郑炳庚かのえ(1901年ねん3月がつ14日にち—1980年ねん3月がつ5日にち),字じ焕平,浙江せっこう青田あおた人ひと,中ちゅう华民国こく陆军中将ちゅうじょう。
郑炳庚かのえ于1924年ねん进入黄き埔陆军军官かん学校がっこう第だい一いち期き就读。中山なかやま舰事件じけん后きさき,出で任海とうみ军局政治せいじ部ぶ宣せん传科科か长、秘ひ书。北きた伐き战争中ちゅう任にん第だい二に十じゅう一いち师政治せいじ部ぶ主任しゅにん。1928年ねん任にん国民党こくみんとう浙江せっこう省しょう党とう部ぶ执行委い员。1935年ねん起おこり,任にん浙江せっこう省しょう军事训练委い员会主ぬし委い、武たけ昌行まさゆき营政せい训处处长、广州行ぎょう营政せい训处处长兼けん第だい二に厅厅长。抗日こうにち战争期き间,历任中央ちゅうおう陆军军官学校がっこう政治せいじ部ぶ主任しゅにん、第だい九きゅう战区政治せいじ部ぶ主任しゅにん、军政部ぶ中将ちゅうじょう部ぶ附ふ兼けん特とく种党部ぶ书记长等职。1945年ねん底そこ进入陆军大学だいがく将官しょうかん班はん受训,1947年ねん授陆军中将ちゅうじょう。次つぎ年ねん当とう选第だい一いち届とどけ国民こくみん大会たいかい代表だいひょう,同年どうねん出で任にん陆军总司令しれい部ぶ中将ちゅうじょう高だか参さん、国防こくぼう部ぶ中将ちゅうじょう参さん谋。赴台后きさき,又また历任政治せいじ部ぶ设计指ゆび导委员会委い员、陆军大学だいがく政治せいじ部ぶ主任しゅにん、国防こくぼう大学だいがく政治せいじ部ぶ中将ちゅうじょう主任しゅにん、总政治せいじ部ぶ副ふく主任しゅにん、国防こくぼう会かい议国防こくぼう计划局きょく副ふく局きょく长等职。1961年ねん退役たいえき,1980年ねん于台北たいぺい逝世。[1][2]