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南史/卷45 - 维基文库,自由的图书馆 とべ转到内容ないよう

みなみ/まき45

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 まきよんじゅうよん みなみ
まきよんじゅう
まきよんじゅうろく 

列傳れつでんだいさんじゅう

おうたかしのりひねあらわたちちょうたかしちぇとしけい

おうたかしのり

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おうたかしそく,臨淮しゃじん也。僑居すすむりょう南沙なんさけんははためおんなみこつねいいじんうん:「けいそくせい胞衣えな紫色むらさきいろおうかく。」にんわらい曰:「なんじとくためじん吹角矣。」

けいそく年長ねんちょう,而兩わき生乳せいにゅうかくちょうすうすんゆめしょくせい倜儻不羈ふきこう刀劍とうけん,嘗與暨陽けん吏鬥,いい曰:「わがわか暨陽けんとうむちなんじ小吏しょうり。」吏唾其面曰:「なんじとく暨陽けんわがまたとくこう矣。」ほふいぬしょう販,へん于三くれ使つかい于高うららあずか其國女子じょし私通しつういん肯還,收錄しゅうろくしかこうはん

ぜんはくちょうがたな左右さゆうそうぜん廢帝はいてい使けいそくとべがたなこういずる白虎びゃっこ幢五ろくしゃくせっなか。仍撫髀拍ちょう,甚為儇捷。俠轂たいぬしりょうほそよろい左右さゆうあずかことぶきさびころせぜん廢帝はいてい。及明みかど即位そくい,以為ちょくごう將軍しょうぐんふう重安しげやすけん

けいそく少時しょうじ於草ちゅうりょうゆうむし如烏まめしゅう其身,擿去乃脫,其處みな流血りゅうけつけいそくあくまい道士どうしぼく道士どうし曰:「此封こうみず也。」けいそく聞之いでこう

こう暨陽れい昔日せきじつ鬥吏ほろび叛,勒令ぐう甚厚。曰:「わがやめ暨陽けんなんじなんとくこうよこしま?」はついたり暨陽けんりくぬし山下やましたそう侶十あまりせんどうはつけいそくせんどくすすむ,乃令弟れいてい入水じゅすい推之,がらすうるしかんけいそくしゅくうん:「わかきち使つかいせんそくすすむわれ富貴ふうきとう改葬かいそうなんじ。」ふね須臾しゅゆいりけんおさむ此棺そう

どきぐんあらけんゆう一部劫逃入山中為人患,けいそくひと致意こうそち使くびとうあいさるろんかくびょうしん酷烈こくれつ百姓ひゃくしょう信之のぶゆきけいそく引神ためちかい,必不しょうまけこうそち既出きしゅつけいそく於廟ちゅうしつらえさけかい,於坐おさむばく曰:「われけいしんわかちかいかえかみじゅううしこんとくたがえちかい。」そくころせじゅううしかいしんなみしょこう百姓ひゃくしょうえつ

もとねんずいひとしこうみかどこばめかつらようぞく於新ていけいそくあずか羽林はばやしかんひねあらわたち、甯朔將軍しょうぐんだかどうけいじょうはやぶねむかえせん大破たいはぞく水軍すいぐんこと甯,おびみなみ泰山たいざん太守たいしゅみぎ俠轂ぬしうたてこしこうじょう安成やすなりおうしゃさんぐん蒼梧そうごおうきょうしいたげ左右さゆうやすけいそく以高みかどゆう威名いめいかえりまことたてまつことまいしたちょく輒往りょうぐんよるちょあおころも,扶匐道路どうろためだかみかど聽察。こうみかどれいけいそく於殿內伺。及楊玉夫たまおはたくびとうけいそくけいそくはせ謁高みかど,乃戎ふくにゅうみやいたりうけたまわあかりもんもんろううたぐあお梧還,けいそくおもんばかひと覘見,以刀たまきふさが窐孔,よび開門かいもん甚急。まもるじょうすすむがお靈寶れいほう窺見だかみかど乘馬じょうば在外ざいがい,竊謂おやじん:「いまわかひらき內領ぐん天下てんかかいらんなんじ。」かどひらくけいそくずいみかどいれ殿どの

ます明元あけもとねん,遷輔こく將軍しょうぐんりょう臨淮太守たいしゅとも殿どの宿衛しゅくえい兵事へいじ。沈攸ことおこりしんけいそくかんむりぐん將軍しょうぐんこうみかどにゅうもりちょうどう,袁粲おこりへい,召領ぐんりゅう韞、ちょくごう將軍しょうぐんぼくはくきょうとう於宮內相おう戒嚴かいげんしょうはつけいそくひらきせき掩襲,みなころせこれ殿しんがり內竊はつつきひらめたかし則之のりゆき力也りきや政事せいじ大小だいしょうみかどなみ以委

けいそく識書,とめ下名かめいしか甚善決斷けつだんひとしだいけんためちゅうりょうぐんこうみかどしょう受禪じゅぜんざいかんこもえき太極たいきょく殿どのばしらじゅんみかどよく避上,肯出みやへりくだくらい明日あしたとう臨軒,じゅんみかどまた逃宮內。けいそくはた輿こしいれむかえみかどけいたとえれい,引令ますしゃじゅんみかど肯即じょうおさむなみだいいけいそく曰:「よくころせ乎?」けいそくこたえ曰:「きょ別宮べつくなんじかん先取せんしゅ司馬しばまたふく如此。」じゅんみかど泣而だんゆび:「ただねがい後身こうしん生生世世しょうじょうせぜふく天王てんのうさく因緣いんねん。」みや內盡哭,こえてっ於外。じゅんみかどはくけいそくしゅ曰:「必無おもんばかとう餉輔こくじゅうまんぜに。」

ひとしたてもと元年がんねんためとくみなみ兗州刺史ししふうひろぐんこうけいそくつまふところ爵為ひろこく夫人ふじん

ねんぐんおさむ淮、泗,けいそくおそれゆだね鎮還,百姓皆驚散奔走。うえ以其功臣こうしん不問ふもん,以為かん尚書しょうしょ,遷吳きょう太守たいしゅぐんきゅうひょうげかすめゆう十數歲小兒于路取遺物,けいそくころせ以徇。此路拾遺しゅういぐんこうとうまたろくとくいち偷,召其おやぞく于前むちれい偷身ちょう街路がいろ久之ひさゆき,乃令偷舉きゅう偷自だいしょ偷恐為所しどころ識,みな逃走とうそうさかい內以きよし。仍入がらすほどしたがえほふにく枅,歎曰:「きょうむかし此枅,わが少時しょうじざい此所さく也。」召故じん飲酒いんしゅせつ平生へいぜい以屑也。遷護ぐん,以家ため

さんねん,以改葬かいそうしょくみことのりおくけいそくははひろこく太夫たゆうじんあらため授侍ちゅうなでぐんこうみかどのこみことのりけいそく以本かんりょう丹陽たんよういんひろ遷會稽太守たいしゅ加都かつとくえいあきらねんきゅう鼓吹こすい一部いちぶかいたいみずうみうみにんちょう庶皆塘役。けいそく以功りょく有餘ゆうよ,悉評斂為ぜにおくたい,以為便宜べんぎうえもと

さんねんしんごうせいひがし將軍しょうぐんそう廣州こうしゅう刺史ししおうつばさ之子ゆきこわらわこく暴,ころせ婢媵,つばさ之子ゆきこほうろうつげけいそくづけ山陰さんいんごくころせこれみち訴,ため有司ゆうししょかなで山陰さんいんれいりゅう岱坐棄市けいけいそく入朝にゅうちょううえいいけいそく曰:「人命じんめいいたりじゅうだれ下意かいころせこれけい聞。」けいそく曰:「しんしんなんものほう背後はいごゆうぶし便びんげんおうとく殺人さつじん。」りゅう岱亦引罪,上乃うえの赦之;けいそく免官めんかん,以公りょうぐん

あずかおう儉俱そく本號ほんごう開府かいふどうさんときじょ孝嗣たかし於崇れいもんこう儉,いんあざけこれ曰:「今日きょういいれん璧。」儉曰:「不意ふい老子ろうしとげあずかかんどうつて。」にん以告けいそくけいそく欣然きんぜん曰:「わが南沙なんさけん吏,徼幸ぼそよろい左右さゆう,逮風くも以至於此。とげあずかおうまもるぐん同日どうじつはいさんおおやけおうたかしのりふくなん恨。」りょう恨色。ちょう以此おおこれ

じゅういちねん,授司そらけいそくめい雖達,富貴ふうきぐうはつためやから使,於北かんしゅ楊柳ようりゅうこういん外郎ういろうおそれちょう曜北使かえけいそくとい:「わがむかししゅ楊柳ようりゅうじゅこんわか大小だいしょう?」ちょう曜曰:「とりこちゅう以為あま棠。」たけみかどれい群臣ぐんしんけいそく曰:「しんいく落此やつ內。」じょうといけいそくたい曰:「しんわかかいしょさく尚書しょうしょれいしかとく今日きょう。」けいそく雖不だい識書,而性甚警黠,臨郡れいしょうごと讀辭,しもきょう判決はんけつみなしつあかりみかど輔政,ひそかゆう廢立はいりつ隆昌りゅうしょう元年がんねんけいそくためかい太守たいしゅ加都かつとくうみりょう王立おうりつしんふとしじょうあかりみかど即位そくいためだい司馬しばたい使はい授日,あめだいひろしちゅうけいそく文武ぶんぶみなしつしょくいちきゃくつくり曰:「おおやけ由來ゆらい如此,むかしはい丹陽たんよういんきょうまたしか。」けいそくだいえつ曰:「わが宿命しゅくめいおうとく。」乃引、備朝ふくしるべ引出聽事拜受はいじゅなお自得じとく,吐舌久之ひさゆきみかどすんで殺害さつがいけいそく以高、たけ舊臣きゅうしんこころふところゆう懼。みかど雖外あつ其禮而內しょううたぐ備,すう訪問ほうもんけいそく飲食いんしょくたいみき。聞其おとろえおい,且以きょ內地,とくしょうやすしょうひろしはたとき仗五ひゃくにんぎょうすすむりょうけいそく諸子しょしざいこわけいうえ知之ともゆきといけい于梁たけみかどたけみかど曰:「けいそく豎夫,えきためかんただおうすず以子おんなだま帛,あつ其使じん,如斯而已。」上納じょうのうくれじんはりおもえけいそくはかりごとぬし也,ため司馬しばしき銜使。うえにせかたぶけまち,以為ゆうげき將軍しょうぐんけいそく世子せいしなかつよしにゅうひがしなかつよしぜん彈琴だんきんこうひだりゆう蔡邕こげきんざいしゅころもうえにちいちきゅうなかゆうなかつよしざい御前ごぜんきんさく懊儂きょくうた曰:「つね歎負じょうわしろうこんはてぎょうもと。」また曰:「きみぎょう不淨ふじょうしんとく惡人あくにんだい。」みかどいよいよ猜愧。

えいやすし元年がんねんみかどやまし屢經危殆きたい,以張瑰為ひらひがし將軍しょうぐんくれぐん太守たいしゅおけへいみつぼうけいそく。內外傳言でんごんとうゆう處分しょぶんけいそく聞之,竊曰:「東今ひがしいまゆうだれただほしひらたわがみみひがしまたなにえきひらめわれおわり受金罌。」きむ罌謂鴆酒也。諸子しょしこわ懼,だい五子幼隆遣正員將軍徐岳以情告徐州行事謝朓為計,わかどうしゃとう往報けいそく。朓執だけはせ啟之ひろゆきけいそくしろきょくさんぐんじょ庶家在京ざいきょうこう,其子みつ以報庶,庶以つげけいそく五官ごかん王公おうこうりんおおやけりんけいそくぞく也,つねしょしんおおやけはやしすすむけいそく急送きゅうそうけいたまものたんふね星夜せいやかえけいそく曰:「わかなんじしょろうようおう有信ありのぶ,且忍いちゆう。」其夜,よび僚佐文武ぶんぶ摴蒱ぜにいい眾曰:「きょう諸人もろびとほっれいさくなんけい?」莫敢さきこたえぼうあいひのときょうふところ曰:「かんただおうさくなんじ。」けいそく不作ふさくごえあきらだん,召山陰さんいんれいおう詢、たいでん鍾離ねがいけいそくよこがたな跂坐,もん詢等はつひのととくいくにんくらゆういくぜにぶつ,詢、ねがいたいなみ乖旨,けいそくいかはたこれ王公おうこうりんまた諫敬そく曰:「かん詎不さらおもえ?」けいそくつば其面,曰:「しょうわが作事さくじなんせきなんじしょう。」乃起へい招集しょうしゅうはいころもさんにち便びんはつよくこうぜん中書ちゅうしょれいなんたねかえため尚書しょうしょれいちょうおうろうあきら司馬しばちょうおもえどめ曰:「なにれいだか蹈,必不したがえしたがえ便びんおうころせこれ。舉大事だいじさきころせあさけんこと必不ずみ。」乃率じつかぶとまんにん浙江せっこういい曰:「おう須作げき。」おもえ曰:「おおやけこんかえあさなに用作ようさく此?」乃止。あさ廷遣輔國將軍しょうぐんまえぐん司馬しばひだりきょうもりちょくごう將軍しょうぐんぐんしゅえびすまつさんせん餘人よにんちくるい于曲おもね長岡ながおか尚書しょうしょひだりぼくしゃ沈文しゅうためぶしみやこただしたむろあたま,備京こう

けいそく以舊はた舉事,百姓擔篙荷鍤隨逐之十餘萬眾。いたりたけすすむりょうこう慟哭どうこくじょうかた輿こし而前。ぐうきょうもり山陽さんようしば盡力じんりょくおさむこれ官軍かんぐん不敵ふてきほし退すさ而圍ひらけかくせんえびすまつりょううまぐん突其白丁はくちょううつわ仗,みなおどろきけいそくだいさけべさくさいうえとくじょうきょうもりぐんよう袁文曠斬つてくび

これじょうやましやめあつしけいそく倉卒そうそつ東起ひがしおこし朝廷ちょうていふるえ懼。ひがし昏侯ざい東宮とうぐうよく叛,使つかいじん上屋うわやもちせいとりこてい失火しっかいいけいそくいたりきゅうそうよくはしゆうつげけいそくしゃけいそく曰:「まゆみこうさんじゅうろくさくはし上計あげなんじ父子ふしただ應急おうきゅうはしみみ。」ぶたそしまゆみどうずみ避魏ごと也。

けいそくこえぜい甚盛,凡じゅうにち而敗。どきねんろくじゅうよん朝廷ちょうていうるし其首ぞうざい武庫むこいたりりょうたかしかん元年がんねん,其故吏夏こう亶表請收そうもと

ひねあらわたち

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ひねあらわたちみなみ彭城彭城じん也。つかまつそう以軍こうふう彭澤けん羽林はばやしかん、濮陽太守たいしゅ,隸齊だかみかど討桂ぞく於新ているいりゅうつとむだいけたはいぞくしんもりうばたく。及休范死,あらわたちもりうばたく大戰たいせん于宣もん大破たいはぞく矢中やなか左目ひだりめ而鏃不出ふしゅつ地黃じおうむらはんおうなぜんきんさき以釘くぎばしらおうな禹步さくくぎそく,乃禁あらわたちちゅう鏃出ことひらめふう豐城とよきこうさい遷平越中えっちゅうろうはた廣州こうしゅう刺史しし加都かつとく

沈攸ことおこりあらわたちぐん援台,ちょういた遁、司馬しばしょかずらしるべすすむあきらたちさかい蓄眾,密通みっつう彼此ひしあらわたち於坐しゅこれおもて疏歸しんひとしこうみかどみかど即位そくいはいまもるぐん將軍しょうぐんこう禦膳おさむ牲,あらわたちじょうくまふけいちばんうえそく以充めしこうはいとくえきしゅう刺史しし

たけみかど即位そくいしんごう鎮西ちんぜい將軍しょうぐんえきやまけわしまろうどふく大度おおどむら獠,ぜん刺史しし不能ふのうせいあらわたち使つかいせめ其租賧。獠帥曰:「りょう刺史ししひさし敢調。」とげころせ其使。あらわたちぶん部將ぶしょう吏,こえしょう出獵しゅつりょうよる往襲男女だんじょしょうちょうみなこれ此山えびすふるえふく

えいあきらねんしるしためさむらいちゅうまもるぐん將軍しょうぐんあらわたちるいにん在外ざいがいけいだかみかど。及見たけみかど流涕りゅうてい悲咽,じょうまた泣,こころ甚嘉はちねんためせいみなみ大將軍だいしょうぐんしゅう刺史しし

あらわたちけんあつしゆう智計ともよし以人ほろじゅうまい遷官つねゆう愧懼いろじゅう餘人よにん,誡之曰:「わが本意ほんい及此,なんじとう勿以富貴ふうきりょうじん。」すんでごうとみ諸子しょしあずかおうたかしのりしょなみせいしゃうしうらら服飾ふくしょく當世とうせいかいうししょうひね世子せいしあおおう三郎さぶろうがらすりょぶんあらわ折角せっかくこう瞿曇白鼻しろばな,而皆しゅうひねしゃあらわたち此不えつ。及子きゅうひさしため郢府ぬし簿きゅうはいべつあらわたち曰:「凡奢侈しゃししゃ鮮有不敗ふはい麈尾しゅびはえはらいおうしゃぶつなんじ須捉此自逐。」そく於前しょうじょ。其靜退すさ如此。

はいいくりんくんのべきょう元年がんねんためそらしん爵為こうあかりみかど即位そくいしんふとしじょうふう鄱陽ぐんこうへいひゃくにん給油きゅうゆからまくるまこう以太じょうふう鄱陽ぐんこうためさん公事こうじ,而職てんれんりつにん以為格外かくがいさんおおやけうえよく悉除だかたけ子孫しそんうえほろげんといあらわたちとう曰:「此等あにあしかいおもんばか。」上乃うえのとめ

あらわたちたてたけし世心よごころふところ不安ふあんふか貶退,くるまじょうくちはいしるべしたがえ鹵簿ろぼみなよう羸小。さむらいえんさけ啟上けいじょうまくらみかどれいあずかこれあらわたちなでまくら曰:「しんねんやめおい富貴ふうきやめあしただしょうまくらまくらとく就陛乞之。」じょうしつしょく曰:「おおやけよい矣。」以年ろうつげ退すさもと

えいやすし元年がんねん,乃遣あらわたちきたおかせえいもと元年がんねんあらわたちとくひらきた將軍しょうぐんちぇとしけい眾軍四萬圍南鄉界馬圈城,じょうさんひゃくさとおさむよんじゅうにちぐん食盡しょくじん,噉死じんにく及樹がわ周邊しゅうへんきゅうぐん突走。あらわたちにゅうよりどころ其城,ぐんぬしそうおかくろ進取しんしゅ南鄉なんごうけん孝文たかふみみかどりょうじゅうあまりまん奄至,ぐんぬしちぇきょうえびすまつ以烏ぬの幔盛あらわたちすうにん擔之,汮水こうだいぐんえんどう奔退,死者ししゃさんまん餘人よにんあらわたちもとゆう威名いめいちょ於外さかいいたり大損おおそん焉。ちゅうすすむはん岫奏めんあらわたちかんまたおもて解職かいしょくなみもと。以為しゅう刺史しし,鎮盆じょうはつおうたかしのりごとおこりはじめ安王やすおうはるかひかり啟明けいめいみかどおもんばかあらわたちためへんよくおいぐんかえことひら乃寢。あらわたちまたふところ危怖。及東昏立,わたるらくかえとく此授甚喜。ひろりょうせいみなみ大將軍だいしょうぐんきゅうさんもちしゃあらわたち聞都下大しもおおしょう殺戮さつりくじょ孝嗣たかしとうみな傳聞でんぶんとうへいかさねしゅうあらわたち懼禍,十一月じゅういちがつじゅうにち舉兵,よくただしかさねけん鄴,以掩不備ふびまたはるかゆび郢州刺史ししたて安王やすおうたからとらためぬしあさ廷遣ぐん將軍しょうぐんえびすまつとうよりどころやなさんあらわたちりつ眾數せんにんはつひろあずかまつせん採石さいせき大破たいは都下とかふるえこわ十二月じゅうにがつせんぐん取石とりいしあたま北上ほくじょうかさねじょうみやわきだい駭,閉門へいもん守備しゅびあらわたち睄從ぐんすうひゃくにん,於西しゅうまえあずかたいぐんせんさいごう大勝たいしょう,綃折,なおころせじゅう餘人よにん官軍かんぐんつぎいたりあらわたち不能ふのうこう退すさはしいたり西にししゅうがらす榜村。かんちょう潭注綃刺落馬らくばこれませがわゆう湔籬,じゅん于伯けいどきねんななじゅうさん

あらわたち在江あるえしゅうぐうやまし療之而差,甚不えつれんふゆ大雪おおゆき梟首きょうしゅ朱雀すざく而雪しゅう諸子しょしみなふく誅。

ちょうたかし

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ちょうたかし南陽なんようかんむり軍人ぐんじん也。ちちみにくためぐん將軍しょうぐんかんいたりぶしさんぐんけい年少ねんしょう便びん弓馬きゅうばゆうきもこう猛獸もうじゅうはつなか南陽なんよう新野あらたの風俗ふうぞく騎射きしゃ,而敬ゆう膂力りょりょくややかんいたりやすし蠻行ばんこうさんぐんずいぐんじんりゅうえびすじょう諸山しょざん蠻,深入ふかいり險阻けんそしょこうみなやぶまたげきえびす蠻,官軍かんぐん引退いんたいけいたんうまざいぞく不能ふのうこう

山陽さんようおうきゅうたすく鎮壽もとめぜん騎射きしゃけい及襄俞湛おうせんけい善事ぜんじじんとげちょうためちょう兼行けんこうさんぐんたいはじめはつずいてん驃騎さんぐんしょちゅうへいりょうぐん討義よしみぞくあずかりゅうえびすしょうこばめ於鵲しゅう啟明けいめいみかど乞本ぐんことひらめじょ南陽なんよう太守たいしゅ

けいためじょうはた也,いえひんまいきゅうかり輒傭ちん自給じきゅう。嘗為城東じょうとうやすし擔水,通泰みちやすしょあい婢。ことはつはたやすしころせ,逃賣かんざいちゅう,以蓋じょう,乃免。及在かささぎしゅう啟明けいめいみかどうん:「たい以絲じょ雍州刺史しし袁顗ためいしゆみつるとうどうためぎゃくわかこと平之ひらの,乞其家財かざい。」みかどもといたりおさむせきただ家人かじん裸身らしんとく,僮役財貨ざいかちょくすうせんまんけいみなゆうさきしょどおり婢,そく以為わらわ

こうためえつこうじょうかつらよう王事おうじおこり,隸齊だかみかどひたすらしんちんぞくせきすんで交,きゅう范白ふくじょう輿こしろうろうけいあずかかいしろだかみかどもとめいつわりくだ以取こうみかど曰:「きょうわか辦事,とう本州ほんしゅうしょうしょう。」けいしょうあずか出城でしろみなみ仗走,だい呼稱こしょうくだきゅうはん,召至輿こしがわかい致高みかどみつきゅうはん信之のぶゆきかいけいけい奪取だっしゅきゅう范防がたなこれ,其左右さゆうひゃくにんみなけいくびしんちんじょ驍騎將軍しょうぐん輔國將軍しょうぐんこうみかどおけしゅいいけい曰:「きょうこう今日きょう。」

こうみかど以敬じんすんでけいよく使便びんためじょう重鎮じゅうちんけいもとめやめ,乃微動びどうだかみかど曰:「沈攸ざい荊州,公知こうち其欲なん所作しょさ不出ふしゅつけい以防こわおおやけ利也としや。」みかどわらい無言むごん,乃除雍州刺史しし加都かつとくふうじょうけんこうはく沔口,けいじょう舴艋こうまいすすむ熙王燮。中江なかえぐう風船ふうせんくつがえ左右さゆうひのと壯者そうしゃかく水走みずはい二小史沒船下求敬兒救,けいりょうわきはさみずいせんおおせざい水上すいじょう,如此こぼしくつがえくだりすうじゅうさとぽうとく迎接げいせつしつ所持しょじぶしさらきゅう

いたり鎮,あつゆい攸之,とく事蹟じせきみつしろだかみかどおわり二心ふたごころまたあずか攸之司馬しばりゅう攘兵じょう款。及蒼梧廢,けいうたぐ攸之とういん此起へいみつとい攘兵,攘兵しょげんよせけいあぶみいちせきけい乃為備。

ます明元あけもとねんふゆ,攸之はん使つかいほうけいろうせっしゅういたるためしつらえしょく訖,れつ仗於聽事まえこれしゅうきょく。偵攸したとうかさねりょうけいつげへん使いたりこうみかど大喜だいぎしんごう鎮軍將軍しょうぐんあらためとく

攸之いたり郢城敗走はいそう,其子もと琰與けんちょう史江ふみえ乂、べつでんせんとうかえこうりょうけいぐんいたり白水しろみずもと琰聞じょうがいづる唳,いいさけべごえ恐懼きょうくほしはし。其夜,乂、せん開門かいもん出奔しゅっぽんしろつぶせもと琰奔ちょうしゅうころせけいいたりりょう,誅攸しんとう沒入ぼつにゅう其財ぶつすうせんまんぜんしゃ悉以にゅうわたしおくたいしゃひゃくいち焉。攸之于湯なぎさむらけいきょじんおくくび荊州。けい使だて擎之,ぶた以青かさ,徇諸かく,乃送けん鄴。すすむ爵為こう

けいざい雍州むさぼざん人間にんげん一物いちもつこらえよう,莫不奪取だっしゅ。於襄城西じょうさいおこりたく,聚物貨,たく大小だいしょう殆侔じょうまたよくうつりひつじ叔子よしこ墮淚,於其處置しょちだい綱紀こうき諫曰:「此羊ふとでん遺德いとくむべ遷動。」けい曰:「ふとしでんただしだれわが識。」

及齊受禪じゅぜんうたてさむらいちゅうちゅうぐん將軍しょうぐん,遷散つねさむらいくるま將軍しょうぐんおけこうみかどくずれのこみことのり開府かいふどうさん。於家竊泣曰:「かん大老たいろう天子てんし惜,太子たいし年少ねんしょうこうしょ及也。」及拜,おうたかしそくおどけこれよびため褚彥かいけい曰:「わが馬上もうえ所得しょとくおわり不能ふのうさくはなりんごうくん也。」けいそく甚恨焉。

はつけいほろゆうつま生子おいごどうもん,而鄉里ごうりしょうおんな有色ゆうしょく貌,けいえつとげ棄毛而納しょうためしつ。及居さんつかさしょうなおじょうたくおもんばかふく外出がいしゅつ,乃迎こう悉下いたりけいみかどこうむろうといけいこころうたぐ。及垣たかしいよいよ恐懼きょうくせいこうぼくじゅつしんゆめゆう甚,はつせい荊州,まいしょ將帥しょうすい遑有餘計よけいただ敘夢うん:「とうとときゆめ居村いむらちゅうしゃじゅ欻高すうじゅうたけ。及在雍州,またゆめしゃじゅ直上ちょくじょういたりてん。」以此さそえせつきょくくも不可ふかごとよし測量そくりょう無知むちまた使つかい於鄉さとため謠言ようげん使つかい小兒しょうにやから曰:「天子てんしざい何處どこたくざいあか谷口たにぐち天子てんしおもねだれ豬如いぬ。」けいざいかんむりぐんたくぜんゆう地名ちめいあかこく既得きとく開府かいふまたもちはんけんじん曰:「わがくるまなおしょうはんらんぶつ。」

けいちょうあらとおしょう武事ぶじすんで從容しょうよう都下とかまた四方よもやすしやすしえきとくこころざし。其妻しょうまた曰:「われむかしゆめいちねつ如火,而君とく南陽なんようぐんもと徽中,ゆめいち髀熱如火,きみとく本州ほんしゅうけんもとちゅうゆめはんたいねつひろとく開府かいふこんふく舉體ねつ矣。」以告しょおやげん其妻初夢はつゆめゆめまたげん:「こん舉體ねつ矣」。閹人聞其言說げんせつことたちたけみかどけいまた使つかいあずか蠻中交關,たけみかどうたぐゆうこころざしえいあきら元年がんねん,敕朝臣あそんはなりんはちせきひとし,於坐おさむけいはつ左右さゆうかみなりなかあらわつね以盈滿まん誡敬不能ふのうしたがえいたりゆうへんだきけい泣,けいだつかんむりてんとう曰:「よう此物あやまわが。」及子どうもんみちとおるみちきゅうなみふく誅,少子しょうしどうけいなだめこうすうねんうえあずかあきらおうさんにちきょくすい內宴,舴艋せんりゅういたりすわぜん覆沒ふくぼつうえゆかり言及げんきゅうけい,悔殺

けいはじめ識書,及為かたはく,乃習がく讀孝けい論語ろんごはつちょうためまもるぐん,乃潛於密しつちゅうへいじんがく揖讓こたえたい空中くうちゅう俯仰ふぎょうわらわさむらい竊窺わらい焉。はたはいさんつかさいい其妻あによめ曰:「わがはいひらきあい。」いんこうためごえはつとく鼓吹こすい,羞便そうまた于新りん慈姥びょうためわらわいのりしゅくしんくち自稱じしょうさんおおやけ,其鄙俚如此。

はじめ其母于田ちゅうゆめいぬゆうかくねぶこれやめ而有娠而せいけいはつめい苟兒。またなまいちいん苟兒めいふくめい豬兒。そうあきらみかどいや苟兒めいひなびあらためためけい豬兒またあらため為恭ためちか正員せいいんろうしゃびょう本縣ほんけんつねきょ上保かみのほむら出仕しゅっしあずかきょじんことあずかけいあいとも甚篤。及聞けいはい走入はしり蠻。こうくびはら其罪。

ちぇとしけい

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ちぇとしけいくんさん清河きよかわ東武とうぶじょうじん也。構,たてまつあさ請。父系ふけいしゅうべつ

としけいしょう有志ゆうしぎょうつかまつそうためちょうみずこうじょうひとしこうみかどざい淮陰,としけいあずか宗人むねとおもえ同時どうじゆい。及高みかど受禪じゅぜんふうらくやすけんためとくりょうみなみしんしゅう刺史ししえいあきらよんねんためつかさしゅう刺史ししははみことのりおこりふくほんにんとしけいごとやめしゅう,輒傾けんじたてまつどうすうひゃくまんたけみかど以此嘉之よしゆきじゅうねんためとくしゅう刺史しし

いくりん即位そくいとしけい以少ぬし新立しんだてみつあずかどおりあさ廷疑あかりみかど輔政,りょうたけしみかどいたりことぶき春安はるやす慰之。としけいみつけいおくまこと勸進かんじんたてたけしよんねんためささえ尚書しょうしょりょう太子たいしひだりりつ

ひがし即位そくいためまもるぐんとき輔國將軍しょうぐんじょしるべ專權せんけん號令ごうれいとしけい備員而已。みかどすんで誅戮ちゅうりくしょうしょう舊臣きゅうしんみなつきとしけい以年宿やどじゅううたてやす。及裴叔業以壽くだそく授慧景平かげへら西にし將軍しょうぐんかりふしさむらいちゅうまもるぐん如故。りつぐん水路すいろせいことぶきぐんひたぶる白下しろしたしょうはつみかどちょうかこえへいじょ琅邪じょうおくこれみかどえびすふくすわろうじょう,召慧けいすすむかこえ內,一人ひとりしたがえたっ交數ごと拜辭はいじ而去。としけいいたり白下しろした甚喜,曰:「頸非ふくしょう豎等しょおり也。」さとしためちょくごう將軍しょうぐんとしけいみつあずかこれ

時江ときえなつおうたからげん鎮京こう,聞慧けいきたぎょう左右さゆうあまり文興ふみおきせつ曰:「朝廷ちょうてい任用にんようぐんしょう,猜害ちゅうけんこうりゅうじょ、沈,きみ所見しょけん雖魯、まもるまた不知ふち滅亡めつぼうなんきみこん段之だんし舉,有功ゆうこうまたこうまたほしなにもとめしょめん不可ふかしつこんよう強兵きょうへいきた廣陵こうりょうおさむすわえ勁卒;舉州以相おう大功たいこう如反てのひらみみ。」としけいつねやす,聞言かいおう

于時いおりりょうおうちょうしょうとら司馬しばちぇきょうもり廣陵こうりょうじょうとしけい以寶げんごとつげきょうきょう祖先そせん無宿むしゅくちぎりくち雖相こころじつ不同ふどうかえ以事つげとらきょうため閉城けいとらこころいいきょうあずかとしけいどういい曰:「はい昏立あきら人情にんじょうしょらくやすしたがえこばめ。」きょうなお不同ふどうにわか而慧けいいたりきょう閉門へいもん敢出。としけい其異おのれ,泣すうぎょう而去。

ちゅうへいさんぐんちょうけいのべあかりがんきょうとうすすむとしけいかさね廣陵こうりょう,及密ぐんぬしりゅうれいうんあいだぎょう突入とつにゅうとしけいにわかけいいたりとげよりどころ其城。さとしいたり,仍使りょうへいかさね京口きょうぐちたからげんほんいい大軍たいぐんなみらい,及見じんしょうきょくしつ所望しょもうこばめさとしげきはしこれきょう及覺精兵せいびょうはちせんすみきょうこころほん不同ふどうはんいたり蒜山ひるぜんほしさとし以軍くだ京口きょうぐちことすんではて而止。

さとしとうぐんせいげんやなぎ憕、沈佚とういいたからげん曰:「ちぇまもるぐん威名いめいすんでじゅう,乃誠すんでやめくちびるゆるがせ中道ちゅうどうりつことかれ以樂眾,らんこう而濟,だれのうこばめこれ。」於是とうきたかたろうなみせん蠟燭ため烽火ほうか,舉以おうさとしみかど聞變,以右まもる將軍しょうぐんひだりきょうもりかりふしとく都下とか水陸すいりく眾軍。としけいとまにち便びんりつだいいち俱濟こうおもむき京口きょうぐちたからげん仍以さとしためぜんほこさききょうとしけいりょうだいとくため眾軍節度せつどひがし石頭いしあたま白下しろしたしんちんしょしろみなつぶせひだりきょうもりはしとくにゅうみや,逃淮なぎさおぎせんちゅうとしけい禽殺としけいしょうせんとく皇后こうごうれい廢帝はいていためくれおう

どきやなぎ憕別推寶げんきょうためたからげん羽翼うよくふくうけたまわたてまつとしけいいやともえりょうおうあきら胄先逃人あいだとうとしけいさらこうこれ猶豫ゆうよ未知みちしょりつ,此聲頗泄。憕、きょうはじめ于慧けいまたきょうすすむとしけいしゃ火箭かせんしょうきたわきろうとしけい大事だいじたれじょうわかさらづくり費用ひようこうしたがえ其計。せいこう談義だんぎけんかいふつひたすら法輪寺ほうりんじたいきゃく高談こうだんきょうふかふところ怨望。

さきまもるじょうしょう懿為しゅう刺史ししれき步道ほどうせいことぶきようみかど密使みっしつげ。懿率ぐんしゅえびすまつ居士こじとう採石さいせきずみがんひたすらえつじょう舉火,だい城中じょうちゅうさけべしょうけいきょう祖先そせんすすむとしけいせんにんだん西岸せいがんぐんれい得度とくどとしけい以城旦夕たんせきくだそとすくい自然しぜんおうもときょう請擊またもと。乃遣さとしはたしらげかぶとすうせんにん南岸なんがん昧旦しんせんさとし大敗たいはいとしけい人情にんじょうはなれ沮。

きょうひたぶるぐんきょうすめらぎてら於東おひがしみやかすめじょさとしらい逼奪,ゆかり忿恨。其夜,ちぇきょうあずか驍將ぎょうしょうりゅうれいうんまいしろくだとしけい乃將腹心ふくしんすうにんせんよくきたこう城北しろきたしょぐん不知ふちなおためこばめせんしろ內出とろけころせすうひゃくにんとしけいあまり眾皆奔。

としけいかこえじょうじゅうにち軍旅ぐんりょ散在さんざい都下とか不為ふため營壘。及走,眾於どうややたんうまいたりかにうらとうりょうじんふとし叔榮さかえためとしけい門人もんじんためかにうら戍,いい曰:「われ以樂たまものなんじなんじためわれ覓酒。」すんで而為さかえこれしょ,以頭內魷籃中擔送

きょうしゃとしけい宗人むねと,驍果便びん韒,氣力きりょくぜっじんしきけい軍陣ぐんじん。討王けいそくあずかひだりきょうもりぐんよう袁文曠爭けいそくくび,訴明みかど曰:「きょう禿かぶろ絳衫,とげたおせけいそくぶん曠得其首。以死えきくん而見枉奪。わかしつ此勳,ようとう刺殺しさつひだりきょうもり。」みかど以其勇健ゆうけんいいきょうもり曰:「なにようれいきょうあずかぶん曠爭こう。」とし景平かげへらきょうけいひさしかた少時しょうじころせこれさとし亡命ぼうめいため道人どうじんふくほう

さとしおとうと偃,ねんじゅうはち便びん身長しんちょうはちしゃくひろしわたる書記しょきぜんちゅう篆,ためはじめやす內史,ぞう竄得めんみかど西台にしだいりつ,以為甯朔將軍しょうぐん中興ちゅうこう元年がんねんまいおおやけしゃ尚書しょうしょさる冤,げんゆび斥,ひろ下獄げごく

さき東陽とうよう女子じょし婁逞へんふくいつわりため丈夫じょうぶかこえ棋,かい文義ふみよしへんゆう公卿くぎょうつかまついたりあげしゅう從事じゅうじことはつあきらみかどれいかえひがしたくましはじめさく婦人ふじんふく而去,歎曰:「如此伎,かえためろうおうなあに惜哉。」此人妖也。かげ而欲ためことはて泄,けいそくはるかひかりあらわたちとしけいおう也。きゅう裴叔ぎょうゆうでんことおわり於魏,こんりゃくうん

ろん曰:光武みつたけ功臣こうしん所以ゆえんのう終身しゅうしんめいしゃあにただにんしょくごとまた以繼たてまつあきらあきらしんそん正嫡せいちゃくおうちん拔跡奮飛,のりけんもとえいあきらうんごくかなえすすむのりたてたけしえいあきらあさくん往時おうじ踰昔とうれい授雖じゅうじょうぶん交。以主猜政みだれ,危亡おもんばか及,舉手扞頭,にんおもえめん干戈かんかすんでようまこと淪犯上之うえのあと敵國てきこくおこり於同ぶねきょうまた疏於此也。けいはさみふるえぬしいさむとうとりつきうん,內惑よこしまゆめあとわたる覬覦,其至殲亡,また其理也。としけい以亂ずみみだれのう及乎。

 まきよんじゅうよん かえしかいいただき まきよんじゅうろく

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