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明史/卷285 - 维基文库,自由的图书馆 とべ转到内容ないよう

あかり/まき285

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楊維楨:りくきょじん ぜにおもんみぜん えびす翰 苏伯衡 おう:かく奎 りゅう 戴良:おう逢 ちょうづるねん 危素 ちょう以寧:石光いしみつ霽 はたひろしはく ちょう:そう僖 ちんはじめ ちょう文海ぶんかい じょたかしせい でんじょ 斯道しどう でんちょ そう僖 しゅみぎ しゅれん おうつね ちょうはじめけん 汶 ちょうせん ちょう簡 もりとら じょいち夔 ちょう撝謙:らくりょう ちょう昱 こころざしあつし しゅ とうそうただし:顧德てる 孫作まごさく ちょうけん しゅうとぎ 髙明 あいひとし 袁凱 髙啓:楊基 ちょうはね じょ おうこう:から肅 しゃ肅 そうかつ 堯臣 りょさとし ひねそく まご:王佐おうさ ちょうかい いさお おうこうむ:かくつたえ

  あかりはつ文學ぶんがくうけたまわもとおそれやなぎこれ師友しゆうこうつらぬけまなぶ有本ありもとげんそう濂、おう禕、ほうたかし孺以文雄ふみお,髙、楊、ちょうじょりゅうはじめ、袁凱以詩ちょ。其他勝代かつよのこいっ風流ふうりゅうしるべうつ不可ふか指數しすうぶた蔚然しょうもりやめえいせん以還,作者さくしゃ遞興,みなおきとおるえんじ迤,ことかぎとげ,而氣たいややじゃくひろし正之まさゆきあいだ東陽とうよう出入でいりそうもとさかのぼりゅうとうだい,擅聲かんかく。而李ゆめなに景明かげあき倡言復古ふっこぶん西京にしぎょうちゅうから而下,一切いっさい吐棄,操觚そうこだんげい翕然きゅうぜん宗之むねゆきあかり詩文しぶん,於斯一變いっぺん。迨嘉やすしおうまことちゅうとうじゅんやからぶんむねおう、曾,仿初とうよじりゅうおうさだやからぶんぬししんかんぶんまわしもりとうおう持論じろんだいりつあずかゆめ景明かげあきしょう和也かずやかえり有光ありみつ頗後,以司おういのちちからはいなにおう,而徐渭、あらわ、袁宏どうかね惺之ぞくまたかくそう一時いちじ,於是そうなにおうしゃややおとろえいたりけいただしせんけんえきあいみなみえいじゅんきたそうのり矱,ちょう溥、ひねりゅう擷東かんよしはなまた一變いっぺん矣。有明ありあけいちだい文士ぶんしたくたくひょうしゃ,其源りゅう大抵たいてい如此。こんはくこう諸家しょかしゅうまいり以衆ろんろく其著しゃさく文苑ぶんえんでん》。

楊維楨

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  楊維楨,れんおっと山陰さんいんじんははゆめがつちゅう金錢きんせん墜懷,而生維楨。少時しょうじ日記にっきしょすう千言せんげんちちひろしちくろうてつがけ山中さんちゅうにょうろううえうめひゃくかぶ,聚書すうまんかん其梯,俾誦讀樓うえしゃねんいんごうてつがけもとたいじょうよんねんなり進士しんししょ天台てんだいいんあらためせんきよし塲鹽司令しれい。狷直忤物,じゅうねん不調ふちょうかいおさむりょうきむそうさんなり,維楨ちょ正統せいとうべんせんこと總裁そうさいかんおうもとこう讀且嘆曰:「ひゃくねんおおやけ論定ろんてい於此矣。」はたこも而不はててん建德けんとくそうかん推官。擢江西にし儒學じゅがくひさげ舉,うえかい兵亂へいらん,避地とみ春山はるやま,徙錢塘ぜんどもちょうまことるい招之,赴,其弟しん咨訪いんせんろんしょふくまこと反覆はんぷくつげ以順ぎゃく成敗せいばいせつまこと不能ふのうよう也。また達識たっしき丞相じょうしょう,徙居松江まつえこれじょう海内かいだいこもしん大夫たいふあずか東南とうなんざい俊之としゆきみやつこもんおさめくつきょさけたけなわ以往いおう筆墨ひつぼくよこある戴華はば,披羽ころもすわ船屋ふなやじょう,吹鐵ふえさく梅花ばいかろう》。あるよびさむらいはくゆきやめ倚鳳琶和賓客ひんきゃくみな蹁躚おこりまい,以爲神仙しんせんちゅうじん

  ひろしねんふとし召諸儒纂禮樂れいがくしょ,以維楨前あさろう文學ぶんがく翰林かんりん詹同奉幣ほうへいまいもん,維楨しゃ曰:「あにゆう老婦ろうふはた就木,而再よめしゃよこしま?」明年みょうねんふく有司ゆうしあつし促,ろうきゃくうたいいちしょうすすむ,曰:「皇帝こうてい竭吾のうつよしわれしょ不能ふのうそくいやのりゆう蹈海みみ。」みかどもとたまものやすしゃまい闕廷,とめひゃくゆういちじゅうにちしょ纂敘便びんれいじょうそく乞骸こつみかどなり其志,仍給やすしゃかえやまかん胄監ちょう西門にしもんがいそう濂贈曰:「受君おうしょくみことのり白衣はくいせんいたり白衣はくいかえ」,ぶた髙之也。抵家そつねんななじゅう

  維楨めいいちごうてつがけたいあずかえいよしみ孝光たかみつかやさんちょうはね錫山しゃくざん倪瓚、こんやま顧瑛ため詩文しぶんともあおもも叟釋臻、叟釋げんせいひろし叟釋しんためかたがいともちょうあめしょう其古らく出入でいりしょうりょうあいだゆう曠世こうせい金石かねいしごえそう濂稱其論せん,如睹しょうあつししゅうつねくもかみなり成文せいぶん,而寒すすきよこめん震蕩しんとうりょう厲,おにしつらえしんほどこせゆうごう名家めいかうん。維楨徙松江まつえあずかはなていりくきょじん及僑きょぜにおもんみぜんしょう倡和。

ぜにおもんみぜん

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  おもんみぜんおもえふく錢塘ぜんどもじんいたりせい元年がんねんしょうためし剎江》,くさりいんさんせんにんどくおもんみぜんよりどころまいじょうななはつべんぜに塘江ためきょくこうゆかりとくめいごうきょくこう居士こじかんふくひさげ舉。ちょうまことよりどころくれとげつかまつ

りくきょひとし

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  きょひとしたくなかやすしていさんねん鄕試,隱居いんきょ教授きょうじゅごうくも松野まつの衲。兩人りょうにんすんで歿,あずか維楨どうそうやまにんためさん髙士

えびす

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  えびす翰,なかさる金華きんかじんようさとし異常いじょうななさいみち拾遺しゅういきんすわもりさむらい其人かえこれちょうしたがえらんけい師道しどう浦江うらえ萊學古文こぶんふくとうどう邑許謙之けんじもんどうぐん溍、やなぎぬき文章ぶんしょうめい天下でんか翰文,しょうようこうゆうもと公卿くぎょう交譽あずか武威ぶいあまり闕、せんじょうみつぎたいゆうぜんあるすすむつかまつおうすんで,遭天大亂たいらん,避地みなみ華山かざん著書ちょしょ自適じてき文章ぶんしょうあずかそう濂、おう禕相上下じょうげふとし金華きんか,召見,いのちあずかもともととう會食かいしょく中書ちゅうしょしょうこう侍臣じしんふくゆうこも翰者,召至きんりょうどきかたせき金華きんかみんためへい,翰從容しょうようしん曰:「きむ華人かじんぎょう儒,鮮習へいせき糜餉みみ。」ふとしそくやめこれ。授衢しゅう教授きょうじゅひろしたけはじめ,聘修《もと》,しょなり,受賚あい北山きたやま泉石せんせきぼくちく其下,徜徉じゅうすうねん而終,ねんななじゅうゆうところちょゆう春秋しゅんじゅうしゅうよし》,ぶん曰《えびす仲子なかごしゅう》,曰《長山ながやま先生せんせいしゅう》。

はく

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  はく衡,ひらなかきむ華人かじんそう門下もんかさむらいろうわだち裔也。ちちともりゅう受業じゅぎょうもと謙之けんじもんかんしょうやまれいぎょうしょうごとあかり浙東,すわ長子ちょうしつかまつ閩,謫徙滁州。よしちょうそうかんちからはく衡警さと絶倫ぜつりんひろしひろしぐんせきため古文こぶんゆうごえもとすえみつぎ於鄕。ふとしおけれいけんかんはく衡與焉。とし丙午ひのえうまよう爲國ためくにがくろく,遷學ただしこも,召見,擢翰りん編修へんしゅうちからやめ,乞省覲歸。ひろしじゅうねん學士がくしそう致仕ちしふとしといだれだいしゃ,濂對曰:「はく衡,しん鄕人,がく博行ひろゆきおさむぶん蔚贍ゆうほう。」ふとしそくせいにゅうふく以疾やめたまものころも鈔而還。じゅういちねん聘主かいこころみこと竣復やめかえひろためしょしゅう教授きょうじゅすわおもて牋誤,しも吏死。二子ふたご恬、怡,すくいちちなみけい

おう

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  おう冕,もとあきらしょ暨人。ようひんちち使牧牛ぼくぎゅう,竊入學舍がくしゃ,聽諸せい誦書,はか乃返,ほろび其牛,ちちいか撻之,やめ而復しかはは曰:「如此,曷不聽其所爲しょい。」冕因そうてらよるすわふつひざじょううつ長明ちょうめいとう讀書どくしょかい稽韓せい聞而ことろくため弟子でしとげしょうどおり儒。せいそつもん人事じんじ冕如ごとせい。屢應舉不ちゅう,棄去,きたゆうつばめきゃく秘書ひしょきょうやすしはななずらえ以館しょくこもちから就。すんでまい大言たいげん天下でんかはたみだれ,攜妻孥隱きゅう里山さとやまうめせんかぶももあんずはんごううめ花屋はなやぬしぜんうめもとめしゃかかといたり,以幅長短ちょうたんためとくまいこれ。嘗仿《しゅうかん著書ちょしょいちかん,曰:「もち此遇明主めいしゅりょ事業じぎょうなん致也。」ふとし婺州,物色ぶっしょくどくおけ幕府ばくふ,授諮さんぐん一夕いっせきびょうそつ

つけ かく

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  同時どうじかく奎、りゅう炳皆さんえびすまく,以詩めい。奎,あきら縣人けんじんしたがえあまり闕學,けい,闕亟しょうふとしためくれこくおおやけらい從事じゅうじ幕府ばくふしゅ文正ふみまさひらけだいとく於南あきらいのち奎參其軍事ぐんじ文正ふみまさとくざい,奎坐誅。

つけ りゅう

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  炳,彦昺,鄱陽じんいたり正中せいちゅう從軍じゅうぐん於浙。ふとしおこり淮南ワイナンけんじしょげんごとようため中書ちゅうしょてん簽。ひろしたけはじめ從事じゅうじだいとくためけん。閲兩かんがえ,以病つげ久之ひさゆきそつ

戴良

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  戴良,叔能,浦江うらえじんつうけいひゃくいえ暨醫、ぼくしゃくろうこれせつがく古文こぶん於黃溍、やなぎつらぬけ萊。ぬきそつけい其家。ふとしはつじょう金華きんかいのちあずかえびす翰等じゅうにん會食かいしょくしょうちゅうにちにんさらばんこうけいふみちんおさむどう明年みょうねんもちいためがくただしあずかそう濂、やからくんしょせいふとしすんで旋師,りょうゆるがせ棄官はぐれからしうしもとじゅんみかどようこもしゃげん,授良江北こうほくゆきしょう儒學じゅがくひさげ舉。りょう時事じじ不可ふかため,避地くれちゅうちょうまこと久之ひさゆきまことはたはい,挈家泛海,抵登、萊,よくあいだぎょうかえり擴廓ぐんみち梗,ぐうあきららくすうねんひろしろく年始ねんしみなみかえへん姓名せいめいかくれよん明山めいさんふとし物色ぶっしょくどくじゅうねん召至京師けいしためし以文,いのちきょ會同かいどうかん日給にっきゅう大官たいかんぜんよくかん,以老やまし固辭こじ,忤旨。明年みょうねんよんがつ暴卒,ぶたたっ也。もとほろびおもんみあずかおう逢不忘故ぬしまいかたち於歌ゆえそつ其死くもりょうきょ金華きんかきゅう靈山れいざんごうきゅう靈山れいざんじん

おう

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  逢,はらよしこうかげじんいたり正中せいちゅうさく河淸かせい頌》,だいしんこもたたえやましちょうまことよりどころくれ,其弟德用とくよう逢策,きたくだ於元以拒あかりふとしめつまことよく辟用けんおこりかくれ上海しゃんはいがらす涇,うたえい自適じてきひろしじゅうねん文學ぶんがくせい有司ゆうしあつしさこ上道じょうとう時子ときこわきため通事つうじ司令しれい,以父ねん髙,叩頭こうとう泣請,乃命吏部どめまたろくねんそつねんななじゅうゆう《梧溪詩集ししゅうななかん。逢自稱じしょうせきぼう山人さんじん

ひのとづるねん

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  時又ときまたゆうひのとづるねんしゃかいかいじん曾祖そうそおもねろうひのとあずかおとうとがらすみなしょうもとせい西域せいいきぐんとぼし饟,ろうひのとつえさく軍門ぐんもんつき以貲けんじ論功ろんこうたまものたく京師けいしたてまつあさ請。がらするいかん甘肅かんせいゆきしょうひだりすすむちちしょく祿ろくひのと,以世廕爲たけあきらけんたち魯花あかゆうめぐみせいかいかんとめそう其地。いたりせいみずのえたつたけあきらへいづる年年ねんねんじゅうはちたてまつはははし鎭江。はは歿,しお酪不入口いりくちしゃねん。避地よんあかりかたこくちんよりどころ浙東,さい色目いろめじんづるねんうたて徙逃匿,ため童子どうじあるよせそうしゃうれ漿自給じきゅう。及海ないだいじょう,牒請還たけあきら,而生母せいぼやめどう阻前,瘞東邨廢たくちゅうづるねん慟哭どうこくぎょうもとめははつげ以夢,乃齧沁骨,斂而そう焉。がらす斯道しどうためさくちょう孝子たかこでん》。づるねん以家つかまつもと忘故こくじゅんみかどきた遁後,いん泣賦じょうすご惻。晩學ばんがく浮屠ふとほういおりきょちち,以永らく中卒ちゅうそつづるねん好學こうがくあまね聞,せいりつすわえあきらしょう二王におう咸禮敬之たかゆき正統せいとうちゅうけんおうこく其遺文行ふみゆき。   

危素

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  危素,ふとぼくきむけいじんからなでしゅう刺史ししぜん諷之しょうつう五經ごきょう》,ゆうきよし、范梈もんいたりせい元年がんねんよう大臣だいじんこも授經むしろ檢討けんとうおさむそうりょうかねさん及注《しかみやびなり賜金しきん及宮じん受。よし國子くにこじょきょう遷翰りん編修へんしゅう。纂后とうでんこといっよりどころもとかい餳餅饋宦てら,叩之とく,乃筆しょしょそつためぜん。遷太つね博士はかせ兵部ひょうぶいん外郎ういろうかん察御こうさむらいろううたてだいつかさみのりすすむれい尚書しょうしょ

  ときらんはた亟,もとごと抗論こうろん得失とくしつじゅう八年參中書省事,請專任せんにんたいらあきら定住ていじゅうそう西方せいほうへい,毋迎みかど軍事ぐんじようがおはなため參政さんせい經略けいりゃく江南こうなん立兵りゅうへいのう宣撫せんぶ使以安畿内きないにんけんもりれい以撫流竄りゅうざんみん。且曰:「今日きょうことむべ臥薪嘗膽がしんしょうたんちから中興ちゅうこう。」ひろすすむだいしょさむらいじゅうねんはいさん政事せいじにわかじょ翰林かんりん學士がくしうけたまわむねためみねきたぎょうしょうひだりすすむげんごとむくい,棄官きょぼうやまもとためじんただしちょくすうゆう建白けんぱく,敢任ごとうえ宮殿きゅうでん,敕重けん大安たいあん、睿思かく諫止。請親まつ南郊なんこう,筑北郊ほっこう,以斥ごうさいしつよし進講しんこうひね民間みんかんやましにがみことのりためはつぜにあわ河南かなんえい平民へいみん淮南ワイナン兵亂へいらん往廉とえかり便宜べんぎはつこうじぬさ維揚、京口きょうぐちかつえきょぼうやましゃよんねんあかりはた抵燕,淮王じょうはなかんこくおこりためうけたまわむね如故。もとはじめいたり而師いれ,乃趨しょきょ報恩寺ほうおんじにゅう寺僧じそうだいあずさりょく挽起,曰:「國史こくしおおやけ莫知。おおやけ國史こくし也。」もととげどめへいはさま,往告鎭撫ちんぶつとむ輩出はいしゅつ,《もと實録じつろくとくしつ

  ひろし二年授翰林侍講學士,すうおとずれ以元興亡こうぼう,且詔せんすめらぎりょうぶんみなしょうむねころすわしつあさ劾罷。きょいちさいふくかんけん弘文こうぶんかん學士がくしたまものしょうめんあさ謁。嘗偕しょ學士がくしたまものえん,屢遣ないかんすすむさけせいいちしょう,以示恩寵おんちょういのちかく以詩すすむ最後さいごなりみかどどくらん而善曰:「もと老成ろうせいゆうさきゆう。」もとやめななじゅうあまり矣。おうちょとうろんもと亡國ぼうこくしんむべれつ侍從じじゅうみことのり謫居たっきょかずしゅうもりあまり闕廟,さいあまりそつ

  さきいたりもとあいだ西にしそう嗣古みょう髙欲毀宋かい稽諸りょうなつじん楊輦珈爲江南こうなんそう,悉掘徽宗以下いかしょりょう,攫取金寶きんぽう,裒帝遺骨いこつ,瘞於くいみやちく浮屠ふと其上,めい曰鎭みなみ,以示いやしょうまた截理むね顱骨ためいん珈敗,其資みなせき於官,顱骨またにゅう宣政のぶまさいん,以賜所謂いわゆるみかどしゃもとざい翰林かんりんうたげ,備言始末しまつみかど嘆息たんそく良久よしひさいのち北平きたひら守將しゅしょう購得顱骨於西そうなんじ納所なっしょさとし有司ゆうし厝於髙坐てら西北せいほく。其明ねん紹興しょうこう以永きよしりょうらいけんじとげ敕葬りょうじつもとかみくも

ちょう以寧

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  ちょう以寧,こころざしどう古田ふるたじんちち一淸かずきよもと福建ふっけんこう西行さいぎょうしょうさん政事せいじ。以寧ねんはちさいある訟其伯父おじ於縣繫獄,以寧まいけんしんいんこといのちきんどう》,たて就,伯父おじとくしゃく,以寧よう知名ちめいたいじょうちゅう,以《春秋しゅんじゅう》舉進ゆかりがん判官ほうがんしんろくごういんすわこと免官めんかん滯留たいりゅうこう、淮者じゅうねんじゅんみかどせいため國子くにこじょきょうるいいたり翰林かんりん侍讀じどく學士がくしせい誥。在朝ざいちょう宿やど儒虞しゅうおうもと、掲傒斯、溍之ぞくしょうつぎ物故ぶっこ,以寧ゆう俊才しゅんさい博學はくがく強記きょうき,擅名於時,にんよび小張おばり學士がくし

  あかりもとあずか危素とうみな赴京,そう對稱たいしょうむねふく授侍こう學士がくしとくちょうぐうみかど嘗登がねやま,以寧あずか硃升、はたひろしはくとう扈從こしょうようみどりていきゅうひつさつひろしねんあきたてまつ使つかいやすみなみふう其主ひね煃爲國王こくおうせいいちしょうこれはじめ抵境,而日煃卒,國人くにびと乞以しるしみことのり授其世子せいし,以寧聽,とめきょ洱江じょうさとし世子せいしつげあい於朝,且請襲爵しゅうしゃく既得きとくれい,俟後使者ししゃりんからしんいたりしかにゅうさかいしょうごとこと竣,きょう世子せいしふくさんねんれい其國じんこう中國ちゅうごくゆき頓首とんしゅ稽首れい天子てんし聞而嘉之よしゆきたまもの璽書,しょりく賈、うま援,さいたまものせいはちしょう。及還,みちそつみことのり有司ゆうし其柩,所在しょざい致祭。

  以寧ためじんきよしきよし營財さんたてまつ使つかい往還おうかんそと他物たぶつほん以《春秋しゅんじゅう》致髙だいところがくゆうせん春秋しゅんじゅう》,しょ自得じとくせんえびすでんべんうたぐさいべんはくおもんみ春王はるおう正月しょうがつこう就,ぐうやすみなみ逾半としはじめ卒業そつぎょうもとかんらいきょうしゃ及以やすしめいゆうじゅうもとちょう於史,以寧ちょう於經。もとそうもとわら倶失でん,而以やすし春秋しゅんじゅうがく遂行すいこう

つけ 石光いしみつ

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  門人もんじん石光いしみつ霽,なか濂,たいしゅうじん讀書どくしょぎょう倶下。ひろしじゅう三年以明經舉,授國がくせいしん博士はかせさく春秋しゅんじゅうかぎげん》,のうでん以寧これがく

つけ はたひろしはく

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  ひろしはくけいようだい名人めいじんつかまつもとるいかんいたり福建ふっけんゆきしょうろうちゅう。遭世みだれ,棄官,きゃくあげしゅう久之ひさゆきふく避地上海しゃんはいきょははつきれいちょうまことよりどころしゅうとひと招之,こばめ不納ふのう元年がんねんふとし命中めいちゅうしょしょうげきおこりひろしはくたい使者ししゃ曰:「しょく元祿げんろくじゅうねん而背忠也ちゅうやははおわり,忘哀而出,孝也たかや。」乃上中書ちゅうしょしょう固辭こじひろしたけ元年がんねんふくせいしょうびょう不出ふしゅつみかど乃手しょさとし曰:「海濱かいひんみんこうひろしはく智謀ちぼう而居此地,堅守けんしゅおこりこわゆう後悔こうかい。」ひろしはくはいしょ,涕泗よこりゅうとくやめ,偕使しゃ入朝にゅうちょう。授侍讀じどく學士がくし固辭こじまことあずかちょう以寧とう扈從こしょうとうがねやまようみどりていきゅうひつさつ,甚見ちょうまちねんあらためまちせい,旋爲しょさむらい。三年始詔設科取士,以裕はくあずかちゅうすすむりゅうはじめため京畿けいきぬしこうかんひろしはくはくべんぜん論説ろんせつうらないそう悉當みかどみかどすうしょう隴州,そつ於官。

ちょう

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  ちょう壎,はくともしんたとえじん好學こうがくこうぞくぶんもといたり正中せいちゅう舉於鄕,ためじょうなお教諭きょうゆひろしねんふとしみことのりおさむもと》,いのちひだり丞相じょうしょうよしちょうため監修かんしゅうかんぜん起居ききょちゅうそう濂、漳州どおりばんおう禕爲總裁そうさいかんせい山林さんりんのこいっひろしかつひろしえびす翰、そう僖、とう凱、ちんはじめ、曾魯、髙啓、ちょう汸、ちょう文海ぶんかいじょたかしせい篪、でんじょおう錡、でんちょしゃ徽爲纂修かん,而壎與焉。以是ねんがつ開局かいきょく天界てんかいてらもと經世けいせい大典たいてんしょしょよう參考さんこういたりはちがつなりしょ儒並たまもの齎遣。而順みかど一朝いっちょうなお備,乃命儒士おうゆうとう往北ひらめのここと明年みょうねんがつかえあさじゅうひらけきょく,仍以そう濂、おう禕爲總裁そうさいせい四方しほう文學ぶんがく硃右、かい瓊、硃廉、おうつねちょうはじめけん、髙遜こころざし懋、汶、ちょうせんちょう簡、もりとらいん弼、兪寅及壎ため纂修かん先後せんご纂修さんじゅうにんりょうきょくなみあずかしゃ,壎いちにん而已。閲ろくがつしょなりしょ儒多授官,おもんみ壎及硃右、硃廉受歸。

  ひろ召修れき,授翰りん編修へんしゅう。髙麗使つかい朝貢ちょうこうたまものえんらくさく使者ししゃ國喪こくそう熏進曰:「小國しょうこくはい大國たいこくれい。」ふとし甚悅,いのちあずかそう同職どうしょくかん,濂兄事けいじ。嘗奉みことのりせん甘露かんろ頌》,ふとししょうぜんためやすしこうおうちょうそつ

  はじめあずか壎同纂修しゃひろしかつひろしとう凱、曾魯、髙啓、ちょう汸、かい瓊、髙遜こころざしなみゆうでんこんそう僖以こうしゃつけちょ於篇。

そう

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  そう僖,いっ姚人。もと繁昌はんじょう教諭きょうゆ,遭亂ごと竣,いのちてん福建ふっけん鄕試。

つけ ちんはじめ

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  ちんはじめけいはつ臨海りんかいじんしょうあずかあに受業じゅぎょう於義がらす溍,したがえ溍游京師けいし,授經むしろ檢討けんとう。嘗爲じんくさ諫章,ちからひねじゅんみかどなみしつじゅんみかどほっざい,引避さとやめたてまつははにゅうまいりふとしじょうはりまこと軍事ぐんじまことしょうおうどく諫止,よくころせこれはてひらめ,召修《もと》,賜金しきん而還。ひろしさんねんふゆそつはつまこと與太よたしょうもとざい幕府ばくふしょげきゆび斥,及呉ほろびしん誅,どくめん所傳しょでんえびすしろしゅう》,其指斥之ぶんなお備列うん

つけ ちょう文海ぶんかい

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  ちょう文海ぶんかい,鄞人,あずかどうさとでんじょなみいれかん

つけ じょたかしせい

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  じょたかしせい大年おおとしじゅんやすじん。《もとなり,受賜ふくどうおさむにちれきこう以宋濂薦授翰りんおうたてまつ文字もじくさせい,悉稱むねひろ以老やましやめかえ

つけ でんじょ

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  でんじょ如心,鄞人。がくどおりけいあずかどうぐんがらす斯道しどうていしんみなゆう文名ぶんめいひろし二年詣闕陳治道十二策,曰:せい朝廷ちょうていじゅうもりれい、馭外しげるぞう祿ろく秩、ひとし民田みんださらほうやく、黜異はしえきふくせいきょう學校がっこうまきせん舉、やめ榷鹽、とま榷茶。ふとし嘉納かのうとげいのちおさむもと》。こと竣,授博けんすわるい

斯道しどう

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  斯道しどうつぎぜん,慈溪じんあずかあにもとりょう倶有がくぎょうひろし武中たけなか斯道しどうこも授石りゅうともけん調しらべえいしんすわこと謫役じょうとおかえそつ斯道しどうこう古文こぶんけんせい書法しょほう緝,またぜん詩文しぶんひろしよんねん舉鄕ためしだいいち,授臨淮教諭きょうゆにゅうたまものうたげしょうむねじょ廣信ひろのぶ教授きょうじゅごうさかえ外史がいし

つけ でんちょ

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  でんちょ則明のりあき長洲ながすじんなりかえりためつねじゅく教諭きょうゆかんぎょう鄕飲しゅれい長洲ながす教諭きょうゆしゅうさとしさむらい其父みなみおいちょさむらい其父だまみなくだ而北面立おもだちかん禮者れいしゃ以爲盛事せいじ焉。れきかんそつ

そう

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  しゃ徽,もと懿,長洲ながすじんなり,授翰りん國史こくしいん編修へんしゅうひろ擢吏ろうちゅうちからはいふくおこり國子くにこじょきょうそつ。徽博がくこう詩文しぶんあずかどう邑髙けいひとしめいおとうときょうもとこうまたのう

しゅみぎ

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  しゅみぎはくけん臨海りんかいじんなりやめせいおさむにちれきたからさとし,授翰りん編修へんしゅう。遷晉みぎちょうきゅうねんそつかん

つけ しゅれん

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  しゅれんはくきよしよしがらすじんよう力學りきがくしたがえ溍學古文こぶんおうはじめあきら辟教ぐんがく文忠ふみただ鎭嚴しゅうのべため釣台つりだい書院しょいんやまちょうひろしたけはじめ,《もとなり受官ひろせいおさむにちれきじょ翰林かんりん編修へんしゅうはちねん扈駕なかしんじゅうしょうふとししょうぜんためろくしょうたまものやめ而授すわえおうけい,遷楚みぎちょう久之ひさゆきやましれんこうほど、硃之がく,嘗取《硃子るい》,摘其精義せいぎめい曰《理學りがく纂言》。

つけ おうつね

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  おうつねつねむね,其先しょくじんちちためこんやま教授きょうじゅとげ卜居ぼっきょよしみじょうしょうひん讀書どくしょ天台山てんだいざんちゅう師事しじおう貞文さだふみとくらんけいきんくつ祥之よしゆきでんまなぶゆう端緒たんしょ。嘗著ろんりょく詆楊維楨,もくためぶん妖。《もとなりたまものぎんぬさかえまた以薦にゅう翰林かんりんははろう乞歸。すわかんごとあずか髙啓倶被ころせ

つけ ちょうはじめけん

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  ちょうはじめけん浦江うらえじんめいちょう,以字ぎょうなり,授國がくろくれきれい主事しゅじふとしつねつかさすすむりゅうはじめ嘗爲ふとしごと:「こん天下てんか文章ぶんしょうそう濂第いち,其次そくしんもと又次またじそくはじめけん。」ふとし頷之。はじめけんせい傲,嘗坐るい謫輸さくやめふくかんふとし顧孟けんいい濂曰:「きょう門人もんじんよこしま?」濂對:「門人もんじん,乃邑也。其爲ぶんゆうざいしんりゅうはじめ嘗稱。」ふとし熟視じゅくしはじめけん曰:「なま骨相こっそううすつかまつ宦,徐徐じょじょ乃可みみ。」いくようため山西さんせい僉事。れん勁疾あく,糾摘奸猾,れいしょう牽引けんいんまいこと輒株れんすうじゅうにん。吏民聞張僉事行部ゆくべ,凜然墮膽。聲聞しょうもん於朝,擢山東さんとう副使ふくしぬのせい使くれしるししゃそう也,ふとし驟貴ちょう眷甚,はじめけんえきしるし謁孟けんゆかり中門ちゅうもんいれはじめけんつえ守門すもんそつやめまた他事たじあずかあい拄。ふとし先入せんにゅうしるしごと,逮笞はじめけんはじめけんいきどおためしるししょ奏者そうしゃよくろん以罪。しるしくつがえ上書うわがきげんじょうふとしだいいか曰:「豎儒あずかわがこうよこしま!」械至闕下,いのち棄市。

つけ

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  汶,そうしげるとうぬりじん博學はくがく多才たさいなりじょともえひがしけんうつりみなみ晩年ばんねんさと,以經がくくん後進こうしん

つけ ちょうせん

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  ちょうせんじゅうこうかげじんひろしたけはじめ,以考れいせいひろあずかおさむもと》,ふとし親書しんしょ其名,召對殿どの廷,即日そくじつ授翰りん編修へんしゅうよびためしょう秀才しゅうさいたてまつみことのりめとねんやめさんじゅう矣。六年坐事謫徙濠梁,みちそつ

つけ ちょう

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  ちょう簡,なか簡,くれけんじんはつちょうあめため道士どうし隱居いんきょおおとりやまもと兵亂へいらん,以母ろうやしなえとげかえし儒服。ひろしさんねんこもおさむもと》。とうもと,浙東、西にし大夫たいふ以文すみしょうなお毎歳まいさい聯詩れんししゃ,聘一文章ぶんしょう鉅公ぬし四方しほう名士めいし畢至,うたげしょうきゅうよる勝者しょうしゃ輒有あつおく臨川りんせんにょうかいためもと淮南ワイナンゆきしょう參政さんせいごう於詩,ごうよいきこり,嘗大しゅうしょ名士めいしよいきこり》。簡詩だいいちおく黃金おうごんいちもち;髙啓とく白金はっきんさんきん;楊基又次またじなおおくいち鎰。

もりとら

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  もりとら彦正,くれけんじんなりかん岐寧まもる知事ちじひろしはちねんばんぞくすんでくだふく叛,とらあずか經歴けいれきぐまかなえ被害ひがい

じょいち

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  じょいち夔,だいあきら天台てんだいじんこうぶんあずかよしがらすおう禕善。ひろし二年八月詔纂修禮書,一夔及儒士梁寅、りゅう於、曾魯、周子かねこりょうえびすゆき簡、りゅうはじめ弼、ただしつね、蔡深、滕公琰並あずか焉。明年みょうねんしょなりはたぞくおさむもと》,禕方ため總裁そうさいかん,以一夔薦。いち夔遺しょ曰:

  邇者縣令けんれいでんいのちげん朝廷ちょうてい以續おさむもとせい,且雲執事しつじいいぼくぜん敘事,こも當路とうろわたしこころ竊怪執事しつじなん忄巻忄巻於不ざい多病たびょうこれにん也。ぼくいい執事しつじわがこんしんおわり不能ふのうふく執事しつじもちなに也?

  きん世論せろんしゃ,莫過於日れきにちれきしゃ根柢こんてい也。から長壽ちょうじゅちゅう史官しかん姚璹奏請そうせいせんせい元和がんわちゅう,韋執よしみまたそうせんれきにちれき以事けい,以日けいがつ,以月けい,以時けいねんなおゆう春秋しゅんじゅうのこいたり起居ききょちゅうこれせつまたせん以甲おこりれいぶたごとほう逾此也。

  往宋ごくじゅうごとにちれきおさむしょつかさ必關しろ。如詔誥則さんしょう必書,へいあたりつとむのりくるる必報,百官ひゃっかん進退しんたいけいしょう予奪よだつだい諫之ろんれつきゅうしゃ繳駁,けいむしろこれろんこたえしん僚之てんたい侍從じじゅう直前ちょくぜんけいごと中外ちゅうがい囊封匭奏,しもいたりぜにこくかぶとへいごく訟、造作ぞうさく,凡有せき政體せいたいしゃ不隨ふずい以録。なお患其於吏牘,あるゆうなまりしつおうおさむ奏請そうせい宰相さいしょう監修かんしゅうしゃ,於歳おわりけんてんおさむせんかんしょろくごとゆう失職しっしょくしゃばつ。如此,のりれきいたりなまりしつかいようおさむ於此,實録じつろくおさむ於此,ひゃくねんこうこころざし列傳れつでん於此,此宋これ所以ゆえんため精確せいかく也。

  元朝がんちょうのりしかおけれきおけ起居ききょちゅうどくちゅう書置かきおきせいいち文學ぶんがくじょうてのひら,以事づけかん。及一みかどくずれのり國史こくしいん據所よりどころづけおさむ實録じつろく而已。其於ごとかた甚疎りゃくこう而天れきあいだおそれしゅう仿ろくてんほう,纂《經世けいせい大典たいてん》,一代典章文物粗備。

  以前いぜんきょくこれすんでゆうじゅうさんあさ實録じつろくまたゆう此書以參稽,而いち纂修諸公しょこう,如胡なかさるとう中立ちゅうりつちょうはくともちょうつねじょだい年輩ねんぱいみな有史ゆうしざい史學しがく,{しょう堇}而成しょいたりわかじゅんみかどさんじゅうろくねんことすんで實録じつろくよりどころまたさん稽之しょおもんみ採訪さいほう以足成之しげゆき,竊恐ごと未必みひつかく也,げん未必みひつ馴也,首尾しゅび必穿ぬき也。而向すうおおやけある受官,あるかえやまふくかく。乃欲以不ざい多病たびょう如僕しゃうけたまわこれ於後,ぼく雖欲おおせふく執事しつじもち,曷以哉!謹奉じょう左右さゆう,乞賜矜察。

  いち夔遂いたりいくようこもしょ杭州こうしゅう教授きょうじゅ。召修《大明だいめいれき》,しょなりはた翰林院かんりんいんかん,以足やましやめたまものぶんあやぎぬかえ

ちょう撝謙

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  ちょう撝謙,めいいにしえそくさらめいけん姚人。ようひん寄食きしょく山寺やまでらあずか硃右、しゃ肅、じょ一夔輩定文字交。天台てんだいていよんひょうぜんえき》,のりしたがえ受《えき》。てい海樂かいらくりょう、鄞鄭眞明まさあき春秋しゅんじゅう》,山陰さんいんちょう俶長於説《》,迮雨ぜんらく廣陵こうりょうちょう昱工無爲むいこころざしあつしはなてい硃芾こう草書そうしょ篆隸,捴謙悉與ためともひろしきわむ六經りくけい》、ひゃくまなべゆうせい六書りくしょさく六書りくしょ本義ほんぎ》,ふくさく聲音こわね文字もじどおり》,ため考古こうこ先生せんせいひろしじゅうねんいのちしんおさむせいいん》,捴謙ねんじゅうゆうはちおう聘入京師けいし,授中みやこ國子くにこかんてん簿久之ひさゆき,以薦召爲瓊山けんがく教諭きょうゆじゅうはちねんそつ於番禺。其後,門人もんじんしば欽,こうけい,以庶きちあずかおさむ永樂えいらく大典たいてん》,進言しんげん其師しょせん聲音こわね文字もじどおりとう採録さいろくとげたてまついのちはせでんそく其家これ

らくりょう

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  らくりょうほん。迮雨,霖。ちょう俶,本初ほんしょひろし武中たけなかかん國子くにこかん博士はかせ。以年ろう乞歸,翰林かんりんまちせい

つけ ちょう

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  ちょう昱,こう弼,いおりりょうじんつかまつもとためこう浙行しょうひだりみぎいん外郎ういろうぎょう樞密院すうみついん判官ほうがんとめきょ西湖さいこことぶきやすぼうひん以葺いおりさけあいだため瞿佑誦所作詩さくしわらい曰:「わが埋骨まいこつ湖上こじょうだい曰詩じんちょう員外いんがいあし矣。」ふとしせいいたりきょう,憫其おい,曰「あいだ矣」,あつたまものかえ,乃自ごうあいだ老人ろうじんとしはちじゅうさんそつ

つけ くれこころざしあつし

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  こころざしあつしぬしいちげんまつやすしやすみやこ昌二しょうじけんそうじょまちせい翰林かんりんためけんこうしょ阻,避兵於鄞。

しゅ

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  しゅ芾,はじめべんひろしたけはじめかん編修へんしゅうあらため中書ちゅうしょ舍人とねり

とうそうただし

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  とうそうただしきゅうなりがんじんちち煜,もと福建ふっけんこう西行さいぎょう樞密院すうみついんごとそうただししょうためし有司ゆうしいちちゅうそく棄去,つとむ古學こがくしょ窺。ゆう浙東、西にし師事しじちょう翥、孝光たかみつもりほんため詩文しぶん,咸有程度ていどゆうこくこころざしがく,習舅ちょう雍篆ほう。浙帥やすしはな南台みなみだいみにくうさぎうま舉爲行人こうじんまた辟爲教官きょうかんみな就。ちょうまことよりどころくれしょためぐんはかまた赴。ひろし四年詔征天下儒士,六年命有司舉人才,みな及宗,引疾赴。ばんとし有司ゆうし聘爲教官きょうかん其志也。じゅう九年率諸生赴禮部試,讀《だい誥》,たまもの鈔歸,久之ひさゆきそつところちょゆう《輟耕ろくさんじゅうかんまた葺《せつ郛》、《しょかいよう》、《四書ししょ備遺》,なみでん於世。

顧德てる

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  顧德てるなかあきらこん山人さんじんいえ素封そほうけいざいゆいきゃく豪宕ごうとうとしさんじゅうはじめ折節おりふし讀書どくしょ,購古しょ名畫めいがつねかなえ玩,ちく別業べつぎょう於茜涇西,曰玉山たまやまけいしょ,晨夕あずかきゃくおけしゅ其中。四方文學士河東張翥、かい稽楊維楨、天台てんだい柯九おもええいよしみ孝光たかみつかたがいはり、於彦、なり琦、もと璞輩,咸主其家。園池そのいけちん榭之もりとみ暨餼かんごえ伎,なみ冠絶かんぜついち。而德てるざいじょうみょううららあずかしょ名士めいしまたりゃく相當そうとう。嘗舉しげざい,授會稽教諭きょうゆ,辟行しょう屬官ぞっかんみな就。ちょうまことよりどころくれよくつよし以官,かくれ於嘉きょうこれごうけいひろ以子元臣もとおみためもと水軍すいぐんふくまんふうとくてる武略ぶりゃく將軍しょうぐんじょう錢塘ぜんどもけんおとこはは綽溪,まことさい辟之,とげ斷髮だんぱついおりごうきんあわ道人どうじん。及呉ひらめ父子ふしなみ徙濠はりひろしねんそつ誠之せいしよりどころくれ也,頗收召知名士めいし東南とうなん避兵於呉しゃ焉。

つけ 孫作まごさく

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  孫作まごさく大雅たいがこうかげじんためぶんあつしせい典雅てんがどうゆうよりどころ。嘗著しょじゅうへんごうあずま家子いえこ》,そう濂爲さく東家あずまやでん》。もと,挈家避兵於呉,つき棄他ぶつどくしょりょう簏。まこと廩祿,旋以ははびょうしゃきゃく松江まつえしゅうためかいちくしつきょ焉。ひろしろくねん聘修《大明だいめいれき》,授翰りん編修へんしゅう,乞改太平おうひら教授きょうじゅ。召爲國子くにこじょきょうひろぶんきょうなか,逾年かえ國學こくがくこじ授司ぎょうそつ於家。

つけ ちょうけん

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  もと末文まつぶんじん最盛さいせい,其以がく知名ちめいしゃまたゆうちょうけんしゅうとぎ、髙明、あい仁之ひとしぞく

  ちょうけんおもえれん山陰さんいんじんがく於楊維楨,さい爲所しどころもとざい不羈ふき,嘗走京師けいしほしいままげん天下でんかごとしゅう駭其きょうかえにゅうとみ春山はるやまこん緇流以自いちにちます髙呼しょおや曰:「わざわいいたり矣,亟去!」さんにち而寇いたり死者ししゃひゃくいえつかまつちょうまことため樞密院すうみついんごとひらめへん姓名せいめい寄食きしょく杭州こうしゅう報國ほうこくてら以歿。

しゅうとぎ

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  しゅうとぎくつどうくれじん,僑無すず博學はくがくこうぶんあずか宜興いいしんぜん,遭亂きゃくためふねしゃつききゅう羡山けいこれしょう。其鄕とみじんあずかぜんしゃ咸置しゅ招砥。とぎしんいやいちにち貽書べつ夜半やはん遁去,ゆうかい稽,歿於へいこうつねまたのうひろしためないおかともけんおわりたてあきら

髙明

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  髙明,そくまことえい嘉人よしといたりせいねん進士しんし,授處しゅうろくごと,辟行しょうじょうかたこくちん叛,しょうしん以明諳海濱かいひんごと以自したがえ與論よろんごとごう。及國ちん就撫,よく留置りゅうち幕下まくした即日そくじつかいかん旅寓りょぐう鄞之くぬぎしゃふとし聞其めい,召之,以老やましやめかえそつ於家。

つけ あいひとし

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  あいひとしせいおとうとさとしあかりたかしやすじんもと淸江きよえもりほんかくれたけえびすたかし尚古しょうこがくひとし兄弟きょうだい倶往,授以四明任士林詩法,とげしゃ舉,一意いちいためこう辟武えびす書院しょいんやまちょう,遷邵たけじょう赴。うちれい徙濠はりすうがつそつさとしひろしじゅうねんこもおこり廣西ひろせ僉事,ちょかどごえ

袁凱

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  袁凱,けいぶん松江まつえはなちんじんもとすえため吏,博學はくがくゆうざいべん議論ぎろん飆發,往往おうおうこごめじんひろしさんねんこも授御武臣ぶしん恃功おごほしいままとくざいしゃややしゅう,凱上ごと:「しょしょう兵事へいじこわ君臣くんしんれい。請於とくのぶどおり經學けいがくふるこれれいしょ武臣ぶしん赴都どう聽講ちょうこう,庶得ぞく全身ぜんしんみち。」みかど敕臺しょうのべ名士めいしちょくうまもんためしょしょうせつしょこうみかどおもんばかしゅう畢,いのち凱送皇太子こうたいしくつがえ訊,しょ矜減。凱還むくいみかどといちん與太よた孰是?」凱頓首とんしゅごと:「陛下へいかほうただし東宮とうぐうしん慈。」みかど以凱ろう猾持兩端りょうたんあく。凱懼,佯狂ようきょうまぬかれつげ久之ひさゆき以壽おわり。凱工ゆう盛名せいめいせい詼諧,ごううみ叟。戴烏はばたおせくろうし遊行ゆぎょうきゅうみねあいだ好事こうじしゃいたりためはつざい楊維楨座,きゃく出所しゅっしょしろつばめ》,凱微笑びしょうべつさくいちへん以獻。維楨だいおどろきしょうへんしめせきゃくにんとげよび袁白つばめくも

髙啓

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  髙啓,すすむ長洲ながすじん博學はくがくこうちょうまことよりどころくれけいそときょくれ淞江あおたかしひろしたけはじめこも,偕同けんしゃ徽召おさむもと》,授翰林院かんりんいん國史こくし編修へんしゅうかんくつがえいのち教授きょうじゅ諸王しょおうさんねんあきみかど闕樓,けい、徽倶いれたい,擢啓戸部とべみぎさむらいろう,徽吏ろうちゅうけいひね年少ねんしょう敢當重任じゅうにん,徽亦固辭こじ,乃見もとやめなみたまもの白金はっきんかえけい嘗賦ゆうしょ諷刺ふうしみかど嗛之未發みはつ也。及歸,きょあおたかし,授書自給じきゅうかんためうつり其家ぐんちゅう旦夕たんせきのべ,甚歡。かん改修かいしゅう譴。みかどけい所作しょさじょうはりぶんいんはついかこし於市,ねんさんじゅうゆうきゅうあかりはつ呉下ごか詩人しじんけいあずか楊基、ちょうはねじょ賁稱よんすぐる,以配唐王とうのう、楊、、駱云。

楊基

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  もとはじめ,其先しょくよしみしゅうじん宦呉ちゅうなまもととげ焉。きゅうさい誦《六經りくけい》,及長著書ちょしょじゅうまんことめい曰《ろん鑒》。遭亂,かくれ赤山あかやまちょうまこと辟爲丞相じょうしょうしついく辭去じきょきゃくにょうかいしょあかり平江ひらえ以饒きゃく安置あんち臨濠,旋徙河南かなんひろしねんひろおこりため滎陽けん謫居たっきょがねはなれこもため江西えにしゆきしょうまくかん,以省しんとくざい,落職。ろくねんおこりかんたてまつ使つかいひろ召還しょうかん,授兵部員ぶいん外郎ういろう,遷山西にし副使ふくしすすむ按察使讒奪かん,謫輸さく,竟卒於工しょはつかい稽楊維楨きゃくくれちゅう,以詩ごうもと於座じょう鐵笛てってき》,維楨驚喜きょうきあずか倶東,したがえゆうしゃ曰:「われざいまたいちてつ矣。わか曹就これがくゆう於老てつがく也。」

つけ ちょうはね

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  ちょうはねらい以字ぎょうほん潯陽じんしたがえちち宦江浙,へい阻不あずかともじょ賁約,卜居ぼっきょきょうりょう鄕薦,ため安定あんてい書院しょいんやまちょうさい徙於くれひろしよんねんせいいたり京師けいし應對おうたいしょうむねかえさいせい授太つねつかさすすむふとしじゅう其文,じゅう六年自述滁陽王事,いのちせんびょうひろすわこと竄嶺みなみ半道はんみち召還しょうかんはねめんとうりゅうこう以死。はね文章ぶんしょうせいきよしゆうほうゆうちょう於詩,作畫さくが小米こごめ

つけ じょ

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  じょ賁,ようぶん,其先しょくじん,徙常しゅうさい平江ひらえこうぜん山水さんすいちょうまこと辟爲ぞくやめしゃひらめ,謫徙臨濠。ひろしななねんこもいたりきょうきゅうねんはるたてまつ使つかいすすむ、冀,ゆうしょれんおとずれ。暨還,けん其橐,おもんみ紀行きこうすうしゅふとしえつ,授給ごとちゅうあらためじゅん按廣ひがしまたあらため刑部おさかべ主事しゅじ,遷廣西にし參議さんぎ。以政績卓こと,擢河みなみひだりぬのせい使大軍たいぐんせい洮、岷,みち其境,すわ犒勞不時ふじ下獄げごく瘐死。

おうこう

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  おうこうとめなかくれけんじんようずいちち賣藥ばいやくじょおうじょおうなこう聽稗かん小説しょうせつぎょう日記にっきすうほんためおうな誦之。おうなげん於翁,授以《論語ろんご》,明日あした悉成誦。おうだいこと,俾盡讀家所有しょゆうしょとげ淹貫けいひゃくいえげん弱冠じゃっかんしゃ,授徒ひとしもん名士めいし咸與交。とみじんまんさん延之のぶゆきじゅくまい文成ふみなりむくい白金はっきん鎰計,ぎょう輒麾去曰:「使つかいとみ而可もりのりしかほぞむご及矣。」ひろしたけはじめ有司ゆうしのべため學校がっこうやめしゃかくれ於石みずうみ其二そのじ子役こやく於京,ぎょう往視りょうこくおおやけあいだまかん於家,すうこもふとしとく召見。こうだま誅,ぎょう父子ふしまたすわ

  はじめちゅう用兵ようへい所在しょざいれつほうせきかたぎょう私語しごしょ曰:「兵法ひょうほうやわらのうせいつよしわか植大うえだいちく於地,けいぬの其端,ほうせきいたりぬのずいていのぼるのりじん不能ふのうがい,而砲せき所用しょよう矣。」つねぐうはる平江ひらえはて如其ほうくだりまた自負じふへい,以及於禍くも

  はつ,髙啓きたかくあずかくだり鄰,じょ賁、髙遜こころざしから肅、そうかつ堯臣、ちょうはねりょさとしひねそくみな卜居ぼっきょしょうきんごうきたくるわじゅうともまたたたえじゅう才子さいしけい、賁、へりくだこころざしはねゆうでん

から

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  から肅,しょけいこししゅう山陰さんいんじんつうけいけん習陰ぼくしょすうしょうあずかうわおそれしゃ肅齊めいしょうかい肅。いたりせいみずのえとら舉鄕ためしちょうまことため杭州こうしゅうおか書院しょいんやまちょう,遷嘉きょう儒學じゅがくただしまことはいれい赴京。ひろ以父かえひろし三年用薦召修禮樂書,擢應たてまつ翰林かんりん文字もじ。其秋,舉行,ためぶんこうかんめんろくねん謫佃ほりはりそつあつしそう濂亟しょうけんぶんねんもちいかたこう孺薦,擢翰りん侍讀じどくあずかこう孺共りょうおさむしょごとそつ於官。

しゃ

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  しゃ肅,かんいたり福建ふっけん僉事,すわこと

つけ そうかつ

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  そうかつなかあつし長洲ながすじんえら軀幹,ひろしわたるしょしょうにん俠,好學こうがくけんはしうまいえもとにょうゆいきゃくいんはく。迨壯,しゃ酒徒しゅとがく兵法ひょうほうしゅうりゅうしょぐうえき以氣ごうちょうまことほし致之,就。せいこうじきあずかひと議論ぎろん必勝ひっしょう,援古せつないまにん莫能なん也。もりもんしみ翰,にちじゅうとげ以善書名しょめい天下でんかときゆうそうひろあきら裔,またぜん草書そうしょたたえそうひろしたけはじめかつにんおおとりしょうどうそつ

あまり堯臣

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  堯臣,からきょうえい嘉人よしとにゅうためまこときゃくしろやぶれい徙濠はりひろしねんかえ,授新ていすすむ

りょさと

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  りょさとし志學しがくすずじんもとときため道士どうしひろしたけはじめかんすず教諭きょうゆじゅうさんねん人才じんさい不知ふち其官しょおわり

ひねそく

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  ひねそくぶんこん山人さんじんひろしろくねん秀才しゅうさい,授應てんちゅうにわか擢戸さむらいろう,以閲じつ戸口とぐちためだい同府どうふどうしん

まご

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  まご蕡,なか衍,廣東かんとん順德じゅんとくじんせい警敏,しょしょ窺。詩文しぶん援筆りつ就,词采ただれしかふしがい妄交ゆうなによりどころみねみなみ開府かいふ辟士,あずか王佐おうさちょうかいいさおあきらなみ禮遇れいぐうたたえ先生せんせい。廖永ちゅうみなみせい,蕡爲眞草しんそうくだひょうえいただし辟典きょうごとひろしさん年始ねんしぎょう舉,蕡與其選,授工しみきょく使,遷虹けんぬし簿兵燹へいせん,蕡勞徠安輯,みん復業ふくぎょうきょいちねん,召爲翰林かんりん典籍てんせきあずかおさむひろし武正たけまさいん》。九年遣監祀四川。きょ久之ひさゆきため平原へいげんぬし簿すわるい逮系,俾築京師けいし望都もともん城垣しろがき。蕡謳唫爲粵聲,おもしゃ以奏。召見,いのち誦所みなちゅうあい,乃釋じゅうねんおこりため蘇州そしゅう經歴けいれきふくすわるい戍遼ひがしやめ大治おおはるあいだまとう,蕡嘗ためだま題畫だいがとげろん。臨刑,作詩さくしちょう謳而逝。とき門生もんせいはじむさだまた戍遼ひがし,蕡屍乃得收斂しゅうれんさだ彦晦,しんかいじんこう詩文しぶん,嘗爲ほん訓導くんどう,以事誣,戍遼じゅうはちねんしたがえゆうしゃ甚衆。かえそつ。蕡所ちょゆうつうかん前編ぜんぺん綱目こうもく》、《こうけいしゅうぜん》、《理學りがく訓蒙くんもう》及《西にし菴集》、《すえしゅう》,佚不でんばん禺趙じゅんしょう究極きゅうきょく天人てんにんせいいのちためいち儒宗うん

王佐おうさ

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  王佐おうさ彦舉,さき河東かとうじんげんまつさむらいちちかんみなみゆうけいらん不能ふのうとげうらないせき南海なんかいあずか蕡結しゃ。構辭敏捷びんしょう如蕡,沉著,蕡亦如佐。なに使つかいてのひら書記しょきまいり謀議ぼうぎ歸朝きちょうまたかえさとひろしろくねんこもせいためきゅうごとちゅうふとしたまものそう濂黃ふくためいのち侍臣じしんぞく佐立さたちしげるせいらく樞要すうようはたつげときつげしゃじゅう譴,あるあま曰:「きみしょうにんどくおそれせいいのちよこしま?」乃遲徊ねんそつ乞骸

つけ ちょうかい

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  ちょうかいはくさだばん禺人。はくどおりろくせき及釋、ろうしょごう邁,つかまつすすむくだり以囊したがえぐうけいとう其中,にち往來おうらい西にしきこり泉石せんせきあいだ有司ゆうしるいこもみなめんひろしじゅう二年坐累逮赴京,そつ於南あきらふねよんきよしあや、繹、じゅんみなぜん詩文しぶんこう篆隸。あや隱居いんきょ不出ふしゅつゆうちちふうじゅんつかまつ

つけ いさお

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  いさおなかおさむばん禺人。ひろし三年以明經薦授洛陽典史,れき南陽なんよう西安しーあんまくかんなみのう其職。以年おとろえ乞改かん教諭きょうゆ,秩滿,調しらべよしやすしよしやすしざい粵西,あら陋甚,とくため舉,文教ぶんきょうややきょうかいかんそつとくはつこうためばんきわむらく、閩之がくいい誠意せいいためふるせい喆心ようみねみなみ人稱にんしょう理學りがく,必曰なかおさむくもあきらまたばん禺人。つかまつしゅうぐん,以治ぎょうしょう

おうこうむ

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  おうこうむ叔明,しゅうじんちょうはじめ頫之おい也。さとし於文,なお榘度。こう山水さんすいけん善人ぜんにんぶつ少時しょうじみや仁和にわ兪友じんこれ,曰「此唐じんけい也」,とげ以妹つま焉。もとすえかんとえぐうみだれ隱居いんきょ鶴山つるやま自稱じしょう鶴山つるやまきこりひろしたけはじめ知泰ともやすやすしゅうごとこうむ嘗謁えびすおもんみいさお於私だいあずかかい稽郭でんそうさとしかんおもんみいさおふくほうこうむすわこと逮,瘐死獄中ごくちゅう

つけ かくつたえ

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  かくつたえいちめい正傳せいでんぶんとおひろしななねんみかどろうたまもの學士がくしそう濂坐,いい曰:「天下てんか既定きていちんかたたれ宿學しゅくがくきょう其人乎?」たい曰:「かい稽有かくつたえしゃまなぶゆう淵源えんげん,其文贍新うらら,其議ろん根據こんきょ六經りくけい》,異才いさい也。」すんで而濂其文以進,みかど召見於謹殿どの,授翰りんおうたてまつちょく起居ききょちゅう。遷兵主事しゅじさい遷考こうかんすすむしんかんれいしょみずうみこうぬの政司せいじ參政さんせい

ほん清朝せいちょう作品さくひんざいぜん世界せかいぞく公有こうゆう領域りょういきいんため作者さくしゃ逝世やめけい超過ちょうか100ねん

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