狄兼谟(?—?),字じ汝なんじ谐,唐とう代だい并州太ふとし原はら(今いま山西さんせい太ふと原げん南郊なんこう区く)人にん。为名相しょう狄仁杰族ぞく曾孙。
狄兼谟及进士第だい。辟襄じょう阳使府ふ,刚正有ゆう祖そ风。令れい狐きつね楚すわえ执政,荐授左ひだり拾じつ遗,多た次つぎ上じょう书言事ごと。历任刑部おさかべ郎ろう中ちゅう、蕲州邓州郑州三さん州しゅう刺史しし。一いち年ねん旱ひでり灾,发粟あわ赈济,人民じんみん不流ふりゅう徙。改あらため苏州刺史しし,因いん治ち理り的てき好このみ,擢给事中ちゅう。左ひだり藏ぞう史し盗ぬすめ取ど度たび支ささえ缣帛,唐から文ぶん宗むね以经赦诏不要ふよう处理,狄兼谟封ふう还诏书,唐から文ぶん宗むね问他,他た说:“典てん史し犯はん赃,不可ふか免めん。”皇帝こうてい说:“朕ちん已やめ赦其长官,吏亦宜むべ宥なだめ,与あずか其失信しんじ,宁失罪人ざいにん。”还说:“后きさき或ある事こと有ゆう不可ふか,勿以还诏为惮。”转任御ご史し中ちゅう丞すすむ。文ぶん宗むね说:“御ご史し台だい朝廷ちょうてい纲纪,一いち台だい正ただし,则朝廷治,朝廷ちょうてい正ただし,则天下か治ち。畏かしこ忌き顾望,则职业废矣。卿きょう,梁りょう公こう后きさき,当とう嗣家声ごえ,不可ふか不ふ慎まき。”狄兼谟顿首くび拜はい谢。江西えにし观察使し吴士矩のり为军队加饷,擅用数すう十じゅう万まん上じょう供きょう钱。狄兼谟劾奏そう:“观察使し为陛下か守もり土ど,宣せん国こく诏条,知ち临戎赏士,州しゅう有定ありさだ数すう,而与夺由己おのれ,贻弊一方いっぽう,为诸道どう觖望,请付有司ゆうし治ち罪ざい。”吴士矩のり于是贬为蔡州别驾。狄兼谟历任にん兵部ひょうぶ侍さむらい郎ろう、河かわ东节度ど使し。还京为尚なお书左丞すすむ。唐から武たけ宗はじめ子こ李り岘封ふう益えき王おう,命いのち狄兼谟为益えき王おう傅でん。之これ后きさき领天平てんぴょう节度使し,因いん病びょう力りょく辞やめ,以秘ひ书监归洛らく阳,转任东都留守るす,去さ世よ。