,はたまた敢。曰秦必不すわえあずかちょう矣,またおさむまもるあずかひとし矣。

おっとかんほろびこれへいこれにちたかし无攻やめはた固有こゆうふところちがや邢丘しろ垝津以臨かわうちかわうちとも必危;ゆうていとくかきけつ熒澤みずだいはりだいはり必亡。おう使者ししゃ出過ですぎ而惡やすりょうはたはたこれよく誅之ひさ矣。はた昆陽こんようあずかまいよう鄰,聽使しゃあくずいやすりょう而亡にょうまいようこれきた以東いとうもと南國なんごく必危,くにさき[1]がいやめ

おっとにくかんあいやすりょう可也かなりおっとはたこれあい南國なんごく也。にちしゃはたざいかわ西にしすすむくにりょう千里せんりゆうかわやま以闌ゆうしゅうかん以閒したがえはやしぐん以至于今,はたななおさむたかしにゅう囿中,へんじょうつき拔,文臺ぶんだい墮,たれ焚,はやしおうしか鹿しかつき,而國つぎ以圍。また長驅ちょうくりょうきたあずまいたるとうまもるこれ郊,きたいたりひらたかんところほろびはたもの山南さんなん山北さんぽくかわそとかわうちだいけんすうじゅうめいすうひゃくはた乃在かわ西にしすすむりょう千里せんり,而禍わか矣。またきょう於使はたかんゆうてい,无かわやま而闌,无しゅうかん而閒だいはりひゃくわざわい必百[2]此矣。

にちしゃしたがえなり也,すわえたかしうたぐ而韓不可ふかとく也。こんかん受兵さんねんはた橈之以講,識亡聽,とうしつ於趙,請爲天下でんかかりぎょうひたすらすわえちょう必集へいみな識秦よく无窮也,つきほろび天下でんかくに而臣海内かいだい,必不休ふきゅう矣。しんねがい從事じゅうじおうおうそく受楚ちょうやく,(ちょう)[而]はさみかんしつ以存かん,而求かん必效。此士民しみん不勞ふろう而故,其功於與しんどもかん,而又あずかつよしはた鄰之也。

おっとそんかんやすたかし而利天下でんか,此亦おうてんやめつうかんうえとうとも使つかいどう安成やすなり出入でいりおもしつかん以其うえとう也。こんゆう其賦,そく以富こくかん必德たかしあいたかしおもたかしかしこたかしかん必不敢反たかしかんのりたかしこれけん也。たかしとくかん以爲けんまもるだいはりかわそと必安矣。こんそんかんしゅうやすりょう必危,すわえちょう大破たいはまもるひとし甚卑[3]天下てんか西にし鄕而はせはた入朝にゅうちょう而爲しんひさ矣。

廿にじゅうねんはたかこえ邯鄲かんたんしんりょうくん无忌矯奪將軍しょうぐんすすむひなへい以救ちょうちょうとくぜん。无忌いんとめちょう廿にじゅうろくねんはたあきらおうそつ

卅年,无忌かえりりつ五國兵攻秦,はいかわがいはしこうむ驁。太子たいしぞうしつ於秦,はたいかよくしゅう太子たいしぞうあるためぞういいしんおう曰:『公孫こうそんかたいいしょう曰「請以やましげきしんしんおういか,必囚ぞうおうまたいかげきしんはた必傷」。こんおうしゅうぞうけい中也ちゅうや若貴わかたかぞう而合,以疑於齊おさいかん。』はた乃止ぞう

いちねんはた王政おうせいはつだて

よんねんやす釐王そつ太子たいしぞうりつ爲景ためかげ湣王。しんりょうくん无忌そつ

けい湣王

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けい湣王元年がんねんはた拔我廿にじゅうじょう,以爲しんひがしぐんねんはた拔我あさ謌。まもる徙野おうさんねんはた拔我汲。ねんはた拔我かきかばよう、衍。じゅうねんけい湣王そつおう假立かりだち

おうかり

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おうかり元年がんねんつばめ太子たいし使荊軻とげしんおうはたおうさとしこれ

さんねんはた灌大はりとりこおうかりとげめつ以爲こおりけん

司馬しば遷評

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ふとしおおやけ曰:われてきだいはり墟,墟中じん曰:『はたやぶはり,引河みぞ而灌だいはりさんがつじょう壞,おう請降,とげめつ。』せつしゃみな曰魏以不ようしんりょうくんこくそぎじゃくいたり於亡,あまり以爲しか天方あまがたれいはた平海ひらうみない,其業未成みせい雖得おもね衡之,曷益乎?

斠勘

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  1. つてほんさきさく『无』。《ちょうすな王堆漢おうたいかん簡帛・戰國せんごく縱橫じゅうおうしょさくはたゆう昆陽こんようあずかまいよう鄰,聽使しゃあく,墮やすりょう而亡,繚まいようこれきた以東いとうもと南國なんごく必危,くにさきがいやめ。』,はなわあきらでんほんさく『无』ためなまりあやま
  2. つてほんひゃくさくゆかり』。《戰國せんごくさくさくまたきょう於使はたかん,而有てい,无かわやま而蘭,无しゅうかん以閒だいはりひゃくわざわいひゃく此矣。』,《ちょうすな王堆漢おうたいかん簡帛・戰國せんごく縱橫じゅうおうしょせいさくまたきょう於使はたかんゆうてい,无かわやま而闌,无しゅうかん而閒だいはりひゃくわざわいひゃく此矣。』,はなわあきらでんほんさくゆかりためなまりあやま
  3. つてほん『卑』さくかしこ』。《ちょうすな王堆漢おうたいかん簡帛・戰國せんごく縱橫じゅうおうしょさくこんそんかんしゅうやすりょう必貤,すわえちょう大破たいはつばめひとし甚卑,天下てんか西にし輈而はせはた,而入朝にゅうちょうためしんひさ矣。』,はなわあきらでんほんさくかしこためなまりあやま
 ちょうだい卌三 かえしかいいただき かんだい卌五
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  1. わかよし維基文庫ぶんこよう自己じこてき方式ほうしき加入かにゅうしるべてん符號ふごう依據いきょ识共とおる 署名しょめい-あいどう方式ほうしきどもとおる 4.0协议(CC BY-SA 4.0)及GNU自由じゆうぶん档许证(GFDL)てきじょう款释
  2. 1999ねん7がつ12にちちゅう人民じんみん共和きょうわこく国家こっかばん权局ばん管理かんり关于せき标点とう著作ちょさく权问题的こたえ复《权司1999だい45ごう》,认为仅加标点不足ふそく以有创作せいただし按照《ちゅう人民じんみん共和きょうわ国民こくみんほうどおり》(现由《ちゅう人民じんみん共和きょうわ国民こくみん法典ほうてんだい其地てきおおやけ平和へいわとう价有偿原则,利用りよう他人たにんてき智力ちりょく劳动,いたりしょう应当ささえづけしょう应的对价。此处民法みんぽうどおり则的こう平和へいわとう价有偿原则与著作ちょさく权是ぶん别的话题。
  3. 中華民國ちゅうかみんこく94ねん(2005ねん)4がつ15にち中華民國ちゅうかみんこく經濟けいざい智慧ちえ財產ざいさんきょく智慧ちえ財產ざいさんきょく解釋かいしゃくれいはこそん)也認ため僅對古文こぶんしるべてん不足ふそく取得しゅとくしん著作ちょさくけん

另請さんあきら忠信ちゅうしん著作ちょさくけん筆記ひっき·句讀くとうてき著作ちょさくけん保護ほご

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ほん作品さくひんざいぜん世界せかいぞく公有こうゆう领域いん为作しゃ逝世やめ经超过100ねん,并且于1929ねん1がつ1にちぜん出版しゅっぱん

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