保義やすよし可か汗あせ(?—821年ねん4月がつ2日にち),𨁂跌氏,是ぜ回かい鹘的てき第だい九きゅう任にん可か汗あせ,滕里可か汗あせ之子ゆきこ。
808年ねん,滕里可か汗あせ去さ世よ,他た继立为爱登とう里さと囉(Dēnglǐluó)汩(Gǔd)没ぼつ蜜みつ施ほどこせ(Mòlmìshī)合ごう(Héb)毗伽(Píqié)可か汗あせ。唐から朝あさ册さつ封ふう他た为保義やすよし可か汗あせ。保義やすよし可か汗あせ击败吐蕃,占うらない领了北きた庭にわ和わ龟兹,势力达到费尔干ひ纳盆地ち,继承唐から朝あさ成なり为漠ばく北きた和わ西域せいいき的てき天てん可か汗あせ。向こう唐とう朝あさ请求和わ亲,唐から宪宗没ぼつ有ゆう允まこと许。唐から長慶ちょうけい元年がんねん二に月がつ二に十じゅう六ろく日にち(821年ねん4月がつ2日にち),保義やすよし可か汗あせ死し,子こ崇たかし德とく可か汗あせ继位。