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三國演義/第108回 - 维基文库,自由的图书馆 とべ转到内容ないよう

さんこく演義えんぎ/だい108かい

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目錄もくろく さんこく演義えんぎ
じょういちかい だいひゃくれいはちかい ひのとたてまつゆきちゅう奮短へい まごたかしせきあいだほどこせ密計みっけい したいちかい

  卻說きょう維正はしぐうちょ司馬しば引兵攔截。はららいきょう維取雍州ときかく淮飛ほう入朝にゅうちょうぬしあずか司馬しば商議しょうぎとまとう。懿遣長子ちょうし司馬しば引兵まんぜんらい雍州すけせん聽知かく淮敵退すさしょくへいりょうしょくへいぜいじゃく,就來はんげきちょく趕到陽平ようへいせき,卻被きょう維用たけこう所傳しょでんれんいしゆみほう,於兩あたりくらふくれんいしゆみひゃくあまりちょういちいしゆみはつじゅうみなやく兩邊りょうへんいしゆみひとしはつぜんぐんれんじんたいしゃ不知ふち其數。司馬しば於亂ぐんなか,逃命而回。

  卻說麴山じょうちゅうしょくしょう安見やすみ援兵えんぺいいたり,乃開門かいもんくだきょう維折へいすうまんりょうはいへいかいかんちゅうたむろ紮。司馬しばかえ洛陽らくよういたり嘉平かへいさんねんあきはちがつ司馬しば懿染びょうやややや沈重,乃喚二子至榻前囑曰:「われごと歷年れきねんかん授太でん人臣じんしんくらいごく矣;じんみなうたぐわれゆうこころざしわれ嘗懷恐懼きょうくわれこれなんじにんぜん國政こくせいまきまき!」げん訖而ほろび長子ちょうし司馬しば次子じし司馬しばあきら,二人申奏魏主曹芳。よしあつさいそうゆうすずおくおくりなふうため大將軍だいしょうぐん總領そうりょう尚書しょうしょ機密きみつ大事だいじあきらため驃騎じょう將軍しょうぐん

  卻說しゅまごけんさきゆう太子たいしまごとう,乃徐夫人ふじん所生しょせい,於吳あかがらすよんねんほろびとげたてつぎ子孫しそんため太子たいし,乃瑯琊王夫人ふじん所生しょせいいんあずかぜん公主こうしゅむつみ公主こうしゅしょ譖,けんはいかずゆう恨而またたてさん子孫しそんあきらため太子たいし,乃潘夫人ふじん所生しょせい。此時りくへりくだしょかずら瑾皆ほろび一應いちおう大小だいしょう事務じむみな於諸かずらつとむふとし元年がんねんあきはちがつはついちにちゆるがせおこり大風おおかぜこううみゆう濤,平地ひらち水深すいしんはちしゃくしゅ先後せんごしょしゅ松柏しょうはくつきみな拔起,ちょくいたけんぎょう城南しろみなみ門外もんがいたおせ插在どうじょうけんいん此受おどろきなりびょういたりねんはちがつ內,病勢びょうせい沈重,乃召ふとでんしょかずらつとむだい司馬しばりょ岱至榻前しょく以後いごごとしょく訖而薨。在位ざいいじゅうよんねんことぶきななじゅういちさい。乃蜀かんのべじゅうねん也。後人こうじんゆう曰:

むらさきひげ碧眼へきがんごう英雄えいゆうのう使臣ししん僚肯盡忠じんちゅう
じゅうよんねんきょう大業おおわざりゅうばんとらうずくまざい江東こうとう

  まごけんすんでほろびしょかずらつとむたてまごあきらためみかど大赦たいしゃ天下でんか改元かいげんだいきょう元年がんねんおくりなけん曰大皇帝こうていそう於蔣りょうはやゆう細作さいさく探知たんち其事,ほう入洛にゅうらく司馬しば聞孫けんやめとげおこりへいくれ尚書しょうしょでん嘏曰:「ゆう長江ちょうこうけん先帝せんてい屢次征伐せいばつみなとげ如各もり邊疆へんきょう,乃為上策じょうさく。」曰:「天道てんとうさんじゅうねん一變いっぺんあにつねためかなえ峙乎?われほしくれ。」あきら曰:「こんまごけんしんほろびまごあきらよう懦,其隙せいじょう也。」とげれいせいみなみ大將軍だいしょうぐんおうあきら,引兵じゅうまんおさむみなみぐんせいひがし將軍しょうぐんえびす遵,引兵じゅうまんおさむ東興とうこう;鎮南都なんととく毌丘儉,引兵じゅうまんおさむたけあきらさん進發しんぱつまたおとうと司馬しばあきらためだいとく總領そうりょうさん軍馬ぐんば

  これねんふゆじゅうがつ司馬しばあきらへいいたりひがしくれかいたむろ住人じゅうにん,喚王あきらえびす遵、毌丘儉到ちょうちゅうけい曰:「ひがしさい緊要きんようしょおもんみ東興とうこうぐん也。こんちくおこり大堤おおつつみ左右さゆうまたちく兩城りょうじょう,以防みずうみめん攻擊こうげき諸公しょこう須要しゅよう仔細しさい。」とげれいおうあきら、毌丘儉各引いち萬兵まんひょうれつざい左右さゆう,且勿進發しんぱつまてりょう東興とうこうぐん一齊いっせいしんへいあきら、儉人受ひとうけれい而去,あきらまたれいえびす遵為先鋒せんぽう總領そうりょう三路兵前去,さき搭浮きょう東興とうこう大堤おおつつみわかだつとく左右さゆうしろ便びん大功たいこう。遵領へいらい搭浮きょう

  卻說ふとしでんしょかずらつとむ,聽知へいさん而來,聚眾商議しょうぎひらきた將軍しょうぐんひのとたてまつ曰:「東興とうこう乃東くれ緊要きんようしょしょわかゆうしつのりみなみぐんたけあきら危矣。」つとむ曰:「此論せいごうわれおおやけ就引さん千水兵從江中去。われずいれいりょよりどころから咨、りゅう纂各引一まん步兵ほへいふんさんらいせっおうただし連珠れんじゅほうひびき一齊いっせいしんへいわれ引大へいいたり。」ひのとたてまつとくれいそくさんせん水兵すいへいふんさくさんじゅうせきせんもち東興とうこう而來。

  卻說えびす遵渡浮橋うきはしたむろぐん於堤じょう桓嘉、かん綜攻しろひだり城中じょうちゅう乃吳はたぜん懌把もり右城うじょうちゅう乃吳はたりゅうりゃくもり。此二じょうこうたかし堅固けんごきゅうきりおさむしたぜんりゅう二人見魏兵勢大,敢出せん死守ししゅじょうえびす遵在じょしゅう寨。とき嚴寒げんかんてんくだ大雪おおゆきえびす遵與眾將しつらえせきだかかいゆるがせほう水上すいじょうゆうさん十隻戰船來到。遵出寨視せんはたはたがんまい船上せんじょうやくゆうひゃくにんとげかえとばりちゅういいしょしょう曰:「さんせんにんみみなんそく懼哉!」ただれい部將ぶしょう哨探,仍前飲酒いんしゅひのとたてまつはたふねいち拋在水上すいじょう,乃謂部將ぶしょう曰:「大丈夫だいじょうぶりつ功名こうみょう富貴ふうきせいざい今日きょう!」とげれい眾軍脫去だっきょころもかぶとおろしりょうあたま盔,不用ふようちょうやりだい戟,とめたい短刀たんとうへいだいわらいさら準備じゅんび

  ゆるがせしか連珠れんじゅほうひびきりょうさんこえちょうたてまつ扯刀とうさき一躍いちやく上岸かみきし。眾軍みな拔短がたなしたがえたてまつ上岸かみきし,砍入寨。へい措手及,かん綜急拔帳ぜんだい戟迎はやひのとたてまつ搶入ふところ內,おこりがたな落,砍翻在地ざいち。桓嘉したがえ左邊さへん轉出てんしゅつせわし綽槍とげひのとたてまつたてまつはさみじゅうやり桿。よしみ棄槍而走,たてまつ一刀いっとうとべ正中せいちゅう左肩ひだりかたよしみもち後便こうびんたおせたてまつ趕上,就以やりとげさんせんくれへいざい寨中ひだり衝右突。えびす遵急上馬かみうまだつみち而走。へいひとし奔上浮橋うきはし浮橋うきはしおのれだん大半たいはん落水おちみず而死;ころせたおせざいゆきしゃ不知ふち其數。くるま馬匹ばひつぐんみなくれへいしょ司馬しばあきらおうあきら、毌丘儉聽東興とうこうへいはいまた勒兵而退。

  卻說しょかずらつとむ引兵いたり東興とうこうおさむへいしょうろうやめ畢,乃聚しょしょう曰:「司馬しばあきらへい敗北はいぼくせいこのみじょうぜい進取しんしゅ中原なかはら。」とげ一面遣人齎書入蜀,もとめきょう維進へいおさむ其北,もと以平いたいらぶん天下でんかいちめんおこり大兵だいひょうじゅうまんらい中原なかはら。臨行ゆるがせ一道いちどうしろしたがえ而起,遮斷しゃだん三軍さんぐん對面たいめん。蔣延曰:「此氣乃白のしらにじ也,しゅへいちょうふとしでんただかいあさ不可ふか。」つとむだいいか曰:「なんじやす敢出不利ふりげん,以慢われぐんしん!」しか武士ぶしこれ。眾皆つげまぬかれつとむ乃貶蔣延ため庶人。仍催へい前進ぜんしんひのとたてまつ曰:「以新じょうためそう隘口,わかさき取得しゅとく此城,司馬しばあきらやぶきも矣。」つとむ大喜だいぎそく趲兵ちょくいたり新城しんじょうまもりじょうきばもん將軍しょうぐんちょうとくくれへいだいいたり閉門へいもん堅守けんしゅつとむれいへいよんめんかこえじょうはやゆう流星りゅうせいほう入洛にゅうらくおも簿おそれまつつげ司馬しば曰:「こんしょかずらつとむこま新城しんじょう,且未あずかせんくれへい遠來えんらいにんかてしょうかてつきはし矣。まち其將はししかこうげき,必得全勝ぜんしょうただしこわしょくへいはんさかい不可ふかぼう。」しか其言,とげれい司馬しばあきら引一軍助郭淮防姜維;毌丘儉、えびす遵拒じゅうくれへい

  卻說しょかずらつとむれんがつおさむ新城しんじょうしたれい眾將併力おさむじょう怠慢たいまんしゃりつ。於是しょしょう奮力おさむ城東北じょうとうきたかくはたおちいちょうとくざい城中じょうちゅうじょういちけい,乃令いちした辯士べんし,齎捧さつせき,赴吳寨見しょかずらつとむつげ曰:「國之くにゆきほうわかてきじんこましろもりじょうはた堅守けんしゅいちひゃくにち,而無すくいへいいたりしか出城でしろくだてきしゃ家族かぞくすわつみこん將軍しょうぐんかこえじょうやめきゅうじゅうにちもち乞再よう數日すうじつぼう主將しゅしょうつきりつ軍民ぐんみん出城でしろ投降とうこうこんさきさつせき呈上ていじょう。」

  つとむふか信之のぶゆきおさむりょう軍馬ぐんばとげおさむじょうはららいちょう特用とくようなるへいけい,哄退くれへいとげ拆城ちゅうぼう,於破じょうしょ修補しゅうほ完備かんび,乃登城とじょうだいののし曰:「われじょうちゅうなおゆう半年はんとしかてあに肯降くれいぬ耶!儘戰さまたげ!」つとむだいいか,催兵おさむじょう城下しろしたらんしゃつとむがくじょう正中せいちゅういち翻身ほんしん落馬らくばしょしょうすくいおこりかえ寨,金瘡きんそう舉發。眾軍皆無かいむせんこころまたいん天氣てんき亢炎,ぐん士多したびょうつとむ金瘡きんそうややよく催兵おさむじょう。營吏つげ曰:「人人ひとびとみなびょうやすのうせん乎?」つとむだいいか曰:「再說さいせつ病者びょうしゃこれ!」眾軍聞知ぶんち,逃者無數むすうゆるがせほうとく蔡林引本部ほんぶぐんとうりょうつとむだいおどろき自乘じじょうへんかく營,はてぐんめんしょくしゅかくおびびょうようとげ勒兵かえくれはやゆう細作さいさく報知ほうち毌丘儉。儉盡おこり大兵だいひょうずい掩殺。くれへい大敗たいはい而歸。つとむ甚羞慚,たくびょうあさしゅまごあきらこう其宅といやす文武ぶんぶ官僚かんりょうみならい拜見はいけんつとむおそれじん議論ぎろんさき搜求さがしもとめ眾官はた過失かしつけいのりはつあたりかた重則しげのり斬首ざんしゅしめせ眾。於是內外官僚かんりょう悚懼。またれい心腹しんぷくはたちょうやくしゅおんかんはやしぐん,以為きばつめ

  卻說まごたかしとお,乃孫けんおとうとまごせい曾孫そうそんまご恭之きょうすけ也。まごけん在日ざいにち,甚愛いのちてのひらはやし軍馬ぐんばこん聞諸かずらつとむれいはりやくしゅおんにんてのひらはやしぐんだつ其權,心中しんちゅうのだいいかふとつねきょう滕胤,もとあずかしょかずらつとむゆうすき,乃乘あいだせつたかし曰:「しょかずらつとむせんけんほしいまましいたげ殺害さつがい公卿くぎょうはたゆうしんしんおおやけがかり宗室そうしつなにはや?」たかし曰:「わがゆうこころひさ矣。こんとうそくそう天子てんし,請旨誅之。」於是まごたかし、滕胤いれしゅまごあきら密奏みっそう其事。あきら曰:「ちん此人,また恐怖きょうふつねよくじょとく其便。こんきょうとうはてゆう忠義ちゅうぎみつ。」たね曰:「陛下へいかしつらえせき召恪,くらふく武士ぶし於壁ころもちゅう,擲盃ためごう,就席あいだころせこれ,以絕後患こうかん。」あきらしたがえこれ

  卻說しょかずらつとむへいはいかいあさたくびょうきょ心神しんしん恍惚こうこついちにち偶出中堂なかどうゆるがせいちにん麻衣まいかけこう而入。つとむしかとい,其人だいおどろき措。つとむこん拏下拷問ごうもん,其人つげ曰:「ぼういんしん父親ちちおや入城にゅうじょう請僧ついこもはつ寺院じいん而入,卻不そうふとでんこれ。卻怎生來せいらいいた此處ここら也!」つとむいか,召守もんぐんといぐんつげ曰:「ぼうとうすうじゅうにんみなほこもん嘗暫はなれなみいちにん入來いりき。」つとむだいいかつきすうこれよるつとむねむ不安ふあんゆるがせ聽得正堂せいどうちゅうこえひびき霹靂へきれきつとむだしちゅうはりおりためりょうだんつとむおどろき寢室しんしつゆるがせしかいちじんかげふうおこりしょ見所みどころころせ披麻じんあずか守門すもんぐんすうじゅうにんかくひさげあたまさくいのちつとむ驚倒きょうとう在地ざいちひさしかたよみがえつぎ洗面せんめん,聞水甚血しゅうつとむしかさむらい婢,れんかわすうじゅうぼんみなしゅうこと

  つとむせいおどろきうたぐあいだゆるがせほう天子てんしゆう使いたりせんふとでん赴宴。つとむれいやすはいしゃ仗;かたよく出府しゅっぷゆうけん啣住衣服いふく,嚶嚶さくごえ,如哭じょうつとむいか曰:「いぬおどけわが也?」しか左右さゆう逐去とげ乘車じょうしゃ出府しゅっぷくだりすうしゃぜん一道いちどう白虹はくこう而起,如白練しろねり沖天ちゅうてん而去。つとむ甚驚かい心腹しんぷくはたちょうやくすすむしゃぜん密告みっこく曰:「今日きょう宮中きゅうちゅうしつらええん未知みちこう歹,しゅおおやけ不可ふかけいいれ。」つとむ聽罷,使令しれいかいしゃぎょういたじゅうまごたかし、滕胤乘馬じょうばいたりしゃぜん曰:「ふとしでん何故なぜ便びんかい?」つとむ曰:「われゆるがせしか腹痛はらいた不可ふか天子てんし。」たね曰:「朝廷ちょうていためふとでんぐんかい曾面敘,特設とくせつえんしょう召,けん大事だいじふとしでん雖感恙,かえとう勉強べんきょういちぎょう。」つとむしたがえ其言,とげどうまごたかし、滕胤にゅうみやちょうやくまたずいいれつとむしゅまごあきらほどこせれい畢,就席而坐。あきらいのちしんしゅつとむこころうたぐ曰:「やまい軀不しょうさかずきしゃく。」まごたかし曰:「ふとしでん府中ふちゅうつね服藥ふくやくしゅいん乎?」つとむ曰:「可也かなり。」とげれいしたがえじんかい自製じせい藥酒やくしゅいたつとむかた放心ほうしんいん

  さけいたりすうじゅんしゅまごあきらたくごとさきおこりまごたかし下殿しもとのだつりょうちょうふくしるたんころも,內披かんかぶと手提てさげ利刃りじん上殿かみどの大呼たいこ曰:「天子てんしゆうみことのり逆賊ぎゃくぞく!」しょかずらつとむだいおどろき,擲盃於地,よく拔劍ばっけんむかえとうやめ落地おろちちょうやくたかしつとむ,揮刀來迎らいごうたかしきゅう閃過がたなとんがきず其左ゆびたかし轉身てんしん一刀いっとう,砍中はりやくみぎひじ武士ぶし一齊いっせいよう,砍倒はりやく,剁為にくどろまごたかし一面令武士收恪家眷,一面令人將張約並諸葛恪屍首,ようあしむしろつつみ裹,以小車載しゃさい,棄於城南しろみなみ門外もんがい石子いしこ崗亂づかあな內。

  卻說しょかずらつとむつませい在房ありふさちゅう心神しんしん恍惚こうこつどうとめやすしゆるがせいち婢女にゅうぼうつとむつまとい曰:「なんじへん如何いかしゅう?」其婢ゆるがせしかはん目切めぎれ跳躍ちょうやくとう撞屋はり口中くちじゅうだいさけべ:「われ乃諸かずらつとむ也!奸賊かんぞくまごたかし謀殺ぼうさつ!」つとむごう老幼ろうようおどろき惶號哭。いち軍馬ぐんばいたりかこえじゅうだいはたつとむぜん家老がろうよう,俱縛いたり斬首ざんしゅときけんきょうねんふゆじゅうがつ也。むかししょかずら在日ざいにちつとむ聰明そうめいつきあらわ於外,嘆曰:「此子しゅ也!」またこう祿ろく大夫たいふちょう緝,曾對司馬しば曰:「しょかずらつとむひさ矣!」とい其故,緝曰:「ふるえ其主,なに能久よしひさ乎?」いたり此果ちゅう其言。

  卻說まごたかしころせりょうしょかずらつとむしゅまごあきらふうたかしため丞相じょうしょう大將軍だいしょうぐんとみはるこう總督そうとく中外ちゅうがいしょ軍事ぐんじ此權がらつきまごたかし矣。

  且說きょう維在成都せいとせっとくしょかずらつとむしょ欲求よっきゅうしょうじょとげ入朝にゅうちょうそうじゅんおもふくおこり大兵だいひょうきた中原なかはらせい

一度興師未奏績,りょうばん討賊よく成功せいこう

未知みち勝負しょうぶ如何いか,且看ぶん分解ぶんかい

じょういちかい したいちかい
さんこく演義えんぎ

ほん作品さくひんざいぜん世界せかいぞく公有こうゆう领域いん为作しゃ逝世やめ经超过100ねん,并且于1929ねん1がつ1にちぜん出版しゅっぱん

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