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南史/卷78 - 维基文库,自由的图书馆 とべ转到内容ないよう

みなみ/まき78

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海南かいなん諸國しょこく

海南かいなん諸國しょこく

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  海南かいなん諸國しょこく大抵たいていざい交州みなみ西南せいなん大海たいかいしゅうじょう相去あいさりあるよん千里せんりとおしゃさんまんさと。其西あずか西域せいいき諸國しょこくせっかんもとかなえちゅうふく將軍しょうぐん博多はかたひらきひゃくえつおけ日南にちなんぐん。其徼がい諸國しょこくみかど以來いらいみな朝貢ちょうこうこうかん桓帝大秦たいしん天竺てんじくみなよし此道使つかい貢獻こうけん。及吳まごけんせん從事じゅうじしゅおうちゅうろうかんやすしどおり焉。其所經過けいか傳聞でんぶんそくゆうひゃくすうじゅうこくいんりつでんすすむだいどおり中國ちゅうごくしゃぶた鮮,史官しかん。及宋、ひとしいたりはり,其奉ただしついたちおさむみつぎしょく航海こうかい往往おうおういたり矣。こんさい風俗ふうぞく著者ちょしゃれつため海南かいなんうん

はやし邑國

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  はやし邑國,ほんかん日南にちなんぐんぞうはやしけんえつかい也。ふく將軍しょうぐん援開南境みなみざかいおけ此縣。其地したがえこうろくひゃくさとしろうみひゃくじゅう日南にちなんみなみかいよんひゃくあまりさときたせっきゅうとくぐん。其南かいみず步道ほどうひゃくあまりさとゆう西にしえびすまたたたえおう[1]うま援所うえどうばしらおもてかんかいしょ也。其國有金ありかねさんいしみな赤色あかいろ,其中せいきんかねよるのりとべじょう如螢また瓄瑁、かいかい、沈木かいしゃめい也,其華なり如鵝むくげ,抽其いとぐち紡之以作ぬのぬのあずか紵布ことまたしみなりしょくためむらぬの。沈木しゃ土人どじん斫斷,せき以歲ねんくちただれ而心ぶしどくざいおけ水中すいちゅうそく沈,めい曰沈浮者棧香。

  かんまつ大亂たいらんこう曹區れんころせ縣令けんれい[2]自立じりつためおうすうせい,其後おう嗣,そとおい范熊だいりついっ嗣。すすむなりみかど咸康さんねん[3]いっやつぶん篡立。ぶん本日ほんじつ南西なんせいまきけんえびすそち范幼やつ[4],嘗牧うし於山澗,とくはもぎょ而為てついん以鑄がたなかたななりぶんこういししゅく曰:「わか石破いしばしゃぶんとうおう此國。」いん斫石如斷芻稿,ぶんこころこれ。范幼嘗使商賈しょうこいたりりん邑,いんきょうりん邑王さく宮室きゅうしつ及兵しゃ器械きかいおうちょうにんこう讒言ざんげん諸子しょしかく奔余こく。及王嗣,ぶんにせ于鄰こく迓王おけどく於漿ちゅうころせこれとげおびえ國人くにびと自立じりつとき交州刺史ししきょうそう使しょおやかん戢、しゃよう前後ぜんこうかん日南にちなんぐんなみむさぼざん諸國しょこく患之。きよしみかど永和えいわさんねんだいなつこうらんため太守たいしゅおかせこくゆうもりはやし邑素田土たどむさぼ日南にちなん肥沃ひよくつねよくりゃくゆういたりいんじん怨,かさねころせらん,以其かばねさいてんとめみなみさんねん,乃還りん邑。交州刺史しししゅはんとくまもるりゅうつよし戍日みなみぶんふくめつしん寇九とくぐんがい吏人。使つかいつげはんねがい以日みなみ北境きたざかい橫山よこやまためかいはんもとぶんりん邑,ひろふくたむろみなみぶんふつりつなおたむろみなみせい西にし將軍しょうぐん桓溫とくまもる滕畯、九真太守灌邃討之,ついいたりりん邑,ふつ乃請降。やすみかどりゅうやすさんねんふつまご須達ふく寇日みなみきゅうとくしょぐん[5]としいたり殺傷さっしょう甚多,交州とげ致虛じゃく

  須達てきしんりつ,其弟てきよろい攜母出奔しゅっぽんてきつい不能ふのうよう其母おとうとしゃこく而之天竺てんじくぜん於其おいくにしょうぞう驎固諫不したがえ。其甥りつ而殺ぞう驎,ぞう驎子またおさむころせこれ而立じりつてきよろい同母どうぼ異父いふおとうと曰文てきぶんてきふくため扶南王子おうじとうじゅんしょころせ大臣だいじん范諸のうひら其亂,自立じりつためおうしょのう邁立。邁初ざい孕,其母ゆめせい有人ゆうじん以金せき藉之,其色こううららえびすじんいいきんしらげしゃため邁,わか中國ちゅうごくくもむらさきみがくしゃいん以為めいそうえいはつねん使つかい貢獻こうけん,以陽邁為りん邑王。邁死,咄立,慕其ちちふく曰陽邁。[6]

  其國ぞくきょしょためかくめい曰幹たけなわ門戶もんこみな北向きたむきしょじゅため男女だんじょみな以橫はばかいにょうこし以下いかいいみき漫,また曰都漫。穿ほじみみつらぬけしょうたまきとうとしゃちょかわ屣,賤者はだしぎょうはやし邑、扶南以南いなん諸國しょこくみなしか也。其王しゃちょ法服ほうふく瓔珞ようらく,如佛ぞうかざりだしそくじょうぞう吹螺ほらがいげき,罩古かいかさ,以古かいためはたくにしつらえ刑法けいほう有罪ゆうざいしゃ使ぞう蹋殺。其大せいごう婆羅門ばらもんよめめと必用ひつようはちがつおんなさきもとめおとこゆかり賤男而貴おんな同姓どうせいかえあい婚姻こんいん使つかい婆羅門ばらもん引婿握手あくしゅしょうづけしゅく曰:「吉利よしとし吉利よしとし。」ためなりれい死者ししゃ焚之中野なかのいい火葬かそう。其寡散發さんぱついたりろう國王こくおうごとあまみきどう[7]鑄金ちゅうきんぎんじんぞうだいじゅうかこえ

  げんよしみはつ邁侵暴日みなみきゅうとくもろぐん,交州刺史ししもり弘文こうぶんけんきばよく討之,聞有だい乃止。はちねんまた寇九とくぐんいれよんかい浦口うらぐち。交州刺史しし阮彌たいぬししょう道生どうしょうそちへい赴討,おさむ栗城くりきかつ,乃引還。じゅうねんじゅうねんじゅうろくねんじゅうはちねんまい使つかい貢獻こうけんけんじまた陋薄,而寇ぬすめやめぶんみかど忿其たがえ傲,じゅうさんねん使つかい交州刺史ししだん和之かずゆき武將ぶしょうぐんむね愨伐和之かずゆき司馬しばしょう景憲かげのりためぜんほこさき邁聞懼,よく輸金いちまんきんぎんじゅうまんきんどうさんじゅうまんきんかえところりゃく南戶みなと。其大臣だいじん愺僧たち諫止。乃遣だいそち范扶りゅう戍其きたさかい栗城くりき景憲かげのりおさむじょう克之かつゆきじょうしょうそくかつはやし邑,父子ふしなみ挺身ていしん逃奔。其珍ことみなたからまた銷其きんじんとく黃金おうごんすうじゅうまんきん

  和之かずゆき高平たかひらきんさとじんだん憑之也。以功ふうくももりけんこうけんさんねんためみなみ兗州刺史ししすわたけなわいん黷貨,むかい獄中ごくちゅう女子じょしにゅう內,免官めんかん禁錮きんここう病死びょうしえびすしんためたたり追贈ついぞうひだり將軍しょうぐんおくりな曰襄

  こうたけしこうけんねんはやし邑又ちょう范龍ばつたてまつ使つかい貢獻こうけんじょりゅうばつあげ武將ぶしょうぐん大明だいめいねんはやし邑王范神なりまたちょう范流たてまつおもて獻金けんきん銀器ぎんきこうぬの諸物しょぶつあかりみかどたい元年がんねんまた使つかいけんじかたぶつひとしえいあきらちゅう,范文さんるい使つかい貢獻こうけんはりてんかんきゅうねんぶんさんてん奉獻ほうけんしろ猴,みことのり加持かじぶしとく緣海えんかいしょ軍事ぐんじみなみ將軍しょうぐんはやし邑王。弼毳ばつりつたてまつおもて貢獻こうけん普通ふつうななねんおうだか戍勝よろい使つかいけんじかたぶつ[8]みことのり以為ぶしとく緣海えんかいしょ軍事ぐんじ、綏南將軍しょうぐんはやし邑王。大通だいつう元年がんねんまた使つかい貢獻こうけん大通だいつうねんぎょうりん邑王だか戍律陀羅ばつ使つかい貢獻こうけんみことのり以為ぶしとく緣海えんかいしょ軍事ぐんじ、綏南將軍しょうぐんはやし邑王。ろくねんまた使つかいけんじかたぶつ

  廣州こうしゅうしょ山並やまなみたぬき獠,種類しゅるいしげるおき前後ぜんご屢為おかせ暴,こよみ患之。そうたかしたけ大明だいめいちゅう合浦がつぽだいそちちんまゆみ歸順きじゅんはいりゅう驤將ぐんまゆみ乞官ぐん征討せいとう,乃以まゆみためだかきょう太守たいしゅぜんしゅひさげ太守たいしゅ沈、りゅう驤將ぐんたけみなみなみどおりしゅ崖道がけみち並無ならびないさお,輒殺まゆみ而反,沈下ちんか獄死ごくし

扶南こく

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  扶南こくざい日南にちなんぐんみなみうみ西にし大灣おおわんちゅう[9]日南にちなんなな千里せんりざいはやし西南せいなんさんせんあまりさとしろうみひゃくゆう大江おおえこうじゅうしたがえ西にしりゅうひがし入海いりうみ。其國こうさんせんあまりさと土地とち洿下而平はく氣候きこう風俗ふうぞくだい較與りん邑同。出金しゅっきんぎんどうすず、沈木ぞうさいあなみどり五色ごしき鸚鵡おうむ

  其南かいさん千餘里有頓遜國,ざい海崎かいざきじょう地方ちほう千里せんりしろうみじゅうさとゆうおうなみ羈屬扶南。ひたすらへりくだこれひがしかい通交つうこうしゅうしょ賈人。其西かいせっ天竺てんじく安息あんそく徼外諸國しょこく往還おうかん交易こうえき。其市東西とうざい交會,にちゆうまん餘人よにん珍物ちんぶつたから貨無ゆうまたゆうさけじゅやす石榴ざくろさい其花じるとまちゅう數日すうじつなりしゅ

  ひたすらへりくだこれがい大海たいかいしゅうちゅうまたゆう毗騫こく扶南はち千里せんりつて其王身長しんちょうたけ,頸長さんしゃく[10]不死ふし,莫知其年。おう神聖しんせい國中くになかじん善惡ぜんあく將來しょうらいことおうみな知之ともゆき以無敢欺しゃ南方なんぽうごう曰長頸王。くにぞくゆう室屋むろや衣服いふく,噉粳まい。其人言語げんご小異しょうい扶南。有山ありやま出金しゅっきんきむ生石いくしじょうひさしげん[11]國法こくほうけい人並ひとなみ于王ぜん噉其にくくに內不受估きゃくゆう往者おうしゃまたころせ而噉以商たび敢至。おうつねろうしょくこと鬼神きじん。其子孫しそん生死せいし如常じんただおう不死ふし。扶南おうすう使つかいあずかしょしょうほうこたえつねのこ扶南おう純金じゅんきんじゅうにん食器しょっきかたち如圓ばんまた如瓦塸,めいため,受しょうまた如碗しゃいちしょうおうまたのうさく天竺てんじくしょしょさん千言せんげんせつ其宿いのち所由しょゆうあずか佛經ぶっきょう相似そうじなみろん善事ぜんじ

  またつて南東なんとうかいそくだいみなぎうみ海中かいちゅうゆう大洲おおすしまうえゆうしょすすきこく國東くにさき有馬ありましゅうふくひがしぎょうみなぎうみせんあまりさといたり自然しぜん大洲おおす,其上ゆうじゅせい火中かちゅうしま左近さこんじん剝取其皮,紡績ぼうせきさくぬの,以為手巾しゅきんあずか蕉麻而色ほろ青黑あおぐろわかしょうあか洿,のりとう火中かちゅうふくさらしらげきよしあるさくとう炷,よう不知ふちつき

  扶南こく俗本ぞくほんはだか文身いれずみかみせい衣裳いしょう,以女人為じんいおうごう曰柳年少ねんしょう壯健そうけんゆう男子だんし。其南ゆうげきこく有事ゆうじ鬼神きじんしゃこんはまゆめしんたまものゆみじょう賈人舶入海いりうみこんはま晨起そくまいびょう,於神樹下じゅかとくゆみ便びんゆめじょう入海いりうみとげいたり扶南外邑とのむら柳葉やなぎばじん眾見舶至,よくこうこれこんはまそくちょうゆみしゃ其舶,穿ほじたびいちめん及侍しゃ柳葉やなぎばだい懼,舉眾降こんはまはま乃教柳葉やなぎば穿ほじぬのぬきあたまかたちふくとげきみ其國,おさめ柳葉やなぎばためつまなま子分こぶんおうなな邑。其後おうこんばんきょう以詐りょくあいだしょ邑,れいしょううたぐ阻,いん舉兵おさむなみ。乃選子孫しそん中分なかぶんきょしょ邑,ごう曰小おうばんきょうねんきゅうじゅうあまり乃死,たて中子なかごばんばん,以國事こくじ大將たいしょう范蔓[12]ばんばんりつさんねん國人くにびとども舉蔓ためおうづる勇健ゆうけん有權ゆうけんりゃくふく以兵おさむつくりこく,咸服屬ふくぞくごう扶南大王だいおう。乃作大船おおぶねきゅうみなぎうみ開國かいこくじゅうあまり,辟地ろく千里せんりつぎとうきむ鄰國,づるぐうやまし太子たいし金生きんせい代行だいこうづる姊子旃因篡蔓自立じりつひといつわり金生きんせい而殺づる死時しにどきゆうちちめいちょうざい人間にんげんいたりねんじゅう,乃結こくちゅう壯士そうしかさねころせ旃。旃大將たいしょう范尋またおさむころせちょう而代りつさらつくろえこく內,おこりかんかく遊戲ゆうぎちょうだんちゅうさんよんきゃく。百姓以蕉蔗龜鳥為禮。

  國法こくほう牢獄ろうごくゆう訟者,さきときさんにち,乃燒おのごくあかれい訟者ささげこうななまた以金鐶、雞卵とう沸湯わかしゆちゅうれいさがせこれわか無實むじつしゃしゅそくただれ有理ゆうりしゃそくまた於城みぞちゅうやしなえ鱷魚,門外もんがいけん猛獸もうじゅう有罪ゆうざいしゃ輒以餧猛じゅう及鱷ぎょさかなじゅうしょくため無罪むざいさんにち乃放。鱷大しゃちょうさん丈餘じょうよじょう鼉,ゆう四足しそく,喙長ろくななしゃく兩邊りょうへんゆう刀劍とうけん常食じょうしょくぎょぐうとく獐鹿及人また噉之,蒼梧そうご以南いなん外國がいこくみなゆう

  ちゅうろうかんやすしせん從事じゅうじしゅおう使于尋こく國人くにびとなおはだかただ婦人ふじんちょぬきあたまやすしおういい曰:「國中くになかじつけいただしひとかいみみ。」ひろはじめれいこく男子だんしちょよこはばよこはばこんみき漫也。大家たいか乃截にしき為之ためゆき貧者ひんじゃ乃用ぬの

  すすむたけみかどふとやすしちゅうひろはじめ使つかい貢獻こうけんきよしみかど昇平しょうへい元年がんねんおう竺旃まゆみたてまつおもてけんじ馴象,みことのり以勞とまこれ。其後おう憍陳如本天竺てんじく婆羅門ばらもん也,ゆうかみ曰應おう扶南。憍陳如心えつみなみいたりばんばん。扶南じん聞之,舉國欣戴,むかい而立じりつ焉。ふくあらため制度せいどよう天竺てんじくほう。憍陳如死,おうわざわい陀跋そうぶんみかどげんよしみじゅういちねんじゅうねんじゅうねんたてまつおもてけんじかたぶつひとしえいあきらちゅうおう憍陳如闍よこしまばつ使つかい貢獻こうけんはりてんかんねんばつふく使送しそう珊瑚さんご佛像ぶつぞうなみけんじかたぶつみことのり授安みなみ將軍しょうぐん、扶南おう

  其國じんみなみにくくろこぶしはつしょ穿井せんせいすう十家共一池引汲之。俗事ぞくじ天神てんじん天神てんじん以銅ためぞう二面ふたおもてしゃよん四面しめんしゃはちかくゆう所持しょじある小兒しょうにある鳥獸ちょうじゅうある日月じつげつ。其王出入でいりじょうぞう,嬪侍またしかおうすわのりへんうずくま翹膝,たれひだりひざいたり,以白たたみじきまえしつらえきんぼん香爐こうろ於其じょうくにぞくきょそくじょひげかみ死者ししゃゆうよんそう水葬すいそうそくとうこうりゅう火葬かそうそく焚為灰燼かいじん土葬どそうそく瘞埋とりそうそく棄之中野なかの人性じんせいむさぼしわ無禮ぶれい男女だんじょほしいまま其奔ずい

  じゅうねんじゅうさんねんばつるい使つかい貢獻こうけん,其年庶子しょしとめ陀跋ころせ其嫡おとうと自立じりつじゅうろくねん使つかい竺當かかえろうたてまつおもて貢獻こうけんじゅうはちねんふく使送しそう天竺てんじく旃檀みずぞうばばいつきなみけんじひとしたまいくきんごうとう普通ふつう元年がんねん中大ちゅうだいどおりねん大同だいどう元年がんねんるい使つかいけんじかたぶつねんふく使つかいけんじなまさいまたげん其國ゆうふつはつ長一ちょういちたけしゃくみことのり沙門しゃもんしゃくくもたからずい使往迎

  さきさんねんはちがつたけみかど改造かいぞうおもねそだておう佛塔ぶっとうきゅう塔下とうのした舍利しゃり及佛つめはつはつあお紺色こんいろ,眾僧以手伸之のぶゆきずいしゅ長短ちょうたんこれそく旋屈ため蠡形。按僧とぎけいうん:「ふつはつあお而細,なお如藕くきいと。」ふつ三昧ざんまいけいうん:「わがむかしざいみや沐頭,以尺りょうはつ長一ちょういちたけしゃくやめみぎ旋,かえなる蠡文。」のりあずかみかど所得しょとくどう也。おもねそだておうそく鐵輪てつりんおうおう閻浮ひさげいち天下てんか佛滅ぶつめついちにち一夜いちややく鬼神きじんづくりはちまんよんせんとう,此即其一。ゆうあまきょ其地ためしょう精舍しょうじゃまご綝尋毀除とうまたどうめつたいらしょ道人どうじんふく于舊しょ建立こんりゅう焉。すすむもとみかど初度しょどこうさら修飾しゅうしょくいたり簡文咸安ちゅう使つかい沙門しゃもんやすほうほどみやつこしょうとう[13]及成而亡。弟子でしそうあらわつぎ而修りつ至孝しこうたけしふともときゅうねんうえきん相輪そうりん及承つゆ

  其後,ゆう西河にしがわはなれいしけんえびすじんりゅう薩何ぐうやまし暴亡,而心なおだん,其家敢便殯,けいななにちさらせつうん:「ゆうりょう吏見ろくこう西北せいほくぎょう不測ふそく遠近えんきんいたりじゅうはち地獄じごくずいほうじゅうけい,受諸すわえどく觀世音かんぜおんうん:'なんじえんつきわかとくかつさく沙門しゃもんらくひとししろ丹陽たんようかい稽並ゆうおもねそだておうとう禮拜れいはいわかことぶきおわりそく地獄じごく。'」竟如墜高がんゆるがせしか醒寤。よし此出家名かめいとしたち遊行ゆぎょうれいとういたり丹陽たんよう未知みちとうしょ,及登えつじょうよんもち見長みながみきうらゆういん禮拜れいはいはてさきおもねそだておうとうしょ,屢放光明こうみょうゆかりてい必有舍利しゃり。乃集眾就にゅういちたけとくさん石碑せきひなみちょうろくしゃくちゅういちいしぶみゆうてつはこはこ中有ちゅううぎんはこはこちゅうまた有金ありかねはこもり三舍利及發爪各一枚,はつちょうすうしゃくそく舍利しゃりきんきたたい簡文しょづくりとう西にしづくりいちそうとうじゅうろくねんまた使つかい沙門しゃもんそうなおためさんそう[14]そくたけみかどしょひらきしゃ也。はつ穿ほじよんしゃくとくりゅうくつ及昔じんしょしゃ金銀きんぎんたまき釧釵鑷等しょざつ寶物ほうもつふか九尺許至石磉,磉下ゆうせきはこはこ內有てつつぼ以盛ぎん坩,坩內有金ありかねちりばめ罌盛三舍利如粟粒大,えんせいこうきよしはこ內有琉璃わんわん內得よん舍利しゃり及發つめつまゆうよんまいなみため沈香じんこうしょくいたり其月じゅうななにちみかどまたいたてら禮拜れいはいしつらえ無礙むげ大會たいかい大赦たいしゃ以金缽盛すい舍利しゃり,其最小者こものかくれ不出ふしゅつみかどれいすうじゅうはい舍利しゃり乃於缽內放こう旋回せんかい久之ひさゆき,乃當ちゅう而止。みかどとい大僧正だいそうじょうとしねん曰:「不可思議ふかしぎごと?「としねんこたえ曰:「ほう常住じょうじゅうたたえしか不動ふどう。」みかど曰:「弟子でしよく請一舍利還台供養。」いたりきゅうがつにちまた於寺しつらえ無礙むげ大會たいかい皇太子こうたいし王侯おうこうあさとうととう奉迎ほうげいかぜ景明かげあききよしかたぶけかんぞくところしつらえ金銀きんぎんきょうとうぶつなみとめてら供養くようなみほどこせぜにいちせんまんためてらもとぎょういたりよんねんきゅうがつじゅうにちみかどまたいたりてらしつらえ無礙むげ大會たいかい,豎刹,かく以金罌,だま罌,重盛しげもり舍利しゃり及爪はつなな寶塔ほうとう內。また以石はこもり寶塔ほうとうふんいれりょう刹刹,及王こうぬし百姓富室所舍金銀環釧等珍寶充積。じゅういちねんじゅういちがつにち寺僧じそうまた請帝於寺はつ般若はんにゃけいだいしかゆうとう俱放光明こうみょう,敕鎮ひがし邵陵おう綸制てらだい功德くどく碑文ひぶんさきねん改造かいぞうかい稽鄮けんとうひらくきゅうとう中出なかいで舍利しゃりひかりたくてらしゃくたかしだっとう四僧及舍人孫照暫迎還台。みかど禮拜れいはい竟,そく送還そうかんけんにゅうしん塔下とうのした,此縣とうまたりゅう薩何所得しょとく也。

  すすむ咸和ちゅう丹陽たんよういんだか悝行いたりはりこうきょう浦中うらなか五色ごしき光長みつながすうしゃく不知ふちなんかい,乃令じん於光しょとくきんぞう有光ありみつ趺。悝乃車載しゃさいぞうかえいたりちょうみきちまたくびうし肯進。悝乃れい馭人にんうししょうしみち牽至てら,悝因とめぞうづけ寺僧じそうまいいたり夜中よなかつね光明こうみょうまた聞空中有ちゅうう金石かねいしひびきけいいちさい臨海りんかいりょうじんはりけい於海こうゆるがせゆうどうはな趺浮おくけん縣人けんじん以送だい,乃施ぞうあし宛然えんぜんあいかい簡文咸安元年がんねん,交州合浦がつぽじんただし宗之むねゆきさいたまぼつ水底みなそことくふつこう焰,交州おくだい,以施於像,またごう焉。咸和ちゅうとくぞういたり咸安はつこよみさんじゅうねんひかり趺始

  はつこう悝得ぞうゆう西域せいいきえびすそう五人來詣悝曰:「むかし天竺てんじくおもねそだておうづくりぞうらいいたり鄴下,逢胡みだれうめ于河こんひろ覓失しょ。」五人嘗一夜俱夢見像曰:「やめ江東こうとうためだか所得しょとく。」悝乃送此五そういたりてらぞう噓欷涕泣ていきゅうぞう便びんひかりあきらしょく殿宇でんうまたかわらかんてらとし邃欲摸寫もしゃぞうがたてらぬしそうなおおもんばか損金そんきんしょくいい邃曰:「わかのうれいぞうひかりかい西向にしむき,乃可しょうもと。」とし邃便こんはい請。其夜ぞうそくうたてすわひかりかい西向にしむきあきらだん便びんもと摸之。ぞう趺先ゆう外國がいこくしょ,莫有識者ゆうしきしゃゆう三藏那跋摩識之,くもおもねそだておうためだいよんじょしょづくり也。[15]

  及大同中どうちゅうきゅうとう舍利しゃり,敕市てらがわすう百家宅地以廣寺域,みやつこしょ堂殿どうでんなみみずぞう周回しゅうかいかくとうきゅう於輪奐焉。其圖しょけいへんなみくれじんちょう繇運しゅ。繇丹青たんせいこう一時いちじ冠絕かんぜつ

訶羅陀國

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  西南せいなんえびす訶羅陀國,そうもとよしみななねん使つかいたてまつおもて曰:「ふくうけたまわせいしゅ信重のぶしげ三寶さんぽうきょうりつ塔寺とうでらしゅう滿みつる世界せかいこん使つかいにんおもて此微しん。」

しかたんこく

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  しかたんくに闍婆しゅうげんよしみななねん使つかい獻金けんきんごうゆびたまきあか鸚鵡おうむとり天竺てんじくこくしろたたみかいなみこくかいとうぶつじゅうねんしかたん國王こくおう毗沙ばつたてまつおもて曰:「常勝じょうしょう天子てんし陛下へいか諸佛しょぶつ世尊せそん常樂じょうらくやすかくれさんたちろくつうため世間せけんみちびけめい如來にょらい至誠しせい五體ごたい敬禮けいれい。」其後ためしょ篡奪。じゅうさんねんまた上表じょうひょうじゅうろくねんぶんみかどみことのり曰:「しかたんばばすめらぎばばたちさんこくしきえつ遐海,款化おさめみつげとおまことむべ甄,なみ加除かじょ授。」乃遣使さくいのちじゅうきゅうねんまたちょうばばかず沙彌さやけんじかたぶつ

ばば皇國こうこく

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  ばば皇國こうこくげんよしみじゅうろくねん國王こくおう舍利しゃりばばばつ使つかいけんじかたぶつよんじゅういちしゅぶんみかどさくいのちためばば皇國こうこくおうじゅうはちねんふく使つかい貢獻こうけんこうたけしこうけんさんねんまたちょう竺那ばばさとしたてまつおもてけんじかたぶつ,以那ばばさとしため將軍しょうぐん大明だいめいさんねんけんじあかしろ鸚鵡おうむ大明だいめいはちねんあきらみかどやすしはじめねんまた使つかい貢獻こうけんあかりみかど以其ちょう竺須いたる[16]まえちょう將軍しょうぐん竺那ばばさとしなみためりゅう驤將ぐん

ばばたちこく

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  ばばたちこくげんよしみじゅうろくねん國王こくおう舍利しゃりりょうとぎばつ使つかいけんじかたぶつぶんみかどさくいのちためばばたち國王こくおうじゅうろくねんじゅうはちねんふく使つかいけんじかたぶつ[17]

闍婆たちこく

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  闍婆たちこく[18]げんよしみじゅうねん國王こくおうはじむばばたちしか陀羅ばつ使つかいたてまつおもて[19]:「そう國大こくだいぬし大吉だいきち天子てんし足下あしもと教化きょうか一切いっさいしゅさとしやすかくれ天人てんにん降伏ごうぶくよんなりとう正覺しょうがくてんみこと法輪ほうりんだつ眾生。わが雖在とおまた沾靈じゅん。」

ばんばんこく

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  ばんばんこくげんよしみこうけん大明だいめいちゅうなみ使つかい貢獻こうけんりょう中大ちゅうだいどおり元年がんねんよんねん,其王使使たてまつおもてるいおくふつきば及畫とうなみけんじ沈檀とうすうじゅうしゅろくねんはちがつふく使送しそう菩提ぼだいこく舍利しゃり及畫とうなみ菩提樹ぼだいじゅ、詹糖とう

たんまことこく

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  たんまことこく中大ちゅうだいどおりさんねん,其王使つかいたてまつおもておくきばぞう及畫とう軀,なみけんじひとしたまかいざつやく大同だいどう元年がんねんふく使つかい獻金けんきんぎん、琉璃、ざつたからこうやくとうぶつ

みき陀利こく

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  みき陀利こくざい南海なんかいしゅうじょう[20],其俗あずかはやし邑、扶南りゃくどうむらぬのかい檳榔びろう檳榔びろうとくしらげこうため諸國しょこくごくそうたかしたけおうしゃくばば鄰陀遣ちょう竺留陀獻きん銀寶ぎんぽはりてんかん元年がんねん,其王瞿曇おさむばつ陀羅以四月八日夢一僧謂曰:「中國ちゅうごくこんゆうひじりぬしじゅうねんこれふつ法大ほうだいきょうなんじわか使つかいみつげたてまつれいけいのり土地とち豐樂ほうらくしょうたびひゃくばいわか不信ふしんわがのりさかいとくやす。」はつひつじしんじすんで而又ゆめ此僧曰:「なんじわか不信ふしんわがとうあずかなんじ往觀。」乃於夢中むちゅういたり中國ちゅうごくはい覲天すんでさとしこころこと,陀羅ほんこう,乃寫夢中むちゅう所見しょけんたけみかどようしつかざり丹青たんせい,仍遣使なみ畫工がこうたてまつおもてけんじだまばんとうぶつ使つかいじんすんでいたり摸寫もしゃみかどがた以還其國,ほんそくどう焉。よしもり以寶はこにち敬禮けいれいこうばつ陀死,毗針よこしまばつりつ[21]じゅうななねんちょう毗員ばつたてまつおもて獻金けんきん芙蓉ふようざつやくとう普通ふつう元年がんねんふく使つかいけんじかたぶつ

おおかみきばおさむこく

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  おおかみきばおさむこくざい南海なんかいちゅう。其界東西とうざいさんじゅうにちぎょう南北なんぼくじゅうにちぎょうきた廣州こうしゅうまんよん千里せんり土氣つちけ物產ぶっさんあずか扶南りゃくどうへん棧、沈、ばばりつとう。其俗,男女だんじょみな袒而かみ,以古かいためみき漫,其王及貴しん乃加雲霞うんかぬのくつがえ胛,以金なわためからまおび金環きんかんぬきみみ女子じょしそく被布ひふ[22],以瓔珞繞。其國るい磚為じょうじゅうもん樓閣ろうかくおういずるじょうぞうゆうはた旄旗,罩白ぶた兵衛ひょうえ甚嚴。國人くにびとせつ立國りっこく以來いらいよんひゃくねん後嗣こうし衰弱すいじゃく王族おうぞくゆう賢者けんじゃ國人くにびとこうこれおう聞乃しゅう,其鎖だんおう以為しんいん敢害,乃逐さかいとげ天竺てんじく天竺てんじくつま以長おんなにわか而狼きばおう大臣だいじんむかえかえためおうじゅうねんばばとぎたちだててんかんじゅうよんねん使つかいおもね撤多たてまつひょう

ばば利國としくに

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  ばば利國としくにざい廣州こうしゅうひがし南海なんかい中洲なかすじょう廣州こうしゅうがつぎょう國界こっかい東西とうざいじゅうにちぎょう南北なんぼくじゅうにちぎょうゆういちひゃくさんじゅうろく聚。土氣つちけ暑熱しょねつ,如中こく盛夏せいかこくいちさいさいじゅく草木くさきつねさかえうみぶんにしむらさきかいゆう石名いしな坩貝はつさい柔軟じゅうなん,及刻そぎためぶつ暴幹とげだいかた。其國じん披古かい如帊,及為縵。おう乃用むらいとしゃ[23],以瓔珞繞とうちょ金冠きんかんだかじゃくあまりかたち如弁,つづり七寶しっぽうかざり帶金おびがねそうけんへんすわ金高きんだかすわ,以銀蹬支あし侍女じじょみなためきんはなざつたからかざりあるしろ毦拂及孔雀くじゃくおうぎおういずる以象輿こし輿こし以雜為之ためゆきうえほどこせぶたたますだれ。其導したがえ吹螺ほらがいげきおうせい憍陳如,ひつじどおり中國ちゅうごくもん其先及年すう不能ふのうげんはくきよしおう夫人ふじんそく其國おんな

  てんかんじゅうろくねん使つかいたてまつおもて獻金けんきんせきとう普通ふつうさんねん,其王しきとぎふく使つかいたまさとしけんじしろ鸚鵡おうむ[24]青蟲あおむしかぶと鍪、琉璃かいにしはいざつやくとうすうじゅうしゅ

ちゅう天竺てんじくこく

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  ちゅう天竺てんじくこくざい大月おおつきささえ東南とうなんすう千里せんり地方ちほうさんまんさといちめいどくかんちょう騫使だいなつ邛竹つえしょくぬの國人くにびとうん市之いちのどくそく天竺てんじく也。したがえがつささえこう西にしみなみいたる西海さいかいひがしいたりばんこし列國れっこくすうじゅうごとこくおけおう,其名雖異,みなどく也。かん羈屬がつささえ。其俗ちょあずかがつささえどう,而卑濕暑熱しょねつにんかしこせんじゃく于月ささえくに大江おおえめいしんすえみなもといずるこん侖。ぶんためそうめいつねすい其水きすい甘美かんびしもゆうしおいろせいはく如水じょすいせい土出つちいでさいぞうてんねずみ玳瑁たいまいひとし金銀きんぎんどうてつきむ縷織成金なりきん罽、ほそ靡白たたみこう裘、毾憕。ひとしじょう如雲ははしょく如紫きん有光ありみつ曜,べつのりうす如蟬つばさ[25]せきのり如紗縠之じゅう遝也。西にしあずか大秦たいしん安息あんそく交市海中かいちゅう大秦たいしん珍物ちんぶつ珊瑚さんご琥珀こはくきむあおいたま璣、琅玕、いくきんごうごうあいしょこうじるせんじこれ[26]自然しぜん一物いちもつ也。またうん大秦たいしんじんさいごうさき笮其じる以為あぶら,乃賣其滓あずか諸國しょこく賈人,輾轉てんてんらいたち中國ちゅうごくだいこう也。いくきむどく罽賓こくはなしょくせい而細,あずか芙蓉ふようはなさとはちすしゃ相似そうじ國人くにびと先取せんしゅ以上いじょう佛寺ぶつじせきけやき乃糞これ,賈人以轉賣てんばいあずか他國たこく也。

  かん桓帝のべきゅうねん大秦たいしんおうあんあつし使つかい日南にちなん外來がいらいけんじかんただいちつう焉。其國じんぎょう賈往往至扶南、日南にちなん、交址。其南徼諸國人くにびとしょうゆういた大秦たいしんしゃまごけんねんゆう大秦たいしん賈人しんろんらいいた交址,太守たいしゅくれ邈遣おくまいけんけんといろんかた風俗ふうぞくろん以事たいときしょかずらつとむ討丹黝、歙短じんろん曰:「大秦たいしんまれ此人。」けん男女だんじょかくじゅうにん吏會稽劉咸送ろん,咸於どう物故ぶっこ,乃徑かえ本國ほんごく也。

  漢和かんわみかど天竺てんじくすう使つかい貢獻こうけん西域せいいきはん叛遂ぜっいたり桓帝のべさんねんよんねんしきしたがえ日南にちなん外來がいらいけんじすすむぜっふくどおりただ扶南おう范旃遣おやじん勿使其國,したがえ扶南はつなげかかわ利口りこう,循海大灣おおわん中正ちゅうせい西北せいほくいれこよみわんあたりすうこくいち年余ねんよいた天竺てんじく江口えぐち逆水さかみずゆきなな千里せんり乃至ないし焉。天竺てんじくおうおどろき曰:「海濱かいひんごくとおなおゆう此人乎!」そくれいかんこく內,仍差ひねそうとう二人以月支馬四疋報旃,勿積よんねんかたいたり。其時ちゅうろうかんやすし使扶南,及見ひねそうひとしとい天竺てんじく土俗どぞくうん:「佛道ぶつどうしょ興國こうこく也。ひとあつし龐,にょう沃,其王ごうしげろんところ城郭じょうかくみずいずみ分流ぶんりゅうにょう于渠塹,したちゅう大江おおえ。其宮殿きゅうでんみな雕文鐫刻。まちまがりさと屋舍おくしゃろうかん鐘鼓しょうこ音樂おんがく服飾ふくしょく香華こうげ水陸すいりくどおりりゅうひゃく賈交かいうつわ玩珍瑋,ほしいまましんしょほっ左右さゆうよしみ維、しゃまもるなみとうじゅうろく大國たいこく天竺てんじくあるさん千里せんりきょうみことたてまつこれ,以為在天ざいてんなか。」

  てんかんはつ,其王こごめちょう竺羅たちたてまつおもてけんじ琉璃つばつぼざつかいとうぶつ

天竺てんじく迦毗はじむこく

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  天竺てんじく迦毗はじむこくげんよしみねん國王こくおうがつあい使つかいたてまつおもて獻金けんきんごうゆびたまき金環きんかんしょ寶物ほうもつあかしろ鸚鵡おうむかくいちとうあかりみかどやすしはじめねんまた使つかい貢獻こうけん,以其使しゅ竺扶だい、竺阿ちんなみためたてたけし將軍しょうぐん[27]げんよしみじゅうはちねんはじむ國王こくおうばつ使つかいけんじかたぶつこうたけしこうけんねんきん陀利國王こくおうしゃくばば鄰陀遣ちょう竺留陀及獻金けんきん銀寶ぎんぽこう廢帝はいていもと徽元ねんばばはじむこく使つかい貢獻こうけん[28]。凡此諸國しょこくみなごと佛道ぶつどう

  佛道ぶつどうこうかんあきらみかどほうはじめひがしりゅう以來いらい,其教ややひろべつため一家いっかこれがくげんよしみじゅうねん丹陽たんよういんしょう摹之そう曰:「ふつ於中こくやめれきよんだい,而自ごろ以來いらいさら以奢きおい為重ためしげ。請自いま以後いごゆうよく銅像どうぞうしゃ,悉詣だい聞;きょうづくり塔寺とうでら精舍しょうじゃみなさきれつごと,須許ほうしかこう就功。」みことのりまた沙汰さた沙門しゃもんやめ道者どうしゃすうひゃくにんこうたけし大明だいめいねんゆうくもりしめぎ道人みちひとあずか羌人だか謀反ぼうほんうえいんみことのり所在しょざいしらげ沙汰ざたゆう違犯いはんいむ其誅坐。於是しつらえしょじょうきん戒行せいなみ使還俗げんぞく,而諸てらあま出入でいりみやわき,交關,此制竟不能行よしゆきさきすすむ庾冰はじめそうほっ使沙門しゃもんけい王者おうじゃ桓玄ふくじゅつ其義,なみはてぎょう大明だいめいろくねんこうたけ使有司ゆうしそう沙門しゃもん接見せっけんみなつきけいみことのりぜん廢帝はいていはつ復舊ふっきゅう

  こうたけ寵姬ちょうきいん薨,為之ためゆきたててら鸞封しん安王やすおう以新やすため寺號じごうぜん廢帝はいていころせ鸞,乃毀はいしん安寺あてら僧徒そうとひろまた中興ちゅうこう天寶てんぽうしょてらあかりみかどていみだれしたれい修復しゅうふく

  そう名僧めいそう有道ありみちなま道人どうじん,彭城じんちちためこう戚令。道生どうしょうため沙門しゃもん法大ほうだい弟子でしよう而聰さとるとしじゅう便びんのうこうけい,及長ゆうかいたて頓悟とんご時人じじん推服すいふくげんよしみじゅういちねんそつ於廬さん沙門しゃもんとし琳為誄。

  とし琳者,しんぐんしんけんじんせいりゅうしょう出家しゅっけじゅう冶城てらゆうざいあきらけん內外まなべためいおりりょうおうよししんしょ。嘗著ひとしぜんろん,頗貶さい佛法ぶっぽううん:「ゆうしろがく先生せんせい,以為中國ちゅうごく聖人せいじん經綸けいりんひゃくせい,其德弘のりひろ矣,さとししゅうまんへん天人てんにんつき矣。みちかくれむねきょう罔遺筌,さとしあきらすすむあきらなに於殊ろん哉。ゆうくろがく道士どうし陋之,いいあきら幽冥ゆうめいぬりどる及來せいこれ,雖尚虛心きょしんのう虛事そらごと西域せいいきふか也。」ためきゃくぬしむくいこたえ,其歸以為「ろくあずか五教ごきょう並行へいこうしんじゅんあずか慈悲じひひとしだて」。ろんぎょう於世。きゅうそういい其敗黜釋よく擯斥ひんせきぶんみかどろんしょうげんよしみちゅうとげさんけんよう朝廷ちょうてい大事だいじみなあずか焉。賓客ひんきゃく輻湊ふくそうもんしゃつね有數ゆうすうじゅうりょう四方しほうおくまいないしょうけいいきおいかたぶけいちかたむしろななはちじょうつね滿まん。琳著だか屐,披貂裘,おけどおりていしょけん侔宰輔。かい稽孔覬嘗詣[29]ぐう賓客ひんきゃくはまむせ,暄敘而已。覬慨然がいぜん曰:「とげゆう黑衣くろご宰相さいしょういいかんむり屨失しょ矣。」ちゅうこうけい及莊逍遙しょうようへんぶんろんでん於世。

  またゆうとしいむとし道人どうじんなみじゅうひがし安寺あてらがくゆきしらげせいため道俗どうぞくしょ推。とき鬥場てら禪僧ぜんそう都下とか為之ためゆき曰:「鬥場禪師ぜんじくつひがしやす談義だんぎりん。」

  こうたけし大明だいめいよんねん,于中興寺ちゅうこうじしつらえとき有一ゆういちそう,眾莫識,もんめいとうげんめいあきらとししたがえてん安寺あてららいゆるがせしか天下てんか此寺めい,乃改中興ちゅうこう曰天安寺あてら大明だいめいちゅう外國がいこく沙門しゃもん訶衍苦節くせつ有精ゆうせい,於都出新いでしんけいしょうかずらけいゆうじゅうしゃくまなぶ

こく

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  こく天竺てんじくつくりこく也。其地てきふゆなつこと五穀ごこくずい人種じんしゅ須時ぶし。其國きゅう無人むじんとめゆう鬼神きじん及龍きょ諸國しょこく商估しょうこきょうえき鬼神きじん其形,ただし珍寶ちんぽうあらわ其所こらえ商人しょうにんあたいこれ諸國しょこくじん聞其らくいん此競いたりある有住ありずみしゃとげなり大國たいこく

  すすむ熙初,はじめ使つかいけんじだまぞうけいじゅう乃至ないしぞうだかよんしゃくすんたましょくきよしほとびかたちせいこととく,殆非人工じんこう。此像れきすすむそうざいかわらかんてらさきゆうせい戴安どうしゅせい佛像ぶつぞう軀,及顧ちょうやすし維摩畫圖えず世人せじんごうさんぜっいたりひとしひがし昏遂毀玉ぞうぜん截臂,ため嬖妾はんたかさく釵釧。

  そうげんよしみねん,其王刹利訶遣使たてまつおもて貢獻こうけん[30]じゅうねんまた使つかい奉獻ほうけんはり大通だいつう元年がんねんこうおう迦葉伽羅きゃら訶黎よこしま使使たてまつおもて貢獻こうけん

校勘こうかん

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  1. ゆう西にしえびすまたたたえおう 「西にしえびすはりしょさく西國さいごくえびす」。太平たいへい御覽ごらんさんきゅう0引異ぶつこころざしさく西にしほふえびす」。
  2. こう曹區れんころせ縣令けんれい 「れんりょう書作しょさくたち」。按すすむしょずいしょさつもとかめきゅうろくなみさくれん」。
  3. すすむなりみかど咸康さんねん 「さんねんはりしょどうすすむ書林しょりん邑傳さくねん」。
  4. ぶん本日ほんじつ南西なんせいまきけんえびすそち范幼やつ 「よう本字ほんじやや」,此避からいみなあらため
  5. ふつまご須達ふく寇日みなみきゅうとくしょぐん 「須達」はりしょどうすすむしょやすみかどさく「范達」。按須たちため范文まごまたたたえ「范達」。
  6. 咄立慕其ちちふく曰陽邁 「慕」かくほんさく「篡」,よりどころみなみひとししょ太平たいへい御覽ごらんななはちろく引改。
  7. 國王こくおうごとあまいぬいどう 「あまいぬいどう太平たいへい御覽ごらんななはちろく引、つうこころざしなみさく「竺乾どう」。
  8. おうだか戍勝よろい使つかいけんじかたぶつ 「戍」りょう書作しょさくしき」,したこう戍律陀羅ばつどう
  9. 扶南こく在日ざいにちみなみぐん南海なんかい西にし大灣おおわんちゅう 「ざいかく本並もとなみだっよりどころみなみひとししょはりしょ及冊もとかめきゅうなな。「うみ西にし大灣おおわんみなみひとししょ太平たいへい御覽ごらんななはちろく引作ひきつくり大海おおうみ西にしわん」。
  10. 頸長さんしゃく 「頸」かくほんさくあたま」,よりどころさつもとかめきゅうきゅうななあらため
  11. ひさしげん也 「ひさしりょう書作しょさくところ」。
  12. 國事こくじ大將たいしょう范蔓 「范蔓」みなみひとし書作しょさく「范師づる
  13. 使つかい沙門しゃもんやすほうほどみやつこしょうとう 「やすほうほどりょう書作しょさくやす法師ほうしほど」。
  14. また使つかい沙門しゃもんそうなおためさんそう 「りょう書作しょさくとぎ」。
  15. こうゆう三藏那跋摩識之云是阿育王爲第四女所造也 「しもはりしょゆうもとむ
  16. あかりみかど以其ちょう竺須いたる 「いたるかくほんさくとお」,よりどころそうしょあらため
  17. じゅうろくねんじゅう八年復遣使獻方物 按上やめじゅうろくねん」,のり此「じゅうろくねん衍文えんぶんそくゆうなまりあやまよりどころぶんみかどじゅうななねんまたばばたち國事こくじ
  18. 闍婆たちこく 「闍婆」しもそうしょさらゆうばば。按文みかどさく「闍婆しゃばたち」,つうこころざしどう
  19. 國王こくおうはじむばばたちしか陀羅ばつ使つかいたてまつおもて曰 「しか陀」そう書作しょさく「陀呵」。
  20. 陀利こくざい南海なんかいしゅうじょう 「陀利」そう書作しょさくきん陀利」。按天竺迦毗黎こくでんきん陀利こく」。「南海なんかいかくほんさく海南かいなん」,よりどころはりしょ太平たいへい御覽ごらんななはちなな引乙。
  21. 毗針よこしまばつりつ はりしょはり
  22. 女子じょしそく被布ひふ 「かく本並もとなみだっよりどころはりしょ
  23. おう乃用むらいとしゃ 「しゃりょう書作しょさくぬの」。
  24. 其王しきとぎふく使つかいたまさとしけんじしろ鸚鵡おうむ 「たまさとしりょう書作しょさくたまかいさとし」。
  25. べつのりうす如蟬つばさ 「うす如」かく本並もとなみだっよりどころはりしょ
  26. ごうあいしょこうじるせんじこれ したごうよりどころはりしょ
  27. また使つかい貢獻こうけん以其使しゅ竺扶だい竺阿ちんなみためたてたけし將軍しょうぐん うえ使つかいかく本並もとなみだっよりどころそうしょ。「おもねちんそう書作しょさく阿彌あみ」。
  28. こう廢帝はいていもと徽元ねんばばはじむこく使つかい貢獻こうけん 按婆はじむこくそくばば利國としくにうえばば利國としくによりどころはりしょためでん,此又よりどころそうしょためせつ重出じゅうしゅつ
  29. かい稽孔覬嘗詣 「あな覬」かくほんなまりためあな顗」,したどうこん改正かいせい。按宋しょゆうあな覬傳。
  30. そうもとよしみ五年其王剎利摩訶遣使奉表貢獻 「ねんりょう書作しょさくろくねん」,「訶」しもそうしょゆうみなみ
 まきななじゅうなな かえしかいいただき まきななじゅうきゅう

ほんとうあさ作品さくひんざいぜん世界せかいぞく公有こうゆう领域いん为作しゃ逝世やめ经遠とおちょう过100ねん

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