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しゃもぐさ

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しゃもぐさ(?—353ねん),敦煌とんこうひと中國ちゅうごくじゅうろくこく時期じきぜんりょう官員かんいん將領しょうりょう,曾經ためまえすずしつぎげきはいらいおかせてきこうちょう軍隊ぐんたい

生平おいだいら

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しゃもぐさはつためぜんりょう君主くんしゅちょうしげるはなまとぬし簿けんきょうさんじゅうよんねん(346ねん),こうちょう將領しょうりょうあさあきおうおさむりょう金城きんじょう太守たいしゅちょうおきくだちょうりょうしゅう震動しんどうときちょうしげるはなりょうせいみなみ將軍しょうぐん裴恆抵抗ていこう,裴恆卻在こうぼうもり久久ひさびさ不戰ふせん司馬しばちょうふけ就向ちょうしげるはな推薦すいせんよししゃもぐさりょうへいみとめため必能抵禦なみ消滅しょうめつ外敵がいてき[1]ちょうしげるはな於是といしゃあいゆう甚麼いんも策略さくりゃくしゃもぐさとげもとめななせんへい以破てき[2]ちょうしげるはなじゅうふんだかきょう,授謝もぐさ中堅ちゅうけん將軍しょうぐんりつせん進擊しんげきあさあきしゃあいすすむへいたけあずかのちちょうぐん大戰たいせん大敗たいはいたいかたなみころせせんじんしゃもぐさいんこうふうぶく祿ろくはく

つぎねんちょう將領しょうりょうせきやすし增援ぞうえんあさあきすずしはたそうはたまたくだちょうちょうしげるはなまた以謝もぐさため使ぶし軍師ぐんし將軍しょうぐんりつさんまん騎兵きへい進軍しんぐん臨河。しゃもぐさじょうけいしゃしろぼう而行,あさあき此認ためたいかた輕視けいし自己じこだいいかこれ下命かめいさん千黑矟龍驤進攻。しゃもぐさ身邊しんぺんてき人見ひとみじょう很驚惶,ひだりせんそちすももえらさら建議けんぎしゃもぐさ棄車乘馬じょうばただししゃもぐさただし聽,かえ下車げしゃすわざいえびすゆか指揮しき軍隊ぐんたいちょうぐん此就以為ゆう伏兵ふくへい前進ぜんしん同時どうじすずしはたちょう瑁率へい阻截ちょうぐん後方こうほうちょうぐん後退こうたいしゃもぐさ就乘ぜい進攻しんこうおわり大破たいはちょうぐんちょうすすむもりくん、汲魚じんほろび,俘殺どもいちまんさんせんにんあさあき單騎たんき退すさかえだいなつちょうしげるはな以功しんしゃもぐさためたいひだりちょう[3]

ひさあさあきあずかいしやすしりつじゅう萬兵まんひょうすすむたむろ河南かなんちょうしげるはなりょう將軍しょうぐんうし抵禦,ただし退すさもりならしゅうと人心じんしんふるえおそれちょうしげるはなそうおやせいためしゃもぐささく諫止,於是また任命にんめいしゃもぐさため使ぶしとく征討せいとうしょ軍事ぐんじ行衞ゆくえ將軍しょうぐんさく遐為ぐんせい將軍しょうぐんともりつ萬兵まんひょう抵抗ていこうときまごふし也來增援ぞうえんあさあきちょうぐんとげながさい築城ちくじょうしゃもぐさちかい有風ゆうふう吹動きばれいはた向東むかいひがしみなみまいどうさく遐於激勵げきれいへい:「以風ため號令ごうれい今日きょう旌旗せいき指向しこうてきじん上天じょうてん幫助わが們呀。」しゃもぐさずい出兵しゅっぺいしんとり擊退げきたいりょうおう擢前ほこさきずいまた進攻しんこうあさあき大破たいはたいかたなみれい其退かえ金城きんじょうしゃもぐさかいぐんじゅんどう討伐とうばつ叛涼てき斯骨しんとうどもいちまんあまり落,きょうころせせんじん,俘せんはちひゃくにん和牛わぎゅうひつじじゅうまんとう大勝たいしょう而歸。

しゃもぐさじょぜんりょう擊退げきたいりょうちょうちょうしげるはなまたぜんまち,卻招來しょうらい平時へいじとくちょうしげるはなちょうしんてきじん妒忌,於是聯合れんごうおこりらい中傷ちゅうしょうしゃもぐさいん而外調ちょうためしゅいずみ太守たいしゅけんきょうよんじゅういちねん(353ねん),ちょうしげるはなびょうじゅう下手へたれいそうちょう召謝もぐさ入朝にゅうちょうためまもる將軍しょうぐんかん中外ちゅうがいしょ軍事ぐんじ擔當たんとう輔政工作こうさくただしちょうちょうおさむとうひとあつ而未のう傳達でんたつ同年どうねんちょうしげるはな世子せいしちょう曜靈つぎちょう祚就矯令ため輔政大臣だいじんひささらはい掉張曜靈自己じことうなみ殺害さつがいしゃもぐさ

性格せいかく特徵とくちょう

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しゃもぐさざいりょうしゅう文才ぶんさい著名ちょめい西土せいど名士めいしちょう駿しゅん曾言:「しゃもぐさてき文章ぶんしょう雖長ただし不可ふか以刪ぶしおうわたるてき文章ぶんしょう簡略かんりゃくただし不可ふか增益ぞうえき。」[4]

註釋ちゅうしゃく

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  1. ^ すすむしょ·ちょう軌傳》:「まき府相ふそう司馬しばちょうふけげん於重はな曰:『しん聞國以兵ためつよし,以將ためぬし主將しゅしょうしゃ存亡そんぼう吉凶きっきょうしょ繫,つばめにんらくあつし剋平ぜんひとし,及任こうななじゅうじょう以古明君めいくん靡不まき於將しょう也。いま所要しょようざい於軍しかしゃ舉將推宿きゅう未必みひつみょうつきせいざい也。且かんしんこれ舉非舊名きゅうめい也,みのるこれしんじきゅうしょう也,りょこうむこれしんきゅうくん也,のべこれようきゅうとく也。ぶた明王みょうおう舉,舉無常人じょうじんさいこれしょのうのり授以大事だいじいまつよし寇在郊,しょしょうすすむ人情にんじょう騷動そうどう危機ききやや逼。しゅ薄謝はくしゃもぐさけん文武ぶんぶあきら識兵りゃくわか授以斧鉞ふえつ以專せい,必能折衝せっしょう禦侮,殲殄きょうるい。』」
  2. ^ すすむしょ·ちょう軌傳》:「じゅうはな召艾とい以討寇方りゃくもぐさ曰:『むかし耿弇よく以賊のこ君父くんぷけんねがいまんにんとう寇,乞假しんへいなな千為殿下吞王擢、あさあきとう。』」
  3. ^ すすむしょ·ちょう軌傳》於太ひだりちょうゆうすすむふうぶく祿ろくけんはくただしよりどころ前文ぜんぶんやめふうぶく祿ろくはくあるゆうあやま
  4. ^ ぶんこころ雕龍·まきなな》:「むかししゃもぐさおうわたる西河にしかわ文士ぶんしちょう駿しゅん以為『あいしげる不可ふか刪,すみりゃく不可ふかえき』。わかしゃいいねり鎔裁而曉しげるりゃく矣。」

參考さんこう資料しりょう

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  1. どおりかん》(まききゅうじゅうはち及九じゅうきゅう
  2. よん全書ぜんしょほふたかしまご ひゃくかんほんじゅうろくこく春秋しゅんじゅう》(まきななじゅう