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史記/卷028 - 维基文库,自由的图书馆 とべ转到内容ないよう

史記しき/まき028

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 てんかんしょ だい 史記しき
まきじゅうはち ふうぜんしょ だいろく
かわみぞしょ だいなな 

受命じゅめい帝王ていおう,曷嘗ふうぜんぶた有無うむ其應而用事ようじしゃ矣,ゆう睹符みず而不臻乎泰山たいざんしゃ也。雖受命じゅめい而功いたりいたりはりちち矣而とくひろしひろし矣而ゆうひまきゅう即事そくじようまれつて曰:「さんねん不為ふためれいれい必廢;さんねん不為ふためらくらく必壞。」まいたかしのりふうぜんこたえ焉,及衰而息。厥曠とおしゃせん有餘ゆうよこんしゃすうひゃく其儀闕然堙滅いんめつ,其詳不可ふかとく而記聞云。

尚書しょうしょ》曰,しゅんざい璇璣だま衡,以齊ななせいとげるい上帝じょうてい,禋于ろくむねもち山川やまかわへんぐんしん。輯五みずよし月日つきひよんたけしょまきかえみずとしがつひがしじゅんかりいたり于岱むね。岱宗,泰山たいざん也。しばもち秩于山川やまかわとげ覲東きさきひがしきさきしゃ諸侯しょこう也。ごうがつ正日じょんいるどうりつ度量衡どりょうこうおさむれいたまさん帛二せい一死いっしにえ五月ごがつじゅんかりいたり南嶽みなみだけ南嶽みなみだけ,衡山也。八月はちがつじゅんかりいたり西嶽にしたけ西嶽にしたけ華山げさん也。十一月じゅういちがつじゅんかりいたりきただけ北岳きただけつねやま也。みな如岱宗之むねゆきれい中嶽なかだけ嵩高かさだか也。いちじゅんかり

禹遵こうじゅうよんせいいたりみかどあなかぶといんとくこうかみかみ瀆,りゅうこれ。其後さんせい桀,よく遷夏しゃ不可ふかさくなつしゃこうはちせいいたりみかどふとしつちのえゆう桑谷くわがいせい於廷,いちくれだい拱,懼。のぼる曰:「妖不勝德かつのり。」ふとしつちのえ修德しゅうとく桑谷くわがいのぼるさんみこ咸,みこ咸之きょう此始。こうじゅうよんせいみかどたけちょうとくでんせつ為相ためすけいん復興ふっこう焉,しょうだかむねゆう雉登かなえみみ雊,たけちょう懼。おのれ曰:「修德しゅうとく。」たけひのとしたがえ以永やすしこうせいみかどたけおつ慢神而震こうさんせいみかど紂淫みだれたけおうこれよし此觀はじめ嘗不肅祗,やや怠慢たいまん也。

しゅうかん曰,冬日ふゆびいたりまつてん南郊なんこうむかい長日ちょうじついたりなついたりまつり祗。みなようらくまい,而神乃可とく而禮也。天子てんしさい天下でんか名山めいざん大川おおかわたけさんおおやけよん瀆視諸侯しょこう諸侯しょこうさい其疆內名山めいざん大川おおかわよん瀆者,こうかわ、淮、すみ也。天子てんし曰明どう、辟雍,諸侯しょこう曰泮みや

しゅうこうすんでしょうなりおう,郊祀きさききび以配てんむねまつぶんおう於明どう以配上帝じょうてい禹興而修しゃまつきさききび稼穡,ゆうきびほこら,郊社しょ從來じゅうらいなお矣。

しゅうかついんじゅうよんせいせいえきおとろえ禮樂れいがくはい諸侯しょこうほしいままぎょう,而幽おうためけんえびすしょはい周東しゅうとう徙雒邑。はたじょうおおやけおさむえびすすくいしゅうはじめれつため諸侯しょこうはたじょうおおやけすんでこうきょ西にしたれ以為ぬししょう皞之しんさく西にし畤,ほこらしろみかど,其牲よう騮駒黃牛あめうし羝羊かくいちうん。其後じゅうろくねんはたぶんこうひがしりょう汧渭あいだ卜居ぼっきょ而吉。ぶんこうゆめへび天下てんか屬地ぞくち,其口とめ於鄜衍。ぶんこうといあつしあつし曰:「此上帝じょうていちょうきみ其祠。」於是さく鄜畤,よう三牲郊祭白帝焉。

さく鄜畤也,而雍つくりゆうようたけ畤,雍東ゆうこう畤,みなはいほこらある曰:「以雍しゅうつむだか神明しんめい隩,たて畤郊上帝じょうていしょ神祠しんしみな聚云。ぶたみかど用事ようじ,雖晚しゅうまた郊焉。」其語けい縉紳しんしんしゃみち

さく鄜畤きゅうねんぶんこうわかいしくも,于陳くら北阪きたさかじょうほこら。其神あるとしいたりあるとしすうらいらい也常以夜,光輝こうきわか流星りゅうせいしたがえ東南とうなん來集らいしゅう于祠じょうのりわか雞,其聲いんくも雞夜雊。以一ろうほこらいのち曰陳たから

さく鄜畤ななじゅうはちねんはたいさおおおやけすんでりつ卜居ぼっきょ雍,「こう子孫しそんいん於河」,とげ雍。雍之しょほこら此興。ようさんひゃくろう於鄜畤。さくふくほこらはりつけいぬ邑四もん,以御蠱菑。

とく公立こうりつねんそつ。其後ろくねんはたせんこうさくみつ畤於渭南,まつりあおみかど

其後じゅうよんねんはた公立こうりつ病臥びょうがにち寤;寤,乃言夢見ゆめみ上帝じょうてい上帝じょうていいのち公平きみひらすすむらん史書ししょ而記ぞう。而後世こうせいみな曰秦繆公上天じょうてん

はた繆公即位そくいきゅうねんひとし桓公かんこうすんで霸,かい諸侯しょこう於葵おか,而欲ふうぜんかんなか曰:「いにしえしゃふう泰山たいざんぜんはりちちしゃななじゅういえ,而夷われしょ記者きしゃじゅうゆう焉。むかしふところふう泰山たいざんぜん云云うんぬん;虙羲ふう泰山たいざんぜん云云うんぬんしんのうふう泰山たいざんぜん云云うんぬんえんみかどふう泰山たいざんぜん云云うんぬんみかどふう泰山たいざんぜん亭亭ていてい;顓頊ふう泰山たいざんぜん云云うんぬんみかど嚳封泰山たいざんぜん云云うんぬん;堯封泰山たいざんぜん云云うんぬんしゅんふう泰山たいざんぜん云云うんぬん;禹封泰山たいざんぜんかい稽;ふう泰山たいざんぜん云云うんぬんしゅうなりおうふう泰山たいざんぜんしゃくびみな受命じゅめいしかこうとくふうぜん。」桓公かんこう曰:「寡人きたやまえびすちく西にしだいなつわたるりゅうすなたばかかくるまうえ卑耳やまみなみいたり召陵,のぼり熊耳ゆうじやま以望江漢こうかんへい車之くるまのかいさん,而乘車之くるまのかいろくきゅうごう諸侯しょこういちただし天下でんか諸侯しょこう莫違むかしさんだい受命じゅめいまたなに以異乎?」於是かんなか睹桓おおやけ不可ふかきゅう以辭,いんしつらえ以事,曰:「いにしえふうじぜん,鄗上きび北里きたさと禾,所以ゆえんためもりこう淮之あいだいちちがやさん脊,所以ゆえんため藉也。東海とうかい致比さかな西海にしうみ致比つばさとりしかこうぶつゆう召而いたりしゃじゅうゆう焉。こんおおとりすめらぎ麒麟きりんよしみこくせい,而蓬蒿藜莠茂,みみずくふくろうすういたり,而欲ふうぜん,毋乃不可ふか乎?」於是桓公かんこう乃止。これさいはた繆公內晉くんえびすわれ。其後さんおけすすむ國之くにゆきくんひら其亂。繆公立こうりつさんじゅうきゅうねん而卒。

其後ひゃく有餘ゆうよねん,而孔論述ろんじゅつ六藝りくげいつて略言りゃくげんえきせい而王,ふう泰山たいざんぜん乎梁ちちしゃななじゅうあまりおう矣,其俎まめれいあきらぶたなんげんあるとい禘之せつ孔子こうし曰:「不知ふち禘之せつ,其於天下でんか也視其掌。」うん在位ざいいぶんおう受命じゅめいせい泰山たいざんたけおうかついんねん天下てんかやすし而崩。爰周德之のりゆきひろし維成おうなりおうふうじぜんそくきんこれ矣。及後陪臣ばいしん執政しっせいたび泰山たいざんなかそしこれ

萇弘以方ごとしゅうれいおう諸侯しょこう莫朝しゅうしゅうつとむしょう,萇弘乃明おに神事しんじしつらえ貍首。貍首しゃ諸侯しょこう來者らいしゃ物怪もっけよく以致諸侯しょこう諸侯しょこうしたがえ,而晉じんころせ萇弘。しゅうじんげんかたかいしゃ萇弘。

其後ひゃくねんはたれいおおやけさくようじょう畤,まつりみかどさく畤,まつりえんみかど

こうよんじゅうはちねん周太しゅうた儋見はたけんじこう曰:「はたはじめあずかしゅうあいごう而離,ひゃくさいとうふくあいごうじゅう七年而霸王出焉。」くぬぎきんはたけんじこう以為とくきむみずほさくあぜ畤櫟而祀しろみかど

其後ひゃく十歲而秦滅周,しゅうきゅうかなえにゅう于秦。ある曰宋ふとしおかしゃほろび,而鼎ぼつ于泗すい彭城

其後ひゃくいちじゅうねん而秦并天

はたはじめすめらぎすんで并天而帝,ある曰:「みかどとくとく龍地りゅうじ螾見。なつとく木德きとくあおりゅうとめ於郊,草木くさき暢茂のぶしげいんとくきむいさおぎんやま溢。しゅうとくとくゆうあかがらすこんしんへんしゅうみず德之のりゆきむかしはたぶんこう出獵しゅつりょうくろりゅう,此其すい德之のりゆきみず。」於是しんさらいのちかわ曰「とくすい」,以冬じゅうがつためねんくびしょくじょうくろろくためめいおとじょう大呂おおろことすべうえほう

そく帝位ていいさんねんひがしじゅんこおりけんほこら騶嶧さん,頌秦功業こうぎょう。於是ちょうしたがえひとし魯之儒生じゅせい博士はかせななじゅうにんいたり乎泰山下やましたしょ儒生じゅせいある曰:「いにしえしゃふうぜんためがましゃあくきずやま土石どせき草木くさき;埽地而祭,せきよう葅稭,げん其易遵也。」はじめすめらぎ聞此かく乖異,なんほどこせようゆかり此絀儒生じゅせい。而遂じょ車道しゃどううえ泰山たいざんいたり巔,立石たていし頌秦始皇帝しこうていとくあきら其得ふう也。したがえかげ道下とうげぜん於梁ちち。其禮頗采ふとししゅくまつ上帝じょうてい所用しょよう,而封ぞうみなとく而記也。

はじめすめらぎうえ泰山たいざんちゅうばんぐう暴風雨ぼうふううきゅう於大おだい樹下じゅかしょ儒生じゅせいすんで絀,あずかよう於封ごとれい,聞始すめらぎぐう風雨ふううのりそしこれ

於是はじめすめらぎとげ東遊あずまあそび海上かいじょうぎょうれいほこら名山めいざん大川おおかわ及八しんもとめ僊人とももんぞく。八神將自古而有之,ある曰太こう以來いらいさくひとし所以ゆえんためひとし,以天ひとし也。其祀ぜっ莫知おこり八神はっしんいち曰天ぬしほこらてんひとしてんひとしふちすいきょ臨菑南郊なんこう山下やましたしゃ地主じぬしほこら泰山たいざんはりちちぶたてんこうかげほこら必於高山こうざんしたしょう山之上やまのうえいのち曰「畤」;さい必於澤中さわなか圜丘うんさん曰兵ぬしほこら蚩尤。蚩尤ざい東平とうへいりくかんきょうひとしこれ西境にしさかい也。よん曰陰ぬしほこらさんやま曰陽ぬしほこら罘。ろく曰月ぬしほこら萊山。みなざいひとしきた,并勃うみなな曰日ぬしほこら成山なりやま成山なりやま入海いりうみさいきょひとし東北とうほくすみ,以迎日出にっしゅつうんはちよんぬしほこら瑯邪。瑯邪ざいひとし東方とうほうぶた歲之としゆきところはじめみなかくよういちろうほこら,而巫しゅくしょ損益そんえき,珪幣ざつ焉。

ひとしたけし宣之のぶゆき,騶子ろんちょ終始しゅうし五德ごとくうん,及秦みかど而齊じんそうはじめすめらぎさいよう。而宋毋忌、正伯せいはく僑、たかしなおとももんだか最後さいごみなつばめじんためかた僊道,かたちかい銷化,於鬼しんこと。騶衍以陰ぬしうんあらわ於諸こう,而燕ひとし海上かいじょうこれかたでん其術不能ふのうどおりしかのりかいまが阿諛あゆ茍合此興,不可ふかかつ數也かずや

せんつばめあきら使つかいじん入海いりうみもとめよもぎ萊、方丈ほうじょう、瀛洲。此三神山かみやましゃ,其傅ざい勃海ちゅうひととお;患且いたりのりせんふう引而去。ぶた嘗有いたりしゃしょ僊人及不くすりみなざい焉。其物禽獸きんじゅうつきしろ,而黃金銀きんぎんためみや闕。いたりもち如雲;及到,さん神山かみやまはんきょ水下みぞおち。臨之,ふう輒引おわり莫能いたりうんぬし莫不甘心かんしん焉。及至はたはじめすめらぎ并天いたり海上かいじょうのりかたげん不可ふかかちすうはじめすめらぎ以為いたり海上かいじょう而恐及矣,使つかいじん乃齎わらわ男女だんじょ入海いりうみもとめこれふね交海ちゅうみな以風ためかい,曰未のういたり望見ぼうけん焉。其明ねんはじめすめらぎふくゆう海上かいじょういたり瑯邪,つねさんしたがえじょうとうこうさんねんゆう碣石,こう入海いりうみかたしたがえ上郡かみごおりこうねんはじめすめらぎみなみいたり湘山,とげとうかい稽,并海じょう,冀遇海中かいちゅう三神みかみさんやくかえいたりすなおかくずし

せい元年がんねんひがしじゅん碣石,并海みなみれき泰山たいざんいたりかい稽,みなれいほこら,而刻勒始すめらぎしょ立石たていししょつくり,以章はじめすめらぎ功德くどく。其秋,諸侯しょこうほとりしんさんねんせい弒死。

はじめすめらぎふうぜんのちじゅうさいはたほろびしょ儒生じゅせいやましはた焚詩しょ,誅僇文學ぶんがく百姓ひゃくしょう怨其ほう天下てんかほとりみななまり曰:「はじめすめらぎじょう泰山たいざんため暴風雨ぼうふううしょげきとくふうぜん。」此豈所謂いわゆる其德而用事ようじしゃよこしま

むかし三代之君皆在河洛之間,嵩高かさだかため中嶽なかだけ,而四だけかく如其かたよん瀆咸ざい山東さんとういたりしんしょうみかど咸陽,のりだけよん瀆皆并在東方とうほうみかど以至しん,軼興軼衰,名山めいざん大川おおかわあるざい諸侯しょこうある在天ざいてん,其禮損益そんえきこと不可ふかかち。及秦并天れい祠官しかんしょつね奉天ほうてん地名じなさん大川おおかわ鬼神きじんとく而序也。

於是以東いとう名山めいざん大川おおかわほこら。曰太しつたいしつ嵩高かさだか也。つねさん泰山たいざんかい稽,湘山。みず曰濟,曰淮。はる以脯しゅためとしほこらいん泮凍,あき涸凍,ふゆふさが禱祠。其牲よううし犢各いちろう珪幣かくこと

はな以西いせい名山めいざんなな名川ながわよん。曰華さんすすきさんうすやましゃおとろえやま也。岳山たけやま岐山きざんたけしおおとり冢,瀆山。瀆山,しょく汶山。みず曰河,ほこら臨晉;沔,ほこらかんちゅう;湫淵,ほこらあさすいほこらしょくまた春秋しゅんじゅう泮涸禱塞,如東方とうほうめい山川やまかわ;而牲うし犢牢珪幣かくこと。而四だい冢鴻、岐、たけみなゆう嘗禾。

ちんたからたかしらいほこら。其河ゆう嘗醪。此皆ざい雍州いききん天子てんししゃいちじょう,騮駒よん

霸、さんちょうみず、灃、澇、涇、渭皆大川おおかわ,以近咸陽,つきとく山川やまかわほこら,而無しょ

汧、らくふち鳴澤なるさわ蒲山かばやまたけ胥山ぞくためしょう山川やまかわまたみなさい禱塞泮涸ほこられい必同。

而雍ゆうつきまいりたつみなみ北斗ほくと、熒惑、太白たいはくとしぼしはまほし二十八宿にじゅうはっしゅく風伯ふうはく雨師あめし四海しかいきゅうしんじゅうよんしんしょぬのしょげんしょ逑之ぞくひゃく有餘ゆうよびょう西にしまた有數ゆうすうじゅうほこら。於湖ゆうしゅう天子てんしほこら於下おした邽有天神てんじん。灃、滈有昭明しょうめい天子てんし辟池。於社、亳有さん社主しゃしゅほこらことぶきほしほこら;而雍かんびょうまたゆうもりぬしもりぬししゅうみぎ將軍しょうぐん,其在しんちゅう最小さいしょうひょうかみしゃかく以歲たてまつほこら

ただ雍四畤上帝為尊,其光景こうけいどう人民じんみんただひねたから雍四畤,はる以為とし禱,いん泮凍,あき涸凍,ふゆふさがほこら五月ごがつ嘗駒,及四仲之月祠若月祠,ひねたからぶしらいいちほこらはるなつよう騂,秋冬あきふゆよう駵。畤駒よんひき禺龍欒車いち禺車いちかく如其みかどしょく犢羔かくよん,珪幣かく有數ゆうすうみなせい瘞埋,まないたまめさんねんいち郊。はた以冬じゅうがつためとしくびつねじゅうがつ上宿かみじゅく郊見,つうけんはい於咸つくり,而衣上白じょうはく,其用如經ほこらうん西にし畤、あぜ畤,ほこら如其じょうおや往。

しょ此祠みなふとほうりつねぬし,以歲たてまつほこらいたり如他めい山川やまかわしょおに及八しんぞくうえのりほこらのりやめこおりけん遠方おちかた神祠しんししゃみん各自かくじたてまつほこらりょう於天しゅくかんしゅく官有かんゆうしゅくそくゆう菑祥,輒祝ほこらうつり於下おした

かんきょう高祖こうそほろ,嘗殺大蛇おろちゆうぶつ曰:「へびしろみかど也,而殺しゃあかみかど。」高祖こうそはつおこり,禱豐枌榆しゃ。徇沛,ため沛公,のりほこら蚩尤,釁鼓とげじゅうがついたり灞上,あずか諸侯しょこうひら咸陽,たてためかんおうよしじゅうがつためねんくび,而色じょうあか

ねんひがしげきこうせき而還いれせきもん:「しん上帝じょうていほこらなんみかど也?」たい曰:「よんみかどゆうしろあおあかみかどほこら。」高祖こうそ曰:「われ聞天ゆうみかど,而有よんなん也?」莫知其說。於是高祖こうそ曰:「われ知之ともゆき矣,乃待わが而具也。」乃立くろみかどほこらいのち曰北畤。有司ゆうししんほこらうえおや往。悉召はたはじめかんふくおけぶとしゅく太宰だざい,如其儀禮ぎれいいんれいけんため公社こうしゃしたみことのり曰:「われ甚重ほこら而敬さいこん上帝じょうていまつり山川やまかわしょかみとうほこらしゃかく以其れいほこら如故。」

こうよんさい天下てんかやめじょうみことのりれいゆたか謹治きんじ枌榆しゃつね以四時春以羊彘祠之。れいしゅく官立かんりつ蚩尤ほこら於長やすちょう安置あんちほこらしゅくかんおんなみこ。其梁みこほこらてんてんしゃ天水てんすいぼうちゅう堂上どうじょうぞくすすむみこほこらみかどひがしくんくもちゅうつかさいのちみこしゃみこほこらぞくじんさき炊之ぞくはたみこほこら社主しゃしゅみこたもてぞく纍之ぞく;荊巫,祠堂しどうみこさきつかさいのちほどこせ糜之ぞく九天きゅうてんみこほこら九天きゅうてんみな以歲ほこら宮中きゅうちゅう。其河みこほこらかわ於臨すすむ,而南山なんざんみこほこら南山なんざんしんちゅうはたちゅうしゃせい皇帝こうていかくゆうがつ

其後さいある曰周きょう而邑邰,立后りっこうきびほこらいたりこんしょく天下でんか。於是高祖こうそせいみことのり:「其令ぐんこく縣立けんりつれいぼしほこらつね以歲ほこら以牛。」

高祖こうそじゅうねんはる有司ゆうし請令けんつね以春三月及時臘祠社稷以羊豕,みんさとしゃ各自かくじざい以祠。せい曰:「。」

其後じゅうはちねん孝文たかふみみかど即位そくい即位そくいじゅうさんねんしもみことのり曰:「こんしゅくうつり于下,ちん甚不自今じこんじょ。」

はじめ名山めいざん大川おおかわざい諸侯しょこう諸侯しょこうしゅく各自かくじたてまつほこら天子てんしかんりょう。及齊、淮南ワイナンこくはいれいふとししゅくつき以歲致禮如故。

これさいせい曰:「ちん即位そくいじゅうさんねん于今,よりゆき宗廟そうびょうれい社稷しゃしょくぶくぽう內艾やすみんじん靡疾。あいだしゃねんとうちん不德ふとくなに以饗此?みな上帝じょうていしょかみたまもの也。ぶた聞古しゃきょう其德必報其功,よくゆうぞうしょ神祠しんし有司ゆうしぞう雍五畤路しゃかくいちじょう西にし畤畦畤禺しゃかくいちじょう,禺馬よんひき;其河、湫、かんすいだまかく;及諸ほこらかくぞうこうだんじょう,珪幣まないたまめ以差。而祝しゃぶく於朕,百姓不與焉。自今じこんしゅく致敬,毋有しょいのり。」

魯人公孫こうそんしん上書うわがき曰:「はじめはたとくすいとくこんかん受之,推終始しゅうしつてのりかんとうとく德之のりゆきおう龍見たつみむべ改正かいせいついたちえきふくしょくしょくじょう。」丞相じょうしょうちょうあおいこうりつれき,以為かん乃水德之のりゆきはじめかわけつきん隄,其符也。年始ねんしふゆじゅうがついろがいくろ內赤,あずかとく相應そうおう。如公まごしんごと也。やめこれこうさんさい龍見たつみ成紀しげのりぶんみかど乃召公孫こうそんしんはいため博士はかせあずかしょなまくさあらためれきふく色事いろごと。其夏,しもみことのり曰:「異物いぶつかみ于成無害むがい於民,さい以有ねんちんいのり上帝じょうていしょかみれいかんいみな以勞ちん。」有司ゆうしみな曰「いにしえしゃ天子てんしなつおや郊,まつ上帝じょうてい於郊,曰郊」。於是なつよんがつぶんみかどはじめ郊見雍五畤祠,ころも皆上みなかみあか

其明ねんちょうじん新垣あらかきひら以望見上みあげげん長安ながやす東北とうほくゆう神氣しんきなりさい若人わこうどかんむり絻焉。ある曰東北神明きたしんめいこれしゃ西方せいほう神明しんめいはか也。てんみずむべたてほこら上帝じょうてい,以合符あいふおう」。於是さく渭陽帝廟ていびょうどう宇,みかどいち殿どのめんかくもんかく如其みかどしょくほこら所用しょよう及儀また如雍畤。

なつよんがつぶんみかど親拜しんぱい霸渭かい,以郊渭陽みかど帝廟ていびょうみなみ臨渭,きた穿ほじ蒲池かまちみぞすいけん舉而ほこらわかひかり煇然ぞくてん焉。於是貴平きへいじょう大夫たいふたまものるい千金せんきん。而使博士はかせしょなまとげろくけいちゅうさく王制おうせい謀議ぼうぎじゅんかりふうぜんごと

ぶんみかど長門ながと若見わかみにん於道きたとげいん其直きたりつみかどだんほこら以五ろう

其明ねん新垣あらかきひら使つかいじん玉杯ぎょくはい上書うわがき闕下けんじこれひら言上ごんじょう曰:「闕下ゆう寶玉ほうぎょく來者らいしゃ。」やめはてゆうけんじ玉杯ぎょくはいしゃこく曰「ひとぬし延壽えんじゅ」。平又ひらまたごとしんこうさいなか」。きょごろにち卻復ちゅう。於是はじめさらじゅうななねんため元年がんねんれい天下てんかだい酺。

ひらげん曰:「しゅうかなえほろびざい泗水しすいちゅうこんかわ溢通泗,しんもち東北とうほく汾陰ちょく有金ありかねたからしゅうかなえ其出乎?兆見不迎則不至。」於是上使じょうし使びょう汾陰みなみ,臨河,よくほこらしゅうかなえ

ひとゆう上書うわがきつげ新垣あらかきたいらしょげん神事しんじみないつわり也。下平しもだいら吏治,誅夷新垣あらかきたいらこれぶんみかどだる改正かいせいついたちふくしょく神明しんめいこと,而渭長門ながとみかど使祠官しかんりょう,以時致禮,往焉。

明年みょうねん匈奴きょうどすういれあたりきょうへいもりこうとししょうとう

すうねん而孝けい即位そくいじゅうろくねん祠官しかんかく以歲ほこら如故,ゆうしょきょういたりこん天子てんし

こん天子てんしはつ即位そくいゆうけい鬼神きじんまつ

元年がんねんかんきょうやめろくじゅうさい矣,天下てんかもぐさやす,搢紳ぞくみなもち天子てんしふうぜん改正かいせい也,而上きょう儒術,招賢りょうちょうたがねおう臧等以文學ぶんがくため公卿くぎょうよく古立ふるたちあかりどう城南しろみなみ,以朝諸侯しょこうくさじゅんかりふうぜんあらためれきふく色事いろごと就。かい竇太きさきろうげんこう儒術,使つかいじんほろ伺得ちょうたがねとうかんごと,召案たがね、臧,たがね、臧自殺じさつもろしょきょうためみなはい

こうろくねん,竇太きさきくずし。其明ねんしるし文學ぶんがく公孫こうそんひろとう

明年みょうねん今上きんじょうはついたり雍,郊見畤。こうつねさんさいいち郊。じょうもとめ神君しんくん,捨之上林うえばやしちゅう蹄氏かん神君しんくんしゃちょうりょう女子じょし,以子神於こうの先後せんごあてわかあてわかほこら其室,みん往祠。平原ひらはらくん往祠,其後子孫しそん以尊あらわ。及今じょう即位そくいのりあつれいおけほこら內中。聞其ごと其人うん

これしょうきみまた以祠灶、こくどう、卻老かた見上みあげうえたかしこれしょうくんしゃ深澤ふかさわこう舍人とねりおもかた。匿其ねん及其生長せいちょうつねいいななじゅうのう使ぶつ,卻老。其游以方へん諸侯しょこう妻子さいしひと聞其のう使ぶつ及不さら饋遺つねあまり金錢きんせん衣食いしょくひとみな以為不治ふち生業せいぎょう而饒きゅうまた不知ふち其何しょじんいよいよしんじそうごとしょうくんかたぜんためたくみはつちゅう。嘗從武安たけやすこういんすわ中有ちゅううきゅうじゅうあまり老人ろうじんしょうきみ乃言あずか其大ちちゆうしゃしょろう人為じんいしたがえ其大ちち,識其しょ,一坐盡驚。しょうきみ見上みかみうえゆう銅器どうきもんしょうきみしょうきみ曰:「此器ひとし桓公かんこうじゅうねんひね於柏。」やめ而案其刻,はてひとし桓公かんこう一宮いちのみやつき駭,以為しょうくんしんすうひゃくさいじん也。

しょうくん言上ごんじょう曰:「ほこら灶則致物,致物而丹すなため黃金おうごん黃金おうごんなり以為飲食いんしょくのりえきことぶきえきことぶき而海ちゅうよもぎ萊僊しゃ乃可みる以封ぜんそく不死ふしみかど是也これやしん嘗游海上かいじょうやす期生きせいやす生食なましょくきょなつめだい如瓜。やすせい僊者,つうよもぎ萊中,ごうそくじんごうそくかくれ。」於是天子てんしはじめしんほこら灶,遣方やりかた入海いりうみもとめよもぎ萊安せいぞく,而事すなしょくすりひとしため黃金おうごん矣。

きょ久之ひさゆきしょうくん病死びょうし天子てんし以為不死ふし,而使おもりひろし舒受其方。もとめよもぎ萊安せい莫能,而海じょうつばめひとしかいまがこれかた士多したさらげん神事しんじ矣。

亳人謬忌そうほこらふと一方いっぽう,曰:「天神てんじんとうとしゃ太一たいち太一たいち曰五みかどいにしえしゃ天子てんし以春秋祭あきまつり太一たいちひがし南郊なんこうもちいぶとろうななにちためだんひらくはちつう鬼道きどう。」於是天子てんしれいふとししゅくりつ其祠ちょう安東あんどう南郊なんこうつねたてまつほこら如忌かた。其後じんゆう上書うわがきげんいにしえしゃ天子てんし三年壹用太牢祠神三一:てんいちいち太一たいち」。天子てんしもとれいふとししゅくりょうほこら於忌太一たいち壇上だんじょう,如其かた後人こうじんふくゆう上書うわがきげんいにしえしゃ天子てんしつね以春かいほこらほこらみかどよういちふくろう破鏡はきょうめいひつじようひつじほこら行用ぎょうよう一青ひとと牡馬ぼば太一たいち澤山さわやまくんちょうよううしえびすくんよういぬいぎょ陰陽いんよう使者ししゃ以一うし」。れい祠官しかんりょう如其かた,而祠於忌太一たいちだんつくり

其後,天子てんしえんゆうしろ鹿しか,以其がわためぬさ,以發瑞應ずいおうみやつこ白金はっきん焉。

其明ねん,郊雍,一角獸いっかくじゅうわか麃然。有司ゆうし曰:「陛下へいか肅祗郊祀,上帝じょうていほうとおるすず一角獸いっかくじゅうぶた麟云。」於是以薦畤,畤加いちうし以燎。すず諸侯しょこう白金はっきんふうおうあい于天也。

於是ずみきたおう以為天子てんし且封ぜん,乃上書うわがきけんじ太山たいざん及其つくり邑,天子てんし以他けんつぐなえこれつね山王さんのう有罪ゆうざい,遷,天子てんしふう其弟於真じょう,以續先王せんおうまつ,而以常山つねやまためぐんしかのちたけみな在天ざいてんぐん

其明ねんひとしじんしょうおきな以鬼かみかた見上みあげうえゆうしょこうおう夫人ふじん夫人ふじんそつしょうおきな以方ぶたよる致王夫人ふじん及灶おに貌云,天子てんしとばりちゅう望見ぼうけん焉。於是乃拜しょうおきなため文成ふみなり將軍しょうぐん賞賜しょうし甚多,以客れいれい文成ふみなりげん曰:「うえそくほっあずか神通じんずう宮室きゅうしつ被服ひふくぞうしんかみぶついたり。」乃作畫さくが雲氣うんきしゃ,及各以勝しゃ惡鬼あっきまたつくあま泉宮いずみみやちゅうためだいしつかくてん太一たいちしょ鬼神きじん,而置祭具さいぐ以致天神てんじんきょとしあまり,其方えきおとろえかみいたり。乃為帛書以飯うししょう不知ふちげん曰此うしはら中有ちゅううころせとくしょしょげん甚怪。天子てんし識其手書しゅしょもん其人,はて偽書ぎしょ,於是誅文なり將軍しょうぐんかくれこれ

其後そくまたさくかしわはりどうばしらうけたまわ僊人てのひらぞく矣。

文成ふみなり明年みょうねん天子てんしびょうかなえ甚,みこしょ致,いよいよゆうみず發根はっこん言上ごんじょうぐんゆうみこやまい而鬼しん下之したのうえ召置ほこらあまいずみ。及病,使つかいじんとい神君しんくん神君しんくんげん曰:「天子てんしゆうびょうやまいすくないよいよつよしあずかわがかいあまいずみ。」於是びょういよいよとげおこりこうあまいずみやめやめ大赦たいしゃおけことぶきみや神君しんくんことぶきみや神君しんくんさいたかしゃ太一たいち,其佐曰大きんつかさいのちぞくみなしたがえこれとく,聞其ごとげんあずかひとおんとうときときらいのりふう肅然しゅくぜん居室きょしつとばりちゅうときひるげんしかつね以夜。天子てんしはらいしかこういれよしみこため主人しゅじんせき飲食いんしょく所以ゆえんげんぎょうまたおけことぶきみや北宮きたみやちょうはねしつらえきょう,以禮神君しんくん神君しんくんしょげん上使じょうしじん受書うけしょ其言,いのち曰「ほう」。其所世俗せぞくところ知也ともやぜっことしゃ,而天子てんしこころどく。其事せい知也ともや

其後さんねん有司ゆうしげんもとむべ以天みずいのちむべ以一すう一元いちげん曰「けん」,二元以長星曰「ひかり」,三元以郊得一角獸曰「かりうん

其明ねんふゆ天子てんし郊雍,曰:「こん上帝じょうていちんおや郊,而后まつのりれいこたえ也。」有司ゆうし與太よたおおやけ祠官しかんひろし舒議:「天地てんち牲角まゆぐりこん陛下へいかおやほこらきさききさきむべ於澤ちゅう圜丘ためだんだん一黃犢太牢具,やめほこらつき瘞,而從ほこらころもじょう。」於是天子てんしとげひがしはじめ立后りっこうほこら汾陰脽丘,如寬舒等うえおやもちはい如上じょじょうみかどれいれい畢,天子てんしとげいたり滎陽而還。雒陽,しもみことのり曰:「さんだい邈絕,とお矣難そん。其以さん十里地封周後為周子南君,以奉其先まつ焉。」これさい天子てんしはじめじゅんこおりけんおかせひろ泰山たいざん矣。

其春,らくなりこう上書うわがきごと欒大。欒大,にかわ東宮とうぐうじん嘗與文成ふみなり將軍しょうぐんどうやめ而為にかわひがしおうひさしかた。而樂なりこう姊為やすしおうきさきかんおう姬子ひめごりつためおう。而康きさきゆう淫行いんこうあずかおうそうちゅうあい危以ほうかんきさき聞文なりやめ,而欲こび於上,乃遣欒大いんらくなりほうもとむげんかた天子てんしすんで誅文なり後悔こうかい其蚤,惜其かた不盡ふじん,及見欒大,だいせつだいためじんちょうげん方略ほうりゃく,而敢為かんい大言たいげんしょうたぐ大言たいげん曰:「しんつね往來おうらい海中かいちゅうやすとももんぞく。顧以しんため賤,不信ふしんしんまた以為やすしおう諸侯しょこうみみ不足ふそくあずかかたしんすうことやすしおうかんおうまた不用ふようしんしん曰:『黃金おうごんなり,而河けつふさが不死ふしくすり,僊人致也。』しかしんおそれこう文成ふみなりのりかたみな奄口,あく敢言かた哉!」じょう曰:「文成ふみなりしょくきもみみまことのうおさむ其方,わがなにあい乎!」だい曰:「しんゆう求人きゅうじんにんしゃもとめこれ陛下へいか必欲致之,のり其使しゃれいゆうおやぞく,以客れいまち,勿卑,使つかいかく佩其しんしるし,乃可使通言つうげん於神じん神人しんじんなお肯邪よこしま。致尊其使,しか致也。」於是上使じょうしけん小方おがた,鬬棋,棋自しょうさわげき

これ上方かみがたゆうかわけつ,而黃きん就,乃拜だいため將軍しょうぐんきょ月餘げつよとくよんしるし,佩天將軍しょうぐん將軍しょうぐん大通だいつう將軍しょうぐんしるしせいみことのり:「むかし禹疏きゅうけつよん瀆。あいだしゃかわ溢皋りく,隄繇いきちん臨天じゅうゆうはちねん天若あまわかのこちん而大どおり焉。いぬいしょう『蜚龍』,『おおとりやや于般』,ちん庶幾しょきあずか焉。其以千戶封地士將軍大為樂通侯。」たまもの列侯れっこうかぶとだい,僮せんにんじょう轝斥車馬しゃば帷幄いあく器物きぶつ以充其家。また以衛ちょう公主こうしゅつま,齎金まんきんさらいのち其邑曰當公主こうしゅ天子てんしおや如五利之としゆきだい使者ししゃそんとい供給きょうきゅうあいぞく於道。自大じだい主將しゅしょうしょう以下いかみなおけしゅ其家,けんじのここれ。於是天子てんしまたこくだましるし曰「天道てんとう將軍しょうぐん」,使つかい使ころも羽衣はごろも夜立よだち白茅ちがやじょう,五利將軍亦衣羽衣,夜立よだち白茅ちがやじょう受印,以示しん也。而佩「天道てんとうしゃ,且為天子てんしどう天神てんじん也。於是五利常夜祠其家,ほし以下いかかみかみいたりひゃくおにしゅう矣,しか頗能使。其後そうぎょうひがし入海いりうみもとめ其師うん大見おおみすうがつ,佩ろくしるしふるえ天下でんか,而海じょうつばめひとしあいだ,莫不搤捥而自げんゆうきんかたのうしん僊矣。

其夏ろくがつちゅう,汾陰みこにしきためみんほこら脽后營旁,見地けんち如鉤じょう,掊視とくかなえかなえだい於眾かなえぶんちりばめ款識,かいげん吏。吏告河東かとう太守たいしゅかちしょう以聞。天子てんし使使けんといみことくかなえかんいつわり,乃以れいほこらむかいかなえいたりあまいずみしたがえくだりうえこもいたり中山なかやま,曣溫,ゆううんぶた焉。ゆう麃過,うえこれいん以祭うんいたり長安ながやす公卿くぎょう大夫たいふみな請尊たからかなえ天子てんし曰:「あいだしゃかわ溢,さいすうとうじゅんさいきさきいのりため百姓ひゃくしょうそだてこくこんとしゆたか廡未むくいかなえ曷為哉?」有司ゆうしみな曰:「聞昔たいみかどきょうしんかなえいちいちしゃいちすべ天地てんち萬物所系終也。みかどさくたからかなえさんぞう天地人てんちじん。禹收きゅう牧之ぼくしきんきゅうかなえみな嘗亨鬺上帝じょうてい鬼神きじん。遭聖そくきょうかなえ遷于なつしょうしゅういさおおとろえそうこれしゃほろびかなえ乃淪ぼつふく而不。頌云『どう徂基,ひつじ徂牛;鼐鼎及鼒,驁,えびすこうきゅう』。こんかなえいたりあまいずみひかりじゅんりゅうへんうけたまわきゅう疆。ごう茲中さんゆう黃白こうはくうんくだぶたわかししためみちゆみじょうしゅうだんほうほこらだいとおるただ受命じゅめい而帝しゃこころ其意而合とく焉。かなえむべ於祖禰,ぞう於帝廷,以合あかりおう。」せい曰:「。」

入海いりうみもとめよもぎ萊者,げんよもぎ萊不とお,而不能ふのういたりしゃ,殆不其氣。うえ乃遣もちこう其氣うん

其秋,うえみゆき雍,且郊。ある曰「みかど太一たいち也,むべたて太一たいち而上おや郊之」。うえうたぐ未定みていひとしじん公孫こうそんきょう曰:「今年ことしたからかなえ,其冬からしついたちだん冬至とうじあずかみかどとう。」きょうゆうさつしょ曰:「みかどとくたからかなえあて朐,もん於鬼臾區。おに臾區たい曰:『みかどとくたからかなえかみさくこれさいおのれとりついたちだん冬至とうじとくてんきのおわり而復はじめ。』於是みかどむかえ推策,りつじゅうさいふくついたちだん冬至とうじ,凡じゅう推,さんひゃくはちじゅうねんみかど僊登于天。」きょういんしょちゅうよくそうところただし其書けいうたぐ其妄しょしゃ曰:「たからかなえごとやめぎま矣,なおなに以為!」きょういん嬖人そう上大かみおおせつ,乃召といきょうたい曰:「受此しょさるこうさるこうやめ。」じょう曰:「さるこう何人なんにん也?」きょう曰:「さるこうひとしじんあずかやす期生きせいどおり,受黃みかどごとしょどくゆう此鼎しょ。曰『かんきょうふくとうみかどこれ』。曰『かん聖者せいじゃざい高祖こうそまご且曾まご也。たからかなえ而與神通じんずうふうぜんふうぜんななじゅう二王におうただみかどどくじょう泰山たいざんふう』。さるこう曰:『かんぬしまたとううえふうじうえふうのう僊登てん矣。みかどまん諸侯しょこう,而神れいふうじきょななせん天下てんか名山めいざんはち,而さんざい蠻夷ばんい在中ざいちゅうこく中國ちゅうごく華山かざんくびさんふとししつ泰山たいざんひがし萊,此五山黃帝之所常游,あずかかみかいみかど且戰且學僊。患百姓ひゃくしょう其道しゃ,乃斷鬼神きじんしゃ。百餘歲然後得與神通。みかど郊雍上帝じょうてい宿やどさんがつおに臾區ごうだいおおとりそう雍,おおとり是也これや。其後みかどせっまんれいあかり廷。あかり廷者,あまいずみ也。所謂いわゆるかんもんしゃ谷口たにぐち也。みかどさいくびやまどうかなえ於荊山下やましたかなえ既成きせいゆうりゅうたれえびすひげむかえみかどみかどじょう群臣ぐんしん後宮こうきゅうしたがえうえしゃななじゅう餘人よにんりゅう乃上しょうしんとくじょう,乃悉りゅうひげりゅうひげ拔,墮,墮黃みかどゆみ。百姓仰望黃帝既上天,乃抱其弓あずかえびすひげごう後世こうせいいんめい其處曰鼎,其弓曰烏ごう。』」於是天子てんし曰:「嗟乎!われまこととく如黃みかどわれ妻子さいし如脫屣耳。」乃拜きょうためろうひがし使こう神於こうのたいしつ

うえとげ郊雍,いたり隴西,西にしとう崆峒,こうあまいずみれい祠官しかんひろし舒等太一たいちほこらだんほこらだんうす太一たいちだんだんさん垓。五帝壇環居其下,かく如其かたみかど西南せいなんじょはちつう鬼道きどう太一たいち,其所よう如雍いち畤物,而加醴棗脯之ぞくころせ一貍牛以為俎豆牢具。而五帝獨有俎豆醴進。其下四方しほうため醊食ぐんかみ從者じゅうしゃ北斗ほくとうんやめほこら,胙餘みな燎之。其牛色白いろじろ鹿しかきょ其中,彘在鹿中しかなかみず而洎祭日さいじつ以牛,まつりがつ以羊彘特。ふと一祝宰則衣紫及繡。みかどかく如其しょく日赤にっせき月白つきしろ

じゅう一月辛巳朔旦冬至,昧爽まいそうてんはじめ郊拜太一たいちちょう朝日あさひゆうゆうがつのり揖;而見太一たいち如雍郊禮。其贊きょう曰:「てんはじめ以寶かなえかみさく皇帝こうていさく而又ついたちおわり而復はじめ皇帝こうていけい拜見はいけん焉。」而衣じょう。其祠列火れっか滿まんだんだんつくりとおる炊具。有司ゆうしうんほこらうえ有光ありみつ焉」。公卿くぎょうごと皇帝こうていはじめ郊見太一たいちうん有司ゆうしたてまつ瑄玉よしみ牲薦きょうよるゆう美光びこう,及晝,じょうぞくてん」。たいおおやけ祠官しかんひろし舒等曰:「神靈しんれいきゅうゆうぶくちょうさちむべいん此地こういきりつふとし畤壇以明おうれいふとしほうりりょうあき及臘あいだほこらさんさい天子てんしいち郊見。」

其秋,ため南越なんごしつげ禱太いち。以牡荊畫はた日月じつげつ北斗ほくとのぼりりゅう,以象太一たいち三星みつぼしため太一たいちほこさきいのち曰「れい」。ためへい禱,のりたいたてまつ以指しょこく。而五利將軍使不敢入海,これ泰山たいざんほこら上使じょうしじんずいけんじつ所見しょけん。五利妄言見其師,其方つき讎。上乃うえの誅五

其冬,公孫こうそんきょうこうしん河南かなんげん僊人あと緱氏城上じょうかみゆうぶつ如雉,往來おうらいじょうじょう天子てんしおやこう緱氏じょうあとといきょう:「とく毋效文成ふみなり乎?」きょう曰:「僊者ゆう求人きゅうじんぬしにんぬししゃもとめこれ。其道しょうひろしかりかみらいげん神事しんじこと如迂誕,せき以歲乃可致也。」於是ぐんこくかくじょどうつくろえみやかん名山めいざん神祠しんししょ,以望こう矣。

其春,すんでめつ南越なんごしうえゆう嬖臣へいしんのべねん以好おんうえ善之よしゆきしも公卿くぎょう,曰:「民閒みんかんほこらひさしゆう鼓舞こぶらくこん郊祀而無らくあにたたえ乎?」公卿くぎょう曰:「いにしえしゃほこら天地てんちみな有樂うらく,而神祇じんぎとく而禮。」ある曰:「ふとしみかど使もとおんなじゅうげん瑟,悲,みかどきんとめやぶ其瑟ためじゅうげん。」於是ふさが南越なんごし,禱祠太一たいちきさきはじめようらくまいえき召歌さくじゅう五弦及空侯琴瑟自此起。

來年らいねんふゆうえ曰:「いにしえしゃさきへいさわたびしかこうふうぜん。」乃遂きたじゅんついたちかた,勒兵じゅうあまりまんかえさいみかど冢橋さんしゃくへい須如。うえ曰:「われ聞黃みかど不死ふしこんゆう冢,なに也?」あるたい曰:「みかどやめ上天じょうてん群臣ぐんしんそう衣冠いかん。」すんでいたりあまいずみため用事ようじ泰山たいざんさきるいほこら太一たいち

自得じとくたからかなえうえあずか公卿くぎょうしょなまふうぜんふうぜんようまれ曠絕,莫知其儀禮ぎれい,而群儒采ふうぜん尚書しょうしょしゅうかん王制おうせいもちまつうしごとひとしじんちょうこうねんきゅうじゅうあまり,曰:「ふうぜんしゃごう不死ふしめい也。はた皇帝こうていとくじょうふうじ陛下へいか必欲じょうややうえそく無風むふうとげじょうふう矣。」じょう於是乃令しょ儒習しゃうしくさふうぜんすうねんいたり且行かつゆき天子てんしすんで聞公まごきょう及方げんみかど以上いじょうふうぜんみな致怪ぶつあずか神通じんずうほしみかど以上いじょうせっしん僊人よもぎ萊士,高世たかせとく於九すめらぎ,而頗さい儒術以文ぐん儒既やめ不能ふのう辨明べんめいふうぜんごとまた牽拘於詩しょ古文こぶん不能ふのう騁。うえためふうぜんほこらしめせぐん儒,ぐん儒或曰「あずかどう」,じょ偃又曰「ふとしつねしょせいぎょうれい如魯ぜん」,しゅう霸屬ふうぜんごと,於是じょう絀偃、霸,而盡やめしょ儒不よう

さんがつとげ東幸ひがしさいわい緱氏,れいとう中嶽なかだけたいしつしたがえかんざい山下やました聞若ゆうごと萬歲ばんざいうんといじょううえ不言ふげんといしも不言ふげん。於是以さん百戶封太室奉祠,いのち曰崇高邑たかむら東上とうじょう泰山たいざん泰山たいざん草木くさき未生みしょう,乃令じんじょう石立いしたて泰山たいざん巔。

うえとげひがしじゅん海上かいじょうぎょうれいほこらはちかみひとしじんうえ疏言しん怪奇かいきかたしゃ以萬すうしか驗者げんじゃ。乃益發船はっせんれいげん海中かいちゅう神山かみやましゃすう千人求蓬萊神人。公孫こうそんきょうぶしつね先行せんこうこう名山めいざんいたりひがし萊,げん夜見よみ大人おとなちょうすうたけ,就之そく其跡甚大じんだいるい禽獸きんじゅううん群臣ぐんしんゆうごといち老父ろうふ牽狗,げんわれよくきょこう」,やめゆるがせうえそく大跡おおあとしんじ,及群臣ぐんしんゆうごと老父ろうふのりだい以為僊人也。宿やどとめ海上かいじょうかたでんしゃ及閒使もとめ僊人以千すう

よんがつかえいたりたてまつだかうえねんしょ儒及かたげんふうぜん人人ひとびとことけいなん施行しこう天子てんしいたりはりちちれいほこら地主じぬしおつれいさむらいちゅう儒者じゅしゃかわべんこもしんしゃうし行事ぎょうじふう泰山たいざん東方とうほう,如郊ほこら太一たいちれいふうこうたけしゃくこうきゅうしゃく,其下そくゆうだま牒書,しょれい畢,天子あまこどくあずかさむらいちゅうたてまつくるまこうじょう泰山たいざんまたゆうふう。其事みなきん明日あした下陰したかげどうへいたつぜん泰山たいざん東北とうほく肅然しゅくぜんさん,如祭きさきれい天子てんしみなおや拜見はいけんころもじょう而盡ようらく焉。こう淮閒一茅三脊為神藉。五色ごしきえきざつふうたて遠方えんぽうじゅう蜚禽及白雉諸ぶつ,頗以れい。兕牛さいぞうぞく不用ふようみないたり泰山たいざんさいきさきふうぜんほこら;其夜わか有光ありみつひるゆう白雲しらくもおこりふうちゅう

天子てんししたがえぜんかえすわあかりどう群臣ぐんしんさら上壽じょうじゅ。於是せいみことのり:「ちん以眇すがめうけたまわ至尊しそん兢兢きょうきょう焉懼にん。維德菲薄,不明ふめい于禮らくおさむほこら太一たいちわかゆうぞうけいこうくず有望ゆうぼうふるえ於怪ぶつよくとめ敢,とげとうふう太山たいざんいたり于梁ちち,而後ぜん肅然しゅくぜんしんよしみあずか大夫たいふ更始こうしたまものみんひゃくうしいちさけじゅうせきねんはちじゅう布帛ふはくひきふくはくたてまつこうへびおかれきじょう今年ことし租稅そぜい。其大赦たいしゃ天下でんか,如乙赦令。くだりしょ毋有ふくさくことざいねんまえみな勿聽。」またしもみことのり曰:「いにしえしゃ天子てんしいちじゅんかり用事ようじ泰山たいざん諸侯しょこうゆうあさ宿地しゅくじ。其令諸侯しょこうかくてい泰山たいざん。」

天子てんしすんでやめふう泰山たいざん風雨ふううわざわい,而方さらげんよもぎ萊諸かみわかはた,於是じょう欣然きんぜん庶幾しょきぐう,乃復ひがしいたり海上かいじょうもち,冀遇よもぎ萊焉。たてまつくるまこう暴病,いちにち上乃うえのとげ,并海じょうきたいたる碣石,じゅんりょう西にしれき北邊ほくへんいたりきゅうばら五月ごがつはんいたりあまいずみ有司ゆうしげんたからかなえためもとかなえ,以今年ことしためもとふう元年がんねん

其秋,ゆうほし茀于ひがしこうじゅうにちゆうほし茀于さんのうもちおうついたちげん:「こうどくはまほし如瓜,しょくごろふくにゅう焉。」有司ゆうしみな曰:「陛下へいかたてかんふうぜんてん其報德星とくせいくも。」

來年らいねんふゆ,郊雍みかどかえはいしゅくほこら太一たいちさんきょう曰:「德星とくせいあきら衍,厥維きゅうさちことぶきぼし仍出,ふち耀光明こうみょうしんほしあきら皇帝こうていけいはいふとしゅくとおる。」

其春,公孫こうそんきょうげん見神けんしんじんひがし萊山,わかうんよく天子てんし」。天子てんし於是こう緱氏じょうはいきょうためちゅう大夫たいふとげいたりひがし萊,宿やどとめ數日すうじつ所見しょけんだい人跡じんせきうんふく遣方やりかたもとめしんかいさいしばやく以千すうとしひでり。於是天子てんし既出きしゅつ無名むめい,乃禱まん里沙りさほこら泰山たいざんかえいたりひさご臨塞決河けっかとめにち,沈祠而去。使つかい二卿將卒塞決河,徙みぞふく禹之あと焉。

すんでほろびりょうえつ越人えつじんいさみ乃言「越人えつじんぞくおに,而其ほこらみなおにすう有效ゆうこうむかしひがし甌王けいおにことぶきひゃくろくじゅうさい後世こうせい怠慢たいまんおとろえ秏」。乃令えつみこりつこしはじめほこらやすだいだんまたほこら天神てんじん上帝じょうていひゃくおに,而以雞卜。うえ信之のぶゆきえつほこら雞卜はじめよう

公孫こうそんきょう曰:「僊人,而上往常遽,以故こん陛下へいかためかん,如緱じょうおけ脯棗,神人しんじんよろし致也。且僊じんこのみろうきょ。」於是うえれい長安ながやすのりさく蜚廉かつらかんあまいずみのりさくえき延壽えんじゅかん使つかいきょうぶししつらえ而候神人しんじん。乃作どおりてんくきだいおけほこら其下,はた招來しょうらい僊神じんぞく。於是あまいずみさらおけぜん殿しんがりはじめこうしょ宮室きゅうしつなつゆう芝生しばふ殿どのぼう內中。天子てんしためふさがかわきょうどおり天臺てんだい若見わかみ有光ありみつうん,乃下みことのり:「あまいずみぼうちゅうなましばきゅうくき,赦天,毋有ふくさく。」

其明ねん朝鮮ちょうせんなつひでり公孫こうそんきょう曰:「みかどふうそくてんひでりいぬいふうさんねん。」上乃うえのみことのり曰:「てんひでりいぬいふう乎?其令天下でんかみことほこられいぼし焉。」

其明ねんうえ郊雍,つうかい中道ちゅうどうじゅんはるいたり鳴澤なるさわしたがえ西河にしかわ

其明ねんふゆうえじゅんみなみぐんいたりこうりょう而東。のぼりあや灊之てんばしらやまごう曰南だけ。浮江,ひろもみ彭蠡,れい其名山川やまかわきたいたり瑯邪,并海じょうよんがつちゅういたりたてまつこうおさむふう焉。

はつ天子てんしふう泰山たいざん泰山たいざん東北とうほく阯古有明ありあけどうしょところけわしたかしうえよく治明じめいどうたてまつこうつくりあかつき制度せいどすみみなみじんおおやけ玊帶じょうみかどあかりどうあかりどう中有ちゅうういち殿どの四面しめんかべ,以茅ぶたつうすい,圜宮かきためふくどううえゆうろうしたがえ西南せいなんいれいのち曰昆侖,天子てんししたがえいれ,以拜ほこら上帝じょうてい焉。於是うえれいたてまつ高作こうさあかりどう汶上,如帶。及ねんおさむふうじのりほこら太一たいち、五帝於明堂上坐,れいだか皇帝こうていほこらすわたいこれほこらきさき於下おしたぼう,以じゅうふとしろう天子てんししたがえこん侖道いれはじめはいあかりどう如郊れいれい畢,燎堂。而上またうえ泰山たいざんゆうほこら其巔。而泰山下やましたほこらみかどかく如其かたみかど并赤みかど,而有さむらいほこら焉。山上さんじょう舉火,しも悉應

其後さい十一月じゅういちがつ甲子きのえねついたちだん冬至とうじ,推歷しゃ以本みつる天子てんしおやいたり泰山たいざん,以じゅう一月甲子朔旦冬至日祠上帝明堂,毋修ふうぜん。其贊きょう曰:「てんぞう皇帝こうていふともとかみさくしゅう而復はじめ皇帝こうていけいはい太一たいち。」あずまいたる海上かいじょうこう入海いりうみ及方もとめかみしゃ,莫驗,しかえき,冀遇

十一月じゅういちがつおつとりかしわはりわざわい十二月じゅうにがつかぶとうまついたちうえおやぜんだかさとほこらきさき。臨勃うみはた以望まつよもぎ萊之ぞく,冀至こと廷焉。

うえかえ,以柏はりわざわいあさ受計あまいずみ公孫こうそんきょう曰:「みかど就青れいだいじゅう日燒ひやけみかど治明じめい廷。あかり廷,あまいずみ也。」かた多言たげん帝王ていおうゆうあまいずみしゃ。其後天子てんしまたあさ諸侯しょこうあまいずみあまいずみさく諸侯しょこうていいさみ乃曰:「えつぞくゆう火災かさいふくおこり必以だいようかちふく。」於是さくたてあきらみやためせんもんまんぜん殿しんがりこう未央みお。其東そくおおとり闕,こうじゅうあまりたけ。其西そくとうちゅうすうじゅうさととらけん。其北大池おおいけややたいだかじゅうあまりたけいのち曰太えき中有ちゅううよもぎ萊、方丈ほうじょう、瀛洲、つぼはりぞう海中かいちゅう神山かみやまひさしぎょぞく。其南ゆう玉堂きょくどう、璧門、大鳥おおとりぞく。乃立神明臺しんめいだいみきろうじゅうたけ,輦道しょうぞく焉。

なつかんあらためれき,以正月しょうがつためとしくび,而色じょうかんめいさら印章いんしょうため太初たいしょ元年がんねんこれさい西にしだいあていなご大起だいきちょう夫人ふじん、雒陽おそれ初等しょとう以方ほこらのろい匈奴きょうどだいあて焉。

其明ねん有司ゆうしじょうげん雍五畤無ろうじゅく,芬芳不備ふび。乃令祠官しかんしん畤犢ろういろしょくしょしょう,而以禺馬だいこま焉。どくがつ嘗駒,ぎょうおや郊用こま。及諸めい山川やまかわようこましゃ,悉以禺馬だいくだり,乃用こまれい如故。

其明ねんひがしじゅん海上かいじょうこうしん僊之ぞくゆう驗者げんじゃかたゆうごとみかどためしろじゅうろう,以候神人しんじん於執いのち曰迎ねん」。うえもとさく如方,いのち曰明ねんうえおやれいほこら上帝じょうてい焉。

おおやけ玊帶曰:「みかど雖封泰山たいざんしかふうきさきふうきょ、岐伯れいみかどふうひがし泰山たいざんぜん凡山,合符あいふしかこう不死ふし焉。」天子てんしすんでれいしつらえほこらいたりひがし泰山たいざんひがし泰山たいざん卑小ひしょうしょう其聲,乃令祠官しかんれい,而不ふうぜん焉。其後れいたいたてまつほこらこうかみぶつなつとげかえ泰山たいざんおさむねんれい如前,而加以禪ほこらせき閭。いし閭者,ざい泰山たいざん阯南かたぽう多言たげん此僊じん閭也,うえおやぜん焉。

其後ねんふくいたり泰山たいざんおさむふうかえまつりひさしさん

こん天子てんししょきょうほこら太一たいちきさきさんねんおや郊祠,たてかんふうぜんねんいちおさむふううす太一たいちさんいちめいひつじうまこう赤星あかほしひろし舒之祠官しかん以歲致禮。凡ろくほこらみなふとししゅくりょういたり八神はっしんしょかみ明年みょうねん、凡山めいほこらぎょうのりほこらぎょうのりやめかたしょきょうほこらかく自主じしゅ,其人おわりそくやめ祠官しかんあるじほこらみな如其ゆえ今上きんじょうふうぜん,其後じゅうさい而還,へん於五だけよん瀆矣。而方こうほこら神人しんじん入海いりうみもとめよもぎ萊,おわりゆうけん。而公まごきょうこうかみしゃなお以大じんあとためかい有效ゆうこう天子てんしえきだるいやかたかいまが矣,しか羈縻ぜっ,冀遇其真。此之ぽうげん神祠しんししゃわたる眾,しか其效睹矣。たいおおやけ曰:したがえじゅんさい天地てんちしょかみめい山川やまかわ而封ぜん焉。にゅうことぶきみやさむらいほこらかみきわむかんかた祠官しかん,於是退すさ而論いにしえ以來いらい用事ようじ於鬼かみしゃ表裏ひょうりこうゆう君子くんしとく以覽焉。わかいたりまないたまめ珪幣しょう獻酬けんしゅうれいのり有司ゆうしそん

さく隐述赞】れいますちゅう」,しょしょう「肆類」。古今ここん盛典せいてんすめらぎおう能事のうじとうふうほうてんくだぜんじょえいあがじつ金泥きんでいせきかんうけたまわのこいとぐち斯道しどう墜。せん閭、肅然しゅくぜんあげきゅう勒志。