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おうげん

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おうげん(388ねん—468ねん4がつ7にち),彥德自稱じしょうふとしはら祁縣いま山西さんせい祁县)にんただし南方なんぽうじんあいしんふとしはらおうまとだかもん血統けっとういん其定きょじょしゅう邳,しょうため邳王[1]南朝なんちょうそうはた领,曾參與さんよげんよしみきた平定へいていりゅう義宣よしのぶ叛亂はんらんとう戰爭せんそう

生平おいだいら

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おうげん謨年幼時ようじ就已けいあらわ平凡へいぼん伯父おじおうゆう鑒賞人才じんさいてき能力のうりょく常常つねづねわらいしょう:「這個孩子だかなお忠正ただまさゆうふとしじょう彥雲(おうりょう)てきふうはん呀。」後來こうらいりゅうひろし辟為じょしゅう從事じゅうじげんよしみ元年がんねん(424ねん),しゃみそそとにん荊州刺史しし南蠻なんばんこうじょう,請了おうげん謨為みなみ蠻行ばんこうさんぐんたけやすし太守たいしゅげんよしみさんねん(426ねん),そうぶんみかど出兵しゅっぺい討伐とうばつしゃみそしゃみそへいはいころせおうげん謨因しゅそち而獲免罪めんざい擔任たんにん长沙おう刘义欣てき镇军ちゅうへいさん军,领なんじ太守たいしゅ

げんよしみななねん(430ねん),そうぶんみかどいた彥之きたただしよししつ退すさかえねん滑臺すべりだいまたためぐんしょおちいおうげん謨此就上疏文みかどみとめためきたなり主因しゅいんへいよく遠征えんせい建議けんぎざい魯陽けん南鄉なんごうけん出兵しゅっぺいおさむせきちゅう及洛,而非以江東こうとう軍隊ぐんたい遠道とおみち進攻しんこうせっちょてき日子にっしつぎこうぶんみかどしんけんじきた策略さくりゃく,一直有心北伐的宋文帝也聽得很心動。こうおうげん謨任じょしゅう刺史ししきょうやすこうりゅうよしまろうどてき輔國司馬しば彭城太守たいしゅげんよしみじゅうねん(448ねん),りゅうよしまろうどおうげん謨表しょう彭城水陸すいりく要塞ようさいもとめ皇子おうじがい鎮徐しゅうぶんみかどとげいのちたけりょうおうりゅう駿しゅんにんじょしゅう刺史しし

げんよしみじゅうななねん(450ねん),そうぶんみかど再度さいどきた,以王げん謨為やすしさく將軍しょうぐん,受辅こくはた萧斌节度,りつ主力しゅりょくすすむ碻磝,碻磝もりぐん退すさはしのちげん謨轉おさむ滑台すべりだいいま河南かなんすべり东),围城两ひゃく余日よじつしたかこえおさむ初期しょきじょう內有很多茅屋ぼうおく有人ゆうじん建議けんぎよう點火てんかてきしょう掉它們,ただしげん謨認ため這會損耗そんこうじょうやぶのちのう俘獲てきぐん需品じゅひん拒絕きょぜつただししろ內不ひさ就將茅屋ぼうおく撤去てっきょりょうまた一直固执拒谏,堅持けんじ自己じこそうほう行事ぎょうじ,屢加殺戮さつりくさらじょう高利こうり賣布めふきゅう當地とうちじん竟索はちひゃくなしいん而大しつ人心じんしん。及後ふとしたけみかどりつ军来すくえへい眾請以車營抵こうきた騎兵きへいかきまもるぐんらいいたまたきゅう請王げん謨不けいきずほろび也要おさむ滑臺すべりだい取得しゅとく據點きょてん抵抗ていこうぐんおうげん謨都一概いちがい拒絕きょぜつ最終さいしゅうぐんおさむいたり趁夜しょく而逃,へいつぶせきずほろびむごおもかいいた碻磝萧斌そうしょただし沈庆谏止。こうしょうあきらりつ眾南退すされきじょうげん謨自請留うけどめもり碻磝。つぎねん軍兵ぐんびょういたりふりやま後退こうたいぐん江夏えなつおうりゅうよしきょう以碻磝並不可ふかもり,召王げん謨率眾棄もりみなみかえただしげん謨就遭到ぐん追擊ついげきげん謨軍大敗たいはいひじさらちゅう受傷じゅしょうただしかえ是能これよし撤回てっかいれきじょう

げん嘉三よしぞうじゅうねん(453ねん),太子たいしりゅう發動はつどうへいへん弒父つぎ,以王げん謨為冀州刺史ししひさりゅう駿しゅんおこりへい討伐とうばつりゅう劭,げん謨也りょうかきまもるりょうへい支持しじりゅう駿しゅんとう調ちょうげん謨為じょしゅう刺史しし加都かつとくこうけん元年がんねん(454ねん),丞相じょうしょうみなみぐんおうりゅう義宣よしのぶれんどうしゅう刺史しし臧質魯爽とうおこりへいはん叛,おうげん謨獲かり授輔こく將軍しょうぐんはいしゅう刺史ししあずかやなぎもとけいれんしゅ討伐とうばつ臧質。げん謨率眾屯やなさんなみざいかわりょうきし修築しゅうちく偃月るい,以水陸すいりくいきおいとうまちてきぐん。臧質大軍たいぐんいたのちおさむやぶりょうげん謨西るいげん謨遂こうとめたむろさいせきてきやなぎもとけい請求せいきゅう增兵ぞうへいじょもりひがしるいもとけいとめじゃくへいもりはた精兵せいびょう全數ぜんすう支援しえんげん謨,げん謨軍もとけい援軍えんぐん旗幟きし甚盛,以為京師けいしてき援軍えんぐんぐんしん安定あんていりょうせっちょ臧質りつぐんおさむひがしるいげん謨親とくしょぐん抵抗ていこうおわりげきはい臧質,義宣よしのぶとうまたつぶせ退ずさひさしそく平定へいてい戰後せんごげん謨獲加都かつとくぜん將軍しょうぐんふうきょくけんこうただし後來こうらいちゅうぐん司馬しばりゅうおきそうほうげん謨興義宣よしのぶ通謀つうぼうそうたかしたけみかど就命じん彈劾だんがいげん謨多財貨ざいか虛報きょほう戰利せんり品數しなかずあずかかきまもるみな免官めんかん

こうけんねん(455ねんおうげん謨復にんしゅう刺史しし[2],討平りょうなつこうほうすすむ,八月轉青冀二州刺史[3]じゅう一月再遷寧蠻校尉、雍州刺史しし加都かつとく[4]げん謨因おう雍州ゆう僑居人民じんみん建議けんぎ實行じっこうだんいんため百姓反對而作罷;せっちょげん謨又れい九品以上人士都要繳租稅,れいとくじん們不ろん貧富ひんぷとく交繳,さられいさかい內士じん不滿ふまんよし此,當時とうじ民間みんかん就有流言りゅうげんしょうおうげん謨要謀反ぼうほん時任ときとう新城しんじょう太守たいしゅてきやなぎそうけいいん其兄やなぎもとけい在朝ざいちょうちゅうてき勢力せいりょくれい南陽なんようじゅんうえいさお及新じょうしょぐん出兵しゅっぺい討伐とうばつげん謨。げん謨下れいさかい內外如常活動かつどう圖解ずかい眾人たい謀反ぼうほんてき懷疑かいぎまた上書うわがきこう皇帝こうていけいそう陳述ちんじゅつ事情じじょう起因きいんおわりれいこうたけしょうしん謀反ぼうほんことなみ事實じじつなみおもしょこうやすなでこうげん謨轉きんむらさきひかり祿ろく大夫たいふりょうふとしつねまた以本かんりょうおこり尚書しょうしょ及北せん大明だいめいさんねん(459ねんにん郢州刺史しし[5]またうたてひらきた將軍しょうぐんじょしゅう刺史しし加都かつとくげん謨任內因おう北境きたざかい爆發ばくはつひだるあら,於是捐出じゅう萬斛穀及一千頭牛去賑災。大明だいめいはちねん(464ねんにゅうためりょうぐん將軍しょうぐん同年どうねんそうたかしたけみかどおうげん謨與きょうやなぎもとけい、沈慶及顏はくみな受顧いのちげん謨主そとかん軍務ぐんむそうぜん廢帝はいていせっちょ即位そくいしかいんおうげん嚴肅げんしゅく正直しょうじき不為ふため當時とうじ朝政ちょうせい多門たもんふうしょよう很快就外調ちょうためあおしゅう刺史しし加都かつとく永光ながみつ元年がんねん(465ねん),りゅうよしきょうやなぎもとけい及顏はくとうじん密謀みつぼう發動はつどう政變せいへんはいぜん廢帝はいてい,沈慶はた此事こうぜん廢帝はいてい告發こくはつぜん廢帝はいていはた們都誅殺ちゅうさつなみ殘酷ざんこくかいりゅうよしきょうさらおおたい百官拳打腳踢,表現ひょうげんさらためきょうもと當年とうねんおうげん謨受みことのりにゅうためりょうぐん將軍しょうぐんめい們都建議けんぎげん謨稱やまし不要ふようただしげん謨卻せつ:「わが受過先帝せんてい這麼だいてきおんまた怎可以怕もとめ苛活呢。」堅持けんじようげん謨多こうぜんはいしん諫,なみ曾哭請廢帝はいてい不要ふようほどこせけいぎょう戮,ろうとく廢帝はいていだいいかとき沈慶また屢諫廢帝はいていため廢帝はいていしょとげ廢帝はいてい殺害さつがい;而時またゆう傳言でんごんたたえおうげん謨也誅了,げん當時とうじ其實也相とう恐懼きょうく蔡興むね曾對げん謨親しんつつみほうさかえ表示ひょうじおうげん謨可以藉廢帝はいていいん出獵しゅつりょう而召去げん謨五百舊部曲入宮的機會發動兵變,藉由おうげん大將たいしょうてきもちとく朝廷ちょうてい支持しじしたがえ取得しゅとく成功せいこうつつみほうさかえしょう此計告知こくちげん謨後げん謨卻敢做[6]同年どうねん,湘東おうりゅうれんゆい阮佃おっとことぶきさびとうひと弒殺そうぜん廢帝はいていとう帝位ていいそくそうあきらみかどそうあきらみかどたいおうげん謨相とうれいけい,以其ためしゃ將軍しょうぐんしゅう刺史ししなみいんおう鄧琬舉晉安王やすおうりゅうためみかど對抗たいこうそうあきらみかど朝廷ちょうてい,以玄謨為だい統率とうそつ領水りょうすいぐんゆずる擔任たんにんとく征討せいとうしょ軍事ぐんじたて安王やすおうりゅうきゅうひとしてき副手ふくしゅたいはじめねん(466ねんてんひだりこう祿ろく大夫たいふ開府かいふどうさんつかさりょうまもるぐん將軍しょうぐん[7]同年どうねんてんしゃ將軍しょうぐんみなみしゅう刺史しし加都かつとく[8]たいはじめさんねんやめみなみしゅうおうげん謨為特進とくしんひだりこう祿ろく大夫たいふまもるぐん將軍しょうぐん[9]

やすしはじめよんねんがつおつ(468ねん4がつ7にち[10]おうげん謨去享年きょうねんはちじゅういちさい[11]おくりなためそうこう

性格せいかく特徵とくちょう

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  • おうげん謨為じんげん苛少おんぐんちゅうへい曾說:「やすしさくねん逢王げん謨。」將軍しょうぐんそうえつたい手下てしたさら苛刻殘酷ざんこく兵士へいしまたせつ:「げん謨猶そうえつさらころせわが。」也不かいずい便びんわらいとう時人じじん就說げん謨眉あたましたがえ舒展

佚事

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  • ぜん廢帝はいてい在位ざいいおうげん恐懼きょうく非常ひじょうちょくいたりあかりみかどつぎたい禮遇れいぐう有加ゆかたいおやしんかくさんかず女婿じょせい韋希しんうめ怨當自己じこしょ於危なん們都ぼつゆう幫他ひさげ意見いけんかくさん卻重ひさげ當日とうじつ蔡興むねてきけい劃,ゆびすんでしかおうげん謨說大事だいじなん實行じっこう而不做,多言たげんまたぼっ甚麼いんもえきしょげん謨聽めんゆう愧色。
  • こうたけみかど歡戲玩群臣ぐんしんやなぎもとけいかきまもるかずおうげんいちよう北方ほっぽうじんただしただゆうおうげん謨被ためろう傖」,さら曾為げん作詩さくし:「ただし荼供はるぜんあわ漿充なつ飧,瓟醬調ちょう秋菜あきなしろ醝解ふゆかん。」

家庭かてい

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子女しじょ

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  • 長子ちょうしおうふかしはやそつ
  • 次子じしおうひろし
  • 三子みつごおうおう瞻负气傲ぞくこう贬裁人物じんぶつつね自恃じじためさんおおやけ之子ゆきこたい他人たにん肆意しい評論ひょうろん,於宋まつ貶低しょう道成みちなり長子ちょうししょうしょう賾記恨在しん;479ねんみなみひとし建立こんりゅうため太子たいしてきしょう趁機ほうかたき,找藉口しゃこうころせ掉了おう瞻,しょう道成みちなりじんたい太子たいしせつ:「おもね,這哪需要じゅようけい較?」,おう瞻卻やめころせしょう道成みちなりただこう默然もくぜん

そとおい

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こうほうのぼるこうさとしちちかんいたりいん外郎ういろう[12]

延伸えんしん阅读

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[ざい维基すうすえ]

维基文库中的相关文本:そうしょ/まき76》,出自しゅつじ沈约そう
维基文库中的相关文本:みなみ·まき16》,出自しゅつじ延壽えんじゅみなみ

參考さんこう資料しりょう

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  • そうしょ·おうげん謨傳》
  1. ^ とうちょういん其王親族しんぞくおうげん邈在《みなみひとししょおうげん邈傳》記載きさいため邳人,確定かくてい史傳しでんちゅうてきせきつらぬけ敘」,「あきられい表示ひょうじ不可ふかしん」,とうちょう孺,〈きたたかしてきあおひとし土民どみん〉,《すすむ南北なんぼくあさ史論しろん拾遺しゅうい》(北京ぺきん中華ちゅうかしょきょく,1983),ぺーじ94;かんじゅほうそくしたがえおうげん於晉まつおこりじょしゅう從事じゅうじ判定はんてい王家おうけやめざいすすむまつていきょじょしゅう邳,王家おうけおうしょうため邳王,而非ふとはらおうかんいつきほう,《南北なんぼくあさ時期じき淮漢迤北てき邊境へんきょう豪族ごうぞく》(北京ぺきん社會しゃかい科學かがく文獻ぶんけん出版しゅっぱんしゃ,2003),ぺーじ12。また根據こんきょそうしょみかど》:「(りゅうひろし)於是あずかおとうとどうぶんまわし、沛郡りゅうあつしたいらあきらはじめあきらにんじょうえい高平たかひらまゆみ憑之、琅邪しょかずらちょうみんふとしはらおうもととく 、隴西からし扈興、ひがしふといわらわあつなみ同義どうぎはかりごとはん桓玄)」,以及ちぇひろしてき岳父がくふふとはらかくいつめとおうなか德之のりゆき姊等ごと說明せつめいおうあきらもととく)、おう兄弟きょうだいてきふとし原籍げんせきぬき雖然為真ためざにただしなみひがしかんおうまことてき子孫しそん
  2. ^ そうしょ·こうたけみかど》:「ろくがつかのえたつ,以曲けんこうおうげん謨為しゅう刺史しし
  3. ^ そうしょ·こうたけみかど》:「はちがつみずのえうま,以新じょしゅう刺史ししおうげん謨為あおしゅう刺史しし
  4. ^ そうしょ·こうたけみかど》:「じゅういちがつ戊子ぼしあお冀二州刺史王玄謨為雍州刺史。」
  5. ^ そうしょ·こうたけみかど》:「なながつ癸巳きし以前いぜんひだりまもる將軍しょうぐんおうげん謨為郢州刺史しし
  6. ^ そうしょ·蔡興そうつたえ》:「ときりょうぐんおうげん大將たいしょうゆう威名いめい,邑裏なまりげんうんやめ誅,市道しどう喧擾けんじょうげん謨典簽包ほうさかえしゃいえざい東陽とうようきょうそうぐんみん也,ためげん謨所しんじ使いたりきょう宗因そういん曰:『りょうぐんこととうゆう懼。』ほうさかえ曰:『りょうぐん殆不ふくしょくよるまた不眠ふみんつねげんおさむやめざいもんにわかごろ。』きょうむね曰:『りょうぐんゆう懼,當為とうい方略ほうりゃくすわまちいたり。』はつげん謨舊きょくなおゆうさんせんにん廢帝はいてい頗疑とおるはいかんしゃげん謨太いきふか怨,けいとめひゃくにん岩山いわやま營墓,ことなお畢,しょうみかどよくりょうまた悉喚還じょういわへい在中ざいちゅうどうきょうそうすすむ以此眾舉ごと,曰:『當今とうぎん以領ぐん威名いめいりつ此為朝廷ちょうてい唱始,こと便びんりつかつりょうぐん雖複しつ腳,じょう輿こし處分しょぶんわざわい不測ふそく,勿失ごとくんかえしろりょうぐん如此。』げん謨遣ほうさかえほう曰:『此亦えきぎょうとう泄君ごと。』ふとしむね踐祚せんそげん謨責しょおや吏郭さん女婿じょせい韋希しんとう曰:『とう艱難かんなん周旋しゅうせんやから一言いちげんしょう扣發しゃ。』さん曰:『蔡尚しょれいつつみほうさかえしょどうかいただし大事だいじ難行なんぎょうなんじさんげんまたなにえき。』げん謨有慚色。」
  7. ^ そうしょ·あかりみかど》:「きゅうがつつちのえいぬ,以車將軍しょうぐんしゅう刺史ししおうげん謨為ひだりこう祿ろく大夫たいふ開府かいふどうさんつかさまもるぐん將軍しょうぐん。」
  8. ^ そうしょ·あかりみかど》:「以新じょひだりこう祿ろく大夫たいふ開府かいふどう三司王玄謨為車騎將軍、みなみしゅう刺史しし。」
  9. ^ そうしょ·あかりみかど》:「あきなながつみずのえ,以左こう祿ろく大夫たいふ開府かいふどう三司王玄謨為特進、ひだりこう祿ろく大夫たいふまもるぐん將軍しょうぐん。」
  10. ^ そうしょ·あかりみかど》:「がつおつみぎこう祿ろく大夫たいふくるま將軍しょうぐんまもるぐん將軍しょうぐんおうげん謨薨。」
  11. ^ みなみ·おうげん謨傳》さくはちじゅういましたがえそうしょ
  12. ^ しょ·だかさとしでん》:こうさとし……ちちほうのぼるりゅう駿しゅんしゃ將軍しょうぐんおうげん謨甥也。しょうずいげん征伐せいばつ,以軍功至かつじいん外郎ういろうはやそつ