陶とう宗そう儀ただし(1322年ねん—1403年ねん),字じ九きゅう成なり,號ごう南村なんそん。黃き岩がん清せい陽よう人ひと(今こん屬ぞく浙江せっこう台うてな州しゅう路みち橋きょう)人にん。元もと末すえ明あきら初はつ文ぶん史學しがく家か。
父ちち陶とう煜官かん至いたり上うえ虞おそれ縣けん尹いん,叔陶とう復ふく初はつ是ぜ書畫しょが家か。至いたり治ち二に年ねん(1322年ねん)陶とう宗そう儀ただし出生しゅっしょう。[1]十歲父兄口授以伏生書,二に十じゅう有志ゆうし於功名めい。師し從したがえ張ちょう翥。妻つま費ひ元もと珍ちん是ぜ趙ちょう孟はじめ頫妻つま管かん道どう昇のぼり的てき外孫そとまご女おんな。元げん惠めぐみ宗むね至いたり正ただし八はち年ねん(1348年ねん)三さん月がつ,科か舉失利り,舉進士し不ふ第だい,八はち月がつ避兵禍か,出で遊ゆう浙東、浙西。1368年ねん明朝みょうちょう推翻元朝がんちょう後ご,定てい居きょ雲間くもま(今いま上海しゃんはい松江まつえ),開館かいかん授課。終身しゅうしん不ふ仕つかまつ。人稱にんしょう「南村なんそん先生せんせい」。工こう書法しょほう,尤ゆう能のう小篆しょうてん,勤つとむ於筆記ひっき,隨身ずいじん攜帶筆墨ひつぼく,遇ぐう事ごと即そく記き。永樂えいらく元年がんねん(1403年ねん),尚なお在世ざいせい。著ちょ有ゆう《書しょ史し會かい要よう》、《南村なんそん輟耕錄ろく》、《說せつ郛》、《南村なんそん詩集ししゅう》等とう。
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